神のまにまに恋しかるべき

 出現は途絶えても、鬼の噂がまるきりなくなったわけではない。行方不明や食い殺された遺体の発見があれば、隊士が調査におもむくことはままあった。
 人選は、このところ水の呼吸の兄弟弟子に集中している。水柱、冨岡義勇と、同門である竈門炭治郎。柱稽古に隊士も柱もかかりきりの今、一対一で稽古中であるふたりが任にあたるのは、必然と言えた。
 さける人手は少ないほうがいい。炭治郎はすでに痣が発現しているし、義勇は柱だ。よしんば噂が事実で、鬼が下弦ほどの強さであっても、最少人数で事にあたることが可能な人選である。
 このたびも、とある村で頻繁に起きている神隠しの真偽を確かめるため、駆けつけたのは義勇と炭治郎だった。

「話を聞くかぎり、行方不明になった人たちが、鬼に食べられた可能性は低いみたいですね。神隠しってのも眉唾ですけど」
 朽ちかけたやしろに腰を落ち着けて、聞き込みを主に担当した炭治郎が、しかつめらしい顔で言う。ふたりがいるのは、行方不明者が多発している村のほど近く。入らずの森とされる神域の外れにある、参拝者も途絶え忘れ去られたお社だった。
 炭治郎の言葉を聞いているのかいないのか、義勇の表情は変わらない。格子から差し込む月明かりを受けるその顔は、はたから見れば能面の如き無表情だ。けれども、何年も鬼殺隊に在籍している隊士や隠でさえおよばぬほどに、義勇と多くの時間を過ごす炭治郎からすると、感じ取るものはみなとは少々異なる。
「義勇さん、なんか不機嫌じゃないですか? んん? 不満っていうよりも、困ってる?」
「……嗅ぐな」
 フンフンと鼻をうごめかせて義勇の胸元に顔を寄せた炭治郎に、義勇の顔がわかりやすくしかめられた。グイッと頭を押しやられ、炭治郎は少しばかり拗ねたように唇を尖らせたが、恐れ入ることはない。
 整った顔立ちの義勇は、人によっては冷徹な印象を持たれがちである。それでなくとも畏怖される柱であり、かてて加えて義勇は無口無愛想だ。そんな義勇が、わずかにでも目をすがめ眉を寄せれば、一介の隊士はたちまち血の気を引かせて震えあがる。
 だが実際のところ、義勇が鬼狩りに関すること以外で怒ることは、めったにない。炭治郎はそれを十分知っていた。
 もともと物怖じしないたちでもある。ましてや義勇は恩人で、兄弟子で、今ではふたりきり稽古もしている。義勇の為人ひととなりは、ほかの者より何割か増しで心得ているし、鼻も利く。今も義勇からは清々しい水の匂いがしていた。
 だからケロリとした顔をして、かしこまることもなく炭治郎は、なおも義勇に話しかけた。
「鬼じゃないとして、神隠しが起きるなんてこと、本当にあるんでしょうか」
「鬼がいるなら、神がいてもおかしくない」
「まぁ、そうなんですけど。でも、そしたらずいぶん罰当たりなことしちゃってますよね。ここ、神様のお宅なわけじゃないですか。いいのかなぁ」
「……もう、ここに神はいない。神だろうと死なないわけじゃない」
「え? そしたらここにいた神様は、もう死んじゃってるんですか?」
 思わずへにゃりと眉をさげ、炭治郎は暗い社のなかを見まわした。かわいそうにと考えることは、人の身では不遜なことかもしれない。だが、うらびれた社の物悲しさもあいまって、炭治郎はすっかり社の主であったはずの神に同情していた。
「そうだ! 義勇さん、この社を直してあげましょうよ!」
「……は?」

 宵の口とはいえ辺りは暗い。しかも自分たちは鬼の噂の真偽を確かめにきたのである。そんななかで大工の真似事だ。いかに穏やかな義勇であれど、怒り出してもおかしくはなかった。
 けれども義勇は呆気にとられた顔をしたものの、異を唱えはしなかった。今も文句を言うでもなく無言で壁の穴に板を打ちつけている。
「穴をふさいで掃除するぐらいしかできないですけど、忘れ去られたままじゃ神様だって悲しいですもんね」
 雑草を抜きながら、炭治郎は朗らかに義勇に笑いかけた。
 任務の最中だというのに呑気なことをと叱られるかと思ったが、言ってみてよかった。月明かりに浮かぶ白皙を見やり、炭治郎はホッコリと温もる胸に笑みをこらえきれない。
 近くの民家まで大工道具を借りにひとっ走り。戻ってきたとき義勇は、青白い月光の下で静かに佇んでいた。お待たせしましたと笑いかければ、やっぱり義勇からは水の匂いがした。

