ケセラセラ

 体育教師冨岡義勇には、謎が多い。
 入学式で壇上に並んだ教師陣のなかで、とにかく目を引く美貌にまず新入生は驚き、その後、そのいでたちが教師としては規格外であることを知り、騒然とする。
 私立である学園の生徒数はそれなりで、マンモス校というわけではないが、それでも一学年にひとりくらいは親がアパレル関係に勤めている生徒はいる。入学式を終え家に帰ったそんな保護者が、我が子に口角泡を飛ばす勢いで告げるのは「あの先生何者!?」だ。

 曰く、スーツはチフォネリ、シルエット的に絶対オーダーメイドに違いない。いや、チフォネリは最高級ブランドのわりに、オーダーメイドは二十万ぐらいで済んだりするけども。それにしたって、靴がベルルッティのアンディってどういうこと? 二十五万ぐらいするんだぞ、アレ。ネクタイがアンジェロ・フスコってありえないだろ、教師がネクタイに四万てどうなってんの? あのシャツ、絶対にフライのブランド生地物だった。シャツに二万とかなんなの、あの先生。タイピンやカフスに至ってはタテオシアンだったんだけどっ。カフスだけで八万超えって、なんでただの高校教師があんな全身一流ブランドなんだよっ! あの先生、いったい何者!?

 乾いた笑いを浮かべて虚空を見つめる者あり、頭を掻きむしる者あり、反応は様々らしいが、全身トータル七、八十万は絶対にすると聞いた生徒が、翌朝クラスメイトに大興奮で語ることに変わりはない。
 私立高校教員の給与は、民間企業よりも高いとはいえ、冨岡先生はまだ、新任に毛が生えたにすぎない若さだ。なにせ着任二年目。生徒の保護者より断然若い。
 だというのに全身ハイブランド。美貌とスタイルの良さも相まって、体育館の壇上より、ランウェイを歩いたほうがよっぽど似合うのではないかという風情なのだ。新入学生の話題をひとりでかっさらうのも致し方ない。
 だが、冨岡先生の謎は、そんな若さと職業に似合わぬいでたちにはとどまらない。
 高級ブランド尽くしは入学式の一日きりで、次の日にはごくごく普通のジャージ姿に生徒だって持ってるようなスニーカーになっていたし、出勤時の服もいたって普通。というか、ユニクロだった。通勤に使っているのは年季の入ったママチャリだ。落差が激しすぎる。
 無口で無愛想、生徒と気軽に笑って他愛ない会話をするようなタイプではなく、校則違反には滅法厳しい。だがそれはべつにいいのだ。謎というほどでもない。謎が謎を呼ぶのは、学校外での目撃情報による。

 ――先生が住んでるところ、すっごく古いアパートだった! 階段とか錆浮いてたし、屋根なんてトタンだったんだけど!

 ――え? でも俺、一等地にあるタワマンに入ってく先生見たことある。

 ――駅前で先生がリムジンに乗り込むの見たんだけどっ。運転手が出てきてドア開けてた!

 ――先生の腕時計、オーデマ・ピゲのロイヤル・オーク・オフショア・クロノグラフだった……。呪文じゃねぇよっ! 三百万はする超高級時計だわ! え? あぁ、親父が一生に一度でいいから着けてみたいってパソコンの前でため息つきまくってたからさぁ。

 ――スーパーで先生、お惣菜に五十パーセント引きのシール貼られるの待ってたよ……? カゴに入ってたのはモヤシだったし。

 ――先生のあのぼっろいママチャリ、週末に駅前の駐輪場でよく見かけるんだよなぁ。次の日にも夕方ぐらいまで置きっぱなしなの。どっかに泊まりにでも行ってんのかなぁ。休みの日はゴロゴロしてるって言ってたって、ほかの先生から聞いたけど。

