約束はいらない

 義勇さんが、宇髄先生から海外旅行土産のチョコレートを貰ってきたのは、もう一週間ほども前のことだ。
 最初はめずらしい外国のチョコに喜んだけれども、いかんせん男のふたり暮らしには多すぎた。大きな箱に入ったアソート。個別にわたすお土産としては太っ腹と言えなくもないけど、とにかく甘ったるい。正直ちょっと持て余している。
 俺でも甘すぎと感じたぐらいだから、そんなに甘いものが得意じゃない義勇さんは、初日で早々にギブアップ。一日ひとつはノルマとして食べてくれるけど、外国製の甘ったるすぎるチョコはなかなか減らない。結果、ちまちまと俺が消費する羽目になっている。

 まったりと家で過ごす穏やかな午後。おやつはそろそろ三分の一にまで減ったチョコレート。義勇さんは今日のノルマと呟いて、ひとつ口に入れると、すぐに眉間にしわを寄せながらコーヒーで流し込んでた。
 窓から差し込む陽射しは暖かいけど、風は強いようだ。義勇さんが学生時代から住んでる築四十五年のアパートは、だいぶ建付けが悪くなってきていて、窓がガタガタと揺れている。
 一応風呂トイレ別だし、2DKはふたり暮らしには十分な広さだけれど、最近は気になる点も増えてきた。隙間風も吹きこむし、玄関ドアは閉めるのにコツがいる。冬場は水道管が凍るのが本当に困る。
 バス停まで徒歩十五分、そこから駅までバスで三十分。一番近いコンビニまでだって徒歩二十分という立地は、少々きつく感じなくもない。なにより壁が薄い。隣の部屋でくしゃみしたら聞こえるなんてほどじゃないけど、カップルで住むには少々難ありな物件だ。

 春になったら更新するか決めなきゃいけないんだよな。義勇さん、どうするんだろう。

 ぼんやりと思いながら、またひとつチョコを口に入れた。
 この時期にチョコレートなんて、下手すればうがった見方をしてもおかしくない。でもこれは、宇髄先生の海外土産だ。他意はないとわかっているから、安心して甘いチョコをもごもごとかみ砕く。
 一月の終わりあたりから、義勇さんが貰う土産と称した贈り物――特に女性からは、誕生日かバレンタインを意識したものと、相場が決まっているのだ。
 義勇さんの誕生日まで、あと三日。でも、お祝いなんてせいぜい夕食を義勇さんの好物だらけにするぐらいだ。
 当日が月曜だからというだけでもなく、義勇さんが多忙を極めるこの時期、のんびりデートなんてできるはずもない。頑張ってご馳走を作って待っていても、義勇さんが食べるときには冷めきっているのが常だ。
 午前様もザラな帰宅では、壁の薄さが気になって、レンジでチンするのも申しわけない。温め直しの簡単な鮭大根を中心に、冷めても大丈夫なお惣菜ばかりが並ぶ。
 毎年そうだから、もう気にしない。高校教師の、しかも三年生のクラス担任にとっての二月ときたら、忙しさとストレスを煮詰めて佃煮にしたような有り様だ。無理して焦げつかないよう、せいぜい注意して見張るぐらいしか、俺にできることはない。

「コーヒーお代わりいります?」
「ん……もらう」

 それぐらいなら台所に立つまでもない。義勇さんのカップを引き寄せて、インスタントの粉を入れてポットのお湯を注いだら、はいどうぞと義勇さんの前に置いた。下を向いてなにやら作業中の義勇さんが、どこか上の空でありがとうと呟くのに、小さく笑う。
 ふたりで暮らす上でのお家ルール。ありがとうとごめんはすぐに言うこと。律儀に守る義勇さんが、好きだなぁとしみじみと思う。

 コタツで差し向かい、のんびり過ごす午後。とくに興味もないテレビを流しっぱなしにして、甘すぎるチョコを食べながら、他愛ない会話をときどきかわして時間が過ぎていく。
 こんなふうにふたりでゆっくりできる日はめずらしい。教師なんてブラック企業と変わらないと知ったのは、義勇さんの恋人になってから。

