学び舎アルバム 甘えん坊大王降臨の日

 その朝、キメツ学園に激震が走った。
 事の起こりは登校時の校門。仁王立ちした体育教師が、ひとつ咳をした。ただそれだけである。
 冨岡先生だって人間だもの。しかも季節は二月初旬。春は名のみの真冬の寒さ。咳のひとつぐらいは出るだろう。なんて、思うようではキメ学生なんてやってられない。
 だって、あの冨岡先生だ。寒がりだという噂は――出所が炭治郎な時点で、事実なのは明白である――つとに聞くところだが、それでも風邪で休むなんては無に等しい。
 そんな冨岡先生が咳をした。炭治郎が登校してきた、まさにその瞬間にである。
「冨岡先生っ、風邪ですか!?」
 
 いや、咳ぐらいで世界の終わりみたいな顔で叫ばんでも。
 
 一瞬前まで笑顔だった炭治郎は、おまえのほうが大丈夫かと聞きたいほど青ざめて、人目もはばからず冨岡先生に縋りついている。
 それを目の当たりにしてしまった運の悪い生徒たちに、緊張が走ったのは言うまでもない。
 冨岡先生と炭治郎は恋人同士だ。みんな知ってる。
 当人たちは秘密にしているつもりらしいが、どこからどう見てもラブラブだ。無自覚のまま、はた迷惑にイチャつきまくっている。
 
 トミセンと炭治郎は「秘密」って言葉を一度辞書で引け!
 
 ナチュラルボーンバカップルのイチャつきに遭遇した生徒は、いつも胸中でそう叫んでいる。
 そこでこの光景である。冨岡先生が咳をしたのを炭治郎が目撃した。言葉にすればただそれだけだが、日頃からバカップルの被害に遭っている生徒たちにとっては、多大な精神被害をたやすく想像できる衝撃の一場面である。
 炭治郎を受け止めた冨岡先生は、数瞬の沈黙のあと、またひとつ咳をした。ていうか、どう聞いても「ゴホ」って棒読みで言った。
 フリーズ状態だった生徒たちが、全員残らずチベットスナギツネみたいな半目になったのは当然だろう。
 なのに、炭治郎だけは悲愴な顔をして、涙ぐんでさえいる。
「熱は? 気持ち悪くないですか? 今からでも休みましょうよ!」
「いや、これぐらいで休むわけにはいかない」
「そんな……お誕生日なのに、風邪ひいたうえに休むこともできないなんて、ひどすぎます! 義勇さん、かわいそう……」
 
 いやいや、かわいそうなのは俺らだから! 朝っぱらから空々しい寸劇を見せられてる俺らのほうだから!
 
 日頃の冨岡先生呼びすら忘れ、炭治郎は瞳を潤ませて、ひしと冨岡先生に抱きついている。冨岡先生が浮かれているのは、誰の目にも明らかだ。無表情だけど。
「休めないなら、俺、お手伝いします! なんでも言ってください!」
 炭治郎のその一言で、判断の速い生徒はもう走り出していた。そして、校舎に飛び込むなり叫ぶ。
 
「イチャつき警報発令! 警戒レベルマックス! 総員被害にそなえて心を無にしろ!!」
 
 その日、キメツ学園にはチベットスナギツネが大増殖した。

 最も被害甚大だったのは、体育の授業があったクラスだろう。風邪で声が出にくい――ということになっているらしい体育教師が、終始黙り込んでいるのは別にいい。傍らにピタッと寄り添う男子生徒がいなければだけれど。
「冨岡先生は喉が痛くて大きな声を出すのがつらいので、今日一日俺に通訳させてください!」
 そんな直談判を「それは大変ですね」の一言で許可した校長先生には、物申したい。万が一崇拝者に聞かれたら、災難の二乗になるから言わないけれども。
 
 でも! 目の前で内緒話のように耳打ちしては「くすぐったいです」なんてイチャつきあうバカップルを一時限まるっと見せつけられるこっちの身にもなってほしかった!
 
 しかもこんなときに限ってランニングじゃないし。グラウンドを走らされるなら、離れることもできたのに! なんで今日に限って高校生にもなって鉄棒なのか!
 わめく気力もなく、生徒たちはただチベスナ化するのみ。
 体育はないが炭治郎のクラスメイトだって被害は深刻だった。
 炭治郎に手づから「はい、アーン」と弁当を食べさせられている冨岡先生なんてものを見せられているのだから。昼飯なんて喉を通るもんじゃない。
 炭治郎曰く、風邪を引いてるのに外で、しかもぶどうパンだけなんて駄目に決まってるだろ。とのことだが、アーンする意味はわからない。
 
 というかトミセン健康そのものじゃん。なんならツヤツヤしてますけど?
 
 言いたいけれど、みんな言わない。バカップルなんか見えないったら見えないっ! みな一様に、胸中で念仏のごとく呟きつづけるばかりだ。
「もういいんですか?」
 次は玉子焼きと箸を向けた炭治郎が、冨岡先生に首を振られてキョトンとするのなんて見てない。
 指でつまみ上げた玉子焼きを、炭治郎の口元に差し出す冨岡先生なんか、見えないったら見えないのだ。
「えっと……アーン?」
 頬を染めた炭治郎の口が冨岡先生の指ごと玉子焼きを食んで、上目遣いに見つめるのなんて……。
 
 耐えられるかぁっ!!
 
 叫びださずにいたのは、クラス一同による武士の情けだ。だって、誕生日なんだもの。お誕生日様といえば、その日の王様である。目を疑う甘えん坊大王が降臨しようと、バカップルにあてられて胸やけしようと、今日だけは無になる、耐え忍ぶ。
 なんだかんだ言っても、冨岡先生はいい先生だ。怖いし理不尽だったりもするし、なに考えてるんだかさっぱりわからないけど、いつだって生徒に対して真剣だ。
 だからこれは今日だけの特別なんだろう。明日にはきっと、愛しい恋人の看病で完全復活――という体で、いつもの先生に戻るに違いない。無自覚なイチャつきはともかくとして。
 だから、生徒たちはどんなに砂を吐きそうになっても、まぁいいかと心で笑うのだ。
 お誕生日おめでとうございます、冨岡先生。と、生温い目のチベスナ顔で。