なんということもない秘密の話

 山を下りた俺が、義勇さんとふたりで暮らしだしたのは、昔ながらの長屋の一室だった。
 住人のなかには職人さんもいくらかいて、住居兼作業場として借りている人も多い。さもなければ、毎朝勤め先に出かける人たちだ。無職でいたのは、俺が転がり込むまではひとりきり。俺が来てからはふたりになった。
 言うまでもない。俺と義勇さんだ。
 無為徒食の身というのは、どうにも肩身が狭い。義勇さんは書生さんのようななりをするようになっていたけれど、それが功を奏していたのか、苦学生だと思われていたようだ。
 ところが、うんと年下の俺が転がり込んできたわけである。怪しいことこの上ないなと、自分でも思う。
 元々義勇さんがひとりで半年ほど住んでいたところに、俺が転がり込んだかたちだけれども、幸い、近所の人たちは変な詮索をせずに受け入れてくれた。まぁ、ひと悶着あって、義勇さんの隣りの部屋に住む小母さんが、俺の味方についてくれたのが大きいんだけども。

 半年ほど禰豆子や善逸たちと雲取山で暮らした俺は、善逸と伊之助がどうにか炭焼きを覚えたところで、山を下りた。どうあっても義勇さんと暮らしたかった。
 俺が眠り続けているあいだに、義勇さんは二十二になっていた。共に過ごせる時間は短い。もしも義勇さんが鱗滝さんなりほかの人なりと暮らしていたのなら、俺は、決して自分の気持ちを告げようとはしなかっただろう。
 けれど、義勇さんは水屋敷を出て、ひとりで小さな長屋で隠遁者のように暮らすことをえらんだ。
 義勇さんが、ひとりで生きて、ひとりで死んでいく。そんなの許せなかったのだ。耐えられなかった。俺が初めて心の底から愛おしく恋しいと思った人が、刀を握らず平穏に暮らせるようになったというのに、世捨て人のようにひとりでいるなんて。

 俺は、ずっと義勇さんが好きだった。

 輝利哉くんに聞いていたから、義勇さんの住んでいる場所は知っていた。輝利哉くんは、鬼殺隊を解散しても隊士それぞれの暮らし向きに腐心してくれていて、会社を興して隊士や隠の人たちを多く雇い入れたのだそうだ。そのなかに、義勇さんはいなかった。
 義勇さんは痣者だ。命には刻限がある。輝利哉くんは、義勇さんがこれからの短い人生を諦めて過ごすとは思っていないようだった。
「義勇はすごく穏やかな顔をしていただろ。だからあまり心配はしていないんだ」
 輝利哉くんの言うことはもっともだ。俺だってそう思っていた。もしも義勇さんが誰かと暮らしだしたと聞けば、義勇さんが幸せをつかむことをなにひとつ疑わなかっただろう。
 でも義勇さんはひとりをえらんでしまった。諦めて、でも、ほかの幸せを探そうとも思わない。そうやって終りまで生きていくつもりなんだと、わかった。たぶん、俺だけが。
 だって、義勇さんも俺のことが好きだ。俺の思い違いなんかじゃない。義勇さんの匂いや、ときどき見交わした視線、ふと触れた手、全部が互いに想いあってることを伝えあってた。
 輝利哉くんの手紙で義勇さんがどこかに勤めるでもなく、貰った給金もほとんど各地の孤児院に寄付してしまったことを知ったとき、義勇さんが俺のことを諦めようとしているのなら、俺が諦めるのをやめようと思ったのだ。

 そうして、禰豆子たちに許しを得て長屋を訪れた俺に、義勇さんが開口一番口にしたのは「帰れ!」の怒鳴り声だ。まったくもってひどい話だと思う。
 帰れ、帰りませんを、何度も繰り返したあげく、義勇さんは「どんなに粘ってもおまえと暮らすつもりはない。雲取山に帰れ」と、戸を閉めてしまった。
 もう日は暮れかけていたのに、重ねて言うが、ひどい話じゃないか。
 もちろん、おめおめと引き下がる気などなかった。根競べだと、玄関の前に座り込んでた俺に声をかけてくれたのが、義勇さんの隣に住むチヨさんという小母さんだった。