 さて、予定外の大工仕事など始めてしまったが、本来の任務は神隠しの調査である。とはいえ、今のところ噂を聞きつけ駆けつけても鬼の存在は確認できず、無駄足を踏むことが続いている。今回もおそらくは同じこととの楽観はあった。
「鬼なら人をさらうのは食べるためだけど、神様が人をさらってなにをするんでしょうね」
 神域というのはどこにでもある。神隠しの噂も決して少なくはない。だが実際のところは本人の意志による出奔か、不埒な人の手によるかどわかしであるのが通例だ。それでも、行方不明になった者のなかには、どう考えても人の介在しない不可解な状況下でということも、まれにある。その場合は、消えた人はそれきりなこともあれば、数年も経ってからヒョッコリと帰ってくることもあった。

「生贄を食べる神もいる」

 不意に聞こえた義勇の声に、炭治郎は、おや? と目を見開いた。返事など期待せず、なにげなく言っただけであったのに、めずらしいこともあるものだ。
 うれしくなった炭治郎だが、言葉の内容は不穏である。炭治郎は我知らず眉をひそめた。
「人を食べるなら鬼と同じですよね……神様との違いってなんなんでしょう」
「神が人を食うときは、人に見返りを与える。ただ食らうだけの鬼とは違う」
「見返りですか?」
「たとえば、豊穣を約束する。大雨をやませ、旱に雨を降らせる」
「あぁ、水神すいじん様! お山にもいらっしゃいました」
 常の義勇は炭治郎の言葉を聞くばかりで、自分から語ることはほとんどない。以前、ほかの柱たちとの思い出話を語ってくれたが、そういうことはめったにあるものではなかった。
 あの日の義勇はどこか楽しげに思い出を語り、あまつさえ、稚気に富んだ笑みさえ見せてくれた。けれど、今宵の顔は、なぜだか妙に沈鬱に見える。
「俺が知ってる水神様は龍神様でしたけど、龍って人を食べるんですか?」
 素朴な疑問を口にしただけだが、義勇の反応は顕著だった。グッと眉が寄り、いつもは涼やかな目もずいぶんと険しい。
 怒らせた。思って一瞬ヒヤリとした炭治郎だったが、よくよく見れば義勇の様子は、憤っているというよりも、苦悩の色のほうが濃いように感じる。
「義勇さん?」
「……必ずしも生贄を食うとはかぎらない。神嫁として迎え子をなすことも多い。人を食う神は、獣や蟲が年を経て神として封じられたやつらだろう」
 いや、やはり怒っているのだろうか。義勇の口調は普段よりもやけに早口だ。それになんだか、龍神を擁護でもしているかのように聞こえなくもない。
「えーと……龍は獣じゃないんですか?」
「神獣だ。もともと神としてある。人は食わん!」
 板を打ちつける音も、なにやら先ほどまでよりも乱暴に聞こえる。目つきはいよいよ据わっている。
「……なんか、怒ってます?」
 沈黙が落ちた。釘打つ音も止まり、ホウホウと鳥の鳴く声だけが、月明かりの森に響く。と、不意に深いため息が聞こえた。
 ふたたびトンカンと板を打ちつけだした義勇は、もういつもと変わらぬ無表情だ。狭霧山での鍛錬中、炭治郎は鱗滝から心を穏やかに保てと言われていたが、義勇も同じ教えを受けているはずである。自分はなかなか凪いだ心持ちを保てずにいるが、さすがは柱だ。義勇は己の感情を制御するすべも身につけているのだろう。炭治郎の目が義勇への尊敬にきらめいた。
 感心しきりではあるが、なぜ義勇が不機嫌になったのか、理由はわからないままだ。
 義勇のことは、まだわからないことのほうが多い。もっと知りたいと願う心がどこからくるのか、伝えればきっと義勇を困らせる。想うだけでも幸せだ。炭治郎は義勇の横顔を盗み見て、ほのかに微笑んだ。