 とにかく義勇さんは忙しい人なのだ。教師っていうのは、通常業務だけでも普通のサラリーマンとは比べものにならないぐらい忙しいらしいけど――そんななかで海外旅行なんてしちゃう宇髄先生の要領の良さは、感心するしかない――義勇さんは、剣道部の副顧問もしているからなおさらだった。
 強豪と呼ばれるキメツ学園じゃ、長期休みには必ず合宿がある。放課後の部活だって完全下校の八時までがほとんどだし、朝練だってほぼ毎日。土曜も日曜も祝日も、練習か大会でつぶれるのが当たり前。
 しかも今年度は三年生の担任だ。一日中休める日なんて、年に五日もあったら万々歳って、なにそれ。教職、怖い。
 今日だって、午前中は部活の指導に行っていた。道場の改修工事がなければ、夕方まで帰ってこられなかっただろう。
 私立だから休日出勤でも手当てが出るけど、公立だったらただ働きと聞いたときには、本気で血の気が引いた。ほかの学校より給料がいいと噂のキメ学でも、顧問手当てなんてせいぜい数百円。休日出勤しても雀の涙ほど増えるだけというのが泣ける。年収は同年代のサラリーマンの平均より多いらしいけど、自由な時間と引き換えだと思えば、割りに合わない職業だ。教師にうつ病が多くなるのもうなずける。
 そんなことを知ったのも、義勇さんとつきあい出してからの一年間で、恋人なら理解を深めなきゃと逢えない時間に調べた結果だ。おかげで、もっと逢いたいと文句を言うなんて非道なことをせずに済んだわけだけど、知れば知るほど疑問もわく。なんで義勇さんは教師になったのかな。
 お金があったって、使う暇もなければ趣味は詰め将棋って人だし、浪費には縁がない。まさか、年収や老後の安定を求めたわけでもないだろう。交流下手な人だから、そりゃ営業職や客商売は難しいだろうけれど、ひとりでコツコツと作業できる職業はそれなりにあるだろうに。
 店の常連さんでしかなかった大学生の義勇さんが、キメ学の教師になると教えてくれたときには、俺だってうれしかったけどね。だって俺も中学からキメ学に通うことになってたから。

 笑い声のひびくテレビから視線を外して、うつむいて黙々となにやらしている義勇さんを眺める。コタツの影になって、なにをしてるかは見えない。でもずいぶんと真剣だ。詰め将棋を考えてるときよりも熱中してるように見える。
 本当に、なんで教師になったのかな。聞いたことがないわけじゃないけど、はぐらかすように黙り込まれたから、重ねて聞くのはやめた。だけど、最近は理由が知りたくてたまらない。
 忙しくてデートの時間すらない。出勤は早く帰りは午前様がザラ。それでも教師をやめないのは、義勇さんにとって教師が生き甲斐だからなのかもしれない。天職とは、まぁ、言わないでおく。相変わらず保護者からのクレームはダントツに多いみたいだし。
 それでも義勇さんはとてもいい先生だ。俺が在学中も、トミセンは怖いと敬遠する生徒は多かったけど、どんな相談にも親身になってくれるし、本当はすごく頼りになると、慕っている生徒だって多かった。
 生徒のことをよく見てくれてるから、体調が悪かったりすれば、すぐに気づいてくれたりもする。スパルタなのは否定しない。でも、どんなんび厳しくとも、ちゃんと生徒への愛がある先生なのだ。

 在学中は、義勇さんと過ごす時間がほしくて、本当は剣道部に入りたかった。だけど、店の手伝いをすることを考えたら、練習に出られる時間は限られる。キメ学はのんびりとした自由な校風が売りとはいえ、自分勝手なのは駄目だ。みんなが必死に練習しているなかで、下手をしたら幽霊部員になりかねないことを思えば、入部は諦めた。
 本音を言えば、剣道部員や顧問の煉獄先生が羨ましかった。見ていることしかできないのなら、せめて少しでも長い時間、近くにいたかった。あのころ、毎朝ピアスを外せと追いかけられるのを、俺がどれだけ楽しみにしていたか、きっと義勇さんは今も知らないだろう。

