風語る、誰彼に生まれ、払暁去りゆく闇の唄

 くいく風が雲を流し広げ、月を覆った。ざざざと音立て木々が揺れる。月明かり射さずば人家など望むべくもない山奥のこと、闇は深く、奈落に堕ちたかのよな気さえする。
 そんな暗闇に、唯一つぼんやり灯る青白い光があった。この風のなか、揺らめきもせぬ奇怪な灯りである。
 それが映し出す影、一つ。否、二つ。重なりあって。大きな影が、幾分小さい影を包み込んでいる。
 小さな忍び笑い一つ、闇夜に響いた。
「どうした」
 問う声、密やかに甘く。問うというよりあやすよな。
「面白いもん見つけた」
 返す声音のいかにも楽しげなこと、喜色を音に表せばきっとこんな響きなのであろうが、それを今聞く唯一の者にとっては、不穏極まりないことだと思わずにはいられぬ。
「三つが三つとも、普通じゃねぇ。特にこの二つ。小せぇ方は人妖に見えるが、魔の気はまるでねぇ。どっちかってぇと神仙に近いが……人だ。こっちは逆だな。人に見えるが、魔族の気がかすかにする。俺に、似てる。けど、それだけじゃねぇな。なんか奥にもっと……ちっ、照魔鏡越しじゃわかんねぇか」
 耳元に落ちる溜息など意にも介さぬのか、嬉々として弾む声。まるで玩具に夢中な子供にも似て。
 闇夜にも白い指先で、ついと青白い光のなか指差しながら、影は笑う。
「んー、これも人じゃあねぇが……ほかのほど面白くはねぇな。今のとこは、だけどよ。封印されてるみてぇだ。しかも、一つじゃねぇ」
 指差す先覗き込み、大きな影が、おや、と小さく首をかしげた。

「知り合いか? こいつも魔の気配はしねぇが……神仙?」
「ああ。神族のなかでもかなり位は高いぞ。竜王の皇子みこだからな。一度会ったきりだから、向こうは覚えてないだろうが、まさかこんなところで会うとはなぁ」
 懐かしいと、口にせずとも、声音が語る。
 ふぅん、と気のない声に少しばかり眉ひそめ。

「……欲しいのか?」
「ああ、欲しいな」

 手駒に加えたら面白かろうよと、声は笑う。先よりわずかに邪気含め。
「お前なぁ……。やめとけやめとけ、下手に手を出すとただじゃ済まねぇぞ。東海竜王の寵愛っぷりもだがよ、皇子自身もかなりの使い手だ。甘く見ると手酷くやられるぜ?」
「ほぉ、誰に意見してんだ? てめぇがやりたくないってんなら、俺が一人でやるまでだが?」
 冷えた声、振り返ることなく言い放つ、支配者の響き。疑いもせず。
「……やる。やりゃあいいんだろ。カッ! やらせていただきますよっ」
 光放つ小さき鏡のなか、眠る三つの影眺め、難儀なことだと言いたげにまた落ちた溜息。満足げな高笑いとともに風が浚っていった。

 東西南北の四国に分かれる大陸の、北を制する北琉ほくりゅう国の外れ。
 人里離れた国境にほど近い街道を、そのまた外れた連山の一つ。かつては霊峰で知られた険しい山を行く一行があった。
 先に立つは黒衣に身を包んだ若い道士。一歩遅れて傍らには、鹿とも馬ともつかぬ獣が一頭。しんがりには、憮然とした顔の童子が続く。
 見たところ、旅の道士とその従者といった風情であるが、それにしては不貞腐れた様子の童子の態度、いかにも尊大極まりなく。よくよく見れば左の耳飾る金細工や腰に帯た剣も、従者如きが身に付ける物には、到底見えぬ。
 鹿よりも大ぶりな角持つ獣の背には荷しかなく、先行く道士も続く童子も、揃っ
て自らの足で険しい山道を登ってゆく。

「人っこ一人いやしねぇのに、なんで封印解かねぇんだよっ」

 喚くは年のころ十四、五の童子。人品卑しからざる顔立ち端正なれど、不貞腐れた様子にあどけなさ残る。
 目の醒めるよな深い青の上着は、すべらかな肩がむき出しで、一足ごとに深まる冷気に浅く焼けた肌が粟立っている。ふるりと身を震わせ、睨みつけるは先を行く広い背中。振り返りもせぬのに、また声を荒げる。

