風語る、誰彼に生まれ、払暁去りゆく闇の唄

「ずいぶん眠そうだな」
 大欠伸のゾロに苦笑ひとつ、葉柱が言えば、ゾロはぎろり睨んで唇尖らせた。
 誰の所為だと喚きたいのは山々なれど、葉柱とヒル魔の情交見ていたことを、告げる羽目になりかねんと、文句も言えぬ。
 昨夜のこと、悪夢と思えれば救われようが、幾度となく繰り返される他人の房事間近に聞かされ、眠りに落ちるはついぞ叶わず。払暁、ヒル魔が眠りに就くまで呪縛も解けぬまま、湧き上がる欲と苛立ちに苛まれ過ごした記憶は、到底夢と切り捨てるわけにもいかぬ。
 眠りが足りぬも不機嫌に拍車をかけ、ゾロは朝からむつりと顔しかめたまま、ろくに返事もできぬ有り様である。
 陽光弾き煌く水飛沫浴びながら、桶に清水汲む葉柱の首筋、そっと伺い見るが、昨夜目にした無残な傷跡は隠され見えぬ。夢だと思いたくなるのを、溜息で振り払う。

 日の下で見る葉柱の姿、遥か昔となんら変わらず、精悍にして清涼たる佇まいは淫猥な秘めごとなど無縁に見えるものを。

 闇のなかより白日の下、快活な笑み浮かべているほうが似合うと、ゾロは眩しげに瞳細めた。
 ヒル魔と同時、ようやく眠りに就いたと思えば、葉柱が休息とったはわずかばかり。うつらうつらと己も念願の眠り貪ろうとしていたゾロもまた、葉柱の起きだす気配に慌て眠い目擦りつつ、起き上がったのは一刻半(三時間)ほど前であろうか。
 チョッパーも起き、主一人残したまま昨夜の残りで朝餉を済ませ、食糧の調達に出るという葉柱とともに外に出てからも、いまだゾロはまともに葉柱の顔見られずにいる。
「……で? なにか言いたいことがあるんじゃねぇのか?」
 苦笑はそのままに、けれども存外真剣な瞳にて葉柱が問うてくる。
 決して逃げたりせぬと言い張りついてきたのであるから、訊かれぬわけもないのだが、いざ面と向かって問われれば、なにから口にしてよいものやら。
 口ごもるゾロに、葉柱の苦笑、自嘲をまじえて深まり、見てたのであろうと小さく問うてくる。
「ヒル魔の様子がいつもと違ったからな。そんなことじゃねぇかと思ってたんだが……」
「……と、途中までだけだ! すぐ目閉じたし!」
 己が房事見られた葉柱より、ゾロの頬のほうがよほど赤い。
 気づいていたのならなぜヒル魔を止めぬと、腹立ちに唇尖らせ上目遣い。睨みつければ葉柱はますます苦笑するばかり。
「ま、見られたところで俺はかまわねぇけどよ」
「いや、そこはかまえよ! ったく、恥ずかしい奴らだな」
 ゾロの言葉に違いないと快活に笑ったのも束の間、葉柱はふと真顔になり、少しばかり首かしげ促すようにゾロを見つめた。
「文句もあるだろうが、訊きたいのはべつのことだろ?」
「……ああ」
「答えられることなら全部答えるが、答えられない場合は、沈黙するしかねぇ。それでもいいならどうぞ?」
 口先だけ誤魔化すことはせぬと、言外に葉柱の言う。
 偽らぬとの約定、いまだ固く守るその律儀さに、ゾロは小さく溜息ついた。
 その律儀さはゾロにとって好ましいものではあったが、だがそれゆえにヒル魔の横暴許しもするのであれば、美徳とばかりも言えぬではないか。
 とはいえど、ヒル魔の言いなり唯々諾々と付き従うは、主と定めた者への忠誠心のみが理由でもあるまいが。
 葉柱のヒル魔への執心、昨夜のさまなくとも恋慕であるのは容易に知れる。であるからこそ、ヒル魔の態度にゾロは憤り覚えずにはいられなかったのだが。