「ちょいと、坊や。もう夜は冷えるよ? 冨岡さんとなにがあったのかしらないけどさ、こんなところに座り込んでちゃ風邪を引くよ」
 そう言って家にあげてくれたチヨさんは、おしゃべりだけれどいい人で、旦那さんに俺をしばらく置いてあげてほしいと頼んでくれた。
 新聞社に勤めているという旦那さんも、チヨさんと負けず劣らずの人の好さで、冨岡さんがいいっていうまでうちにいなと笑ってくれたものだ。俺はずいぶんとツキに恵まれていたのかもしれない。

 俺がツイていたのは、ここが長屋だったこともだ。長屋の住人というのは、どこでも女の人のほうが強い。チヨさんは持ち前の人の好さと気の強さで、長屋の奥さんたちのまとめ役のようなものだったと言えば、俺と義勇さんのどちらに軍配が上がったかなんて、言うまでもないだろう。

 前置きが長くなった。
 まぁ、そんな具合で、一緒に暮らしだしてしまえば、どちらとも愛おしさは抑えがたく。義勇さんも俺をようやく抱きしめ、最後の日までともにいてくれとささやいてくれた。今ではすっかり所帯を持ったようなものとなっている。
 義勇さんは、伴侶を迎えたのにぐうたらとしているわけにもいくまいと笑って、しばらく懸命に、左手でも以前と変わらぬ字が書けるよう頑張っていた。隻腕では力仕事などに雇ってもらうのは難しいし、職人になるには時間が足りない。商売をやるにも元手がいる。
 そこで義勇さんが始めたのが、代書屋だ。字さえ以前のように書ければ、筆と硯だけあれば仕事ができる。そう言って義勇さんは頑張った。
 そんな義勇さんを横目に俺だけ冷や飯食いでいるわけにもいかない。そこで、同じ長屋に住む職人さんの雑用をさせてもらうことにした。

 義勇さんも住みだした当初は話題の的だったそうだけれど、その前から、ちょっと不思議な人だよねと井戸端会議で話題に出る人というのはいたらしい。
 それが、俺が手伝いに行くことになった政さんだ。
 政さんはつまみ細工の職人さんで、自室を作業場にしている。できた細工は店に卸さずに、棒手振りをして売っている。それでは日銭程度の稼ぎにしかならないだろうと、世慣れない俺にも察せられるのに、俺が仕事を探していると聞いたと言って、手伝いをしてくれと頼んできたのだ。
 人を雇うような余裕があるとも思えないのに。でも悪い人とも思えない。

「……あれは一筋縄ではいかないと思う」

 義勇さんは、政さんのことをそう言った。
 ただの職人にしては隙がないのだと言う。
「訓練された動きをすることがある。軍人だったのかもしれない。でなければ……草」
「草?」
「市井に紛れて情報を集める者をそう呼ぶ。忍者と言ったほうがわかりやすいか?」
「宇髄さんみたいな、ですか?」
 こくりとうなずいた義勇さんは、宇髄は情報収集の草ではなく戦忍びではないかと思うけれどと、小さく笑った。
 なんとも剣呑な話になってきた。
「でも、なんで草? なんて人が、こんな長屋に住むんです?」
「さぁ……。草や軍人とも限らない。今のところは憶測にすぎない」
 おまえの鼻が嗅ぎとれなかったのなら、害意はないだろうから気にするなと笑った義勇さんは、それでも小さな声でささやいた。
「浮気はしてくれるなよ?」
「し、しませんよ! するわけないでしょ!」
「うん、そうしてくれ。でないとあの男に俺がなにをするか保証ができない」
「……義勇さん、からかってます?」
 まさか、と笑う顔は、それでもやっぱり少しいたずらっ子みたいで、唇を尖らせてむくれたら、ちょんとその唇をついばまれた。