 好きだなぁと、また思う。毎日だって、思っている。ふとした瞬間に、義勇さんが好きだと実感する毎日だ。恋心を自覚したときから、本当に毎日。

 ずっと片想いをつづけた中高時代。卒業式後に告白して、恋人になれたときは幸せ過ぎて死ぬかと思った。だというのに、生徒でいる間のほうが、よっぽど顔をあわせている時間は長いなんて、思ってもみなかった。しかもそれを思い知らされたのは、恋人になった翌日だっていうのがもう、泣きたいやら笑うしかないやら。春休みだって先生には休日なんてないって言うんだから、重ねて言うけど、教職、怖い。
 初めてデートができたのは、なんとゴールデンウィークあけだ。ゴールデンウィーク? 合宿で潰れましたとも。二十四時間一緒の毎日を過ごせたなんて、煉獄先生ズルい、羨ましい。いや、煉獄先生だってとってもいい先生だけれども。

 一年目はひたすら我慢した。デートなんて月一でもできればいいほうだったけど、忙しい義勇さんを煩わせたくなかったから。このアパートにせっせと通って、ほんの数十分、ときに数時間を過ごすだけのおつきあい。泊りは何回あっただろう。多分片手で足りる。
 恋人なんだか家政夫なんだかわからない状況が、変化したのは大学二年にあがる四月。一緒に暮らすかと聞いてくれた義勇さんに、一も二もなくうなずいたのは言うまでもない。
 エイプリルフールの嘘じゃないですよね!?と、涙目で散々つめ寄った俺に、義勇さんは「違う」「嘘じゃない」を繰り返して、最後には「いい加減信じろ」とキスで俺の口をふさいだ。

 大学進学のときにもひとり暮らしなんて選択肢になかった俺が、急遽家を出ることにしたものだから、竹雄たちはずいぶんとむくれていた。母さんと禰豆子だけがうれしそうに笑っていたっけ。
 禰豆子はともかく、なんで母さんが反対しなかったのか、理由はまだ教えてくれない。禰豆子が言った「お兄ちゃんだって自分のために生きなくちゃ!」ってのも、俺にはいまだによくわからない。
 我慢することは多いけど、嫌なことをしてるわけじゃないし、そんなのは長男なんだから当たり前だ。ちゃんと自分らしく好きなように生きてるつもり。でもそう言うと禰豆子は、決まって泣きだしそうな目で怒るのだ。

 その顔は、ときどき義勇さんが見せる表情に似てる。

 恋人になっても義勇さんの鉄仮面っぷりは相変わらずだ。だけど少しづつ、なにも言わなくてもわかることが増えてきた。それでも物言いたげなあの表情の理由は、まだわからない。

 あまり苦もなく始まった同棲生活。義勇さんの忙しさは変わらないから、すれ違いも多い。それでも一緒に暮らしていなければ、逢うことすらままならないと思えば、一緒に暮らせる今は幸せだ。
 恋人になって最初の一年は、せめぎ合う幸せと寂しさに、必死に慣れようとするだけで過ぎた。同棲を始めた二年目と三年目は、短い時間だろうと毎日顔をあわせられるし、抱きあって眠れる。穏やかで幸せが積もるばかりの毎日だった。
 四年目の今年、幸せなのは変わらないけど、顔をあわせる時間が極端に減った。
 夏休みを終えるころから、とにかく俺が忙しい。義勇さんの忙しさとどっこいどっこいの多忙さで、家事も手抜きばかりだ。
 俺は不器用なほうなのだと思う。ひとつのことに夢中になると、どうしてもほかがおろそかになる。呑み込みが早いタイプじゃないから、コツコツと努力しなくちゃならない。いろんなことに才能というやつがいるのなら、俺の才能はきっと、どれも平均よりちょっと少ないんだろう。
 明るさと元気さが取り柄です。それしか持っていません。自己紹介するならそんな感じ。
 知り合いや家族はみんな、俺のことをやさしいと口をそろえて言うけれど、当たり前のことをしているだけだから、なんとなくそういうもんかなと思うだけだ。