 などなど、冨岡先生に関しての目撃情報は枚挙にいとまがない。しかも一貫性がまるでない。
 超セレブなのか貧乏なのか、はっきりしろっ! 生徒たちの混乱は尽きない。彼女が超セレブなんじゃないのかという説は、彼女なんていたことがありませんという飲み会での発言によって否定され、代わりに持ち上がったのは童貞疑惑だ。と、口の軽い教師がもらしていた。
 さらに謎なのは、先生がけっして肌を出さないことだ。
 日頃はジャージのファスナーを全部閉めていて、首元すら出してはいない。生徒が目にする先生の肌は、顔と手ぐらいなもの。それは夏場でも変わらない。むろん暑くないわけではないのだろう。それなりに汗をかいていたりはする。けれども冨岡先生は決してジャージを脱がない。かたくななまでに。
 だから初めて体育が水泳になった日の一年生は、少なからずソワソワとした。先生の運動能力は周知されている。ということは、脱いだらすごいんですな体であるのは間違いない。
 が、プールに現れた先生は、やっぱりほとんど素肌をさらしていなかった。長袖のラッシュガードにボトムもレギンス。いつもよりも露出している部分は足先だけというありさまだ。
 なんでだよっ! との雄叫びを生徒たちが飲み込んだのは、その足先のせいでもある。白く骨ばった足は少し指が長めで、なぜだかみな一様に

「なんか……エロい」

 そんな言葉を思い浮かべて目をそらしたくなったという。

 冨岡先生の謎は深まるばかりで、けれども、無口無愛想無表情という三無に加え、たいそう厳しい先生に突撃する度胸がある生徒は、今もって現れない。今日も体育教師冨岡義勇の噂話は、まことしやかに生徒たちにささやかれている。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 駅前で待ちあわせるのは、おおむね金曜の夜だ。それすら毎週とは言いがたい。
 教師はとにかく多忙だ。自由時間なんてほとんどない。公立と違って残業や休日出勤の手当てが出るぶんマシとはいえ、完全な休日など年間で七日もあれば御の字といった有り様だ。
 できれば週末の夜なんて、家でゴロゴロとしていたいと義勇は思うが、しかたがない。なにしろ先週は忙しすぎて、休日なんてなかった。今日逢わずにいれば、またぞろ恋人はへそを曲げる。機嫌を損ねた恋人ほど、義勇にとって厄介なものはない。
 ふぅっと疲れの滲む小さなため息をこぼしたとき、ガードレールの向こうにやたらと大きな車が止まった。
 義勇が無表情のまま足を踏み出すと、降りてきた運転手がサッと後部座席のドアを開けた。
「……おい、せめてジャージは着替えろ。出勤はジャージじゃないんだろうが」
「どうせ部屋に行ったら着替えさせられる」
 リムジンの広いシートに悠々と足を組んで座り、ムッと眉間にしわを寄せてねめつけてくる男に、そっけなく答えた義勇は、男の隣に身をすべり込ませた。
 すぐに肩に回ってくる腕を、ちらりと視線だけで見やる。抱き寄せられて、いつものことながら義勇の眉間にもしわが刻まれた。
「おい」
「いい加減慣れろ。こいつのことは置物とでも思えばいいと何度言わせる気だ」
 傲慢極まりない言い様に、義勇の不機嫌さは増すが、文句を言ったところで無駄だ。あまり反論しすぎると、叱責を受けるのは義勇ではなく、憐れな運転手である。
 とはいえ、たとえ見てみぬふりを貫かれようと、人前でイチャつく趣味など義勇にはない。
 不満であることは伝えたと、義勇はまた小さくため息をつく。それでも恋人の腕から逃れようとはしない。イチャつく気は毛頭ないが、疲れている。だから義勇は、コテンと恋人の肩に頭を乗せた。
「どうした、眠いのか?」
「ん……今日、水泳の授業で手本が見たいと言われて、何本か二十五メートル泳がされた」
 小学生のころからずっと水泳をしてきたから、体力には自信がある。今だって泳ぐのは好きだ。以前ならば、たかがこれしきで疲れたなど思いもしなかったが、どうにも疲労が抜けない。
 逢えない時間がそれなりにこたえたなんて、この男には意地でも言ってはやらないけれど。
 ついでに、疲労の原因――というよりも元凶は、あきらかにこいつだ。こいつのせいで、精神的な疲労が水泳の授業にはつきものになったのだから、そんなことを言って喜ばせてなどやるものか。