 壁や屋根の穴をふさぎ終え、炭治郎が社に向かって手を合わせると、声もなく義勇が隣に立った。ちらりとうかがえば、義勇も目を閉じ神妙に手を合わせている。生真面目な横顔に、なんとはなし笑いたくなった。
 素人大工が宵闇のなかでおこなった修繕だ。新築同然とは言わないが、苔むして屋根や壁板も壊れ、雑草がはびこっていた状態にくらべれば、まだしも良くなっただろう。勝手に微笑む口をこらえ、ひとしきり社を拝んだ炭治郎は、義勇に向き直り問いかけた。
「義勇さん、龍になにか思い入れでもあるんですか?」
 満足とともに聞いた炭治郎に、義勇は、ごまかすように視線を外した。答える気はないのだろう。言いたくない事情でもあるんだろうかと、炭治郎は、義勇の態度の奇妙さに首をひねった。
 生家が龍神を祀っていたと考えられなくもない。だけれども、それにしてはこの穏やかな人が、たまさかにでも我を忘れるとは。日頃の義勇を思い返すと、先ほどの態度は腑に落ちない。信心深いたちには見えないだけに、少々度が過ぎる気もする。
「龍って格好いいですよね。雨を降らせてくれたり、川が氾濫するのを止めてくれたり、良い神様ですし」
 お愛想でもなく笑って言えば、義勇はちらりと横目で視線を向けてきた。それに気を良くして、炭治郎がさらに会話を盛りあげようと、口を開きかけたそのとき。
 サッと義勇のまとう空気が変わった。
「いくぞ」
 え? と思う間もなく、炭治郎も感じ取った不穏な匂いに顔つきを改め、日輪刀の柄に手をかける。
 神隠しや鬼出現の噂は、ほとんどが自ら村を逃げ出した者たちだった。
 どうもこの辺りの地主はがめついようで、小作人が逃げることがままあるらしい。それがなぜ、鬼の噂になったのかといえば、その地主が藤の家紋を掲げた家とつながりがあったためとしか言えない。自分の所業ゆえの次第ではなく、小耳に挟んだ鬼の仕業だと地主が思いこんだことが、この任務の発端だ。少なくとも、聞き込みをした炭治郎も、報告を受けた義勇もそう判じた。
 だが――。
「噂に乗じて、ちゃっかり人をさらっていた鬼がいたみたいですね」
「……逃げ出した者を食らっていたのかもしれん」
 それならなおさらタチが悪い。村から逃げようとした者たちは、どうにか暮らしを立て直そうと、熟慮と苦悩の果てに新天地を目指そうとしたのだろうに。
 ともあれ、鬼がいるのなら狩らねばならない。闇深い木立のなかに走り込む義勇に続き、炭治郎も駆けた。

 走り出してから一分も経たぬうちに、聞こえてきたのは助けを求める絶叫である。
「義勇さん!」
 呼びかけに応えることなく義勇が跳んだ。枝をわたって上空を進む義勇を視線で追い、炭治郎も必死に駆ける。炭焼き暮らしのころより身軽になったとはいえ、炭治郎にはまだ、義勇のような技量はない。遅れを取るまいと懸命に地を駆けた。
 ほどなく、転がるように逃げてくる人影が目に入った。あとを追ってくる鬼は、言葉のとおり鬼ごっこを楽しむが如き風情だ。嗤っている。必死に逃げる人を、鬼は、嘲笑っていた。
 刹那、怒りでカッと脳髄が焼けるような感覚が炭治郎を襲ったが、すぐに冷静さを取り戻す。
「俺が相手だ!」
 ひと声叫び、炭治郎は刀を抜き放った。
「た、助けてっ!」
「チッ、鬼狩りか」
 まろび寄る人に逃げてと声をかけ、炭治郎は、鬼の行く手を阻むべく立ちはだかった。義勇の姿はない。と、思った矢先に、満月を背に人影が鬼に向かって舞い降りてくる。月光を弾いて光る刀身。はためく片身頃違いの羽織。義勇だ。
「捌ノ型、滝壺」
 鬼の背後をとった義勇の日輪刀が振りおろされる。だが、刃が鬼をとらえる前に、義勇の体は突然巻き起こった竜巻に弾かれた。血鬼術。おそらくこの鬼は風を操るのだろう。鬼の体を取り囲み吹く風は、かまいたちのように鋭い。舞う落ち葉が切り裂かれていくのが見える。
「義勇さんっ!」
 体勢を崩した義勇は、けれど、あわてた様子はない。すぐさま姿勢を立て直すと、音もなく鬼から離れた場所に降り立った。と、思ったのも一瞬。足が地についたか否かと見定める間もなく、義勇がタンッと跳んで、鬼にふたたび斬りかかるのが見えた。
「壱ノ型、水面斬り」
 奔流の幻影をともない刃が光る軌道を描く。またもや巻き起こった竜巻を切り裂いて、義勇の刀が鬼の首を払うより早く、炭治郎の体が激しい突風に飲み込まれ、一気に上空へと舞いあげられた。
「うわぁっ!」
 炭治郎があげた叫びは短かった。強すぎる風で息ができない。風の渦に巻かれ、体の自由もきかなかった。それでも視線は義勇と鬼から外さない。高い木立よりもっと高く、月に届くかと思うほどに炭治郎の体を巻きあげた風が、唐突にやんだ。
 地上で義勇の刀が、鬼の首を斬り飛ばしたのが見えた。
「炭治郎!」
 呼び声は鋭い。けれども、遠い。あまりにも高く舞いあげられたせいで、義勇の姿は親指ほどにも小さく見えた。
 やっぱり義勇さんは強いな。役に立てなかった。これ、落ちたらただじゃすまないよな。義勇さんの戦いを間近で見られるなんて、いい経験をさせてもらった。浮かぶいくつもの言葉は混沌としている。地面に激突すれば大怪我はまぬがれない。この高さから落下する炭治郎を受け止めれば、義勇だってただじゃすまないだろう。ではどうする。いずれかの木を中継地とするにしても、衝撃は生半可じゃないに違いない。枝をつかめても、炭治郎の体重を支えるのはむずかしそうだ。
 地面はどんどん近づいてくる。どうする。決断がくだされる前に、炭治郎の脳は、己の目が映した光景につかの間思考を放棄した。