 本当にやさしい人は、きっと義勇さんみたいな人なんだ。

 コタツに頬杖をついて、顔を上げてくれない義勇さんを、じっと見つめる。
 こんなふうにふたりで過ごせる時間は久しぶり。どこかに出かけましょうかと笑った俺に、義勇さんは首を振った。
 今日は家で過ごそう。ポンポンと俺の頭を軽く叩いて、義勇さんは薄く笑って言った。
 大学四年の冬、卒論でてんやわんやだったのはあるけれど、今の俺の忙しさはそればかりじゃない。夏のうちからコツコツ準備してたから、卒論自体はそこまで大変じゃなかったんだ。卒業は難なく決まった。

『就職しなさい。パン屋以外でね。ちゃんと外の世界を知りなさい。家を継ぐかどうか決めるのは、それからにしましょう』

 突然母さんが言い出したそんな言葉が、てんやわんやな多忙さのきっかけで、目下のところ俺を悩ませている大問題だ。大学四年の秋にもなってから、なんでそんな無茶を言い出すのさと呆然としたし、今もため息ばかりが落ちる。
 長男なんだから家を継ぐのが当たり前だと思っていた俺にとっては、まさしく青天の霹靂としか言いようがない。
 なんで今更!?と聞いても、卒業したからって家で働けばいいやなんて駄目と、母さんは頑として譲らなかった。おかげで、みんながとっくに内定を決めた今ごろになって、就職活動する羽目になってる。卒業直前の今になっても、就職先は決まっていない。
 いつも穏やかで笑顔を絶やさない母さんが、笑みさえ消して有無を言わさず厳命するなんて、滅多にない。正しくは二度目だ。
 思い返せば、進学先の相談をしたときもそうだった。高等部を卒業したらそのまま家で働くのが第一希望。第二希望はパン作りを学べる専門学校。なのに母さんは、大学へ行けと言って譲らなかった。
 専門学校なら二年で卒業できるとはいえ、どうせその先は家を継ぐのだ。学費の無駄じゃないか。ましてや大学なんて、四年もお金だけが飛んでく生活になりかねない。そんなもの選べるわけがなかった。
 俺の下には禰豆子たちだっている。俺の学費にお金を使うぐらいなら、禰豆子たちのためにとっておいてほしいと何度も話し合ったけれど、母さんは首を振らなかった。
 おまけに禰豆子と竹雄、花子まで母さんの味方についたもんだから、はっきり言って孤立無援。茂と六太も意味がわからないなりに、それがお兄ちゃんのためなんだよと禰豆子に言われれば、俺の味方なんてしてくれない。
 そりゃまぁ、茂たちじゃ母さんを説得する役には立たないけども。誰も味方がいないなんて、兄ちゃん寂しかったんだからな。
 なんとなく思い出した数年前の出来事に、ちょっぴり唇を尖らせてみる。

