彼岸花が枯れるまで シーン抜粋4

●義炭初デート

 炭治郎の呆気にとられた顔を見ていられず、義勇は、居心地悪く視線をそらせた。
 待ち合わせ場所にたたずむ姿が目に入ったときには、ずいぶんとソワソワとして見えたのだが、やはり自分の思い違いだったのだろうか。
「スーツ……」
 ようやく口を開いた炭治郎がぽつりと口にしたのは、おそらく無意識だろう。思わず口をついたという声だった。
「なにか……おかしいか?」
 返した義勇の声はといえば、いたたまれなさもあり、常より素っ気なかったかもしれない。
 あわてた様子で炭治郎はブンブンと首を振るが、目は口ほどに物を言う。どこか困った風情は隠しようがない。
「すっごく格好いいですけど……えっと、今日って遊園地に行くんですよね?」
 そう約束したのだから当然だろう。視線を外したまま、義勇は憮然とうなずいた。

 言われてみれば、幼いころに家族で行った遊園地にスーツ姿の大人などいなかった気がする。あまりにも遠い記憶すぎて、まるでおとぎ話の世界ほどにも縁のない光景ではあるが、父だってもっとカジュアルな服だったはずだ。

 失敗したと内心うろたえるが、もう遅い。今更着替えてくるわけにもいかない。ついでに、着替えようにも、遊園地向きな服など義勇はそもそも持っていなかった。 
 ファッションなどまったく興味がない義勇のワードロープには、無惨がよこす服しか持ちあわせがない。クローゼットにつるされた衣服は、無惨のお眼鏡にかなったものばかりだ。
 いかにもな裏の世界を感じさせる衣服は少なく、スタイリッシュだのエレガントだのとやらが基準となっているらしい。義勇がただの高校生でいた時分に着ていたような、デニムやパーカーなどは、無惨の選択肢には一切上がらぬようだった。義勇自身からすれば、本当ならジャージ程度が楽でいいと思いはする。けれどもそんなものを着れば無惨の不興を買うのは想像にかたくない。
 無惨にとっては、義勇を自分好みに着飾らせることもまた、気に入りの遊びのひとつなのだろう。衣類だけではない。車も住居とするマンションも、すべてが無惨から買い与えられたものだ。
 なにもかもを無惨の色に染められているのが、義勇の生活である。
 通りすがりに、レクサスだよスゲェと誰かが言う声がした。衆目を集めているのはこれの所為かと、義勇は苦々しく傍らの車に視線をやった。
 義勇の好みからいえば、派手な赤など選択肢には上がらない。今着ている深紅のシャツはもちろんのこと、このメタリックな赤い車も無惨の瞳を思い出させた。けれどこれしかないから乗っている。ただそれだけのことだ。
 車に興味などないから車種もよく知らないが、無惨が与えてくるのだから、それなりに値の張るものなのだろう。確かに、性能も居住性もいい車だとは思うが、車など走ればいいぐらいの関心しか義勇にはない。
 バルボのシャツだキートンのスーツだと、無惨は義勇にご高説を垂れ流すが、まともに聞いたことは一度もなかった。高級志向といえば聞こえも良かろうが、義勇からすれば見栄っ張りめと冷笑をこらえるのに苦心するだけのことだ。
 与え甲斐などまるでないだろうに、無惨は、飽きもせずあれやこれやと義勇へ買い与えようとする。無惨にとっては、愛玩犬に服を買うようなものなのかもしれない。自己満足だ。
 どれだけ着飾ろうと、しょせんは裏家業の身の上ではないか。日の当たる場所へ出られるわけでもない。無惨から物を贈られるたび、いつでもそんな冷めた侮蔑と自嘲が義勇の心を占める。
 いや、それこそが無惨の本意にかなうものなのかもしれなかった。どれだけ不快感を覚えようと、義勇は無惨からの施しを拒めない。盲従してみせるよりない義勇の惨めさをこそ、無惨は愛でているのだろう。
 しょせんは誰からもさげすまれる囲われ者になり下がった身だ。市井の人々から忌み嫌われる裏の世界に、どっぷりと浸かって、這い上がることも許されない。
 周囲の視線が痛い。駅のロータリーでなど、待ちあわせなければよかった。こんな男が連れでは、炭治郎が恥をかく。
 思った瞬間、義勇の胸はズキリと痛んだ。