 しかしながら、腹立ち抑えよくよくヒル魔の様子思い返せば、言葉の端々、視線の動き、縋る仕草にいたるまで。すべてに葉柱への恋情ほの見えるよな気がせぬでもない。
 わからぬのは、何故想いを自ら踏みにじるよに、奴隷呼ばわり繰り返すかであるが。
 人の心などたやすく読めるものでなし、ましてや恋心など己が内でも整然からはほど遠い。しかもあの妖魔、相当なひねくれ者と見える。
 素直に落花流水とはいかぬかもしれぬと、道士への己が態度ひとまず棚にあげ、ゾロは肩すくめ葉柱の眼差し真っ直ぐに受け止めた。
「あの色欲道士のことなんだがな、昨夜あんたらが話してたのは本当か?」
「本当もなにも……俺のほうこそ訊きたいんだがよ、本気で気づいてなかったのか?」
「……悪かったなっ」
 呆れた様子の切り返しに、ゾロは憮然としつつ頬染めた。
 道士にも同じ言葉、幾たび言われたことか。不貞腐れる幼子のよにぷいと視線逸らせたゾロに、葉柱はまた苦笑洩らし、小さくうなずいた。
「ま、答えると言ったからには教えるけどよ。どこまで聞いてたかは知らねぇが、聞いた通り、としか言いようがねぇな。ヒル魔があの調子だったから、俺が感じたままのことしか今のところはわからねぇ」
 葉柱の声、淡々と。だが、わずかに眉ひそめた表情は、それが葉柱にとっても不快なものであるのを示している。
 うなずき返し、ゾロは小さな舌打ちひとつ。
 昨日の道士の急な変心、理由らしきを知ればなおさら腹立ちも沸く。
 無理にも意識を眠りの底へと沈めることできずにいた理由は、情交の合間、葉柱たちが交わしていた言葉の指し示すものゆえである。
 山に入りて後より、葉柱同様ゾロら一行を窺っていたという、怪しき気配。どうやら道士目当てのものであるらしい。
 なんたる不覚よとゾロもまた、苛立ち隠さず柳眉を寄せる。
 悪意敵意のこもる殺気ならば、砂粒ほどの気配ですら感知するはたやすいが、悪意なき気配には、まるで神経行き届かぬ己の不甲斐なさに、まず怒り。ついで心占めるは、道士の思惑への憤り。
 どこまで人を甘やかせば気が済むのか。なにもできぬ乳飲み子でもあるまいし、何故なにもかもを一人で背負い込むよな真似をすると、唇噛む。

 それほど、我が身は頼りないか。

 怒りのなかにも沸き立つは、哀しみの色なす切なき想い。恋情と、言い切ることいまだできぬ、道士への。
 かくも心とは読めぬもの。己がものですらすべて知ることままならぬ。
 想う心に恋しいと、気恥ずかしいよな名を与え、言の葉乗せるが叶うなら、道士の心も見えるであろうか。
 思ったところで詮ないことと、ついとわずかにうつむいて、ゾロはひとつ溜息飲み込むと、愁い振り払い葉柱を見据えた。
「……で? そんな妙な奴がつきまとってても、あの金ぴか野郎は色欲道士が欲しいってのか?」
「カッ! えらい言い草だな」
 困ったよな苦笑浮かべつつ、瞳はどこか痛みこらえているよに見えるから、ゾロは尊大に鼻鳴らし笑った。
「つくづく趣味の悪い野郎だな、あんたの主は。そこまであいつに固執すんのはなんでだ?」
「……それは俺にもわからねぇよ。推測はできるが、それをお前に言うのは筋を外れる」
「沈黙するのが、あんたの答えだと?」
「是」