 あのとき、担任だった義勇さんも、俺の味方をしてくれなかった。

 進路希望の用紙を見たときも、露骨に眉をひそめて「本当にこれでいいのか? ちゃんとお母さんと相談したのか?」と、何度も念を押してきた。義勇さんは、きっと母さんの希望が俺の大学進学だと、知っていたんだろう。
 どうしてそんなに俺を大学に行かせたがったのか。母さんも義勇さんも、今も理由を話してくれない。答えは自分で見つけなさい。母さんはそう言ったし、義勇さんも「おまえ自身が納得できなきゃ意味がない」と、答えてはくれなかった。
 納得してないというなら、大学に通う今の状況そのものと言えなくもない。それでも、こんなふうに同棲できるのは大学に進んだからだ。家で働いていたのなら、義勇さんと暮らすことなんてできなかった。専門学校だって、今ごろは卒業して家に帰っていただろう。
 卒業が近づいた今になって思うのは、ふたりは俺に猶予をくれたんだってこと。
 学生っていうのは不思議だ。体はもう大人だし、成人したから法的にも責任をともなう生活を送っているのは間違いない。それなのに、学生だというだけで、まだまだ子どもでいられるような気がしてしまう。
 でもそれはたった四年。四年間だけの期間限定な自由時間。長男だから俺は家を継ぐ。それは定められた未来で、大学を卒業したらいろんなことが変わるはずだったのだと、気がついたのは最近だ。

 卒業したら、家を継ぐ。それはすなわち、同棲を終えて家に戻るということだ。

 ゾクッと背筋がわれ知らず震えて、チョコをまた口に放り込んだ。精神安定剤としては甘ったるすぎるはずのチョコレートは、ビターだった。いっそ苦いと言っていいほどのチョコに、思わずむせそうになる。
「おい、大丈夫か?」
「はい。チョコ、苦いの交ざってました」
 これ、と手にしたままの包み紙を見せれば、義勇さんは箱のなかを見まわして、同じ包みのチョコをつまみ上げた。
「そんなに苦いのか?」
「んー、そうでもない、かな? 甘いと思ってたら苦かったんで、ビックリしちゃいましたよ」
 おどけて笑ってみせれば、義勇さんも小さく口角を上げた。

 こんなふうにふたりで過ごせるのは、いつまでだろう。

「就職は決まりそうなのか?」
 わずかな笑みにぼんやりと見惚れていたら、聞きたくない言葉が義勇さんの口から飛び出した。
 思わず眉を下げて黙り込む。ポンポンと頭を軽く叩かれて、ちろりと上目遣いに見つめれば、義勇さんは表情を引き締め、先生の顔になった。
「決まらないのは、やりたいことが明確じゃないせいじゃないのか? 書類を出した会社はどれも、業種がバラバラだっただろう」
「でも……とにかく働かなきゃいけないし。どんな仕事でも、雇ってもらえるなら真面目にやります!」
「それは当たり前だろう」
「イタッ」
 ピンッとおでこを指先で弾かれて、つい唇を尖らせる。
「やりたいことはないのか」
「そういうわけじゃ……ないんです、けど……でも」
 憧れなら、ある。でも、やりたい、やってみたいで、なれるような職業でもないし、そんな資格だって取っていない。なによりも、就職したとしても俺はいずれ家を継ぐのだ。足かけでやれる仕事じゃないのに、やりたいだけで口にするのはためらわれた。
「就職先は諦めずに探しますけど、しばらくはアルバイトでつなごうと思ってます。いいですか?」
「俺の許可を得るようなことじゃないだろう」
 そっけない声だけれど、無関心なわけじゃない。わかってる。なのに、疲れた心にはグサリと刺さった。
「……義勇さん、春になったら、どうするんですか?」
「春?」
「部屋、更新するのか、引っ越すのか」
 唐突な話題の変化に、義勇さんの眉がわずかにひそめられる。今聞くことか?と、瞳が言っている気がした。
「引っ越すなら、アルバイト先もそっちに近いほうがいいし!」
 就職先の候補も、志望動機はどれも通いやすさだ。仕事の内容なんてどうでもよかった。どんな仕事だって頑張ると言ったのも嘘じゃない。

 義勇さんと一緒にいられる時間が、あまり減らないように。

 そんな本気の志望動機なんて、口にできるわけもなく。お手本のような上っ面だけの志望理由は、面接官にはバレバレだったんだろう。書類選考を通っても、面接で落とされるのも当然だ。
 そしてそれは、義勇さんにも悟られてしまったらしい。
「通いやすさは十分志望動機にはなるが……アルバイトならともかく、将来のことを考えたらもう少しやりがいなんかも考えたほうがいい」
 らしくないなと言われた瞬間に、カッと頭に血がのぼった。
「俺らしいってなんですかっ!? このうえなく俺らしいですよ! 俺がどうしても叶えたい望みなんて、義勇さんと一緒にいたい、それだけなんだから!」
 母さんが譲らないんだからしかたがない。家族全員が賛成だから。そんなの本当は言い訳だ。家に戻って、逢えない時間のなかですれ違っていくのが怖かった。

