北琉国の外れに連なる山脈は、かつては霊山で知られ神々のおわすと人の口が伝えたるものであったというが、いつからか妖魔跋扈し死傷者絶えぬとの噂あり、今では足を踏み入れる者などなきに等しい。
そんな曰くを聞かぬままにも、天を突くよな高き梢が枝を重ねあい、陽光遮るゆえ昼なお暗き険しい山路である。温められることなき空気がひやりと肌身を包み、生者の息吹乏しく、寒気だけではないぞくりとした震えを道行く者へともたらし陰鬱なことこの上ない。
ましてや道とは言うが通う者など絶えて久しく、獣道と呼ぶもおこがましい道筋である。進めば進むほど迷うていくよな気さえするが、指針となるは地べたにかすかに残るそんな道の痕跡のみゆえ、致し方ない。
日暮れて闇に包まれた夜半ともなれば、遠くかすかに聞こえる獣の鳴き声ひとつにさえ、並の者なら怯え震え、剛で鳴らした者とて心許無さ覚えよう。
だがしかし、道行く一行の先に立つ者の足取りには、不安も迷いも露と感じられぬ。遠く霞む蓬莱山にかかる雲のような白き肌身に、闇に溶けいる黒衣を纏い、わずかに覗く月光弾く金色の髪持つ異様の姿。異国の民と覚しき姿なれど、尖った耳やら灯りひとつ持つでなく闇を透かし見る夜目の利きよう、到底人では有り得ぬ。
凛と背伸ばし、どこか躍るよな弾む歩みで行くさまは、しなやかな獣の足取り思わせ、闇を楽しんでいるよにすら見える。
「……な、なあヒル魔、ま、まだサンジのいるとこには着かないのか?」
不意にかけられた震える声に、先行く異形が闇のなかで振り返る。
「距離だけで答えるなら、そうでもねぇ。だが、すぐに辿り着くってわけにはいきそうにねぇな」
応え返すが異形の輩ならば、先に問うたも異形の者。
連れの膝丈わずかに越すほどの小さき背丈、肌身はくまなく褐色の毛に覆われて。人と呼ぶは到底かなわぬ獣の姿であるが、語る声音は明らかに人のものである。
それら異形の者含む四人連れの、なかほど歩く人と獣の血その身に流るる人妖――チョッパーは、声に隠しきれぬ怯え含ませたまま、小首をかしげた。
「なんでだ? ヒル魔達の塒みたいに、行くのが大変な場所にいるのか?」
「いや、そうじゃねぇ。結界が張ってあんだよ。カッ! 結構な広さだ。あの道士、術力は相当なもんだな」
重ねて問うた答えは、前方ではなく幾分下がった場所より返された。
しんがり務める声の主、夜目にも白い衣に武人の胸当て纏い、人より長い手足持て余すよに歩くその腰には、緑鮮やかな鞘に収められたる長剣帯びて。威風堂々たる体躯頼もしく見えるか、ふうんと呟くチョッパーの声にも、わずかに安堵が滲んだ。
「結界が張ってあんのは気づいてたが……広いってのは? そんなに危険な奴なのか……?」
チョッパーの傍ら呟いて、思案深げに眉寄せる童子の言は、問いかけよりも独り言めいていた。
道士の力量疑うではないが、近づかれるをそれほど恐れてでもいるのであろうかと危ぶむ童子、一行のなかでは唯一ただの人と見ゆるが、さにあらず。
だがそれを知るは本性透かし見る目あらばこそ。闇夜のなか、異形揃いの一行と行動共にする幼さ幾分残る顔立ちの童子の姿は、ともすれば、妖魔どもの餌となるべく囚われし哀れな身の上にも見えようほどが、足取り表情語る声音にも、怯えはみじんも感じられぬ。
そんな童子――ゾロの呟きに、ふんと鼻鳴らしヒル魔と呼ばれた金髪の妖魔は、煌く金赤の双眸ついと細め嘲笑の体。たちまち怒気発するゾロに笑み浮かべたまま、軽く柳眉をそびやかせてみせた。
「近づけねぇための結界なら、なおさらこんな広範囲は効率悪いだろうが。結界張るにも気力や体力削るんだ、ま、力の使い方次第だがな」
とはいえ結界破れしときを考慮すれば、力温存しておくは必定。かように広域に渡る結界は、愚の骨頂というものよと、ヒル魔は闇のなか牙煌かせ笑う。