 探りあうよに眼差し絡む。

 過ぎた日には、かような瞳互いに見交わす日訪れるなど、微塵も思いはせなんだものを。
 互いを変えた異国の民ども、かたや深い眠りの底。もう一方は、今ごろなにを思うていることか。
 ゾロにしてみれば不本意ながら、守る者守られる者とに立場違えた身の上ではあるが、いずれ奴らに振り回されることには変わりない。
 思えばまた腹立たしくあれど、今はひとまずさておくとしてと、ゾロは深く息吐きにやりと不敵な笑み見せた。
「昨夜の話じゃ、今夜動くらしいな」
「あの気配の目的が知れないかぎり、大人しく待ってたところで道士殿は来てくれそうにないからな」
 あれは気の長いほうではないゆえとの微苦笑に、うなずきひとつ、不敵な笑みそのままに返し。
「俺も行くぜ。文句は言わせねぇ」
 言えば葉柱の口から長い舌とともに溜息こぼれ落ち、諦め気味の面持ちでやれやれと肩をすくめた。
「まったく、どこまで聞いてやがんだかよ。さすがにちょっと恥ずかしくなってきたぞ」
「て、てめぇらが乳繰りあってんのなんて聞いちゃいねぇからなっ! あの馬鹿の話をしてたから、それが気になっただけだっ」
 頬染め慌て否定をすれば、また肩すくめ、葉柱はいなすよに手を振る。
「わかったから喚くなよ。俺も寝不足なんだ、頭に響く」
 夜通しあんな淫猥な物音立て続けていれば、眠りが足りぬも当然であろうと、ゾロは、赤く染まった頬はそのままに唇尖らせ、葉柱の苦笑睨みつけた。
 しかしそれを口に出せば、藪を突くようなもの。これ以上こんな話を続けるは敵わぬ。
 とにかくと、空咳ひとつ憮然としたまま、異論はないなと視線で問えば、葉柱はわずかに逡巡見せる思案顔。眉尻ますます下げたその顔に、思わず笑いそうになるをこらえて、ゾロはじっと葉柱見据える。
「こっちから出向くってんなら、人質なんて必要ねぇだろ。それとも、あんたの言う人質ってのは、あいつをおびき出す餌じゃなく、あいつから抵抗を奪うための枷か?」
 そこまで堕ちたかと冷ややかな眼差し向けられ、葉柱は、溜息零しつつ首を振った。
「……多分、ヒル魔は了承するだろうが……俺としては、できればゾロにはことが済むまで手を出さねぇでもらえりゃ有り難いんだがよ」
 言いよどむ葉柱に、ゾロの眉尻はぴくり跳ね上がる。道士のみならず、お前までもが人を小さな子供扱いする気かと、言葉にせぬまま険ある眼差しにて睨み据えていれば、葉柱の口からまたも溜息落ちて。
「ゾロが動けば、俺が相手をすることになる。手合わせならいくらでも相手になるが、本気で命のやり取りするのは気が重い」
「……俺の命を奪うのは忍びないと、そう言いたいわけか?」
 舐められたものよと鼻鳴らし不敵に笑むゾロに、葉柱は再び緩く首振り、苦笑をひとつ。
「逆だ。俺はまだ死ぬわけにはいかねぇんでな」
 ゾロの力量並々ならず、過日の手合わせのようにはいかぬこと、重々承知と葉柱の言う。どこか困っているよに見える苦笑浮かべたまま、瞳ばかりは真剣に。
「だが、まぁ、負ける気はしねぇけどな」
「なに矛盾したこと言ってやがんだか」
 呆れるゾロに、葉柱は小さく笑うばかりである。
「まぁいいさ。言い出したら聞かねぇのはヒル魔で慣れてるからな」
「あんなのと俺を一緒にすんなっ」
「はいはい」
 いなされむくれるゾロに、葉柱の顔が不意に人の悪い笑みをたたえた。
 むすりと顔をしかめたまま、一体どうしたと言いたげな視線をやれば、ついと近寄り耳元に唇寄せてくる。
「それより、服洗ってかなくていいのか? 汚したままじゃ気持ち悪ぃだろ?」
「へ? 気持ち悪いって……あっ」
 にやにやと笑いながらの言に、小首かしげたは一瞬。意を悟った瞬間に、ゾロの顔は盛大に赤く染まった。
「着替えが入用なら貸してやるぜ?」
「い、いらねぇよ、いきなり変なこと言うなっ。てめぇはあの金ぴか野郎のケツの心配だけしてやがれってんだ、この好色蜥蜴!」
「それに関しちゃ心配ご無用ってもんだ。無理は一切させてねぇからよ」
 それとも道士殿はお前に無茶ばかりさせるのかと、やけに真摯な口調で問うが、瞳は完全にゾロの慌てふためきようを楽しんでいる。
 それ以上ろくでもないこと口にするなら今ここでその首刎ねて、二度と軽口たたけぬようにしてやろうかと、刀に手をかけるゾロに愉快げな笑み返し。
「そいつは後のお楽しみってことにしとくわ。さっさと戻ってもう一眠りしておこうぜ。どうせ動くのは夜だ」
 言って早くも歩き出す葉柱に、ゾロは舌打ちひとつ。白い背中睨みつけ、性格の悪さまで主に従わずともよかろうにと、唇尖らせ。
 頭の片隅少しだけ、素直に沐浴だけでもしておけばよかったと、ちらり悔やんだ。