 さっきのチョコと同じだ。甘いと思っていたのに、現実は苦かった。
 告白が受け入れられて、甘いだけの恋人の時間がおとずれるのだと思っていたけれど、現実は苦さがつきまとう。
 忙しすぎる義勇さんとは、一緒に過ごせる時間は少ない。同棲したってそれはあまり変わらなかった。
 わかってる。義勇さんだって努力してくれてるんだ。仕事をどうにかやり繰りして、なんとか俺と過ごす時間を作ってくれていることぐらい、ちゃんとわかってる。
 でも、どんどん欲張りになるんだ。怖くなってくる。一年ごとに俺たちも年をとる。義勇さんはもう三二歳になる。結婚しないのかと周りから言われだしてもおかしくない。
 俺だってもう学生じゃなくなる。期間限定の自由時間はもう終わりだ。
 理解のある家族のもとで、義勇さんと離れて暮らすか。一緒にいられても、義勇さんとの関係を隠して、何食わぬ顔で社会に出て働くのか。

 どちらも選べないし、選びたくない。

 長男なのに、自分の都合やわがままだけで、将来なんて選べるわけないってわかってるのに、選びたくなくて駄々をこねているようなものだ。
「……葵枝さんとは、ちゃんと相談したのか?」
「せ、先生みたいなこと、言わないでっ」
 今ここにいるのは冨岡先生じゃなくて、恋人の義勇さんなのに。俺だってもう生徒じゃない。甘やかしてほしいなんて言わないけど、今は先生の顔なんて見せてほしくない。
 とうとう涙がこぼれて、こたつの上にぽつりぽつりと小さな水滴が散る。
 こんなみっともなくて煩わしいこと、したくなかった。だけど涙は止まらなくて、思わずこたつに突っ伏して顔を隠した。
 ポンッとまた頭に触れた大きな手。くしゃくしゃと髪を撫でる手は、やさしい。そのやさしさに、ますます涙があふれた。

「おまえに同棲を切り出す前に、葵枝さんと話した。俺たちのことと……おまえの将来のことを」

 静かな声に、知らず肩が揺れた。初耳だ。やけにすんなり許可を貰えたけれど、そういうことだったのか。俺の口からは、家族には今も、義勇さんとの関係ははっきりとは言っていない。知られているんだろうなとは思っていたけれど、まさか義勇さんがバラしていたとは。
「長男って立場に縛られず生きてほしいんだそうだ」
「縛られてる、わけじゃ、ないです」
「葵枝さんからすれば、そうは見えないんだろう。長男だからなんて理由で、お父さんとの大事な思い出の詰まった店を継がれるのはごめんだとも言ってたぞ?」
 苦笑してる気配がする。顔はまだ上げられない。

「店は本当にパン屋が好きで、パンを愛してる子がいればその子に継いでもらうし、いなければ自分の引退と同時に閉めるそうだ。あの店は、葵枝さんたちご夫婦の夢の店で、子どもを縛る場所じゃないと言っていた。俺も……おまえの我慢で成り立つ幸せならほしくないし、約束なんかでお前を縛りたくはなかったんだが」

 頭から手が離れたと思ったら、こたつの上で握りしめてた手が、そっと温もりに包み込まれた。
「指を出せ」
 そろりと顔を上げて、恐る恐る見上げた義勇さんの顔は、小さく笑っている。持ち上げられた左手に、銀色の輪っかがはめられた。