「夕食に鮭大根を用意させてある」
「えっ!? 本当か、無惨っ」
 パッと目を見開き仰ぎ見た義勇に、わがままで自分勝手な恋人――無惨は、眉間の皺はそのままに、尊大な舌打ちをもらした。
「私との逢瀬より鮭大根のほうがうれしいのか、貴様は」
「おまえは勝手に逢いにきたりするが、鮭大根は自分から現れてくれない」
「当たり前だろうが。馬鹿なことを力説するな」
 無惨の顔はあきれや不満が露わだが、もはやポーズでしかないことを、義勇はもう知っている。自分が二の次扱いされていることが不満なのは確かだろうが、義勇が喜んでいるという事実に内心では浮かれているのだ、この男は。

 まぁいい。鮭大根に免じて少しぐらいは甘えてやろうか。思いながら、義勇はまた無惨の肩に頭を持たせかけると目を閉じた。髪を漉く無惨の指が心地好いからではない。疲れているからだと自分にちょっぴり言い訳しながら。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 無惨のマンションは、いつもながら義勇には少し居心地が悪い。だだっ広いリビングはなんだか居場所が定まらず落ち着かないし、ムード重視だかなんだか知らないが、間接照明の明かりは目に悪いような気がする。
 高層階から見下ろす夜景は見事だけれど、昼にその窓から広がる景色を義勇が見ることはない。
 昼の日差しを厭う無惨は、このマンションの売りであろう大きな窓を、やたらと金がかかっていそうな分厚いカーテンで塞いでしまうから。それに関しては、義勇にも文句はない。無惨にとって日光は天敵だ。重度の日光アレルギーである無惨には、紫外線を防ぐガラス越しだろうと、日差しに対して油断はできない。万が一にでも紫外線にあたりすぎて重篤化すれば、皮膚がただれるだけでなく、内臓や神経、ときには脳への深刻な障害をもたらす。
 だから、べつにいいのだ。分厚いカーテンで閉ざされた窓から、気持ちのいい青空を望めなくても。

 なんでこいつといるんだろう。思うことは多々あれど、別れたいと願うことは不思議と一度もない。だから、文句なんてないのだ。穏やかな日差しの下で手を繋いで笑いあうなど、決してできやしなくても。この傲岸不遜な男が自分の傍らから消えることなど、考えたくはないと思うぐらいには、無惨はすでに義勇にとって日常の一部だ。

 愛してる、なんて。言ってやったことはないけれど。

「食事の前に風呂だ」
 テーブルにはまだ食事は用意されていない。それを見た瞬間に、流れはもう悟っていたけれど、やっぱり不満であることは告げておきたい。
「……ひとりで入る」
「許すわけないことぐらい、とっくに覚え込んでいると思ったがな」
 チッと舌打ちしたのは、今度は義勇のほうだ。無惨といると行儀が悪くなるなと、内心で少しだけ思う。どうせこれぐらいじゃこの男はへこたれやしないのだから、べつにいいけれど。
 もうひとつ言うなら、風呂ぐらい一緒に入るのはやぶさかではない。どこかで外食したあとならば。
 けれどもこの部屋で食事をするのなら、入浴中にテーブルセッティングをするために、人が控えているのは明白だ。無惨が食事の支度などするわけもないし、義勇にもさせようとしないのだから。まったくもって冗談じゃない。
 ただでさえ、温泉でもないのにいい年した男ふたりで風呂に入るのを知られるのはごめんだというのに、無惨との入浴が、ただ体を清め疲れを取るだけになるわけがない。予想ではなく経験に基づいた確定事項だ。
 やたらとひびく声を必死にこらえるのも難儀だし、なにより、仕事している人がいるというのに不届きな行為にふけるなど、義勇にしてみれば死にたくなるほどいたたまれない。
 それでも、抵抗したところでやはり無駄なことに変わりはない。気配を消して待っているはずの使用人だって、さっさと仕事を済ませて帰りたいだろう。風呂を出たときにグズグズと残っていれば、たちまち無惨の横暴な叱責が降りかかるのだから。

 無惨は、義勇を人目に触れさせるのを嫌う。食事の支度やら衣服のクリーニングなどはともかくとして、それ以外は義勇の身の周りの事どもすべて、己の手で行いたがるのだ。無惨の手によって乱され悦楽の余韻をまとう義勇の姿を、一瞬でも他人が目にするなど言語道断らしい。それに関してはまぁ、義勇も同意せざるをえないが、仕事も辞めろととにかくうるさい。横暴にもほどがある。