「聞いてんのかよ、色惚け道士!」
「お師匠様と呼べっつってんだろ、クソちび竜子ロンツー

 はぁ、と、溜息混じり苦い声とともに黒髪揺れて、ちらり振り返るかんばせは、美麗なれども疲れの色が濃い。
「お前なぁ、誰のせいで金にもならねぇ妖魔退治を引き受ける羽目になったと思ってんだ? てめぇが封印解いた姿で、のこのこ出歩くからだろうが。ちったあ反省しやがれ」
「そ、それは……俺も、悪かったけどよ……。けど、チョッパーはそのまんまじゃねぇかっ。チョッパーだって見られりゃまずいだろ。贔屓すんなっ」
「チョッパーはいいんだよ。馬と鹿の相の子で誤魔化せんだからな」
 話を振られた獣がおろおろと、まるで人語を介すかのよに二人を交互に見やる。

「ま、あれだ、世にも珍しい馬鹿ってことで」

「ああ、馬と鹿だから」
「あー、なるほど。サンジ、うまいこと言うなぁ……って、俺は馬鹿じゃねぇ! トナカイだっ!!」

 聞こえた声、三つ。取り出した煙管でぽかり獣の頭を叩き、道士はまたも溜息。
「喋んなっての。まだ登り口なんだからな、人目がないとは限らねぇだろうが」
 さすがに物言う獣は珍しいでは済まされぬと呆れ声で言い、道士は煙管に火を点じた。
 風に流るる紫煙。揺れる前髪、鬱陶しげに押さえる白い手見つめ、童子はわずかに唇尖らせる。
 たしかに、封印解かれた姿のまま部屋を出たは自分の失態なれど、そもそも市中になど泊まらねばよい話ではないか。野宿を厭うわけでなし、それどころか部屋のなかでしか封印解けぬ宿など願い下げだと、常から言っているのである。
 なのに道士は人の多い場所を好む。無類の女好きゆえわからぬでもないが、本来の姿さらけ出せぬは道士とて同じこと。窮屈ではないのかと、童子はますます憮然とする。

 自身の本性封じられるも忌々しいが、童子の不機嫌にはもう一つ。道士の姿も気に入らぬと、柳眉を寄せての上目遣い。

 白木蓮の肌、痩身長躯の美丈夫っぷり。皮肉な笑み作る口許に、泰然として煙管咥えるさまも見慣れた体ではあるが、その髪と瞳が気に食わぬ。
 出会う女性にょしょうがこぞって誉める艶やかな漆黒の髪の、本来の輝き。
 黒耀石に例えられる瞳の美麗さも、童子が焦がれる煌めきとは比べものにならぬ。

 ほかの者に見せるは口惜しい。己が目からも隠されれば、なお悔しい。
 それが閨でのことなら、なおさらに。

 道士もわかっているのか、我儘めと苦笑しつつも本来の姿さらし、あやすよに触れてくるのが心地好い……とは、口にできず童子が胸の内。言えぬままにもわかっているから昨夜もいつものよに、己が我儘聞き入れ、本来の姿さらしあいながらの情交に興じたのではなかったか。

 そんな言葉伝える上目遣いと、悔しげに小さく唸るさま。まるで猫の仔のようだと胸中で思えど、道士は笑みを隠してまた溜息ついてみせた。
 本当の姿見られぬは淋しいかと言い当てたなら、柳眉つり上げ痴れ言抜かすなと喚きたてように。瞳ばかりが雄弁に、愛らしくもある我儘伝えるから、質が悪い。
「この国は特に異国民や妖魔妖怪のたぐいには厳しいって言っただろうが。見られたのが後姿だったから、ちょうど噂になってた妖魔で誤魔化せたものの、お前が人じゃないってばれたら、即刻首を刎ねられるとこだったんだ。連れの俺も同罪。異国民だとばれなくてもな。本当にわかってんのか? ゾロ」
 精々しかつめらしく道士は言うが、口許は苦笑をこらえるのに必死の態。とはいえ、その言には嘘偽りなどない。
 市井に聞こえた妖魔の噂なくば、宿に現れた緑髪の童子の正体探らんと即時駆けつけた役人によって、似たような年格好の者はすべて引き出されていたはずである。
 旅の者、年恰好、鑑みずとも最も疑わしきは、誰あろう人々驚かせた当の本人、ゾロであること明明白白。
 腕にもの言わせれば済むことと、戸を叩かれた時にはすでに剣の柄に手をかけるを、慌てて制し。嫌がるゾロに封印施し、自分も異形隠した道士。しれっと口を開いて言うことには、おそらくそれはちまたに聞こえた妖魔の変化。お疑いならその妖魔、我らが退治てみせましょうゆえ。それでなくとも道士として、善良なる人々震え上がらせる闇の者ども、捨て置くわけには参りませぬとの、口八丁。
 いかにも善意の塊であるかのよな風を装い慌しく、宿を出立したはまだ陽も明けやらぬ払暁。眠りが足りぬと、誰の顔にも疲労の色が漂う。
 しかも常ならば路銀の足しにと、金銭食料と引き換えの妖魔退治。こたびはさすがにそれもならずのただ働き。
 かてて加えて今しばらくは続く北琉国の旅である。いかに口先ではともあれゾロには甘い道士とて、ここで甘い顔は見せられぬ。

