プレゼントは一生ものの逸品です

 来る二月八日、義勇の二十九回目の誕生日に向けて、炭治郎はかなり張り切っていた。そりゃあもう、実家の弟妹や祝われる当人の義勇が呆れるぐらいには。

 当日は土曜だけれども、残念ながら義勇は休日出勤が決まっている。義勇の職業が教師である上に、今年度は三年生の担任であることを思えば、致し方ないことではある。なにしろ受験シーズンだ。連続休日出勤は当たり前、帰りはずっと午前様という日が十一月辺りからこっち続いている。
 いや、年間通して忙しくはあるのだ。正直、先生というのは夏休みやら春休みやら、サラリーマンなどに比べればずいぶんと休みが長くていいなと思っていたのだけれど、義勇と恋人になり同棲するに至ってみれば、休みなんて有るようで無いのが実情だと知った。
 そもそも勤務時間が、定時上がりのサラリーマンに比べたらべらぼうに長い。
授業や部活が終われば帰れる生徒と違って、先生はその後にも事務仕事やら明日の授業の準備やらがあるので、学校を出るのは早くても七時半ぐらいにはなると義勇は言う。

 家に帰りつくのはどうしたって八時以降。そこから持ち帰った仕事をして、眠るのは日付が変わるころになる。学校行事前や受験シーズンともなれば、午前様の帰宅もザラだ。
 しかも朝が早い。生徒たちが登校するより前に学校にいなければいけないのは当然としても、七時半には学校に着いていないと諸々間に合わないらしく、大学生になった炭治郎よりもずっと早くに義勇は家を出る。部活の朝練がある日ともなれば、剣道部顧問の義勇は六時前にはもう出勤してしまうので、炭治郎も実家にいたころと変わらず早起きしなければ、朝の挨拶すらできやしない。
 では、休日のはずの土日祝日ならのんびり二人で過ごせるかといえば、そんな甘いもんじゃなかった。

 教材研究だ研修だ部活の指導だで、義勇は休日にも出勤や出張が多いのだ。そもそも家にいてくれたところで、授業のためのレジュメを作っていたり資料を調べていたりと、パソコンの前でずっと仕事しているので、炭治郎をかまってくれる時間はやっぱりほとんどない。
 法令がどうあれ、激務の二文字が消えることがないのが教職というものだと、付き合い始めて早々に炭治郎は思い知ったわけである。
 寂しいことは寂しいが、それでも別れるなんて言葉が頭に浮かぶのですらまっぴらごめんだし、内助の功なんてまるで奥さんみたいだと思えば、家事を一手に引き受けるのさえ幸せだったりもする。

 それに義勇だって、炭治郎をかまってやれる時間が少ないことを気にしているのか、炭治郎の誕生日やクリスマスにはどうにか時間を作ってくれているのだ。夏休みには、一泊二日とはいえ旅行にだって連れて行ってくれた。
 すっかり新婚さん気分の同棲生活一年目。残る初めての特別なイベントは、義勇の誕生日とバレンタインだ。
 恋人になって初めて迎える義勇の誕生日。生徒としてでなく、大好きな近所のお兄ちゃんとしてでもなく、恋人として義勇が生まれたことを祝える大切な日。ここで張り切らなくてどこで張り切ると、気合が入りまくったってしかたないではないか。
 休日出勤なのはしょうがないけれど、なるべく早く帰ってきてくださいね。年越し辺りからそう言い続けた炭治郎に、最初義勇はかなり呆れていたようだったけれども、遅くとも五時には帰れるようにすると約束してくれた。

 最近では炭治郎が誕生日のことを口にするたびに、義勇もちょっとソワソワしているようにも見えた。義勇も楽しみにしてくれているのだと思うと、炭治郎の張り切りメーターだって振り切れるというものだ。

 そうして迎えた二月八日。
 日付が変わった瞬間におめでとうを言って、そのまま甘くて熱い時間に浸るのもいいなぁと思ってはいたけれど、それは炭治郎の誕生日にも経験済みだ。義勇の誕生日はできるかぎりのお祝いフルコースで祝いたくもある。
 そうなると、夜中にハードな運動をするのは、朝以降の計画的に少々無理が生じる可能性がある。だからまぁ、おめでとうを言うのは朝一番までお預けでもしかたがない。
 義勇も今日のために仕事を詰めたのか、日付が変わる前には帰れなかったので、結果的には選択肢は一つしかなかったのだけれども、それはともあれ。

 二人が暮らす2DKのアパートに、ベッドは一つしかない。セミダブルのそれは、炭治郎が転がり込んだ次の日に二人で買いに行った代物だ。それまで義勇が使っていたシングルベッドでは、寝るのも、その後で男二人眠るにも、色々と問題があることを思い知ったので。
 義勇は炭治郎が寝入ってから帰宅した時も、そっと炭治郎の頭の下に自分の左腕を差し込んで、腕枕をしてくれる。初めての夜を過ごした翌朝に、炭治郎が自分の枕はいらないと、義勇の腕を掴んだから。だから今も、二人のベッドに枕は一つしかない。
 ベッドヘッドに置かれたスマホのアラームを止めるのは、いつも義勇だ。そもそも義勇の出勤時間に合わせてあるのだから、それはまぁ当然なのだけれど、二人で暮らすようになってから義勇は起床時間を少し早めたらしい。絶対に義勇さんの朝ご飯は俺が作りますと、炭治郎が宣言したからだ。朝食をとる時間分早起きになったと、義勇は笑っていた。
 それまでは、コンビニのパンやらお握りやらを職員室で食べておしまいだったらしい義勇の朝食光景が、すっかり鳴りを潜めたことで、同僚の宇髄には恋人ができたとすぐにバレたらしい。

