彼岸花が枯れるまで シーン抜粋3

・炭治郎と義勇の再会。

 笑い声の中心にいるその子は、高校生ぐらいに見えた。きっとあれが矢琶羽の報告にあった子供だろう。
 飾り気のないごく普通のTシャツにジーンズ。装飾品はなし。清潔そうな髪は触れたら柔らかそうで、時折吹く風にふわりと毛先が揺れていた。額に残る痣は火傷の痕だろうか。痛々しいそれを隠すことなく少年は前髪を上げ、人によっては隠したがるだろう汚点にも思える痣を曝け出している。

 何故だろう。目が離せない。

 別段変わったところなどない少年だ。額の痣以外に人目を惹くものなどない。むしろ傍らで笑っている少女の方が、瑞々しい未完成の美しさに目をとめ見惚れる者は多いだろう。
 だが義勇の視線は、朗らかに笑う少年から逸らされることはなかった。
 きびきびと立ち働き、ホームレスを相手に全く厭うことなく笑いかけ、不潔な垢だらけの手を握りさえする、その少年。炊き出しの椀をホームレスの汚れた手に渡し、おそらくはお定まりなのだろう「あちらで自立支援の案内をしてます、行ってみてくださいね」と笑いかける声にも笑みにも、労りと温かさがある。
 衛生面で注意されているのだろう。ホームレスの手を握った後は除菌ペーパーで手を拭ってはいるが、その度心底申し訳なさそうに「ごめんなさい、気を悪くしないでくださいね」と一々詫びては、頭を下げる。そんな少年に常連らしいホームレスも笑い返していた。

「炭治郎は本当に気ぃ遣いだなぁ。俺らみたいなのに気なんか遣わなくてもいいのによぉ」
「駄目ですよ、そんな自分を卑下するようなこと言っちゃ! 皆さんいい人なの、俺はちゃんと知ってるんですからね」
「うん、ありがとなぁ。炭治郎だけだわ、俺らにそんなこと言ってくれんのはよ」
「あ、酷い。お兄ちゃんだけじゃないですよぉだ。私だってシンさんたちがいい人なことぐらい知ってますもん」
「おぉ、悪い悪い。ねずちゃんも本当にいい子だ、うん」

 成程、あの少女は妹なのか。言われてみれば面影が似ている気もする。
 改めて見つめた少年の顔は、快活な笑みの所為で愛嬌の良さにばかり気がいき見逃しそうではあるが整っていて、憂い顔の一つもすれば美しいと言えそうだ。
 己の目を覆う色の濃いサングラスが、邪魔だと思った。この目で直にあの子の顔を見てみたい。そんな衝動が不意に沸き上がったことに、義勇は内心僅かに狼狽えた。
 何故そんなことを思ったのか、自分が分からない。少年の笑顔から視線を外せない意味も。
 もう行こう。様子は窺えた。これ以上ここにいる意味はない。
 義勇はそう結論付けた。嫌がる瞳を無理矢理少年から引きはがす。だが未練がましい足が動き出す前に、義勇の姿は少年の隣で笑っていた少女に捉えられた。
 途端に消えた少女の笑みに、義勇は内心で少し慌てた。じっと見ていたのが悪かったのだろう。当然だ、じろじろと見知らぬ他人から無言で眺められ、喜ぶ者などいない。
 少女が困惑げに兄の袖を引くのが見えた。少年の顔がこちらを向く。
 サングラス越し、少年と目が合った。一瞬きょとりと目を瞬かせた少年は、すぐに表情を固くした。
 ずきりと胸が痛んで義勇は思わずサングラスに手を掛けた。そのまま外そうとした手を止める。
 怪しい者じゃない。咄嗟に思い浮かんだそんな言葉を義勇は自ら打ち消した。どの口が。怪しいに決まっているだろう。それどころか少年にとって自分は敵だ。追い払うべき存在だ。
 そもそも自分がここを訪れた目的は、ビルの立ち退きに強固に反対している連中がいるとの報告を受けたからではないか。
 わざわざ義勇自ら視察に出たのはほんの気紛れだし、この場で何某かの妨害行為に及ぶ気などさらさらない。しかしいずれは配下に命じ、秘密裏に彼らに危害を加えることになるのは変わらないのだ。
 サングラスの弦から手を下ろし、義勇は今度こそ立ち去ろうと踵を返した。
 その途端背にかけられた声に、足を止める必要などなかった。気付かぬふりでさっさと立ち去るべきだ。
 だが、意に反して義勇の足は留まり、気づけば少年の声に引き寄せられるように振り向いていた。

(略)