 あれは、なんだ。

 星のきらめく夜空を切り取ったような、深い青。瑠璃の輝きをまとった体をうねらせて、一直線に炭治郎に向かって飛んでくるそれは――。

「龍……?」

 思わずこぼれたつぶやきが消えるより早く、青い龍の姿は炭治郎の眼前に迫っていた。
 月が明るい。今宵は満月だ。降り注ぐ月光をさえぎる枝も、炭治郎がいる上空にはない。見間違いようがなかった。
 龍の瞳は、身躯しんくと同じ色味だが、ずっと澄んでいる。義勇の、瞳の色だ。水の匂いがした。義勇の、匂いだ。
「義勇、さん?」
 龍は答えず、落下していく炭治郎に、己の体を巻きつけた。総身は炭治郎にくるりと巻きついてもまだ余る。とはいえ、想像していた龍の姿にくらべれば、だいぶ小さいようにも思えた。それでも人の姿の義勇よりは、かなり大きいが。
 鱗に覆われた皮膚は、意外とぬくい。人の肌よりいくぶん低いが、命あるものの体温が感じられる。
 龍は炭治郎に体を巻きつけたまま、ゆるやかに地面へとおりていく。四肢の鋭い爪が炭治郎を傷つけぬか気にしているようにも見えた。
 麒麟のような角。たてがみは義勇と同じ漆黒で、癖の強さも同じようだ。ときおりピルルとヒレに似た長い耳を震わせている。
 そして。地面にそっと炭治郎をおろした龍は、じぃっと炭治郎を見つめ……ふいっと顔をそらせて飛びあがろうとした。
「ま、待って! 義勇さん! 義勇さんですよね!?」
 あわてて呼びとめ、炭治郎は龍の尾にしがみついた。
「なにがどうなってるんだかわかりませんけど行かないでください!」
 鱗に覆われた尾をギュウギュウと力のかぎりに抱きかかえて叫べば、龍は諦めたように嘆息した。それはどこか悲しげでもある。
 見上げた龍の顔は美しい目がふせられ、炭治郎を見ようとはしない。炭治郎の胸がキュッと締めつけられるように痛んだ。
「……離せ」
「いやです! だって離したら義勇さん逃げちゃう!」
 この姿でも話せるのか。義勇の声で話しかけてきた龍に、驚くより早く炭治郎は、ほとんど絶叫するように訴えかけた。龍――義勇はまたため息をこぼし、ふたたび口を開いた。
「逃げない。このままでは話もできない」
「本当ですね? 絶対に逃げないでくださいねっ?」
 少し異国の馬を思わせる長い顔が、小さくうなずいた。それでも不安で、炭治郎がそろそろと手を離すと、龍の体が青白く発光した。月明かりに似た清かな光が、義勇と炭治郎を包み込む。光のなかで、龍の姿がゆるゆると変化していった。
「……義勇さん」
 光が消えて、月明かりだけが差す夜のとばりのもと、相対したのは人の姿をした裸身の義勇だ。
「な……なんで、裸?」
 ポカンと言った炭治郎に、わずかにふせられていた義勇の顔があげられる。こちらもまた、どことなし呆気にとられているようにも見えた。
「……最初に聞くのがそれか」
「いや、あの、聞きたいことはいっぱいあるんですけど、えーと、目のやり場が……」
 またため息をついて、義勇はくるりと炭治郎に背を向けた。
「あ! 駄目! 逃げないって言ったじゃないですか!」
「服を着るだけだ」
 憮然とした声で言った義勇は、たしかに逃げ出す気はないようだ。散らばった衣服を集めだした背中が、なんだかやけに白く見える。悲鳴嶼や宇髄のような隆々とした筋肉ではないが、義勇の体躯は鍛え抜かれて、まるで抜き身の刀のようだ。引き締まり鍛えあげられているのが見て取れる。
 知らずぼんやりと見惚れていた炭治郎は、ふと気づいたそれに、パチリとひとつまばたきした。トトッと近づいていったのは無意識だ。
 近づいても義勇はとがめない。炭治郎の気配に気づいていないようだ。めずらしいこともあったものである。もしかしたら義勇もそれなりに自失しているのかもしれない。
 ともあれ制止されないのならなによりだ。目についてしかたなくなったそれに、炭治郎は、ツンと指先で触れてみた。白く広い背中で、やけに青く光っていたそれは。
「あ、やっぱり鱗だ」
「――っ!!」
 ビクンと体を跳ねさせて、とっさに振り返った義勇は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。驚かせてしまった罪悪感と、妙に愛らしく思えてつい湧きあがった庇護欲が、炭治郎の胸でまじりあう。
「すみません。あの、義勇さん、鱗が残ってますけど」
「……あの姿になると、しばらくは完全な人型には戻りにくい」
 深いため息つきではあるが、義勇は答えてくれた。かき集めた襯衣シャツやら羽織やらを抱え込んだものの、着るのを逡巡する気配を寸時見せた義勇に、炭治郎の首がかしげられる。
「着ないんですか?」
 見惚れるほどの裸身ではあるが、やはり視線のやり場に困る。凝視していいのなら、いくらでも見せてもらいたいが。
「人の体に戻ってすぐは、尾やたてがみが邪魔だ」
「へ? そんなの見えませんけど」
 何度目かのため息とともに、義勇は気合で隠してると吐き捨てるように言った。
「えー! 隠すことないのに! 龍の義勇さん、もっと見たい!」
 紛うことなく本心だったのだが、義勇はいよいよ呆れた顔をした。水の匂いに混じる、ほんのわずかの苛立ちの匂い。気づいて炭治郎は、ピッと背を伸ばし勢いよく頭をさげた。
「すみません! 勝手なこといいました!」
「……べつにいい」
 疲れた声で言い、義勇は服を抱えたまま座りこんだ。体の周りが陽炎のようにゆらゆらと揺れて見えたかと思ったら、義勇の背後からするりと爬虫類めいた尾が現れてくる。
「尾や背中は戻りにくい。おまえが気にしないのなら、すまないがしばらくこのままでいさせてくれ」
「全然気にしません! あ、いや、気にはなりますけど、嫌じゃありません!」
 気にはなる。触りたくてウズウズする。
 炭治郎の好奇心は義勇に筒抜けなようだ。いっそう呆れ返った気配とともに、またもやため息をつき、ついで、フッと吐息だけで笑った。
「おまえは、あんな姿になる俺をおかしいと思わないのか?」
「不思議だなぁとは思いますけど、おかしいとは思いませんよ? 鬼だっているぐらいですから、龍だって……」
 そこまで言って、炭治郎ははたと思い至ったそれに、ピタリと口を閉じた。