 職員室で訊かれたからお前と暮らしてるって言っておいたと、平然と語る義勇に、恩師全員に自分が義勇の恋人であることを知られているという事実を悟り、炭治郎が顔を真っ赤に染めたのは四月に入って幾ばくもないころだった。
 炭治郎のことを隠すつもりは義勇にはないのだと、誰に恥じることなく炭治郎を恋人だと言ってくれるのだと、そのさらりとした一言に思い知った。その時の炭治郎の気恥ずかしさと途方もない喜びを、義勇は気づいているだろうか。

 今日もアラーム音で目が覚めて、腕を伸ばしてアラームを止める義勇をぼんやりと寝ぼけ眼で見つめた炭治郎は、義勇に腕枕されたまま、おはようございますより先にお誕生日おめでとうございますと言って笑った。
二十九歳になった義勇とは、七月の炭治郎の誕生日まではまた十歳差になる。九歳差も十歳差も子供扱いされることに違いはないけれど、ちょっぴり残念な気がするのは、炭治郎が自分で思う以上に年齢差を気にしているからなんだろうか。
 けれど、苦笑めいた微笑みと一緒に額に落とされたキスとありがとうの一言に、一瞬浮かんだ寂寥はすぐさま綺麗さっぱり消え失せた。ついでに、ちょっとだけ喉に感じた違和感も、途端に振り切れた張り切りメーターのお陰ですぐに忘れた。寝起きだし、乾燥する時期だし、少しばかり喉が痛むこともあるだろう。

 そこからはまずはいつも通り。義勇が身支度を整えている間に、炭治郎は手早く簡単な朝食を作る。洋食ならトーストと目玉焼きぐらいだし、和食なら昨夜の残りの味噌汁と冷蔵庫の常備菜をちょっと出すくらい。それだけでも同棲当初の義勇には感動ものだったらしい。
 姉の蔦子と二人暮らしだったころには、毎日用意されているのが当たり前だった朝食も、地方の大学に進学してからはコンビニに頼りきりで、こんなふうに誰かが作った朝食を一緒に食べるのは実家にいたとき以来だ。面映ゆそうに微笑んだ義勇に、炭治郎のときめきと安堵は爆上がりだった。
 義勇が気付いていたかはわからないけれど、それはすなわち、義勇には一緒に朝まで過ごす恋人はいなかったということだ。

 いや、恋人はいたのかもしれない。なにしろ義勇はモテる。けれども、一緒に朝を迎えて朝食を義勇に作るような相手は、炭治郎のほかにはいなかったのだ。嬉しくならないはずがないじゃないか。
 だからどんなに忙しいときでも、炭治郎は朝食を用意する。自分が家にいられないときだって、ご飯も常備菜も準備して、レンチンして食べて下さいねとメモを残す。そのメモに、美味かっただとかありがとうだとか、小さく義勇が一言書くのも、二人にとっていつの間にか当たり前になった。
 今日は特別な日だけれど、朝食まで特別に手間をかけることはない。いつも通りがすでに特別なのだと、もう炭治郎は知っているから。
 いつもと違うことはといえば、炭治郎が念を押すより早く、約束通り早めに帰るからと義勇が口にしたことぐらいなもの。晩御飯は義勇さんの好きな物ばかりにしますねと笑い返したときに、蟀谷に感じたツキンとした小さな痛みを、炭治郎は無視した。
 義勇も今日を楽しみにしてくれていたのだと思えば、そんなたいしたことのない痛みなんて、どうにでも我慢できる。酷くなりそうならあとで薬を飲んでおけばいいやとしか思わなかった。今日はいろいろと準備が忙しいのだ、わずかな頭痛になんてかまっている時間はない。

 今日の予定は、まずは義勇が留守の間に普段の家事を済ませ、夕飯の買い出しに出る。夕飯の献立は、義勇の大好物である鮭大根は当然として、今まで出した献立のなかでも、特に好評だったものを幾つか。
 プレゼントはボールペン。たかがボールペンと侮るなかれ。体育教師とはいえ筆記具は必需品らしいし、装飾品を身に着けることがない義勇には実用品のほうが喜ばれると思い、必死に悩んで決めた逸品なのだ。頻繁に使うものなら、炭治郎が贈ったものを日に何度も手にすることになるというのも、ちょっと心惹かれるポイントだった。
 しかも、ブランド物の高級ボールペンというのは、リフィルを交換すれば一生ものらしい。年をとってもずっと愛用してもらえるという点でも、ピッタリだと思った。
 それに、顔立ちの美しさに目が行きがちだけれども、義勇は手だってとても綺麗なのだ。

 大きく固い掌は男らしいし、少し節くれだった長い指はしなやかで、セクシーだとか男の色気なんて言葉が浮かんでしまう手をしている。爪がいつもきちんと切りそろえられているのも、清潔感があって好きだと思う。缶コーヒーのプルトップを開けたり、パソコンのキーボードを叩いているのを見るたびに、その指先に時々見惚れるのは内緒の話。
 三万三千円という値段は少々きつかったけれども、あの綺麗な手が自分の贈った銀色に輝くペンを握る様を想像すれば、一ヶ月分近くのバイト代が飛んでいくことぐらいなんてことはない。恋人として祝う初めての誕生日だ。ここで奮発せずいつするというのか。
 こっそりとキッチンのシンク上の棚に隠しておいたプレゼントは、幸いまだ見つかってはいないはず。受験シーズンに入って以来、家のことは全面的に炭治郎任せになっているし、元々、食器を洗うかレンジでチンするぐらいしか義勇が台所に立つことはないから、きっと大丈夫だろう。
 プレゼントは食事を終えたタイミングで渡すつもりでいる。義勇の瞳の色に合わせたような青いラッピングには、銀色のリボンをかけてもらった。ラッピングを開けた義勇は、いったいどんな顔をしてくれるだろう。
 それから、誕生日といえばやっぱりケーキは付き物だと炭治郎は思っている。とはいえ、実家のベーカリーの手伝いでパンを焼くのは慣れている炭治郎だけれども、ケーキは一度も焼いたことがなかった。味を重視するなら店で買うのが順当だろう。どんなに料理上手を誇ろうと、プロのパティシェに敵うわけもない。
 けれど、初めてである今年ぐらいは、義勇の好みに合ったケーキを自分で作りたかった。

