愛の言霊(お題:86ノック)

※キメ学軸未来捏造。錆兎は義勇さんと同い年設定。

 無口で口下手な義勇にようやくできた恋人が、人の感情の機微を匂いで察することができる炭治郎だったというのは、当人たちにとって幸いだった。周りの人々の感想もおおむね同じようなもので、口下手が災いして誤解されやすい義勇を案じる者はみな、炭治郎が義勇に惚れてくれて良かったと胸をなでおろしたものだ。
 一方で、世話焼きと押しが強すぎるうえに頑固者な炭治郎もまた、大抵の人に好かれる反面、嫌厭されることも多いタイプでもある。そんな炭治郎にとって、鷹揚で流されやすいくせにマイペースな、末っ子気質の義勇は、たいへん相性のいい恋人だと言えよう。
 割れ鍋に綴じ蓋。とは、ふたりを知る者共通の感想だ。自覚のない惚気に辟易させられるたび、はた迷惑なバカップルという言葉も浮かぶけれども。
 それはそれとして、仲良きことは美しきかな、仲睦まじいふたりがほのぼのと寄り添いあっている姿は、癒しと言えなくもない。
 とはいえ、そんなふたりであっても喧嘩ぐらいはするわけで。いかに炭治郎の鼻がよくても、感情の一端をつかみとれるだけのことで、細かい事情やらなんやらまでは、やはり説明されなければわからない。
 だからちょくちょく小さな喧嘩は起きる。喧嘩と言っても、はたから見れば馬鹿馬鹿しいぐらい些細なものが多く、当人たちも、頭が冷えればどちらともなく仲直りが定番だ。
 そして、喧嘩するたび錆兎を味方につけようとするのも、ド定番だったりする。錆兎にとっては、厄介なことこの上ない。正直、俺を巻き込むなとうんざりもしていた。
 なぜこのふたりは、やれ義勇さんが俺が大事に食べてたゼリーの、最後の一個を勝手に食べただの、やれウキウキと買ってきたお買い得品の鮭を、炭治郎が鮭大根ではなくクリーム煮にしただのという、くだらないことで喧嘩するのか。
 というか、おまえらの喧嘩のネタ、食い物がらみが多すぎだろ。いや、喧嘩と言っても、錆兎から見ればじゃれあいに近いのが正直なところだ。ぶっちゃけ、仲直り後のイチャイチャのために喧嘩してるんじゃないかと、疑っているぐらいである。
 だからまぁ、喧嘩するのは別にいい。喧嘩するほど仲がいいを実践しているだけと、言えなくもないのだから。
 だが! だがしかし、だ! なぜ毎度毎度おまえらは俺を巻き込むんだと、声を大にして言いたい! 問い詰めたい!
「……もういい。義勇はもっとちゃんと思ってることを口にしろ。炭治郎は鼻に頼りすぎるな。いいか、人間は言葉でコミュニケーションをとれる唯一の動物なんだぞ。ちゃんと会話しろ!」
 言わなくてもわかるだろうとか、たぶんこういうことが言いたいんだろうとか、お互い思い込んで、言葉にせず横着するからいけないのだ。だから。

「……それで、どうしたらこうなんの? 全っ然わかんないんだけどっ!?」
「話を聞いてたか? 善逸。だから、特訓してるんだってば」
 あきれた声で言う炭治郎に、善逸のこめかみがぴくぴくと引きつった。
「おまえと冨オェッかさんが喧嘩したのはわかった、錆兎さんがとうとう切れたのもわかった! 俺も切れたいっ! けど、その結果が人目をはばからぬ惚気合戦になるのは、全然っ、まったくっ、これっぽっちもわかんねぇですけどぉぉぉっ!?」
 わめいた善逸は、炭治郎の憐れむような視線に気づき、ダンッと机をたたいた。
「可哀相なものを見る目で見てんじゃねぇよ、この浮かれポンチがああああっ!! 冨オェッかさんの口下手無口と、おまえが鼻に頼ってばっかの相乗効果で喧嘩になったのはわかった! 錆兎さんが意思疎通のための会話しろって言いだしたのも、当然だと思うよっ!? けど、なんでそこで特訓になるのかがわからないって言ってんのっ! この脳筋どもめとは思うけどねっ!」
「そこまでわかってるなら、なにがわからないんだ? あ、義勇さん、ありがとうございます! 大好きです!」
「ついでだから。俺も好きだ、炭治郎」
「それだあああああああああっ!! それがわかんねぇっつってんだよ、この野郎!! コーヒーありがとうございますぅっ!」
 なぜ、会話の語尾にいちいち好きだのなんだの、付け加えねばならないのか。無自覚な惚気もうっとうしいが、あからさまなバカップルぶりを見せつけられるのは、本当に勘弁願いたい。
 それでも礼を言ってしまうのは、アレだ。冨オエェェェッッ!! アレルギーが未だ尾を引いているからである。いくら学校を卒業してむやみやたらと殴られることはなくなっても、体が覚え込んだ恐怖心はそうそう拭えるものでもない。
「第一、愛の言葉千本ノックってなんなんだよっ! コミュニケーションって千本ノックで培うもんなのっ!? そういうのはふたりきりのときにやれよおおおおっ!!」
 ネーミングからしてザ・脳筋。提案する錆兎さんも錆兎さんだけど、納得した挙句にチャレンジするふたりも大概なものだと、言いたい。
「説明しただろ? 思ってることをちゃんと口にする特訓だって」
「ええそうですね、聞きましたねっ! 聞いたからって理解はできねぇけどねぇぇっ!!」
 思ってることを口にした結果が、語尾に必ずつく睦言。馬鹿馬鹿しい。途方もなく馬鹿馬鹿しい。遊びに行くなんて言った昨日の自分を、とりあえずぶん殴りたいと後悔するぐらいには。
「我妻、うるさい。炭治郎の可愛い耳が難聴になったらどうする」
「大丈夫ですよ。でも、やさしい義勇さんを心配させるのは俺も嫌だから、ちょっと静かにしようか、善逸」
「……もういい、俺、帰る」
 疲れ切った声で言いながら、よろよろと立ち上がった善逸に、二人がそろってキョトンと首をかしげるのにすら、どっと疲れが増す気がする。