 龍神。神獣。それはつまり。

 バッと地面にひれ伏し、炭治郎は義勇に向かって土下座した。
「すすすすみませぇんっ!! 義勇さん、神様だったんですね! 馴れ馴れしくして申しわけありませんでしたぁ!!」
 大音声の謝罪に、バサバサと鳥が逃げ出す音がした。虫の音もピタリと止まる。つかの間、静寂が周囲に満ちた。
「……神じゃない」
「え? でも、義勇さんって龍神様なんですよね?」
「違う。龍の血は引いているが、神じゃない」
 疲労の色濃い声で言い、義勇は顔をあげろと命じてきた。
 そろりと顔をあげた炭治郎が目にしたものは、義勇のやわらかな苦笑だった。

「はぁ……それはまた、数奇なことでっていうか、ご苦労なさったんですねぇ」
 義勇の話に思わず同情の意を示せば、義勇は重々しくうなずき、少しばかりふてくされたような仕草で、立てた膝に頬杖をついた。
「まったくだ。赤ん坊のころは襁褓むつきすらつけられなかったと、何度聞かされたか」
「それは、お母さんやお姉さんも、さぞやご苦労を……」
「おい、変な想像するな」
「いや、変って言われても、お襁褓むつできないんじゃ、そこらじゅうで」
「言うなっ」
 すみませんと、炭治郎も苦笑する。義勇の尾の先が、ビタンビタンと地面をせわしなく叩いている。義勇の顔はいくぶん疲れが見えるが、相変わらず無表情だ。尾のほうがはるかに感情表現豊かなのだろう。

 義勇の話はこんな次第だった。
 時ははるか昔、音に聞く源平の合戦よりもさらに前のこと。長いひでりに困り果てた村人たちが雨を願って、ひとりの美しい少女を龍神へと捧げた。それきり娘の姿は消え、村には雨が降り、その年の実りは豊穣であったという。
 その娘こそが、義勇の祖先である。
 神に食われたと思われていた娘は、ところが数年後、ふらりと村に戻ってきた。大きなお腹をして。
 神の側室として召されたが、龍が天に戻ることとなったため、俗世に帰された。娘の言い分の真偽はともあれ、失くした娘が帰ってきたのである。家のものは大喜びで娘を迎え入れた。
 そして、時が経ち、娘はひとりの男児を産んだ。
 生まれた子は人の姿をしていたが、青い鱗に覆われていた。そうして元気な産声をあげながら、赤子は龍へと変化したという。龍は、しばらくのあいだ人の体と龍の体を交互に現し育ち、やがて完全に人形ひとがたとなった。