 そこでこの一週間、炭治郎は実家でケーキ作りの猛特訓をしてきた。
スイーツ類を特に好んで食べることがない義勇が、貰いものを二人で食べたときに珍しく食べたりなさそうな顔をしたから、ケーキはスフレチーズケーキに決めた。
 フワフワで口のなかでシュワッと溶ける、コクがあって柔らかな甘さのスフレチーズケーキ。大人の味を印象付けるラムレーズンは、ちょっぴり多めに。
 ケーキ作りは普段の料理とは勝手が違って、最初はしぼんでしまったりひび割れてしまったりしたけれど、この一週間の特訓でそれなりに満足のいく焼き上がりになるようになったと思う。
 学校帰りに毎日家に寄ってはケーキを焼いて帰る炭治郎に、最初は大喜びしていた禰豆子や竹雄たちも、さすがにげんなりしていたようで、昨日炭治郎が帰るときには「やっとしょっぱいおやつが食べられる!」と揃って万歳していたものだ。
 たしかに毎日同じケーキばかり味見させられていたら、勘弁してくれと言いたくもなるだろう。しかも最初の三日ほどは失敗作ばかりだ。実験台にさせてしまって、ちょっとばかり申し訳なく思わないでもない。
 それでも皆、きっと義勇も喜んでくれると太鼓判を押してくれたし、頑張ってねと笑ってくれた。茂が咳をしていたのだけが少し心配だったけれど、すでに専門学校の推薦入試に合格して時間のある禰豆子がついているから、不安がるほどのことはないだろうと思った。

 天気予報では今日は一日中快晴、されど気温は低いので防寒対策を忘れずに。寒がりな義勇はしっかりと着込んでいったから心配はないはず。
 青い冬空は義勇の目のように澄んでいて、空も義勇の誕生日を祝ってくれているようだと、洗濯物を干す炭治郎の機嫌も上々だった。
 不安になってきたのは、家事を済ませ簡単に昼食を食べたあと、買い物に出てしばらく経ってからだ。
 買い物リストのメモを片手に商店街を歩けば、炭治郎ちゃん、炭治郎くんと、声をかけられまくるのはもはや日常茶飯事。義勇と暮らし始めてから約一年。すっかり炭治郎は商店街のアイドルだ。
 今日は義勇さんの誕生日なんですと笑って言えば、そりゃめでたい、あれも持ってけこれも持ってけと、買い物よりも多くの野菜やら肉やらを渡されて。持参したエコバックに入りきらないほどの荷物を抱えて立ち話を繰り返しているうちに、背筋に寒気を感じ始めてようやく、ちょっとの間だからとマフラーをしてこなかったことを後悔した。
 義勇がクリスマスプレゼントにくれたカシミヤの手袋だけは、しっかりとはめていたけれど、ダッフルコートの下はカットソー一枚だ。寒がりな義勇さんと違って俺は寒さには強いしだとか、身体が丈夫なのが取り柄だしなんて、余裕綽々でいた朝までの自分をぶん殴りたい。
 家に帰って荷物をしまい終えたころには、ズキズキと頭は痛むし目の奥がなんだか熱くなっていた。帰り道に出始めた咳は止まらなくなったし、くしゃみと鼻水のせいでゴミ箱はすでにティッシュでいっぱいだ。節々もなんとなく痛みはじめ、気づいたときには風邪の諸症状をきっちり網羅していた。
 本当なら薬を飲んで横になっていたほうがいいと、炭治郎だってわかっているけれど、それでも今日は恋人になって初めての義勇の誕生日だ。ちゃんとお祝いがしたい。

 だって、好きだったのだ。ずっと。恋なんて言葉も知らなかった小さなころから、ずぅっと、義勇のことが好きだった。恋してた。

 去年の三月まで、義勇と炭治郎の関係を表す言葉を、炭治郎は見つけられずにいた。幼馴染といえばそうかもしれないけれど、十歳の年齢差を思えばなんとなく違和感がある。友達だなんて烏滸がましい。かといってパン屋の看板息子と常連さんだけでは寂しすぎる。
 大学を卒業した義勇がキメツ学園に赴任して、炭治郎が高等部に上がってからは、先生と生徒という誰の目にも収まりの良い関係に落ち着いたけれど、本当はそれだけじゃ哀しかった。
 学校ではピアスのせいで叱られてばかりだったけれど、それでも義勇はいつだって炭治郎に優しかった。けれどもそれだって教え子に対する教師としてだっただろうし、それ以前にしたところで十歳も年下の炭治郎では、義勇にしてみれば懐いてくる子犬を可愛がるのと大差はなかっただろう。精々いいところ弟扱いだ。
 だから一度も言えなかった。義勇へ向かう想いが恋だと気づいてからも、ずっと、好きだなんて口にはできなかった。

 自分が義勇の恋愛対象になれるわけがないと、自覚した瞬間から諦めていた恋だ。それでも、一度だけでいいから、好きだと言わせてほしくて。ピアスを外せと追いかけられるたびに、どれだけ自分がドキドキしていたのか知ってほしくて。……まぁ、怖いことに変わりはなかったのだけれども、速まる鼓動はちゃんとときめきの音をしていたはずだ。

 たった一度だけと決めて、声を震わせ告白したのは、高校を卒業したその日。

 先生と生徒という無難でわかりやすい関係を終えるその日に、ずっと好きでしたと、泣き笑いながら告白した炭治郎に、返された義勇の答えは「過去形なのか?」だった。
 そんなわけないじゃないですか。今この瞬間も好きです。これからだって、きっと、ずっと、好きですと、叫ぶように言った声は、義勇の胸元に吸い込まれて途切れた。
 抱き締められて、耳元で「俺も好きだった……これからもずっと、好きだ」なんて囁かれても、すぐには信じられなかった。
 嘘だ、嘘じゃないと、何度繰り返しただろう。業を煮やした義勇に唇を塞がれるまで、どうしても信じきれずに駄々をこねる子供みたいに泣きじゃくっていたから、初めてのキスは涙の味がした。