「お兄ちゃんはまだいていいよ。まだお話してたいんでしょ? 冨岡さん、お兄ちゃんをよろしくお願いします」
 笑って立ち上がりボランティアの人達の元へ戻っていく禰豆子を、二人並んで腰かけたまま見送った。
「ごめんなさい、冨岡さん。禰豆子が勝手なことを言って」
「いや……気にしてない」
 慌てて義勇に謝る炭治郎の頬は赤い。妹にまるで子供のような扱いをされたのが恥ずかしかったのだろう。義勇が小さく応えを返せばホッとしたようにまた顔を緩ませる。
 ちらちらとこちらを窺っていた者たちも、笑顔で戻った禰豆子に安心したのだろう。三人で話している時には鳴りを潜めていた笑い声が上がっている。それでもまだ炭治郎が義勇の元にいることを案じている気配はあり、当然だろうと義勇は心の中だけで自嘲の笑みを漏らした。
 ここら一帯は義勇のシマではあるが、義勇は滅多に出歩くことがない。このシマを治めるのが鬼舞辻組であるのは、多少なりと裏の事情に通じている者なら誰もが知るところだ。しかしシマを治めているのが誰なのかを知る者は少ないだろう。
 義勇は他の幹部のように部下を従え飲み歩くようなことなどしないし、尊大な態度で往来を闊歩するようなこともない。そんなことは義勇の性分に合わない。むしろ苦痛ですらある。
 だが、他の組に睨みを利かせる為には、そんなお約束な態度を必須とする時もある。義勇が直々に顔を見せねば治まらないことがあれば、村田や後藤などを従えて武威を示す必要はあった。
 もしもそんな義勇の姿を見かけた者が一人でもあの中にいれば、さんざめく笑い声は忽ち止むはずだ。
 今のところその気配はないが、いずれは義勇が何者なのかは知れるだろう。そうしたら、禰豆子のあの笑顔も義勇に向けられることはなくなるのだ。
 そして、今は一緒にガードレールに腰かけている炭治郎も、きっと嫌悪と敵意を義勇に向ける。
 沈んでいく義勇の内心など知らぬ炭治郎は、立ち上がる気配もない。それどころか立ち去りがたい様子は未だ継続中だ。

(略)

 ゆらゆらと揺らめく炭治郎の瞳は、煌めく赫灼。何故だろう。赤は義勇にとって厭う色味である筈なのに、炭治郎の瞳は心惹きつけられる。
 ふわりと風に揺れた毛先が陽射しに透けて、髪も赤みがかっているのだと知った。
「あの、冨岡さん。取材はもう終りなんですか? 俺、ちゃんと協力しますから! だから、あの、また来てくれますか……?」
「……いや」
 小さく否を告げた途端に炭治郎の顔は哀しげに歪んだ。
 何故だ。何故そんな顔をする。無表情な顔の裏で密かに狼狽えた挙句、義勇が口にしたのは「また来る」の一言だった。
 少し俯きぽつりと言い視線だけで炭治郎を窺えば、喜色を露わに待ってますと元気に言い返してくる。
 義勇は今度ははっきりと俯いた。手の中の缶コーヒーを意味なく握り締める。

 嘘なんだ。先ほどお前に言った言葉は全部。フリーライターなんて嘘っぱちだ。ホームレス支援なんてしたことがない。お前が妹と一緒に笑いかけていたような奴らを、生き地獄に送る指示を出したこともある。
 お前は一生知らないでいい汚らわしい世界で、俺は生きている。
 外道な男の慰み者になって、玩具のように好き勝手に扱われ、唯々諾々と外道の手足として血に染まる。それが俺だ。炊き出しに列を作るホームレスたちよりも、よっぽど汚く穢れきっている。

 馬鹿だ。義勇は黙り込んだまま腹の内で己を詰った。何故、また来るなど言ってしまったのか。取材だなんて言い訳は、すぐに通用しなくなる。なにより自分はこの子達の前に姿を現せる立場じゃないだろう。
 このビルを手に入れるのは、鬼舞辻からの命だ。逆らえない。
 けれど、少しだけ。もう少しだけ。
 だってもう約束してしまった。また来ると言ってしまった。

「もう行く」
 取り出したサングラスをかけ、義勇は立ち上がった。
 歩き出した義勇の背後で、炭治郎の明るい元気な声が響いた。
「冨岡さん、来週も来てくださいね! お仕事頑張ってください!」
 振り返りたい。あの子の隣に戻りたい。
 駄目だ。
 義勇は立ち止まることなく歩いた。振り返らず、それでもぎこちなく手を挙げた。
 了承の意だと炭治郎は受け取っただろう。分かっていても応えずにいられなかった。

 約束は、守らなければ。

 明るい陽射しを遮る黒いガラス越しに見える世界を歩む義勇の足取りは、重く、けれど、揺らぐことはなかった。