「旱には雨乞い、大雨には川の制御と、ひとたび事が起きれば龍の姿で村を守ったと伝えられている。おかげで村はずいぶん栄えたらしい」
「まさに生き神様ですね。ん? あ、それで義勇さんの名字は冨岡なんですか?」
 ふと思いつき言えば、義勇はコクリとうなずいた。
「名字を許されたころにはもう、龍に変化へんげする者は、まったく生まれなくなっていたようだがな」
 雨を操り龍へと変化するその血も、代を重ねるごとに薄れ消えていく。徳川支配の時代には、数代にひとり生まれるかどうかとなっていたと義勇は言う。
「もはや忘れ去られた伝説のようなものだったが、村に富をもたらした家系には違いない。だが、なんの役にも立たぬようになっているのに富を名乗るのもはばかられたとかで、それで一画少ない冨の字をもちいたと。幼いころに父がよく言っていた」
「でも、義勇さんは龍になれますよね?」
 炭治郎が言うと、義勇はまたため息をつき、苦々しげに眉根を寄せた。
「光った赤子の俺を見て、父は先祖返りだと腰を抜かしたらしい」
 さもありなん。もし六太がそんなふうだったら、俺も腰を抜かしたかもしれない。想像して炭治郎は、思わず空笑いを浮かべた。

 義勇が言うことには、龍に変化するものの、義勇には雨を降らせる力はないらしい。川の氾濫を抑えることも、天駆けることさえできない。ただ龍の姿になるだけだという。
「え? でも、さっき俺を飛んで助けてくれたじゃないですか」
「……あれが限界だ。真上に飛びあがるだけだったからどうにかなったが、浮世絵のように空を駆けるなんてことは、到底できん。きっと不老不死というわけでもない。子供のころは風邪をよくひいたし、怪我が治るのも人並みだ。龍の体なんぞ戦闘にはまったく役に立たん。こんな力、なんの意味もない」
 答える声が疲れている。口惜しい、そんな言葉が、白皙にありありと書かれているような気がした。
「今でこそ自分の意志で変われるが、幼いころにはふとした拍子に勝手に変化していた。おかげで友だちもろくにできなかった」
 遊んでいる最中に、突然友だちが龍になったりしたら、そりゃあたまげるだろう。義勇も苦労したことだろうが、家族もみな気が気じゃなかったに違いない。
「それじゃ、義勇さんが龍になれるのを知ってるのは、ご家族と俺だけなんですか?」
 問う炭治郎の声に、知らず期待がにじんだ。ついつい身だって乗り出してしまう。
 自分だけが知る義勇の秘密。なんて甘美なのだろう。自分の秘密は告げられないというのに、なんとも傲慢なことだ。
 望むだけの欲深さは、罪悪感となって胸をチクリチクリと刺すけれども、義勇が与えてくれる言の葉に、満ちる随喜はいかんともしがたい。