「それじゃ、なんで……」
「発想が逆なんだろうな。近づけねぇようにじゃなく、逃がさねぇための結界なんだろうさ」
チョッパーの問いに答えた葉柱にうなずき、ヒル魔はちろりとゾロを流し見やる。
「これだけ広い結界が必要ってことは、あの金髪道士、相手の居場所すらはっきりとは捕らえきれなかったようだな」
「……金髪金髪って、てめぇも金髪じゃねぇかよ」
反論即座には浮かばず、小さく憎まれ口たたくがやっとのゾロに、ヒル魔はますます小馬鹿にしたよな笑み深めるばかり。小面憎いことこの上なしとゾロが睨むも、一向気にした様子もない。
何故ヒル魔が己に向けてこれほどまで挑発的な態度とるのか、ゾロには一向計り知れぬ。わからぬままに反発ふくらませるゾロを面白がっての言動であるように思われもする。
ならば戯れ言につきあう義理などなしと、反応返さねばよいものではあるが、ヒル魔の挑発、己に対しての揶揄ばかりではなく。この場におらぬ連れの道士引き合いに出されれば、昂ぶる苛立ち抑え切れぬ。
それがまた、ゾロには腹立たしい。
ヒル魔の目当ては彼の道士だと言うが、真実その身を手に入れんと望んでいるのか、飄々と人を煙に巻くよな笑みやら言ばかりで、いまだ定かではない。すべてはゾロの心掻き乱すための方便と高笑い響かせられたならば、いっそ納得はたやすかろう。
「ああ、同じだな。髪も肌色も、この目も。俺とあの道士殿はよく似てるだろ?」
揶揄の色成すヒル魔の笑み、なにが言いたいとゾロが睨めば、ふと消えた。
「テメェより、俺のほうがきっと、あの道士のことを理解してやれる」
ゾロの肩びくり震え、ヒル魔を見据える眼差し揺れた。
語る声音、淡々と。揶揄挑発の響きなく。見つめる双眸、金赤の、魔の呪力持つ者だけが宿す色。
道士と同じ煌めきたたえる、絡めとられるかのよな、金。
「……うるせぇ」
呟きゾロは唇噛んだ。
言われるまでもなく己より、目の前の妖魔のほうが道士に近しい存在であること、感じてはいた。だがしかし、遥か外つ国の血やら魔族の力など、ゾロが道士に惹きつけられる理由ではあらぬ。
初めに心奪われたは、邪眼の魔力。異国の血顕著な道士の白皙、黄金の髪、瞳奪われいまだ見惚れもする。それは一向否定はせぬ。
されども、きっかけどうあれ今なお心惹かれ惑わされるは、甘やかな見つめる眼差し呼ぶ声音。触れる手指から、たしかに感ずる慈しみ。
躯重ねあわせれば己のすべて埋め尽す身震いするよな陶酔も、決して道士の魔力ゆえではない。
揶揄の言葉に皮肉な笑み、腹立たしさ生むこと多々あれど、己に向けらるる道士の眼差し常にたたえる温かみ、離れ難いと思わせるから傍にいる。見つめられ、呼び掛けられ、触れられるを、かように望むは彼の人のみ。
葉柱にすら持ち得ずにいた烈しき執着、道士の魔力ゆえなどでは決してなく。異国の血引く者いくら現れど、魔力持つ者あまたいれども、これほど心惹かれることなど、ありはすまい。
けれど。
笑み消した異国の妖魔見据え、ゾロはきりっと唇噛む。
道士の心は、いまだに見えぬ。時折垣間見せる苦悩の色、理由を問うても答えは返らず、気鬱の源晴らしてやるも叶わずに。道士が真実己が傍らあるを望んでいるかも、ゾロにはいまだ計り知れぬ。
それは、己に異国の血流れておらぬがゆえなのか。魔族とは相入れぬはずの神籍にあるからか。
道士のすべてを、己が解するはかなわぬのであろうか。
異なる立場であるがゆえに。
言葉見つからず黙し睨み据えるばかりのゾロの瞳、不安の色見え隠れするを気づいているやら、ヒル魔は眉ひとつ動かすことなく、再び口開いた。