 義勇と炭治郎の関係を、恋人の二文字で表すことになったのは、その日から。それからずっと二人で過ごしてきた。義勇が住むアパートに炭治郎が転がり込む形で始まった同棲生活も、もうすぐ一年。
 それからずっと、初めてを重ねてきた。初めて熱を分け合って過ごした夜、初めて義勇の腕のなかで迎えた朝。初めて一緒に旅行にも行ったし、炭治郎の誕生日だって初めて二人きりで祝ってもらった。クリスマスだって年越しだって、二人で過ごした。
 そして、今日は初めて二人きりで祝う義勇の誕生日だ。
義勇に嫌われて捨てられないかぎりは、これからも誕生日を祝うことはできるだろうけれど、初めては今日この日だけなのだ。

「……頑張れ炭治郎、頑張れ! 俺は長男だからこんな風邪ぐらい耐えられるっ!」
 どうにか自分を奮い立たせて、とにかくまずはケーキを作っておかなければと、調理器具を用意する。
 幸い、義勇の家にはオーブンレンジがある。炭治郎が一緒に住むまで一度もオーブン機能なんて使われたことがなかったそうなので、まったく料理などしない義勇が持っていたところで宝の持ち腐れでしかない代物だ。
 なんでも最初はただの電子レンジを買おうとしたのだけれど、売り場でどれを選べばいいのかさっぱりわからず店員に声をかけたら、いつの間にやらオーブンレンジを購入してしまっていたという。はっきり言って、マイペースな癖に押しに弱い。
 そういえば、初めての喧嘩の原因もそれだった気がすると、実家から持ち帰った型にオーブンペーパーを貼り付けながら、炭治郎は頭痛のせいばかりではない皺を眉間に刻んだ。
 マイペースだから強制的でない飲み会などは平気で断る癖に、押しに弱いものだから、研修先での断れない飲み会では、酔いつぶれた他校の女性教師を送る羽目になったりもする。
 耐熱容器に入れたレーズンにラム酒を振りかけながら、炭治郎はそのときの自己嫌悪を思い出して溜息をついた。
 もちろん、義勇が浮気なんてするわけはないし、実際なんにもなかったと炭治郎だって知っている。けれども腹が立つのはしかたがないじゃないか。酔ったふりをして義勇を誘惑しようとした教師に腹が立つし、嫉妬深くて余裕がない自分にも腹が立った。

 あのとき、アルコールの匂いをさせて帰ってきた義勇の顔は、不機嫌そのものだった。出迎えた炭治郎を抱き締めて離さないものだから酔っているのかと思いきや、初めて逢った女に抱き着かれて気分が悪いから口直しだなんて平然と言う義勇に、一瞬頭が真っ白になった。
 やましいことがないからこそ義勇は口にしたのだろうし、どういう経過でそんな羽目に陥ったのかもちゃんと話してくれたけれど、沸々と湧き上がってくる苛立ちは止めようがなかった。
 レンジにかけたクリームチーズをヘラで混ぜる手に、知らず力が入る。蟀谷がズキズキするのを堪えながら、炭治郎はなかば無理矢理にクリームチーズを練った。
 義勇に女性教師を押し付けた周りの人たちは、きっと義勇とその女教師をお似合いだと思ったのだろう。実際、後日義勇宛てに郵送されてきた集合写真に写っていたその人は、たしかに美人で年齢的にも義勇と釣り合いそうな見た目をしていた。ついでに、巨乳。炭治郎ではどうしたって与えてやれない柔らかさを、義勇は目一杯押し付けられてきたというわけだ。
 災難でしたねと笑って、よしよしと頭の一つも撫でてやる余裕を見せたかったけれど、そんなもの逆さに振っても出やしなくて。義勇に負けず劣らず不機嫌な声で役得だって思ったんじゃないんですかなんて、自分でも可愛くないことを言ったと、口にしたそばから後悔した。
 そんなわけないだろうと言う義勇の声が不機嫌さを増したのも、当然だろうと炭治郎だって思う。今ならば思える。なにもないからこそ正直に話したというのに、疑われればそりゃあ腹も立つだろう。けれどもそのときの炭治郎には、義勇の気持ちを慮る余裕なんてなかった。
 炭治郎と付き合っている今は、そんなことをされても振り払って帰ってくるんだろうけれど、それ以前はどうだったのか。据え膳食わぬは男の恥とばかりに、一晩かぎりの関係を楽しむことだってあったんじゃないのか。もしかしたら、そのままお付き合いなんてしたかもしれない。そんな埒もないことがぐるぐると頭を巡って、イライラした。