 義勇に、恋している。

 口にはできぬ炭治郎の秘密は、墓場まで持っていくつもりである。想うだけの片恋は、それでも心弾むし幸せだった。義勇のほかには、誰かに懸想したことなど一度もない。炭治郎にとっては義勇が初恋で、きっと最後の恋だ。
 炭治郎には痣が発現している。人生の終わりは早い。鬱々と思い悩むより、人を想う喜びを堪能するほうが、よっぽど有意義である。
 恋仲になりたいなどとは思いもしないが、秘密を共有できる歓喜は抑えがたかった。
 けれども義勇は、そんな炭治郎の期待を打ち砕くように、こともなげに頭を振った。
「錆兎にはバレた。滝壺にふたりで先生に突き落とされたときに」
「……あぁ、なるほど」
 親友でありともに切磋琢磨した錆兎ならば、当然、そういう次第にもなろう。昼夜をともにもしていたのだ。そういった機会は炭治郎よりもずっと多かったに違いない。
 考えてみれば当たり前かと、炭治郎の肩がストンと落ちた。
「先生には言ったことはないが、おそらく気づかれているだろう。多分、お館様も」
 意外と秘密は筒抜けだった。けれどもその面子メンツならば納得もいく。
「そうですよねぇ……」
 ハハハと乾いた笑い声をもらした炭治郎を、義勇がつくづくと見つめてきた。眼差しはどこか幼くもある。
 不意に、義勇の手が伸ばされ、炭治郎の頬に触れた。
「おまえは……俺が気持ち悪くないのか」
「へ? なんでですか?」
 あまりにも見当外れな言葉だったので、思わずすっとんきょうな声になった。頬に触れている義勇の手にも、戸惑いとときめきを覚える。せわしなくまばたきして義勇を見つめた炭治郎に、義勇は、どこか自嘲めいた苦笑を浮かべた。
「俺は人ではない。生き神にもなれん。俺と同じような子が生まれたらと思うと、情のひとつも交わせず、恋などできるはずもないと思っていた」
「そんな……っ! そんな、寂しいこと、言わないでください……」
 思わずすがりつくように身を乗り出せば、義勇の手が頬をすべり、炭治郎のうなじにまわされた。見入り、見入られる視線は、互いにどことはなし熱い。吸い込まれそうだ、などと、埒もない言葉が浮かぶ。
「ずっと、長く続いたお家なんでしょう……? つないでいかなきゃ」
「龍の子を産もうなんて、そんな酔狂な女はいないだろう。子をなすことは、とっくに諦めている」
 交わす言葉はささやき声。叶えようなど思ったこともない恋心は、初めて、先を望みだしていた。もしかして、と。
 それでも躊躇するのは、義勇の血筋ゆえだ。いかに薄れ果てていようとも、神の血を途絶えさせてよいものか。炭治郎にはわからない。そんなことをしてはならぬとの思いが消えない。
 けれどもしも。もしも、そんな奇跡があるのなら。

「あのぉ」

 か細い声が唐突に聞こえ、炭治郎はビクンと肩を跳ねさせた。見れば義勇もカチンと固まっている。
「え? えっ!? だ、誰?」
 あわてふためき周囲を見まわしたが、人影どころか獣の姿すらどこにもない。いったい今のはと思う間もなく、ふたたび妙に細く甲高い少女めいた声がした。
「こちらです、こちら」
 声は少しばかり焦っているようにも聞こえた。よくよく辺りに目を凝らした炭治郎の目が、こぼれ落ちそうなほどに見開かれる。

 なに、あれ。

 龍となった義勇を目にしたときにも仰天したが、此度も炭治郎にとってはまこと信じがたい。いっそ今宵のことはすべて、夢か血鬼術にでもかかったかと思うほうが、自然なほどである。
 けれども、どうやら夢ではないらしい。突然にバチンと音がして、炭治郎が音の鳴ったほうへとびっくりまなこを向ければ、己の頬を平手打ちした義勇が、痛い、と小さくつぶやいていた。
「あらまぁ、痛そう」
 どこか呑気な声に、炭治郎はふたたび声の主に視線をやった。
「えっと……君は、なに?」
 誰? とたずねるよりも正しかろう。
 声の主の姿形は、人と言えなくもない。愛くるしい少女――端的に言えば、禰豆子がそこにいた。ただし、寸法はだいぶ小さい。およそ人とは呼べぬほどに。
 なにしろ、白い単に身を包んだ少女の身の丈は、炭治郎の小指ほどしかない。まかり間違っても禰豆子ではない。それは確かだ。
「姉さん……」
 つぶやかれた義勇の声は愕然としている。義勇と少女を交互に見やり、炭治郎は、では見えている姿は自分と義勇とでは違うのかと得心とくしんした。だが、なにが起きているのかはいまださっぱりわからない。
「不調法をいたしました。なれど名はもはや意味を持ちませぬ。姿はお二方のお心にある慕わしい姿をお借りいたしておりまする」
 声の甲高さは、小さな総身ゆえだろうか。どことなく子ねずみを思わせる声である。
「先ほどは妾の社を直していただき、ありがとうございました。忘れ去られ消えゆくばかりの身ではありまするが、ご恩に報いたく罷り越しましてございます」
 ペコリと頭をさげる姿は果敢はかない。けれどもどこか気高さを感じさせる。禰豆子の姿をしていても、やはり禰豆子ではないのだと、納得しつつも炭治郎は呆然とせざるを得ない。戸惑いを消せぬまま、やはり唖然としている義勇へと視線を投げた。
「神様……なんでしょうか?」
「……そういうことに、なる、のか?」
 思わず視線を見交わした炭治郎と義勇の声は、力ない。鬼と対峙したならば即断即決。状況判断が生死を分かつ。だが、この事態はおよそ想像の埒外だ。
 義勇の身の上ならばまだしも当事者であるだけ、飲み込みようもあるが、突然現れた神と名乗る少女には、思考がどうにも追いつかない。
「もはや形を取ることさえかなわぬほどに弱っておりましたが、やれ、うれしや。かように高潔な生の気と祈りに触れようとは。おかげで心安らかに役目を終えられるうえ、少しはご恩返しもできまする」
 コロコロと鈴を転がすような声で笑い、小さな少女は、ついっと義勇に顔を向けた。
「極々希薄ではありまするが、貴方さまからは高貴な神の息吹が感じられまする。これならば、薄弱なわらわの力でも、どうにかなりましょう。やれ、ほんによかったこと」
 言いながら、ではさっそくと、少女がトトトッとふたりに向かって駆け寄ってくる。