 風が吹き、座した男の黒髪散らした。咥えた煙管から立ち上る紫煙も形成す前に散り散りに風にさらわれ、じじっとかすかな音立て小さな火が一瞬赤みを増す。
 風に嬲られる前髪そのままに、黒衣に身を包んだ道士姿の男――サンジは、閉じた瞼をゆるりと上げた。

「……明けたか……」

 ぽつり言う声音は平坦なれど、どこ見るともつかぬ眼差しには険が宿っている。
 一人梢の下に座し、現れては消え失せる怪しき気配との根比べに、疲労の色は見えぬまでも苛立ちばかりは隠しようもない。夜を徹しても一向に進捗なく、再び近づいてきた気配に、やはり目当ては自分かと知れたが唯一の救いとは、まったくもっていただけぬ。
 少なくとも、連れの童子や人妖の後追い、危害加える心積もりは無さげであるが、目的が知れぬままでは楽観もできず、サンジはきりっと煙管の吸い口噛んで、舌打ちひとつ。

 北琉国に入って間もなく伝え聞かれた妖魔の噂といい、こたびの件といい、どうにも気に障ることが多すぎる。
 やはり北琉は鬼門よと、わずかな自嘲眼差しにたたえ、サンジはまた、ゆるゆると辺りを這い回るかのよな気配に意識を集中した。
 ある程度までは近寄ってくるが、それ以上は近付かず。捕えんとすれば、するりと消える。
 悪意は感じられぬがいかにも粘着質な気配には、到底ろくな目的あるとは思えぬ。
 であるからこそ、連れが距離置くよう仕向けたというのに、一夜かけても相手の意図すら読めぬとは。まったくもって腹立たしいと、サンジはあらわな右目を露骨にすがめた。
 いずれ目的が己ならば、一人にさえなればなんらかの接触試みてこようと思うたが、目論みは当てが外れ、このまま持久戦続けるは、いささか分が悪い。

「……噂の妖魔ってのは、てめぇか……?」

 応え返るとも思われぬが、このままいたずらに時間ばかりが過ぎるは、どうにも苛立たしい。
 連れを追っていった気配には不穏さ微塵もなく、連れの力量であればさして危険はなかろうが。意地っ張りな連れの童子のこと、すぐには戻らぬのは承知とはいえ、やはり長く離れる不安は拭い切れぬ。
 このまま己が元には戻ってはこず、再び逢うこと叶わぬよになりそうで。不安の種はサンジの胸のうち、小さく芽ぶき育ってゆく。

 離れてほしいのか、放したくないのか。

 身勝手なと自嘲に唇歪めても、どちらとも本心であるから、この先を決めかねている。
 傍らにいれば行く末憂い、辛くなる。離れていれば、恋しさ募る。一体いつからこれほどまでに惹かれ囚われたのか、サンジ自身にも一向わかりはせぬ。

 想うばかりであったなら、ここまで悩みもせなんだものを。想われるがわかるから、心乱れて、定まらぬ。

「目的は俺だろう? なにがしたくてつきまとってやがんのか知らねぇが、いい迷惑だ。言いたいことがあんならさっさと言いやがれ」

 不安苛立ちぶつけるよに、サンジはすがめた瞳ひたと正面に据え、抑えた声音で言い放つ。
 己が心と互いの距離、誤魔化しながら見せかけの平穏甘受して。このまま行けるところまでと、後ろ向きな姿勢続けてきた。
 こたびの件なければ、今しばらくはそのままでいられたであろうものを。