 過去に嫉妬したってどうしようもないことぐらい、わかっている。理解していると、思っていた。

 なめらかになったクリームチーズに卵黄を入れて混ぜながら、炭治郎は連想ゲームのように思い出した小さいころの記憶に、思わず唇を噛んだ。
 義勇の隣を歩く女の子を初めて見たのは、いつだっただろう。義勇はたしか高校生だった。中学の学ラン姿を見慣れていた炭治郎の目には、ブレザー姿がやけに大人っぽく見えたのを覚えている。
 学校帰りの義勇の姿を見かけて、いつものように大喜びで駆け寄ろうとした炭治郎の足は、義勇の隣を歩く女の子が義勇の腕に触れたのを見た瞬間に止まった。
 炭治郎がせがむと抱っこしてくれる義勇の腕。ぎこちなく頭を撫でてくれる義勇の手。いつも無表情だけれど、炭治郎を見るときには少し優しくなる目も、薄く笑う唇も、全部、全部、炭治郎だけのものじゃない。炭治郎のものじゃなかった。それがとても哀しくて。義勇さんに触らないでと、叫んでしまいたかった。
 実際は言葉になる前にうわーんと泣きだしてしまったから、炭治郎に気づいた義勇が女の子を置いて駆け寄ってくれて、そんな言葉は口にせずに済んだけれど。
 理由を言わないまま泣き続ける炭治郎を抱き上げて、義勇は、ずっと炭治郎の背を優しく撫でてくれた。女の子が心配顔で「僕、大丈夫?」と覗き込んでくるのを嫌がって、義勇の胸に顔を埋めた炭治郎に、義勇が「こいつを家に送るから」と女の子よりも炭治郎と一緒にいることを選んでくれたとき、ざまぁみろだなんて酷い言葉が浮かんだ自分が、炭治郎は大嫌いだ。
 嫉妬なんて言葉を知らないまま、自分の想いが恋だとすら気付かないまま、それでも独占欲だけはむき出しにした自分を、義勇はどう思ったのだろう。義勇があの日のことを覚えているかはわからないけれど、思い返すたび炭治郎は、苛立ちと居たたまれなさに苛まれる。
 突然泣き出した顔見知りの幼子に、慌てたのは間違いないだろう。迷惑そうな顔なんて義勇はしなかったし、本当に心配そうに気遣ってくれたけれど、本心では面倒なことになったと思ったんじゃないだろうか。
 義勇の本音はどうあれ、炭治郎を送ってくれた義勇にお母さんが「炭治郎が迷惑をかけてごめんね」と謝ったのを聞いて、炭治郎はとても怖くなった。義勇に嫌われ厭われることが、炭治郎はなによりも怖い。
 だから幼心にしっかりと刻みつけた。義勇に迷惑をかけちゃいけない。義勇に嫌われたくなければ、やきもちなんて妬いちゃ駄目だと。
 きっとあの女の子は義勇の彼女だったはずだ。それからも何度か、義勇と一緒にいるのを見たことがある。
 大泣きしたのは最初の一度だけで、幼い決意そのままに、それからは二人の姿を見ても声をかけるのは我慢した。義勇の家に向かう二人が、その後どうしていたのかなんて、考えたくはない。
 その女の子の姿を見ることはいつのまにかなくなったし、もう顔も思い出せない。だからといって、義勇にその後ずっと恋人がいなかったなんてことはないだろう。
 義勇は高校を卒業すると同時に地方の大学に進学して、めったに逢えなくなってしまったし、夏休みや正月に顔を合わせるたび、どんどんと大人っぽく格好良くなっていった。中学生までは中性的な愛らしさだった顔立ちは、高校生の時分にはずいぶんと男らしくなっていて、大学生にもなれば綺麗なまま精悍さを増していく。体格も続けていた剣道のお陰か逞しくなり、すらりとした姿勢の良い立ち姿には、いつだって見惚れてしまった。
 口下手で不愛想、コミュニケーション能力がちょっと低いのが玉に瑕だけれど、優しくて思い遣り深い義勇。女の子がこんな人を放っておくわけがない。想像もつかない見知らぬ土地で、義勇の傍にいる顔も知らない誰かを想像するたび、炭治郎はどうしても涙を止められなくなった。
 長男でお兄ちゃんだから、禰豆子たちのためならどんな我慢だって平気なのに、義勇のことになると我慢が効かない。すぐに泣きたくなるし、義勇の傍にいる誰かに腹が立つし、酷いことだって思ってしまう。
 ただでさえかなり年が離れているうえに、炭治郎は義勇と同じ男の子で、それだけでもどうしようもないハンデだというのに、こんな我儘で悪い子を義勇が好きになってくれるわけがない。
 だから炭治郎は、嫉妬する自分が大嫌いだ。義勇が悪いわけじゃないのに、義勇さんがモテすぎるのが悪いだなんて苛立ちを覚えてしまうのが、なにより嫌でたまらない。
 嫉妬して義勇に迷惑をかけたら嫌われてしまうかもしれないのに、嫉妬するのも我儘になるのも、義勇が好きだからで……いつまで経っても自分の心がままならない。
 イライラしながらボウルに振り入れた薄力粉が、テーブルに散った。立って作業するのがそろそろつらい。ゾクゾクとした寒気はどんどん酷くなるし、そのくせ目が熱くて熱くて、勝手に視界が涙でぼやける。
 倒れるよりはいいかと、座って作業するためにダイニングセットの椅子を引いたら、ギィィッと嫌な音がした。
 しまった床に傷をつけたと、億劫がる体を叱咤してしゃがみ込んで確認すると、フローリングの木目に引っかき傷ができていた。それを目にした途端に涙が溢れた理由は、要はまぁ風邪のせいだろう。いつもだったら、あ~やっちゃったで済む話だ。帰宅した義勇にごめんなさいと言えばそれで終わる。
 けれど今は、自分のやること為すことすべてが裏目に出る気がしてしまう。嫌われる。迷惑がられる。そんな不安ばかり湧きあがって、涙が止められない。
 それでも、お祝いだけはちゃんとするのだ。だって義勇は楽しみにしてくれてる。二人きりで祝う誕生日を。
 義勇はちゃんと炭治郎の誕生日を祝ってくれた。そういうことは苦手だろうに、男二人でも行きやすく、でもちゃんとデートのムードを壊さないような店を探して、下調べをして予約して。プレゼントだってくれた。

 高校から使っている炭治郎のリュックサックが、傷んできてるのにちゃんと気づいていて、ちょっとした雨なら自転車に乗ってしまう炭治郎のこともちゃんと見ていて。防水加工のしっかりとした、軽くて使いやすいリュックサックを義勇は贈ってくれた。恋人っぽい贈り物じゃないかもしれないけれど、それは義勇がきちんと炭治郎を見ていてくれたからこそのチョイスだ。嬉しかったに決まっている。
 日付が変わると同時におめでとうと言ってくれて、いつもより甘く優しいキスをくれた。真綿で包むような丁寧で優しい愛撫に、トロトロに溶かされるのさえ嬉しかった。
 なのに自分はどうだ。この為体。なんて不甲斐ない。せめてケーキと料理はちゃんと作ろう。一緒に食べることは無理かもしれないけど、せがめば義勇は怒りながらも炭治郎を毛布でぐるぐる巻きにして、義勇がご飯を食べるあいだ傍にいることを許してくれるはず。多分。確証はないけれど。まず叱られるだろうということ以外、炭治郎の希望的観測でしかないけれども。