 薬指に鈍く光る、銀紙の輪っか。指輪なんてごたいそうなものじゃなく。多分これ、チョコの包み紙だ。さっきまでゴソゴソとなにかしてたのは、これを作ってたのか。

「本物は、おまえが二五になるまでお預けだ。だがこれは、約束の指輪じゃない。どちらかといえばおまじないみたいなもんだな。いつまでもこんなふうに一緒にいられますようにっていう、他愛ないまじないだ」
「なんで、二五……?」
「社会を知っていろんな人に出逢って、世界が広がれば、おまえの心も変わるかもしれない」
「そんなことないですっ!」
 思わず食ってかかったら、左手をぎゅっと握られた。義勇さんの顔にはやっぱり小さな笑み。どこか切なげな苦笑だ。
「おまえが二五になったら、俺は三五のおじさんだ。おまえはきっといろんな人に好かれるだろうしな。こんなおじさんはごめんだと、フラれる可能性もあるだろう?」
「あるわけないでしょっ! そんなもん!」
「うん。そうならいいと思ってる」
 大きな両手に包み込まれた左手に、義勇さんはこつんと額を当てた。
「約束は、して、くれな、っですか?」
 しゃくり上げるのが止まらないから、言葉は途切れ途切れになった。涙もまだ止まらない。約束だと言ってくれたのなら、絶対に守るのに。なにがあっても。
「約束なんてもので縛るのはごめんだ。そのときのおまえの、自由な意思で選ばれたい。そう願うのは無謀か?」
 ブンブンと首を振ったら、義勇さんは小さな声をあげて笑った。
「ほ、ホント、は、俺も、先生に、なりたく、て」
「うん」
「義勇さん、と、一緒にいたい、のも、あるんです、けどっ、義勇さんみたいに、生徒に一所懸命な、先生、いいなぁ、って。初等部、の、先生とか、なりたいなぁ、って」
 でも、教員免許なんてとってない。家を継ぐのが当たり前だと思ってたから、夢見ることすらしちゃいけない幻だと、諦めていた。本当は先生に憧れてたんだなんて、口にすることだって一度もできなかった。
「民間企業から教員への転職も、ないわけじゃない。アルバイトしながら通信制大学で必要な単位をとって、教員免許を取得した人もいる。おまえにだってできる」
「でも、一緒にいたいなんて、そんな理由」
「おまえに同じ学校に通ってみたかったのになんて言われたことが、教職を選ぶきっかけになった俺には、耳が痛いな」
 それでも今は一生教師をつづけるつもりでいるぞと、義勇さんは小さく笑う。

 夢見てもいいんだろうか。いや、夢なんかじゃない。夢なんていう甘いだけのきれいごとじゃなくて、果たすべき目標で、幸せになるための必須条件。苦くても、つらくても、毎日噛みしめて飲み込んで、いつか終わるその日まで。大変なこともあったけど、一緒にいられて幸せだったねと笑いあう、遠い未来のために。

「約束じゃ、なくても、い、です。でも、ずっと、好きで、いて」
「うん。俺も、ずっと好きでいてもらえるよう、頑張る」
 左手の薬指にはめられた、銀紙の指輪。甘ったるすぎる外国旅行の土産のチョコレート。三日後の義勇さんの誕生日も、こんな何気ない日常のなかで過ぎていくんだろう。何年も、何年も。繰り返し。
 約束なんかいらない。毎日、毎年、約束じゃなくそのときそのときの素直な心で、好きって笑いあう。
 苦いビターのチョコの包み紙を、泣きながら撚って、義勇さんの左手の薬指に巻いた。
「春になったら……もう少し、広い部屋に引っ越そうか」
「学校の、近くがい、です」
「そうだな。おまえが教師になったら、ふたりで毎日通うんだから」

 窓はガタガタ揺れている。外は寒いけど、隙間風も吹き込むけれど、ふたりでいるから温かい。
 冷めきったコーヒー。甘ったるすぎるチョコレートは残り三分の一。ときどき交じる、ビターな苦さ。全部、全部、飲みこんで。今日も、明日も、明後日も、約束はせずに、ふたりで生きてく。