「神と魔族の違いだけじゃなく、あの道士は人だろ? 神と魔族、神と人、どちらにせよ組み合わせとしちゃいただけねぇな。テメェの寿命がどんだけあるかは知らねぇが、あの道士はどんだけ足掻いたところで、精々三百年も生きられりゃいいほうだろ。
……傍にいられる時間なんて、あっという間にお仕舞いだ」
揶揄とは異なる淡々とした声音で綴るは、たしかに事実。考えまいと心の奥いと深きに仕舞いこみ、先はまだ永いと見ぬふりしてきたものを。
ともにいられるはたかだか二百年余り。神である身には哀しみ湧くほどあまりにも短い。思わずびくりとゾロの躯がすくむ。瞳が揺れる。
「ヒル魔……それ以上いじめんなよ」
「……いじめるなときたか、お優しいことで」
葉柱の声低く、どこか沈痛な響きみせるを小さく鼻で笑い、吐き捨てるヒル魔はと言えば、小馬鹿にしたよな表情。しかして面持ちとはうらはら、金赤の瞳にちらりよぎった翳りは、ゾロと変わらぬ哀しみ漂わせている。
おろおろとことの成り行き見ていたチョッパーは、小さく首かしげ困惑たたえるばかり。
人ならざる者達の会話に、幼き人妖が胸に浮かべた言葉、口にするは憚られ、飲み込み己の胸のうち、こればかりは世界一の医生になろうとも、どうともできぬのであろうなと、溜息ひとつ零した。
ヒル魔の言、その面持ちから察するに、チョッパーの目にはゾロに向けてとばかりには思われず。ましてや神と魔族であるは、ヒル魔と葉柱とて同じこと。
自分に言い聞かせでもしているものか、はたまた真に伝えたいのは葉柱へか。いずれにせよ、事実述べるだけの声音装えど、瞳によぎる切なさ隠しきれてはおらぬものを。
己にすらわかる事柄、ゾロには伝わらぬのが、なんとも焦れったい。
だが、連れの道士もよく言うではないか。人の恋路に口出すことほど愚かなものはないと。
恋は思案の外、周囲の言葉など雑音にしか聞こえぬもの。恋情に揺れ惑う心など、己で律するも敵わぬものを、人の忠告やらが耳に入るわけもなし。
恋占望む若者相手、誰に対しても耳に優しい言葉選ぶ道士に、みなに同じ答え返すは何故か、問うた答えがこの言い様。
そんなものかと首傾げたが、成程、ゾロの有り様見れば頷けぬでもない。
ヒル魔と葉柱にしろ、恋仲にあるは明白と思われる。ならば己が口挟んだところで、聞く耳など持つまいよと、チョッパーは溜息つく。
恋の病は医生には手に負えぬ。
それでなくとも身を焼く恋路など、いまだ知らぬチョッパーにしてみれば、それこそ理解の埒外である。
神と魔族、陰と陽。相入れぬと言うのなら、ヒル魔が葉柱傍らに置くは何故か。神と人、ともにあるは敵わぬと言うのなら、何故道士に執心抱くか。
恐らくは、問うても答えなど返らぬのであろうと諦めつつ思い。
ただ解せぬのは、人と関わることなきはずの闇に棲まうヒル魔が、人との繋がり話すその声。その瞳。
なにより切なく、悲傷たたえていたよに思われたは気の所為であろうか。思いながらも、やはり口にするはためらわれる。
一同暫時押し黙り、闇に静寂満ちたを破ったは、沈黙のきっかけ作ったヒル魔その人である。
「……近いな」
囁く声音、先の愁い苛立ちわずかも残さず、緊迫よりもいっそ楽しげに響く。
「結界越しでさえ感じるか……。カッ! テメェが欲しがるだけはあるってとこだがよ、けど、こりゃあちっとばかり度が過ぎるな……」
葉柱の手、剣にかかると同時、ゾロの顔にも緊張走った。と、時置かずして瞳がわずかに不安の色成し、宿る緊迫、更に深める。
「サンジらしくねぇ……」
「サンジが近くにいるのかっ?」
気配には敏感な獣の性持ってしても、結界阻まれチョッパーには感じ取れぬ道士の所在。人の血引かぬ者どもは、みな一様に感知したようである。
「随分苛立ってるようだな。スゲェ挑発してきてやがる」