 泣きながら炭治郎は立ち上がった。生地の入ったボウルに牛乳とレモン汁を少々入れたときに、うっかり涙も少し落ちてしまったけれど、それぐらいは許してもらいたい。
 冷凍しておいた卵白は半分くらい溶けている。これぐらいだったらもう大丈夫。乾燥卵白を混ぜておいたグラニュー糖を入れて、そこで初めてハンドミキサーを出してないことに気が付いた。
「……棚のなか」
 呟いてよろよろとシンク上の棚を探ったら、青い包みが落ちてきた。あっ! と声を上げる間すらなく、銀色のリボンをかけた箱は床に落ちて、受け止めようと咄嗟に踏み出していた足の下敷きになった。
 慌てて足をどけても、もう遅い。箱は無情にも潰れて、綺麗に整えられていた銀色のリボンもよれてしまっている。
「……もう、やだ……っ」
 なんでこうなっちゃうんだろう。なにが悪かった? 茂が咳をしていたのに、マスクをせずにケーキを作っていたから? 寒いのに薄着で外に出た上にマフラーすらしなかったから? 痛いと思ったときにすぐ薬を飲まなかったから? それとも、それとも……原因を思い浮かべても、今となっては手遅れだ。
 感情の起伏が抑えられない。ただもう哀しくて、やりきれなくて。嫌われないかと不安で、怖くて。頭はガンガンと痛むし、吐く息すら熱くて苦しい。
 受験生に移したら一大事と、この時期の義勇が体調管理に気を遣っているのを知っているのに、こんな状態の自分が作ったケーキや料理なんて、そもそも義勇に食べさせたらいけないんじゃないのか? 思うけれど、どうしても作りたいのだ。自分ができる精一杯のことをして、義勇に生まれてきてくれてありがとうと告げたい。
 本音を言えば、誕生日に限らず今の義勇を動かし生かす食べ物は、一切合切自分の手で作れたらいいと思う。義勇を形作る細胞の一つひとつまで、自分の手によるもので作られてしまえばいいのにとすら、本当は思っている。
 義勇の骨に名を刻めるものなら、一本残らず炭治郎と、自分の名を刻むのに。義勇の髪の毛の一本一本にだって、すべての細胞にだって、炭治郎のものだと刻印できたらどんなにいいだろう。義勇の細胞が全部入れ替わるまで、義勇が口にするものすべてを作ることができたら、もしかしたら義勇のなにもかもは自分が作ったことになるんじゃないかなんて、馬鹿なことを考えるのだ。わりと本気で。
 だって炭治郎の骨の一本一本、細胞の一つひとつには、きっと見えない文字がもう刻まれていると思うのだ。義勇という二文字が、炭治郎を形作るすべてに刻み込まれている。そう思っただけで、背筋が震えるほどの歓喜に包まれる。
 そんな自分でも空恐ろしくなる独占欲と執着を、義勇に知られたらと思うと怖くて怖くてどうしようもないから、弁当を作るのは今のところ我慢しているし、細胞の一つ残らずまで俺のものになってなんて戯言は、決して口にはしないけれど。

 グズグズと泣きながら、どうにかマスクだけはつけてメレンゲを作る。ハンドミキサー任せだから少し気楽だけれども、涙はまた少し落ちてしまった。涙が隠し味だなんて、まるで呪いのアイテムみたいだ。吐いた溜息は酷く熱かった。

 角がお辞儀するぐらいの固さになったら、あとは生地と混ぜて焼くだけ。メレンゲを三回に分けて入れながら混ぜ合わせたら、レーズンを底に入れた型に生地を流し込む。何度も練習したから手順はちゃんと覚えている。
 焼くときは湯せん焼き。型ごと深めの容器に入れて湯を張ったら、オーブンに入れて焼いて出来上がり。
 時計を見れば時間はもう三時半。義勇は五時までには帰ると約束してくれたから、そろそろ夕飯の調理も始めなければ。
 八百屋さんで一番いい大根を選んでもらったし、鮭の切り身も魚屋さんの太鼓判付き。商店街の皆さんからの心尽くしでいっぱいの食卓にするのだ。義勇が美味しいと言ってくれたものばかりで、テーブルを埋める。ご馳走ではないかもしれないけれど、まとまりのないメニューかもしれないけれども、大好きばかりが溢れた食卓にしたいから。
 でも、体は限界で、横にならせてくれと悲鳴を上げている。だからほんの少しだけ。崩れ落ちるようにどかりと椅子に腰を下ろした炭治郎は、時計を見ながら荒い息を吐いた。
 薬を飲んで三十分だけ横になろう。ちょっと横になれば、具合も少しは良くなるかもしれない。アラームをセットして、三十分だけ眠って。ケーキと違って作り慣れたものばかりだから、一時間もあれば、どうにか義勇が帰るまでには支度を済ませられるはず。考えていた献立よりは、いくらか品数は減るけれど、それぐらいは許してもらおう。
 義勇さんが帰る前にお風呂も用意して、それから……それから……。
 熱を上げた体は、もう目を開けていることすらつらくて、炭治郎は、薬を飲まなきゃと思いながら目を閉じた。意識はすぐに落ちていった。