 いやもう、これただのプレイじゃん? バカップルの楽しいプレイを見せつけられてるだけじゃんね? この三十分余りで、高校三年間で聞いた以上の台詞を冨オエェェェッッ!! から聞いたわっ!!
 なんなの、この人。怒鳴る以外にもこんだけ喋れるなら、もっと普通に喋れよこん畜生!!

 と、胸中で善逸がわめいたのも、しかたのないことだろう。
 そんな疲れ果てた友人の胸中など、恋するふたりにはさっぱり伝わっていないようだけれども。
「来たばかりじゃないか。せっかく義勇さんがコーヒー淹れてくれたのに」
「ゆっくりしていけばいいだろう。久しぶりにお前がくると、炭治郎も楽しみにしていた」
 元教え子が遊びに来ると喜ぶよりも、恋人が喜んでいたことのほうが重要ですか。あぁ、そうですか。そうでしょうとも、アンタはなっ! でもって炭治郎も、コーヒーが無駄になることのほうが気がかりみたいなこと言ってんなっ! 友達甲斐のないやつだな、おいっ!
 だけど。
「もう目的は果たしたからいいよ」
 疲れたけれど、安心もした。だから。
「目的?」
「んー、ま、なんでもいいじゃん」
 キョトンとする炭治郎に笑い、善逸は義勇に向かってぺこりと頭を下げた。
「帰ります。炭治郎のことよろしくお願いします」
 ずっと怖かった無表情の綺麗な顔に、へらりと笑ってみせる。
 生徒たちから恐れられるスパルタ鬼教師。多分、一番怖がってたのは自分だ。高校を卒業して一年が経とうとする今でも、やっぱり怖い。でもって、そんな鬼教師に恋いこがれる友人の、切なく苦しい胸の音を一番近くで聞いてきたのも、自分。
 そして、感情の読めない鉄面皮のまま、この鬼教師が炭治郎と同じ音をかすかにさせていたことに気がついていたのも、きっと自分一人だ。
「任せろ」
 きっぱりと言い切った義勇に、善逸は笑う。
 学校でふたりが一緒にいる姿を見かけた際に、時々聞こえた小さく控えめなノックの音が、耳によみがえる。コンコンコンと、響く音。お願いその戸を開けて、貴方の心の中に入れてと、こいねがう音だ。
 先生と生徒という立場では、決して表に出せないと、ふたりそろって胸にしまい込んでいた恋の音。それを知っていたのは、多分俺だけだから。
「んじゃ、炭治郎、またなっ」
 もうノックの音は聞えない。だってふたりの心の扉は互いに向かって開かれて、閉ざされることはきっと二度とないのだろうから。
 善逸の耳がとらえるのは、幸せな愛の言霊。二人暮らしの小さな部屋には、大好き、大切、幸せと、高らかに宣言する愛の言葉が満ちていた。

 心配する必要なんてなかったなと、閉じられた玄関ドアを振り返り見て、善逸は小さく苦笑した。
 お兄ちゃんたちは喧嘩ばかりしていると禰豆子から聞いたときには、さもありなんと心配したし、笑っていた禰豆子にそんな悠長にしてていいの? と不安にもなった。けれども、そんなものはやっぱり杞憂に過ぎなかった。そりゃ禰豆子も笑うしかないだろう。錆兎だって呆れてしまうのはしかたがない。
 喧嘩もふたりのコミュニケーションの一つなのだ。喧嘩するほど仲がいい。なるほど、それは事実らしい。先人の言葉は正しかった。
 千本ノックでもなんでもお好きにどうぞ。あの寂しく切ないノックの音よりよっぽどいい。
 胸やけしそうに甘ったるい特訓を経た後のふたりを思い浮かべると、ちょっぴり辟易しないでもないけれども。
 退却前に一息に飲み干したブラックコーヒーでも、洗い流せなかった甘さが口に残っている気がする。それは甘くて、甘くて、幸せな後味だけを善逸に残した。