ヒル魔の楽しげな声、言われずともたやすく知れる道士が気配の、常とは異なるこの有り様。
ゾロの瞳に周章不安入り交じり、逸る手が雪走掴みしめる。
気配薄くを常としているよな道士である。敵対すればそのかぎりではないが、そんなときでもどこかいつでも瓢々と、余裕残し風のよに掴みどころなくあるものを。
ましてやゾロに対しては、どれだけ皮肉や揶揄口にしようとも、ふと気づけば包み込み、守り慈しむかのよに傍らある、道士の気配。これほど苛立ちあらわ、焦りすら感じられるは、初めてのこと。
しかも今は結界のなか、道士の術の威力承知していればこそ、気配洩れ零るるを抑えもせぬとは、すぐには信じ難い。
だが、結界越えてかすかに感ずるこの気配は、たしかにサンジその人のものである。有りよう異なれど、間違いなどするものか。
「逸るな。結界を無理に破れば、道士殿にも多少なりと被が及ぶぞ」
こらえきれず走りかけたゾロの肩掴み止め、葉柱言う。面持ち声音、わずかに固く、緊迫漂うのがまた、ゾロの不安をかきたて、苛立ちもする。
「なら、さっさとどうにかしやがれっ! 偉そうなご託聞いてる暇なんざねぇんだよ!」
「やかましいぞ、糞苔頭。あの金髪道士がそんなに心配なら、離れたりしなけりゃ良かったんだ。今更喚くな」
人を人質扱いしておきながらのこの言いざま。瞬間、怒りの矛先ヒル魔に向かうが、声にはならずゾロは小さく息飲んだ。
「大事なら離れなけりゃいい。守れなくても、一緒に死ぬことはできるだろうしな」
皮肉な言と笑み裏切るよに、金赤の双眸に漲り揺れる哀しみの色、いっそ怒りにも似て。ゾロを見やる眼差し遠く、瞳に映しながらもゾロの姿ではないなにか、見ているよな気さえする。
傲岸不遜傍若無人が具現化したよな輩と思うていたが、この男にも悔恨薄れぬ別れあったものか。ともに冥府の底まで行きたい相手がいたのであろうか。
金赤の瞳見つめ思えば、言葉浮かばず。ゾロはきりりと唇噛んだ。
道士の力量を信じてはいるが、かような事態は初めてのこと。ヒル魔の後悔に彩られた怒り、まるで己の後の姿に思われ、募る不安ますます掻き立てられる。
ヒル魔の様子気づいたはゾロばかりではなく、チョッパーも、驚きに見開くあどけない瞳に気遣わしげな色たたえ、ヒル魔とゾロを見つめている。
ヒル魔の眼差し向かう先にいる見えぬ相手に、ヒル魔に想い寄せるは明白な葉柱がなにを思うか。ふと気になり視線を葉柱に移せば、葉柱は、やはり黙したままヒル魔を見据えていた。
悋気に燃えたち狂おしくあるかと思われたが、そこにあったはいっそ静かな面持ち、見つめる瞳に宿るは強い光。
「……なんにせよ、道士殿に会うのが先決だな。このまま決界の外にいてもどうにもならねぇ」
口を開けば声音も静かな葉柱に、チョッパーは決界あると言われた方角を、ついと見やった。
気遣わしいは道士の安否とて同じこと。道士ほど体技術力優れたる人間をチョッパーは知らぬが、世界は広い。生半な妖魔妖怪など敵ではなかろうと思えども、そんな道士がここまでの決界張り、一昼夜明かしてもいまだ膠着状態にある事実は、やはり不安になろうというもの。
己ですら危惧かき立てられるからには、ゾロの心痛はいかばかりか。
ヒル魔の悔恨、葉柱の心情、気にはなれども今はそれを問う場ではなかろう。
「サンジの決界を破れた奴なんて見たことねぇぞ? どうすればいいんだ?」
不安をあらわに問えば、ゾロの面持ちなお痛みこらえんばかりとなりて、返る言葉もない。
「無理に破れば、こっちだけでなく道士殿にも不利に働きかねねぇし……カッ! 力量がありすぎんのも、こういう時には難儀だな」
さほど術力強からぬ者の決界ならば、綻びもたやすく見つけだせようが、これほど見事な決界では夜明けまでに探しだせるものやらと、葉柱も苦い顔して舌打ちひとつ。