「……ろう、起きられるか? 炭治郎」
 肩を揺すぶられてぼんやりと目を開ければ、目の前に義勇の心配そうな顔があった。
「ぎゆ、さ……っ」
 掠れる声で答えた途端に咳き込んで、苦しさに身を丸める。大丈夫かと背をさすってくれる掌の感触が遠い。
「起き上がれそうか? お粥作ったから、食べられるようなら食え。薬を飲まないといけないだろう?」
 気遣う声に、ハッと目を見開いた炭治郎はようやく自分がベッドにいることに気づいた。なんで? 自分は台所でケーキを焼いていて、それから……椅子に座って……。
「ケーキ! ご、ご飯も……っ」
「無理するな。つらいだろう?」
 起き上がって声を出した途端にまた咳の発作に襲われて、涙がポロポロと零れた。
「ぎゆ、さ……俺っ、ごめん、なさ……っ」
 大切な、初めての、特別な日。恋人になって初めて迎える、義勇の誕生日。
 なのに、なんで自分は一人でベッドにいるんだろう。義勇は休日だというのに寒いなか朝から働いて、炭治郎に祝われることを楽しみにしながら帰ってきてくれたんだろうに。
 お粥を作ったと言っていた。料理なんてまったくしない人なのに。疲れて帰ってきて、誕生日だっていうのに料理させられて。あぁ、調理器具だって片付けてなかった。固まった生地は落としにくいのに、義勇が洗ってくれたんだろうか。ハンドミキサーなんて義勇は使ったことないだろうから、洗い方なんて知らないだろう。きっと困っただろうな。
 意識は椅子に座ったところまでで途切れている。ベッドまで義勇が運んでくれたに違いない。椅子に座り込んだまま意識を失っていた炭治郎を見て、義勇は心配しただろうか。不安だったろうか。

 それとも、迷惑だと、腹を立てただろうか。

「ケーキ、作ったんです。ご、ご飯も、義勇さんが好きな物、いっぱい、作ろうと思って……洗濯物っ。洗濯、したのに……ちゃんと、シーツ、も、洗ったのに、俺、取り込んでない」
 泣きながら慌ててベッドから降りようとしたのは、当然義勇に止められた。少し怖い顔で。
 お祝いするどころか、普段の家事だって満足にできてない。こんなんじゃ駄目だ。こんなことじゃ迷惑がられる。義勇に嫌われる。
「迷惑かけて、ごめ…なさいっ、きらっ、嫌わ、ないで……っ」
 エグエグと泣きながらようよう言えば、義勇の眉間にはますます深い皺が刻まれて、炭治郎の肝が冷える。深い溜息なんてつかれたら、もう、このまま死んでしまいたい。
 けれど次いで義勇の口から零れたのは、優しい声だった。
「馬鹿」
 つんと額を突かれて、ふっと吐息だけで笑った義勇の顔に、ぼんやりと見惚れた。馬鹿って言葉が、こんなに優しく温かく聞こえることがあるなんて、炭治郎は初めて知った。
「なんでお前を嫌わなきゃいけないんだ。むしろ嫌われるなら俺のほうだろう? 体調を崩していたのに気づいてやれなくて悪かった」
 首を振る炭治郎の肩にダウンジャケットを羽織らせながら、義勇は、どこか痛みを堪えているような顔をしていた。
「ほら、もう泣くな。洗濯物なら俺が取り込むから。それぐらいは俺にだってできる。ケーキはレンジのなかか? 冷蔵庫に入れておけば大丈夫か? お前が食べられそうになったら、一緒に食べよう。その前に粥を食って薬だ。食えるか?」
 あやすように背を撫でてくれる手が優しい。涙を吸い取ってくれる唇が温かい。義勇の誕生日なのに、炭治郎ばかりが優しさを貰っている。不甲斐なくて、でも嬉しくて、炭治郎はこくりと頷いた。
 ベッドサイドテーブルに置かれたトレイには、まだ辛うじて湯気を立てている粥が入ったお椀と、水の入ったグラス。それと、なぜだかマグカップもあった。鼻が詰まっていて匂いがわからないけれど、これは。

「もしかして、ココア……ですか?」
「気持ち悪かったら無理して飲まなくていいぞ」
 ふるふると小さく首を振って、炭治郎は義勇を見上げた。
「俺……寝ながら泣いてました?」
「あぁ、少しだけ」
 やっぱり、と、炭治郎は少し笑った。

 義勇はいつでも炭治郎が泣くとココアを入れてくれる。昔、ココアを飲んだ炭治郎が泣き止んだからだろうか、いつまで経っても、泣く炭治郎にはココアという刷り込みが消えないようだ。
 初めては、独占欲に義勇の前で大泣きしたあの日。自動販売機で買ってくれた缶入りココアの甘さを、今も覚えている。
 同棲を始めて最初の喧嘩のときもそうだった。酷いことを言ってしまって、罪悪感と後悔で泣き出しそうになった炭治郎に、義勇は溜息をつきながらも、ちょっと待ってろと言ってココアを入れてくれた。甘い香りと味に、思わず頬が緩んだら仲直りも早かった。
 義勇はコーヒーはインスタントでかまわないくせに、ココアだけは本格的に入れる。いったい何人が義勇が丁寧に入れたココアを飲んできたのか、考えると哀しくなるからやめておく。ココアを飲みながら泣いたなら、義勇は今度こそどうしたらいいのかわからずに、困り切ってしまうだろうから。
 フフッとつい笑みが零れたら、義勇からホッとしたような気配がした。
「やっと泣き止んでくれたか」
「……ごめんなさい」
「もう謝るな。お前が悪いわけじゃない」
 言いながら義勇は、粥を掬ったレンゲを差し出してくる。甲斐甲斐しさにちょっと戸惑いながら、炭治郎は口を開けた。
 ほろほろ口のなかでほどける米粒。鼻が利かないから味はよくわからないけれど、きっと美味しいのだろう。たかがお粥とはいえ、義勇に料理ができるなんて知らなかった。でも、ココアだってあんなに上手に入れるんだから、もしかしたら炭治郎の前で作ったことがないだけで、それなりに料理もできるのかもしれない。義勇はやっぱり完璧だ。不安になるぐらいに。
 それでも、ただでさえ心配をかけたというのに、自己嫌悪や焦燥など悟られるわけにはいかない。
「美味しいです……」
 素直に言ったら、義勇はなんとも言えない表情で視線をそらせた。褒めたのに。照れたんだろうか。小首をかしげると、またレンゲが差し出された。お粥の味についてあまり会話をしたくないのかもしれない。炭治郎は今、鼻が利かないからわからないが、もしかしたら味見した時点で納得のいくものじゃなかったのかも。

