春の猫

お題:だって、愛しているから(アンケートにお答えくださった方、ありがとうございました)※義←炭からの義炭 2/22 猫の日

 義勇が傘を片手に竈門ベーカリーにやってきたのは、炭治郎が、看板をしまい込もうとしたときだった。
「あ、義勇さん。いらっしゃいませ」
「……もう閉店か」
「大丈夫です! でも、もうほとんどパンは残ってないんですけど……」
 義勇が平日の夜に来るのは珍しい。呼びかけに「冨岡先生」と言い返さないのも。
 以前はともかく、教師になってからはとにかく時間がないらしく、今の義勇は休日しかやってくることはない。昼ご飯だっていつもコンビニのパンだ。
 思いがけず逢えたうれしさで炭治郎が顔を輝かせたのとは裏腹に、義勇は眉間の皺を深くすると、ゆるく首を振った。なんだか悲愴感すら漂っている。
「いや、いい。どうにかする」
「にー」
「へ?」
 義勇が踵を返そうとしたのと同時に、小さな声がした。か細く頼りなく、庇護欲を掻き立てられるその声は、どう聞いても。
「子猫? え、どこにいるんだろ」
 春とはいえ夜は寒いし、雨まで降っている。心配になって炭治郎がキョロキョロと周囲を見回すと、また小さく鳴き声がした。義勇の腹の辺りから。
「こ、こら、静かにしてなさい」
 自分の腹に向かってあわてて話しかける義勇をよく見れば、ジャージが不自然に膨らんでいる。
「猫、いるんですか?」
「……捨てられていたから」
 観念したように言う義勇の声は、常とは違って子猫のように頼りない。
 義勇は動物が苦手なのを、炭治郎は知っている。小さいころに犬にかまれて以来、動物には近づかないようにしていると以前聞いた。
 今では、そんな話をする機会はない。先生と生徒になったから。
「見たいです! まだ小さいんですか?」
 困り顔の義勇には悪いが、炭治郎にとってはラッキーだ。猫のお陰で学校でなくとも義勇に逢えたばかりか、話もできている。
 浮かれる炭治郎に、義勇は軽くため息をつくと、ジャージのファスナーをおろした。
 のぞき込めば、義勇の腹にしがみついてもぞもぞと動いているのは、真っ黒い毛玉ならぬ、まだ乳離れもしていなさそうな子猫だ。雨に濡れていたせいもあってか、義勇のTシャツまでドロドロになっている。
「うわ、ちっちゃいなぁ。義勇さんのアパートってペット大丈夫でしたっけ?」
「さぁ……だが犬や猫の声はしないから、たぶん駄目だろう」
「え、じゃあどうするんです?」
 だからこそ困ってるんだと言わんばかりに、義勇の眉尻が情けなく下がった。
「うーん、うちも犬や猫は飼えないしなぁ」
「大家を説得する」
 にーにーと鳴く子猫をジャージの上から撫でる手は、なんだか恐る恐るだ。その様子に炭治郎の顔は自然と緩んだ。
 動物は苦手で、こんな時間まで働いて疲れてもいて。ご飯だってきっと食べてない。猫連れではコンビニにも寄れなくて、仕方なく竈門ベーカリーに来たんだろう。猫を助けないとか、また捨てるなんて選択肢は、ちっとも浮かばないままに。
「すまないが、適当にパンを見繕ってきてくれないか」
 言うなり背を向ける義勇に、一瞬キョトンとした炭治郎は、すぐに相好をくずした。
「開けますね」
 義勇の背負ったディバッグから、財布を取り出す。信用されているからこそだと思えば、炭治郎の頬もさらに緩む。
 
 いくつかパンを袋に詰めて戻ると、義勇はぽつんと雨のなか佇んで、そっと腹を撫でていた。正しくは、ジャージのなかにいる子猫を。
「はい、ロールパンはおまけです。朝ご飯にどうぞ」
「ありがとう」
 財布とともにバッグに入れてやりながら言えば、義勇は小さくうなずいた。おまけを渡すのはいつものことだから、義勇もそこは遠慮しない。
 大学時代なら、おかずのお裾分けを渡すこともあったが、今ではそんなこともなくなった。
「あ、子猫のご飯は? パンじゃ駄目でしょ?」
「……そうなのか?」
「この子はまだ乳離れしてないと思います」
 へにゃりと下がった困り眉に、かわいいなんて言葉が飛び出しかけて、口がムズムズとする。好きだなぁと思ったと同時に、炭治郎は決心した。
「ちょっと待っててください!」
 言うなりまた店内に駆け込む炭治郎の背後で、義勇の少しあわてた声が聞こえたが、かまうものか。幸い今日は金曜日だ。こんなチャンスは滅多にない。
 
「お待たせしました! 準備してきたんで子猫の世話は任せてください!」
 大きなバッグ片手に言った炭治郎の笑みに、義勇の顔が困惑を露わにする。だが申し出を断ったところで、自分の手に余る自覚はあるのだろう。はぁっと小さなため息をついて、義勇はこくりとうなずいてくれた。
「悪いな。葵枝さんにも謝らないと」
「大丈夫です。義勇さんさえ迷惑じゃなければ、日曜まで泊っていいって言われましたから」
「……土日も部活の指導で俺は留守にするぞ」
「いいですよ、この子と留守番してます。なー、仲よくしような?」
 傘を並べて歩きながら義勇の腹に向かって話しかければ、にー、と小さな返事があった。お利口だと笑う炭治郎を見つめる義勇の顔に、浮かんだほのかな笑みはやさしかった。


 義勇の住むアパートの大家さえも、あっという間にメロメロにした小さな子猫は、今も義勇の部屋で暮らしている。
 黒猫だから名前はヤマト。やって来た当初は義勇と一緒に通勤して、用務員室で遊んだり眠ったりして大きくなった。今では家でお留守番もできる。
 飼い主である義勇が家にいる時間は短いが、ヤマトはあまり寂しくない。だって毎日のように、ヤマトといっぱい遊んでくれる少年が部屋にやってくる。耳にぶら下がるキラキラにじゃれると、笑ってヤマトを抱き締めてくれる子だ。作ってくれるご飯も義勇のよりおいしい。
 ときどきその子は義勇がいないときに、俺の恋のキューピッドくんと、照れた笑顔でヤマトを呼ぶ。愛おしげにヤマトに頬ずりしながら。
 寒くてお腹が空いて心細かった雨の夜に、ぎこちなく抱きあげてくれた義勇も、義勇が愛おしげに炭治郎と呼ぶその子も、ヤマトは大好きだ。
 炭治郎が泊まる日は、おまえはこっちとキャリーケースに入れられるけれども、それぐらいは我慢してやろう。春の猫のような炭治郎の声を聞きながら、ヤマトはクアッとあくびした。
 ヤマトは猫だけれど知っている。愛するってどういうことか。ふたりを見てたし、ふたりに愛されてきたから。だからひとり寝だって我慢できる。
 だって、ふたりのことを愛しているからね。