 そうだ。俺はこんなふうに堅気の人々が集う場所に現れていい身ではない。

 なにを浮かれているんだ。禰豆子を連れて行くときのために下見しようなど、よくもまぁそんなことを言えたものだ。後悔がチリチリと義勇の身を焼いた。
 やはりやめておこう。そう言おうと思った。金は出してやる。友達を誘って行ってこい。そう言えば済む話だ。きっとそのほうが炭治郎が不快な思いをしないで済む。
 けれど義勇はそんな文言を口にすることはできなかった。
「ごめんなさいっ、走り回るわけじゃないんだから、格好なんてどうでもいいですよね。初めてだから、俺、よくわかんなくて」
 勢いよく頭を下げて申し訳なさげにする炭治郎に、義勇は、返す言葉を失った。そうじゃない、悪いのは俺のほうだと言うより早く、炭治郎は困り顔で車を見た。
「あの、土足で大丈夫ですか? 前に工場の人の車に乗せてもらったときに、靴のまま上がるなって叱られちゃって」
「あ、あぁ。かまわない」
 ようよう答えた義勇に、炭治郎の顔がパッと輝く。
「よかったぁ。俺、義勇さんみたいにいい服とか靴とか持ってないから、汚しちゃったらどうしようって思いました。あっ! もちろん、汚す気なんてないですよ!」
 笑う炭治郎には屈託がない。ジロジロと明け透けにぶつけられる周囲の視線など、まったく気にしていないように見えた。

(略)

 日曜の遊園地は、家族連れやカップル、学生らしいグループが楽しげにはしゃいでいる。けれど、その誰もが義勇と炭治郎が通りかかると、ギョッと目を見開き視線を向けてくる。好奇心やら怯えの色を見せないのは、幼い子供くらいだ。だが、親はといえばそういうわけにもいかないのだろう。子どもがこちらを見るたびに、泡を食って視線をそらせようとしている。
 自分にも気づくものを炭治郎が気づかぬわけもないと思うのに、炭治郎はいっこうに気にした様子がない。目をキラキラと輝かせて、あれはなんですか? そっちのは? と、ワクワクとした声で義勇に問いかけては、行ってみてもいいですかと控えめにねだってくる。
「……気にならないのか?」
 一休みしようと腰かけたベンチで、とうとう義勇は思い切って炭治郎に問いかけた。
「なにがです?」
「俺といると……変な目で見られるだろう?」
 視線を合わせることはできず、義勇はうつむき気味に呟いた。フリーライターだなどという嘘は、もうとっくに見抜かれているのかもしれない。炭治郎はいい子だから、約束を破るのを良しとしなかっただけで、本当は困っているんじゃないだろうか。
 そんな義勇の猜疑心と後悔を、炭治郎は明るく笑い飛ばした。
「まさか。そんなことあるわけないですよ。変な目っていうか、義勇さん格好いいから、みんなつい見ちゃうんじゃないかなぁ」
 わだかまりなど露と見せぬ笑顔と声に、義勇は思わず顔を上げた。怪訝に見やった炭治郎の瞳には、お世辞やお愛想の色などまったく感じられない。
「……格好いい?」
「そうですよっ! 義勇さんが車から降りてきたとき、俺、思わず見惚れちゃいました。会社の偉い人もスーツを着てきますけど、義勇さんみたいに格好いい着こなししてる人なんていないです。申し訳ないですけどっ。本当に偉い人には申し訳ないんですけどっ、義勇さんのスーツ姿が一番格好いいです!」
 俺、スーツって会社に行くときしか着ないもんだと思ってましたと、炭治郎は照れたように笑う。
「普段着にもスーツって着ていいんですね。義勇さんに似合ってる」
「……本当は、スーツなんて好きじゃない」
 ポツリとこぼれた本心は無意識だ。そんなこと一度だって口にすれば、無惨に躾が足りなかったかと無体な目に遭わされるのは間違いがなかった。
「そうなんですか? じゃあなんで?」
 炭治郎に他意はないだろう。だが義勇には答えようがない。俺の飼い主が着せるから。そんな恥知らずな文言を、炭治郎に伝えるなど論外だ。
「これが……一番似合うと、言われたことがあった」
 嘘じゃない。深紅のシルクのシャツも、義勇のためにあつらえられたシンプルだけれど値の張るスーツも、無惨の一番のお気に入りだ。
 無惨の審美眼に頼るなど正気の沙汰ではないが、それぐらいしか義勇には基準となるものがない。
 興味がないのもあるが、少年刑務所に入って以来、まっとうな暮らしなどしたことがなかった。世間一般の義勇と同じ年頃の男が選ぶ服など、これっぽっちもわからないのだ。だから選べない。クローゼットに義勇自身が選んだ服など置こうものなら、無惨にすぐさま捨てられ淫猥なお仕置きをされるだけだと理解してもいる。
「確かに格好いいですもんね! でも、義勇さんには赤よりも青か白が似合いそうな気もします。清潔感があって爽やかなの。あ! それもすっごく格好いいし似合ってるんですけどっ!」
 あわてる炭治郎の頬は、なぜだかほんのりと赤い。照れているのだろうか。
 なぜ炭治郎が恥らうのかはわからないが、それでも炭治郎の言葉は、静かに義勇の胸に染み入った。
 無惨の色である深紅より、爽やかな青や白が似合うと、炭治郎は言う。ありえない。汚れ切った自分には、到底似合うはずもない色だ。
「……そうか」
「はいっ」
 それでも、自分のなかにもまだ、汚されぬ白がどこかにあるのかもしれないと、義勇はそっとまつ毛を伏せた。