 なんだか話がずれた気がする。政さんの話だ。
 義勇さんから軍人やどこかの草かもしれないと聞かされてから、少しだけ注意深く政さんの様子をうかがうようになった。たしかに身のこなしには隙がない。だけど特に変わったところなどない人だ。
 政さんは義勇さんと同じく無口だけれども、悪い人だとは思えない。もしも義勇さんの推測が正しくても、だからどうということもないだろうと思っていた。

 ようやく義勇さんが納得のいく字を書けるようになり、長屋の軒に『代書屋』と書いた木札をぶら下げたのは、そろそろ冬の気配がしだしたころだった。
 早朝や夜更けには息が白く染まりだし、義勇さんの元には、チラホラとお客さんがくるようになった。チヨさんたちがせっせといろんなところで宣伝してくれているらしい。長屋の奥さんたちの友達だとか知り合いだっていう人が、ときおり来ては手紙の代筆を頼んでいく。女の人が多いのは、チヨさんたちのお陰ばかりではないと思うけど。
 義勇さんは、恋仲である俺の身贔屓を抜きにしても、とんでもなくきれいな人なのだ。女のお客さんが、ひとり残らずポウッと頬を染めるぐらいに。
 仕事なんだからヤキモチを焼くなんて駄目だと自分に言い聞かせても、ベタベタと触られているところなど見てしまえば、どうしたって嫉妬する。

「冨岡さんは色男だからなぁ」

 細工仕事の手伝い中に、つい愚痴をこぼしたら、政さんはそう言って小さく笑った。
持てモテるのは知ってたし、お客さんも増えてるんだから、文句言ったら駄目だとわかってるんですけど……」
「そりゃ、しかたないだろ。度が過ぎない程度に焼いてやればいい。あのお人は、おまえさんに焼かれると喜びそうだ」
 本当かなぁと首をひねった俺に薄く笑って、政さんは腰を上げた。
「厠に行ってくる」
 そう言って政さんが家を出たのと同時に、開けられていた窓から強い風が吹き込んだ。
「わわっ!」
 細工に使う布が風に飛ぶのを、あわてて拾い集めていたら、襖の端が少しめくれているのに気がついた。
「……なんだ、これ? 外国語?」
 襖の裏紙に、見たこともない文字が書かれている。なにかの書類のようだ。読める漢字だって義勇さんには及ばないぐらいの俺が、異国の言葉なんて読めるわけもない。だけど、なんだか妙に心が騒いだ。
 不要になった書類を裏紙に使ったというよりも、まるで隠しているように見えて……。
「おい、なにしてる」
「ひゃあ!」
 突然に耳元でした声に、思わず飛び上がった。
 政さんがいつのまにか背後にいた。
「あの、風で布が飛んで……」
 あぁ、とうなずいた政さんはいつもと変わりなく見えた。
「今日はもういい。帰んな」
 今日の分といくらかの貨幣を手渡されててしまえば、問い質すこともできない。なにを聞いていいのかもさっぱりだ。
 不思議な気はするし、なんだか不穏な気がしないでもないけれども、やっぱり政さんからは嫌な臭いはまったくしなかった。

 そうして、次の日、政さんの姿は長屋から消えていた。

 家にはなにひとつ残っていなかった。襖の裏紙は、うちの襖と変わらず、どこにでもある反故紙に変わっていた。
 そう、政さんの家には、なにもなかった。
 代わりに、俺らの家の窓の桟に、つまみ細工の簪が一本置いてあった。きっと政さんの置き土産だ。