「ケッ、そんな悠長な真似、俺がするとでも思ってやがんのか? 糞奴隷」
苛立ち悔恨消え失せた不敵な笑みで牙煌めかせ、何事もなかったかのよにヒル魔が言えば、たちまち曇る葉柱の顔。先までより危惧の色深め、わずかばかりの上目遣いにてヒル魔を見やり、諦めに似た溜息つく。
「……止めても……」
「無駄なこたぁやめとけ。うっとうしい」
「あれ、結構辛いんだけど……」
「ご主人様のために働くのを、辛いと言うか、糞奴隷。いいご身分だな」
「……」
「で、やるのかやらねぇのか、はっきりしやがれ」
「カッ! 嫌だって言ってもやらせんだろうがっ!」
「ケケケッ、わかってんじゃねぇか」
闇に響く高笑い、楽しげに。葉柱の溜息は深く、文句反論は最早ない。
一体なにをする気かと、二人のやり取りに首かしげたチョッパー同様、ゾロもまた、怪訝な眼差し二人に送るが、期待は拭えぬ。
逸る心抑え切れず噛みつくように、手だてあるならば早くしろと急かせば、闇に光る金赤の瞳。ゾロを見つめた数瞬の間になにを思うか言葉なく、眼差し逸らせた先には、葉柱の困り顔。
「おら、テメェのお気に入りの糞皇子殿も、こう仰せだ。さっさと始めな、糞奴隷」
「カッ! わかってるよっ!」
愉快げな命令に含まるる苛立ち混じりの皮肉な響き、果たして気づいているものやら葉柱は、最後とばかり大きく溜息吐き出し瞳を閉じた。
と、深き闇に浮かび上がる葉柱の姿、燐光放ち。威風堂々たる体躯、じわり縮んだよな気がする。
葉柱を包む朧な光じわじわと縮みゆき、あわせて葉柱もまた小さく縮んでゆく。
驚き目を見開くチョッパーとうらはら、ゾロはますます訝しげ、眉根寄せてヒル魔を見やった。
闇に光放ち浮かび上がり見ゆる葉柱の姿、威風堂々たる体躯あれよという間に縮みゆく。
輪郭歪み、四肢縮み、人の姿ですらなくなってゆくを、唖然として見入るはチョッパーばかり。唇ゆるり吊り上げ目を細め、支配者然と笑むヒル魔に、ゾロは苛立ち隠せぬ様子。
「変化してどうしようってんだ? 小さくなったところで、入り込める隙間なんてあいつの結界にはねぇぞ」
「ごちゃごちゃうるせぇな、糞苔頭。黙って見てやがれ」
一語に切り捨て視線ひとつ送るでないつれなさは、楽しげな笑みを裏切り、いっそ冷ややかである。
再びヒル魔へと向けられるゾロの怒りももっともであろう。慕わしい知己を奴隷呼ばわりされるだけでも腹立たしいところにもってきて、ヒル魔の態度、ゾロへの挑発ありありと。チョッパーに対する親しみ透かし見える笑みとは、まるで異なる冷笑、取り付く島ない無愛想な言葉の数々にいたるまで、ゾロの反感、故意に煽ってでもいるかのようではないか。
ヒル魔のつれなさは葉柱にも向けられてはいるが、昨夜の悪夢のよな一幕思い返すまでもなく、常に甘えが滲むはたしか。ゾロに対するものとは明らかに違う。
ゾロもまた気の長い性分であるでなし、ヒル魔の言動即座に眉間に皺寄せて、怒りあらわな言葉投げ返すから、両者の溝は一向埋まる気配がない。
冷然として、ゾロのことなどすでに意識から閉め出しているかのよな、ヒル魔の横顔。睨み据えるゾロの視線を、感じぬわけでもあるまいに。
一触即発の色おびる二人の気配、宥め役に回るはずの葉柱に余裕なく、チョッパーもまた葉柱の様に見入るばかりとなれば、どちらかが引くしかあるまい。
ちっ、と、舌打ちひとつ、ゾロはヒル魔から逸らせた眼差しを、葉柱へと転じた。
光放つは変わらぬものの、その範囲は小さく、地にわだかまる白い衣服から洩れ零るる程度になっている。葉柱の姿は見えず、ちらり窺えばチョッパーの真円の眼はますます丸く大きく見開かれていた。
「変化の術なんて、サンジので見慣れてんだろ?」