 本当に、なんでこんな奴を。思うけれど、思うだけだ。別れようとは、思わない。別れたくないとは……言ってなんか、やらない。今は、まだ。

 最後まではしないでやる。そんな譲歩とも言えぬ文言を偉そうに口にした上機嫌な無惨に、体の隅々まで洗われて、体毛の処理までされるのは、いつもの流れだ。
 水泳部だった学生時代にはタイムに差が出るという理由で剃っていた体毛を、今では無惨が触れるからという理由で、義勇は割合マメに処理している。だから今日だって脛や腕にはほとんど毛など見られない。義勇の白い肌のなかで、黒々とした箇所は限られる。

「動くなよ?」

 そこを手入れするとき、いつでも無惨は機嫌の良さを隠さない。
 ハァッと吐き出した息とともに体の力を抜き、大きなバスタブのへりに腰かけた義勇は、広げた足の間にひざまずき、慎重に剃刀を肌にあてる無惨を見下ろした。
 せめてコンビニでも買えるようなT字のシェーバーなら怖さもさほどないのに、無惨が使用するのはいかにも切れ味鋭そうな剃刀だ。義勇の体毛処理のためだけに、わざわざ刃物専門店で二万も出して買い求めたと言うのだから、嫌になる。日本刀と変わらぬ切れ味の剃刀で剃り落とされる体毛の多くが、下の毛というのがまた、義勇の目を虚ろにさせる。
 下着からはみ出すほど量が多いわけでもないのに、無惨は義勇の毛を逢瀬のたびに必ず整えるのだ。すべて剃り落とされないだけマシかと、いい加減義勇も諦めているが、急所近くに刃物を当てられる根源的な恐怖は拭いがたい。
 それなのに、冷たい刃がスッと肌を滑るたび、淡い快感が生まれるのが、自分でも不思議だと思う。くたりと力を失っている肉茎をそっと持ち上げた無惨が、満足げにうなずくまで、義勇は息を詰めてこの時間をやり過ごす。このときばかりは無惨の手も、不埒な動きを見せることはない。ほんのわずかでも義勇の肌を傷つけぬよう、丁寧に、慎重に、動く。
「こんなものか」
 満足げな笑みをもらして足の間から見上げてくる無惨を、義勇は眉をひそめて見下ろした。紅潮した肌は湯気のせいだと言い張りたいが、無惨の手のなかで芯を持ち出したそれが、義勇が得だした愉悦を知らしめてしまっている。
 剃刀を棚に置くため立ち上がった無惨を、義勇の視線が追う。眼差しは少しばかり剣呑だ。無惨の逸物は、まだ兆しを見せていないというのに、自分だけが煽られるのはいつもながら癪に障る。
 ふぅふぅとわずかに息を乱している義勇を見下ろした無惨の顔には、依然、満足しきりな笑みがたたえられている。傲慢で、身勝手な、暴君の笑みだ。けれどそこには慈しむ色が見えなくもない。
 腰かけたままでいる義勇の目の前に立ち、無惨は、義勇の濡れた髪に触れてきた。仕草だけで意図を悟れるほどには、義勇ももう行為に慣れている。バスタブから床へと腰を下ろし、無惨の手が促すままに口を開いた。
 すぐには咥えず、舌先で愛撫するのは無惨の手順そのままだ。義勇はそれしか知らない。キスも、セックスも、口淫の仕方も、全部無惨に教えられた。後悔はべつにない。昔よりも膨らんで赤い胸の尖りのせいで、ラッシュガードしか着られなくなったのは、少々腹立たしくはあるけれども。
 普段のジャージだってそうだ。首筋に残る痕をさらすわけにもいかず、いつでもきっちり肌を隠さなければならないのは、本当にムカつく。何度言っても無惨は必ず義勇の肌に痕を残すから、文句を言うよりも隠す努力をするほうが、手っ取り早い。今夜も絶対に無惨は、所有印よろしく義勇の肌に痕を残すだろう。
 着せ替え人形のように自分好みの服を着せたり、肌や髪の手入れをしたがったりするのも、もしかしたらマーキングのつもりなのかもしれないと、義勇が思い至ったのはつい最近だ。いずれにしても厄介だし、面倒な男だなと少し……だいぶ、あきれはする。