「なんだったんでしょうね、あれ。これもどういう意味なのかな」

 男所帯であることは政さんだって知っている。簪なんて無用の長物だ。心尽くしなら無下にもできないけれども、どうにも扱いに困る代物だ。禰豆子にあげようにも、政さんの素性が知れないのでは、禰豆子たちに万が一なにかあったらと不安にもなる。
 考えたところで答えなんてわかるわけもないけれど、なんだか胸がモヤモヤとする。そんな俺の話を聞いていた義勇さんは、ふむ、としばらくなにか考えていたが、やがて文机の下に積まれていた何冊かの本を取り出すと俺の前に並べた。
「このなかに、おまえが見た字はあるか?」
 並べられた本は、全部外国語の辞書のようだ。
「義勇さん、外国語まで習ってるんですか?」
「万が一、外国人宛ての手紙を頼まれたら困るから」
 なんとも生真面目なことだ。義勇さんらしいなぁと、思わず微笑んでしまった。
「んっと、しっかり見たわけじゃないですけど……あ、これ。これに似てますね」
「ロシア語か」
「ロシアって……確か、日本と戦争していた国ですよね?」
 こくりと義勇さんはうなずいた。ヒヤリと背を冷たいものが流れた。
「与太話でもなかったようだな」
 軍人。草。どちらなのか、どちらでもあるのか。なんでこんな長屋に? と思いもする。けれど、あぁ、そうだ。政さんは棒手振りだ。往来でどんな人と話していても目立たない。それに。
「つまみ細工なら、細い紙片を仕込むのも楽かもしれないな」
 言って義勇さんは、ちらりと俺の手にある簪に視線を落とした。
 手にしていた簪が、不意にズシリと重くなった気がする。怖くなってあわてて放り出した。
「あ、あのっ、俺、なんかお国の不利になるようなことしでかしましたか!?」
 罪人になったらどうしよう。義勇さんをひとり置いて、牢獄になんて入りたくない。
 真っ青になってつめ寄ったら、義勇さんは、少しおかしそうに笑った。
「心配せずとも、おまえに迷惑がかかるようなことはしないだろう。利用するつもりでいたのなら、おまえを使いに出したりもしていただろうし」
 言われてみれば、俺の手伝いは長屋のなかだけに限られていた。
「真実、親切心だけだったんだろう」
「そう、でしょうか」
 こくりとうなずいた義勇さんに、頭をやさしく撫でられて、ホッと肩の力が抜ける。
「……おまえと暮らしだしてすぐに、あの男と少しだけ話したことがある」
「え、政さんとですか?」
「弟に似ているそうだ」
 俺が? と自分を指差せば、義勇さんはまた小さくうなずいた。
「何者だったのかは、わからない。わからないままでいいと思う。だが、おまえに対する好意は疑ってやるな」
 義勇さんの目はやさしい。そっと抱き寄せられて、もたれかかった胸の温もりに、安心する。
「そうですね」
「まぁ……好意だけで止まってくれたから、言えることだがな」
 ん? と首をかしげたら、義勇さんのささやきが耳に落ちてきた。
「言っただろう? 浮気されたらあの男になにをするか保証できないと」
 喉の奥で忍び笑う声に、カッと体に火がついた。
「そんなことしませんって、言ったでしょう?」
「おまえはそうでも、あの男はかなり手練れに見えた。万が一があるからな」
「だとしても、絶対にしませんよ。全力で抵抗します。浮気なんてできるわけないじゃないですか」

 だって、こんなにも義勇さんで胸のなかはいっぱいなんだから。

 そっと伸びあがって義勇さんの耳にささやき返せば、抱きしめてくれる腕に力がこもった。


 俺たちが終の棲家として暮らす長屋で起きた、なんということもない、だけど少しだけ不思議な話は、これでおしまい。俺たちは二度と政さんには逢えなかったし、どこに行ったのかもわからない。
 だけどそれでいいのだと思う。
 平和で穏やかな暮らしの外で、人同士が殺しあう時代。刀を置いた俺たちには、なにもできることはない。
 せめて俺らと大切な人たちが、やさしく慈しみあって生きいけるよう、日々穏やかに暮らすだけだ。人と人との争いには、かかわらずに。
 残されたつまみ細工の簪は、だから、そのまましまい込んでしまおう。
 誰の目にも触れないように。