 そんなのどうでもいいのにな。義勇さんが作ってくれたなら、どんなに塩辛くても、塩と砂糖を間違えていても、きっと俺は大喜びで全部平らげてみせるのに。むしろ、嬉しい。失敗を喜ぶような言葉、決して言えやしないけれど。

 ゆっくりと雛鳥のようにお粥を食べさせてもらうこと暫し、ようやく空になったお椀に、義勇はまた少し溜息をついた。今度の溜息は安堵の溜息だと、炭治郎にもよくわかる。義勇は優しく微笑んでくれたから。
「薬を飲んだら寝ろ。きっとただの風邪だろうが、明日になっても具合が良くならないようなら病院に行こう」
 お粥にココアという取り合わせは、平生ならば変なのかもしれないけれど、弱った今の炭治郎には幸せの味だ。ベッドに腰かけて、ココアをすする炭治郎の頭を撫でながら言う義勇の声が、きっとココアの隠し味になっている。ココアの味は感じ取れないけれど、義勇の声の優しさが補って、ただただ甘い。

 素直に薬を飲んだ炭治郎に頷いて、義勇が部屋を出て行こうとする。その腕を、炭治郎は思わず掴んで、引き留めていた。
「義勇さんも、ここで寝るんですよね……?」
 義勇は今風邪なんて引くわけにはいかない。それは十分炭治郎だって理解している。でも、嫌だと思った。離れているのは嫌だ。義勇の誕生日なのに、二人じゃなくて別々なんて、嫌だ。
 けれど。
「……ごめんなさい。気にしないでください。ソファで寝るなら、毛布の予備がクローゼットに」
「炭治郎」
 義勇を見ないで口早につづった炭治郎の言葉を、義勇の少し強い声音が止めた。
 頬を両手で包まれて、恐る恐る顔を上げたら、義勇の青い瞳がじっと炭治郎を見つめていた。
「我儘でいい。お前がしてほしいことを言え」
「……む、り……だって、そんなの、嫌われる」
 迷惑がられる。義勇に厭われる。そんなの嫌だ。
 俺は長男だから、我儘なんて言わない。どんなにつらくたって我慢だってしてみせる。
 それに、今日は炭治郎の誕生日ではなく、義勇の誕生日なのだ。我儘を言っていいのも、プレゼントを貰うのも、義勇であるべきだ。

 だから。だからどうか、嫌わないで。

 縋りつく炭治郎の目が涙で潤むのを、義勇はじっと見つめている。見透かすように。
 まるで狩りをする獣みたいな目だと、炭治郎は背を震わせた。自分が小さな兎にでもなってしまったような気さえする。逃げ場を失って追い詰められた獲物だ。
 義勇を失うことは怖くても、義勇自身を恐ろしいと思ったことなんて一度もなかったのに、なんだか少し、この目は恐ろしい。竹刀を持って追いかけてくる冨岡先生の怖さなんて、この目と比べたら揺り籠のように優しく感じられる。
「俺がお前を嫌うことなんて有り得ないが、もし、お前がもっと俺に好かれたいと思うのなら、俺にもっとお前を見せろ」

 俺は今日誕生日で、お前の恋人だ。それなら、お前から受け取る権利があると思うが?

 ニィッと笑ってみせた義勇の顔は、初めて見るどこか意地の悪い顔。獲物を見つめる肉食獣が笑ったのなら、こんな顔をする気がした。それとも、聖職者をそそのかす悪魔だろうか。
 悪魔はみんな美しいのだとどこかで聞いたことがある。美しくなければ誘惑なんてされないかららしい。
 ならば義勇はきっと、炭治郎を誘惑し耽溺させる悪魔だ。優しくて恐ろしい、炭治郎を恋の渦に引きずり込む悪魔。きっともう逃れられないし、逃れたいとも思わない。
 頭の芯がくらくらするのは、発熱のせいなんかじゃない。義勇の誘惑が、甘い蜜のように頭を痺れさせるからだ。
「お前が我慢強いのも、我儘を言わないのも、偉いと思っている。尊敬すらしてる。だがそれは、誰にでも見せる顔だろう? ほかの誰にも見せないお前の顔を、俺には見せろ」

 そうしたら、もっと愛してやるから。

 誘惑の声が、耳の奥に注ぎ込まれて、侵されていく。頭も、体も、心も。
 唇がわなないた。義勇の腕に縋りついていなければ、体が崩れ落ちていきそうだ。
「……一緒に、いて、ください」
「うん」
「一人に、しないで」
「うん」
「本当は、いっぱい料理作って、ケーキも食べる予定だったんです」
「お前が元気になったら、一緒に食べよう」
「プレゼントも、買いました。なのに、箱、踏みつぶしちゃって……」
「青い包みか? 中身が壊れてなければ問題ないだろう」
「完璧に、お祝いしたかったんです……っ。だって、恋人になって初めての義勇さんの誕生日だから!」
「嬉しいよ」
「ほ、本当は、いつか義勇さんに捨てられるんじゃないかって、ずっと、思ってて」
「……あぁ」
「だから、あの、だから、特別な日の想い出を、全部作っておきたくてっ。嫌われて、す、捨てられても、俺の誕生日や、義勇さんの誕生日に、ちゃんと全部、想い出せるように、したくてっ」
「捨てないし、嫌わないし、想い出だけになんてさせるつもりはない。いらん努力はやめて、どうせするなら、俺に死ぬほど愛されても逃げない努力をしろ」

「……全部、義勇さんの全部、俺に、ください。ほかの人には、ひとかけらだってあげないでっ。全部、俺の物になって」

 やっと言えたな偉いぞと、先生然と言った言葉とは裏腹に、義勇の微笑みは悪魔のそれで。途轍もなく優しくて、途方もなく綺麗だった。