 それでも別れる気もない恋人であるには違いなく、ならばこの行為も自然なことだと、しっかりと芯を持ち固くそびえた肉茎を、義勇は精一杯大きく口を開け咥えこむ。義勇のそれとは色味も形も違うそれは、途端にグンと質量を増した。
 んぐんぐと唇でしごきながら懸命に舌を動かしていると、無惨が喉の奥で忍び笑った。
「貴様はいつまで経ってもうまくならないな、義勇」
「ならはへふな」
 口いっぱいに咥えているせいで不明瞭な声に、無惨の笑みが深まる。不遜で高飛車な笑みならば、ちょっとぐらい噛んでやろうかと思いもするのだろうけれど、いかにも幸せそうに笑うから、やっぱり義勇は嫌になる。
 そんなに甘ったるい笑みなど浮かべられたら、自分まで胸の奥が甘くうずいてしまうではないか。認めたくはないが、無惨によって花開かされることを覚えたあらぬところも、きゅんとうずいて、知らずモジモジと腰をうごめかせてしまうのが、本当に嫌だ。
「貴様はそれでよい。話すことも、食べることも、キスもこれも、口ですることはみな少し下手くそなままでいい」
 いつまで経っても慣れぬ様がたまらないと、ささやき告げる無惨に、話したり食べたりは余計だと、義勇は意趣返しにキュウッと思い切り口のなかのものを吸い上げた。
 刹那、クッと息を詰めブルリと腰を震わせた無惨に、ちょっとだけ溜飲が下がり、義勇は見上げる目元だけで薄く笑った。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「義勇」
 呼ばわる声に、義勇はぼんやりと見つめていた夜景から視線を外し、ソファの前で手招く無惨を振り返り見た。
 一流料理人の手による義勇好みな味付けの鮭大根は美味で、使用人には逢わずにすんで。無惨はまたぞろ義勇用の新しいパジャマなぞ買って無駄遣いし、さらに義勇を磨き立てようと義勇を呼んでいる。ふてくされた顔でソファに座れば、無惨はバスルームで義勇の体毛を処理したのと同じ慎重さで、つま先にヤスリをかけるだろう。
 明日は午後から出勤で、それまでは重怠い腰を理由にダラダラゴロゴロと、ベッドで過ごしながら義勇は、無惨を顎でこき使う。ジャージ姿で帰るなと文句を言いながら差し出される、無惨が吟味に吟味を重ねたと宣う服に不承不承袖を通し、駅前までリムジンで送られる。
 こんな日常は、所詮は金持ちの道楽で、ひとたび無惨が飽きればたちまち霧散して消えるに違いない。そう思いながらも過ぎた月日は、とうとう片手の指を超えた。慣れきるのはごめんだと思いながらも、無惨がよこす服やらなんやらを身につけるのにも、抵抗感はいつのまにやらなくなった。
 そう。慣れている。こんな日常が、義勇にとっては当たり前になってはいるのだ。無惨とともに過ごす時間を、多忙な毎日のなかでもどうにか作ろうと努力してしまうほどには。
 それでもまだ、いつか終わると心のどこかで怯える自分がいることに、義勇は胸中で自嘲の笑みを少しだけもらした。
 義勇の足を恭しいと言っていいほどの手付きで掲げ持つ無惨を見やりながら、義勇は、まぁいいかと、ゆるく息を吐いた。

 ともに過ごす月日が両手の指を超えて、片足、両足の指でも数えきれなくなって、それでもまだ、貴様はいつまで経っても下手くそだと無惨が幸せそうに笑うなら、そのときにはあの一言を言ってやってもいいと思う。そのころには、この男はすべて俺のものだと、臆病な自分も思えるようになるだろう。
 臆病なくせに、なるようになるだろうとの楽観も胸にあるのは、絆されたなんて言葉では収まらなくなった自分の心と、そう思わせる無惨の眼差しのせい。でもまだ足りない。もっと欲しいと、もっと信じさせろと、無惨よりもよっぽど傲慢なことを思う自分にため息をついて。

 甘く甘く、身も世もないぐらいに甘く乱されて、焼き尽くされそうな無惨の深紅の瞳にからめとられ染め上げられても、それまではまだ、愛しているなんて、言ってやらない。