なにを今更驚くことがあると、苛立ち残る呆れ声にてゾロが問えば、チョッパーは視線を動ぜぬままに声上擦らせ答えた。
「そ、そりゃそうだけど、でも、これサンジの術とは違う気がするんだ」
サンジの仙術は、言わば目眩まし。人の本質までをも変えるものではないと、当の本人に言われたはいつであったか。
いかに温厚、人に害なす意思など持ち合わせてはおらぬとはいえ、チョッパーの風貌は市井にあれば騒ぎの種。いらぬ騒動巻き起こし傷つけられることもなかろうと笑いつつ、身を守る手だてと暇をみては変化の術、道士が教えてくれた甲斐もあり、今やチョッパーも己を変化させるはよういにできる。
であればこそ、今目の前に見ゆる光景信じがたいと、疑いを知らぬ瞳に幾許かの怯えと多大な感嘆漲らせ、チョッパーの言う。
なるほど、言われゾロは合点がいったとうなずきひとつ。口許わずかばかり苦笑に歪め。
「これは正しく言やぁ、変化じゃなく転生だもんな」
たしかにサンジの術とは根本的に違おうよと、ゾロの言。チョッパーの眼差し上向き、ゾロの瞳を捉えて小首をかしげた。
「転生?」
「どっちも葉柱の本当の姿なんだよ。獣の性を持った神なら誰だってできるぜ」
へぇ、と感心するチョッパーの声遮るよに、小さな呟き笑み含み聞こえ。
「誰だって、ねぇ……?」
口の端ゆるり吊り上げた笑みは蔑笑めいて、ヒル魔の呟きに瞬時にゾロの頬が怒りに赤く染まった。
「てめぇ……言いたいことがあんなら、はっきり言いやがれっ」
「転生するのは人妖だって同じことだし、神族にも転生できねぇ竜だっているだろうにって、思っただけだ。他意はねぇよ」
「……おい、揉めてる時間はねぇだろ? やらないで済むなら俺としちゃ有り難いけどよ」
ヒル魔の視線に乗せた冷笑、あからさまな挑発込めた声音。ゾロに対する揶揄以外のなにものでもなく。怒りを漲らせゾロの手が抜刀せんと腰にゆけば、間発入れずに溜息混じり、地から聞こえた声はたしかに葉柱のもの。
だが。
「は、葉柱なのかっ?」
二人の様子への困惑すら消えたか、仰天あらわなチョッパーに、地に這う小さき蟲がちろちろと舌揺らせた。
「おう。転生を見るのは初めてか?」
語る声音は葉柱のものに違いはないが、その姿は、実際に転生の場見ていてすら信じがたい。
転生の名残りか淡い光り長い尾の先の先まで纏わせ、翡翠でできたよな緑色した小さな蟲が、白い布地の上、頭をもたげている。真黒な瞳でしゃがみこむチョッパー見上げ、深紅の細長い舌ちろちろと揺らせるさまは、紛う方なく蜥蜴である。ゾロの掌にも満たぬいと小さき体躯に、威風堂々たる武人姿の葉柱の名残りあえて探すならば、揺れる舌先くらいであろうか。
驚嘆に興奮しきりなチョッパーに、すごいすごいと手放しに讃えられ、表情読めぬ小さな蟲は、それでも照れているよに見えた。忙しなく尾を揺らせ、空咳ひとつ、どのように発しているものか人の姿した葉柱と同じ声で蜥蜴は言う。
「そうか、チョッパーはまだ幼いからな。転生したことがなかったか」
「お、俺も大きくなったら蜥蜴になんのかっ?」
更に驚き深めるチョッパーに、葉柱の声で蜥蜴は違う違うと苦笑し、舌揺らせる。
「転生した姿はそいつの本来の性だ。お前なら狸そのままになんのか、人の姿に近づくか……どちらにせよ、蜥蜴にはならねぇよ」
「そうかぁ、俺は狸に……って、お、俺は狸じゃねぇ! トナカイだっ!」
獣同士の会話黙し聞いてたヒル魔とゾロが、思わずといった体にて同時に吹き出した。
月明かりさえ射さぬ闇のなか、けたたましく笑い声の満つるさま、緊迫感など消え失せ、チョッパーは拗ねたよに頬ふくらませる。蜥蜴の葉柱がゆらゆら尾を揺らせる姿は、どこか満足気に見えた。
《未完》