「俺らの首を刎ねられるような奴が、こんな田舎でくすぶってるもんかよ。適当に蹴散らして逃げちまえばよかったんだ」

 引っ込みつかぬゾロはといえば、睨む瞳に拗ねた色滲ませ、まだ唇尖らせている。
 そもそも、なにも寄り道などせずとも人目のない街道の外れをそのまま行けば、面倒事にも巻き込まれずに済んだはず。封印解くを了承したからには、道士とて同罪だろうに。自分ばかりが悪者なのは合点がゆかぬと、ふくれっ面。

「路銀が心許なくなってきたから、しばらくは市中に滞在して易で稼ぐと、言ってあるはずなんだがな。ちったぁ人の話を聞きやがれ、クソちび竜子」

 眉根寄せての道士の反論に、ゾロはまばたきを一つ二つ。心当たりなどまるでない様子。

「んなこと言ってたか?」
 嘘をつくなとは言えぬ前科持ち。上目遣いと問う声に、わずかばかりのためらい滲む。
「市中に入る前日に、泉で沐浴しただろ?」

 その時たしかに伝えたであろうがとこともなげ、道士はさらり言い切るが、沐浴ばかりで済まぬはいつものこと。その折りの戯れ思い出したか、童子の頬に花の色散る。
 だがそのほのかな赤らみも、続く道士の言にて、瞬時に意味合い変えた。

 曰く。

「ああ、そういやお前、かなり我をなくしてたからな。あれはそんなにクソ気持ち良かったか?」
「……っざけんな、色欲道士っ!」

 いいだけ嬲られ喘がされ、忘我の極みのその最中、伝え聞かされたところで覚えていられるわけもなきことぐらい、道士も重々承知してように。まったくもって質が悪いと、童子は怒りに肩震わせた。

 認めるははなはだ業腹なれど、快楽に弱いが童子の悩み。お陰でいつもいいように、道士の悪戯の手、許してしまう。それさえも、因果辿れば道士の手により花開かされたゆえともなれば、童子の腹立ちいかばかりか。

「もしあん時言ってたとしても、俺は街に入る前にも聞いたじゃねぇかっ。なんで答えなかったんだよ!」

 喚きながらも答えなど、わかりきってはいるのであるが、それでも唯唯諾諾と流されるは我慢がならぬ。
 道士のかような仕打ち、こたびの一件のみならず。反論防ぐが目的か、房事の最中の言の葉、流し聞いたが最後、揶揄の種、道士の都合のごり押しなど、いいようにあしらわれること、数えきれず。いずれもろくな目に遇ってはおらぬ。
 その都度怒りあらわに次こそはと、童子は拳を握り締めるが、わかっていても烈し過ぎる悦楽の波、浚われるを防ぐは至難の業。夢心地恍惚とさせる手指の誘い、口づけの甘露、いずれも道士の策略かと思えば、それもまた悔しくもある。

「何度も言わなきゃわからねぇか? お子様相手はクソ疲れるな」

 わざとらしく溜息などつくさま、ますます小面憎い。

「ガキ扱いすんなって言ってんだろ! てめぇの倍以上生きてんだぞ!」
「転生もできねぇ稚竜に言われてもなぁ」

 びくり、童子の躯がすくむ。
 皮肉げな笑みと流し目、紫煙たゆたわせ、道士はなおも言う。

「百五十生きようが、卵の殼つけたままに変わりはねぇだろ? クソちび竜子。中身がお子様じゃどうしようもねぇ。まったく、どっかの我儘公子坊ちゃんのせいでとんだとばっちりだ。妖魔なんぞより、麗しの佳人にお逢いしたいってのによ」