「きゃんっ!」
「うわっ、だ、大丈夫!?」

 スッテンと転んだ少女に、炭治郎はあわてて手を差し伸べた。差し出した指先につかまり立ちあがった少女は、そのままよいしょと炭治郎の手のひらによじ登ってくる。
「やだもう、ドジっちゃった。龍神様のご末裔が見てるのにぃ」
 ブツブツと愚痴り、まるきりおきゃんな少女のように頬をふくらませる、小さな小さな神様。それはなんとも微笑ましく、禰豆子のなりをしているだけに、もはや恐れかしこまるどころではない。
 自失が去ればなんだかやけに愉快になってきて、炭治郎は笑いながら少女を己の膝へとおろした。
「怪我してない?」
「おかげさまで」
 エヘヘと照れ笑う神様に、炭治郎の顔もますますほころぶ。信じられないことばかりが起こるものだが、なかなかに愉快な夜ではないか。
 神様を膝に乗せたまま、炭治郎が笑んだ眼差しを義勇に向けると、義勇もどうやら冷静さを取り戻しているようだ。いつもの無表情で、じっと炭治郎と小さな神様を見据えている。
「恩返しと言うが、たいしたことはしていない」
 言葉はそっけないが声音はどこかやさしい。義勇の目には今は亡き姉の姿に見えるようだから、思うところがあるのだろう。眼差しもなにがなし郷愁と思慕をたたえて見えた。
「いえいえ、ご謙遜を。妾はもとはしがないネズミです。長生きしてたら、なんだか知らないうちに神に奉られちゃいましたけど、大黒様の神使ほど氏素性も良くないんですよぉ。ほかの神様にお逢いすることもなくって。ご末裔とはいえ、高位の神のお血筋とお目見えするなんて、もうビックリ。最後にいいもの見せてもらっちゃいましたぁ」
 神様が笑って言葉を重ねるごとに、義勇の顔が、なんだか少々当惑していくように見える。
「義勇さん?」
「……姉さんは、こんな言葉づかいしない」
 憮然としているようにも拗ねているようにも聞こえるつぶやきに、炭治郎は思わず苦笑した。ちょっと呆れもする。義勇はどうやら筋金入りの姉さんっ子だったらしい。
 義勇の少しばかり据わった視線に気づいたか、小さな神様はコホンと空咳すると、居住まいを正した。
「ともかく、恩返しはさせていただきます。ってことで、では」
「えっ! な、なになに!? うひゃっ、ちょ、くすぐったい!」
「炭治郎!? おい、なにをする!」
 唐突に炭治郎の腹をまさぐりだした神様に、炭治郎と義勇がわめくと、神様はキョトンとした顔をしてケロリと言い放った。

「え? だってお子がほしいのでしょう?」

 ピタリと、時が止まった……気がした。
「あの……」
「妾の残る力をすべてそそぎます。まぁ、妾の力だけじゃちょっと無理かもしれませんけどぉ、龍神様の血を引く方がお相手なら、なんとかなりますよ。なせばなる! 無理がとおれば道理が引っ込む! じゃあ、子作りがんばってくださいねっ」
「……意味が違う」

 フワッと光ったかと思ったら、光の粒になった神様は、するりと炭治郎の腹に飲み込まれ。呆然と自分の腹を見つめる炭治郎と、抑揚のない声で独りちた義勇だけが、あとには残された。

 さて、その後の話は蛇足にすぎない。
 艱難辛苦乗り越えて、宿願果たしたふたりはといえば、仲睦まじく寄り添い暮らしている。血に濡れた日々はすでに遠い。ふたり暮らしには広い屋敷で、今日も炭治郎は、龍の姿となった義勇に巻きつかれ、キャッキャとはしゃいだ声を立て笑っている。瑠璃色に光る鱗に覆われた義勇の姿は、炭治郎の大のお気に入りだ。
 炭治郎の腹は日に日に大きくなっていく。龍になってとねだられるたび、腹の赤子が潰れぬかと毎度義勇は気が気じゃない。だが炭治郎がやたらと喜ぶものだから、今日もするりと炭治郎に巻きつき、まろさの残る炭治郎の頬に長い顔を擦り寄せる。鱗に覆われた尾がうれしげに揺れた。
 そうして。

 昨日も今日も明後日も。恋するふたりは、神の加護に感謝しながら、幸せを抱きしめ生きている。