 まるで傷つけるために紡いでいるかのよな、道士の言葉。響きに滲むかすかな冷ややかさ。
 常には与えらるることなき冷酷さに、童子の頬赤らめさせていた血が、すっ、と引いた。
 皮肉や揶揄など口の悪きは慣れてはいるが、かような冷ややかさ与えられたは一度もない。現に先ほどまで口では小言や愚痴をこぼそうとも、言葉の端々見やる瞳に、童子を甘やかすやわらかさ、隠しきれずにいた道士である。
 童子もまた、それを感じ取っているからこその我儘三昧。どれだけの不安抱こうとも、甘やかす瞳に見つめられれば、安堵が生まれる。童子に問うたところで、一向認めはすまいが。
 ともあれ、道士の突然の仕打ちに、童子の胸を不安が占めたは間違いない。
 更に追い討ちかけるよに、冷えた声音が紡いだ言葉はこともあろうに

「こんなことにならなけりゃ、今ごろは艶かしいご婦人から誘いの一つや二つあっただろうによ。なにが嬉しくて、こんな山奥で妖魔退治なんかしなきゃなんねぇんだか。まさかお前、わざとあんな失敗やらかしたんじゃねぇだろうな」

 いっそ憎々しげにも聞こえる道士の言。再び童子の頬染めた朱は怒りゆえ。奥に隠したる哀しみ気取られてなるかと言わんばかりに、まなじりつり上げ道士を睨む。

「もういいっ! 俺一人でやってやる。てめぇは街に戻って、どこぞの後家さんの股座またぐらでも拝んでやがれ! 下半身だけ男!」
「そりゃまた有り難い申し出で。妖魔どもにたぶらかされないよう、精々気をつけな」
 肩怒らせ背を向ける童子を引き留めるどころか、まるで厄介払いと言わんばかりの道士の反応。常には決して無いことである。

 どこぞの色惚け道士ではあるまいし、たぶらかされなどするものか。吐き捨てるよに言い足早に、立ち去る童子の胸の内、怒りより切なさ占めるは隠しきれぬ。

「サンジ、なんであんな酷いこと言うんだ!?」

 おろおろと成り行き見守っていた人妖チョッパーの、非難の問いにも道士は肩をすくめるのみ。慌てた様子など露ほどもなし。ばかりか童子の後を追うぞとチョッパーが言えば、行くならさっさと行けと追い立てる始末。
 一体どうしたことか、まったくもって理解ができぬと首をかしげるいとまもなく、慌て童子の後追い駆け出す小さな人妖の背、暫時見つめ、やがて道士はゆるりと眼差しを周囲に巡らせた。

「……ふん、やっぱり気に食わねぇほうが残ったか」

 苛立たしげに煙菅の吸い口噛んで、ちらり、童子が消えた先へと向けた瞳には、常と変わらぬ和かさとかすかなためらい。

「あっちの奴に敵意はなさそうだが……ったく、殺意以外にゃ本当にクソ鈍い奴だ」

 本音洩らせば気に食わぬはどちらも変わらぬ、怪しげな気配二つ。
 敵意を感じられぬは双方同じことではあるが、その有りようは相入れぬ。

「さてと、どうしたもんかね」

 どこか呑気に聞こえる呟き一つ。紫煙とともに風に流れた。

 天を突くよな高い木々が陽光遮る山奥深く、一人下草蹴り散らし歩く童子の足、次第に速まり。もはや疾風思わす駆け足で、走り続けることしばし。ようよう足を止めたころには、道などとうに外れた薄暗がりに、童子はぽつり、立っていた。

 辺りはしんと静まり返り、童子の荒い息遣いだけが響く。
 胸の内に湧く言葉は、不実な道士への悪態ばかり。剣呑な言葉で繰り返し責めては、握り締めたる拳を震わす。

 哀しいなどと決して口にはしないものを。

 涙の膜を張らせた双眸、揺らめく奥に、隠しきれぬは恋慕の色。その色一度目にしてしまえば、童子が風情は取り残された幼子のよう、頼りなげに立ち尽す。

 と、静寂のなか不意に耳慣れぬ声が響いた。

「カッ! ずいぶんとまぁ変わったもんだ」
 苦笑混じり、敵意殺意などまるでなく。
「誰だっ!」
 さては噂の妖魔かと、刀剣に手をかけ童子が振り返れば、さにあらず。がさり音立てあらわれ出たのは威風堂々たる武人姿の男であった。

「お久しゅう、皇子殿」
「あんた……もしかして、葉柱の……?」

 驚き目を見開いた童子が呟きに、男もわずかに目を見張った。
 しかしそれも、ほんの数瞬。たちまち相好崩して、男は小さくうなずいた。
「カッ! 覚えているとは思わなかったな」
 長身と呼ぶより長いと言い表したくなるよな体躯に纏うは、穢れなき白一色。腰に帯たる長剣の、鮮やかな緑が映える。
 やけに長い手足持て余すかのよな猫背気味の姿勢は、されど卑屈さ微塵も感じさせぬ。艶やかな漆黒の髪後ろに流し、笑うその顔、野性味溢るる精悍さなれど、少しばかり下がった眉尻がどこか困っているよにも見える。
「会ったのは結局あの一度きりだったからな、とうに忘れられているかと思ってたんだけどよ」
 皇子と呼び掛けるわりには気安い物言いであるが、不思議と不遜な響きなく。低い声音が耳に甘く心地好い。
「忘れるもんかよ。その舌見たら嫌でも思い出すさ」
 童子の顔にも自然笑みがこぼれ、くすぐったげ、肩をすくめて指指す先に、男の口からちろりと覗く、赤い舌。異様に長く、ちろちろと動く。
 童子の言にはたと気づいたか、しゅるり引っ込めるさまは人の物とは思われぬ。
「もしかして、ここらで噂になってる妖魔ってのは、あんたか? ……葉柱」
「へぇ、それもご存知ときたか」
 刹那、刀剣にかけたままの童子の指、ぴくりと反応示すのに、葉柱と呼ばれた男は困ったよに見える笑み深めた。
「勘違いすんな。俺が言ってんのは『葉柱』のほうだっての」
 苦笑とともに言われ、童子の指から緊張が抜ける。合点がいったと小さくうなずき、にやり童子は笑ってみせた。
「眷族のお家騒動なんて興味ねぇけど、あんたはうちじゃ結構有名人だからな。ご親切になんだかんだと教えてくれる奴らが、わんさかいんだよ。うちの連中は親父を筆頭に暇人ばっかりだからな」
「カッ! 音に聞こえた東海竜王殿を暇人と言うか。そういうとこは変わってねぇなぁ」
 いかにも楽しげに快活な笑い声立て、しかし有名人とは一体何故なにゆえかと少しばかり首をひねる男に、今度は童子が苦笑する。
「さあな。初めてうちに来たときの印象が強すぎたんじゃねぇの? なんせその舌だし」
 顔をしかめる男に、本当の理由は教えてなどやらぬと、童子は苦笑を深める。
 よもや自分の初恋の相手と思われているのだなどと、誰が言えようか。勘違いだ断じて違うと声を枯らして喚こうとも、可愛いことよと言いたげに軽くあしらわれたを思い返せば、妙に気恥ずかしくもある。
 童子は空咳一つすると、赤く染まりかけた頬隠すよに、知己の顔から眼差し外した。
「ということは、俺の現状も聞きおよんでいるわけか?」
 言いながら男の表情がわずかに探るような気色をおびる。
 だがしかし、言受けた童子の双眸、再び真っ直ぐ男を見据えたときには、刹那変化は消え失せ、童子の瞳に映るは先となんら変わらぬ笑みばかり。
「まぁな……けどそれに関しちゃ、うちに限らず天界中で噂になってたって聞いたぜ? 『葉柱』がまた出奔騒ぎ起こしたって。一族の名を背負った総帥が、立て続けに二人もいなくなったのは、前代未聞だってな」
「そりゃまぁそうか。だが、俺は兄貴と違って今も『葉柱』だ。主がこの名を気に入っちまってるらしいんでな」

 ぴくり。童子の眉が跳ねた。
 男の表情、声音、すべてに滲む慈しみ。童子の記憶くすぐって。

「出奔の理由はやっぱり『主』って奴か。再会を果たせたわけだ」
 喜ばしいと思えども、心の片隅わずかばかり頭をもたげる小さな苛立ちに、童子の声はつまらなげに響いた。

『俺の主はもう決まっている。来し方行く末、永劫主はあいつ一人きりだと、俺が決めた。すまんな』

 どこか照れ臭げ、けれども揺るがぬ信念そのままに、深緑の瞳、まっすぐ童子を見つめたその日より、百四十年は優に経っている。
 男が『主』とやらに初めて出逢うたは、更に百年前のことだと聞いた。

 思い返すは初めての出逢い。それを語るには、時は百五十五年ほどさかのぼる。