「言う気がねぇなら、これまでだ。これ以上貴様につきあってやる義理はねぇ」

 言い様ゆらり立ち上がれば、気配はわずかに引いた。

 正面。距離は、かろうじて届く。力抑えられるぎりぎりの距離。我慢は限界に近い。

 サンジの左手すいっと上がり、半面覆う前髪、白い指先で掬い上げるよに動けば。

「……なかの奴が、邪魔をするのだ……」

 聞こえた声に、指先止まる。
 低い男の声はしゃがれ、年老いて聞こえた。抑揚のない地を這うよな声である。
「なかの……? なんのことだ?」
 その声近く、ずるりと足元から這上がってくるよな心地する。あまたの蟲ども背筋を我が物顔で這い回っているかの如き嫌悪感、耐えがたく。サンジは上げた左手下ろすと、煙管の吸い口強く噛みしめた。

「答えろ、貴様の目的はなんだ。なかの奴とは、なんのことだ」

 眼差し一点に据えたまま、固い声音で再び問えば、突如吹いた風一陣、梢を揺らした。

「ああ、本当に、邪魔だなぁ……このままでは、我が入れん……」

 その声、耳元で。気配が、ぴたり、背中に張り付く。
「……っ!?」

 頬を、見えぬ手が撫でた。

 サンジの背を、冷や汗一筋つっと落ちる。
 感じなかった。
 なにも。
 これほど近く、寄っていたことに、気づけなかった。

 なんたる不覚。

 舌打ちひとつ即座に振り返れば、気配はすでにそこになく。風だけが吹く。

「だが、諦めんぞ……我の物と、決めたゆえ……」

 抑揚なきまま、声は密やかに笑ったようであった。

 右。
 声のするほう認め視線転じれば、左から、我の物だと、また声がする。
 動く気配、微塵も感ぜられぬまま。

 そして。

 気配は、完全に消えた。
 サンジ一人その場に残し、気配は消え失せ、ただ風だけが紫煙をさらっていった。

 ヒル魔が目覚めたのは、太陽が完全に天空から姿を消した頃合いであったらしい。
「よく寝る野郎だな、図太い神経してやがる」
「う、うるせぇなっ。てめぇ人のこと言えんのかよ!」
 呆れ返った様子のヒル魔の悪態も道理。いかに眠りが足らぬとはいえ、仮にも己を人質扱いする妖魔の塒で、健やかすぎる午睡貪っていた挙句、当の妖魔に蹴り起こされるなど、不覚もよいところであろう。
 危機感が足りぬと道士を呆れさせるは、いつものこと。とはいえ、さすがにこたびは分が悪い。
「俺が日中寝てんのは、そういうふうに躯ができてるからだ。テメェみてぇに好きで寝てばかりいるわけじゃねぇ」
 ふんと鼻鳴らし皮肉な冷笑浮かべるヒル魔は、昨夜と違い、いかにも生命力の塊のようである。
 そんなヒル魔の様子に、ゾロは不意に悪夢のよな昨夜の光景思い出し、舌打ちひとつ眼差し逸らせた。
 葉柱の首筋顔埋め一心に血をすするヒル魔の姿、生々しく思い起こされ、それはまた、その後の二人の房事さえも記憶のなかから呼び覚ます。
 自然赤くなる頬持て余し、眼差し周囲にさまよわせれば、ヒル魔は再び眉そびやかし笑った。
「お子様には昼寝が必要とはいえ、そんなに寝てちゃ頭に黴が生えるぞ。あぁ、もう生えてたか。空っぽの頭をまるっと黴が包んでやがる」
「ガキ扱いすんなっ! 黴なんざ生えるか!!」
 喚くゾロに高笑いで応えるヒル魔の様子、幾分呆れた態にて見ていたチョッパーが、不意に小首をかしげた。
「ヒル魔にはゾロの本当の姿が見えてるのか?」
 封印施され市井の童子とさして変わらぬゾロの風貌、その黒髪目にしながらの悪態に、チョッパーの疑問、さもありなん。ゾロも初めてそれに気づき、思わずまばたき数度、改めてヒル魔を見やる。
「俺は千里眼だと言ったろ?」
 いかにも得意気、にやり笑い。感心しきりのチョッパーの頭撫でつつ、ちらりゾロへと向けられたヒル魔の金赤の瞳、嘲笑めいた色成している気がする。
 なにが理由やら判らぬが、ヒル魔の言動、表情、すべてがゾロに対して挑発的であるは否めぬ。
 ゾロにしてみれば元々の気性に加え葉柱との因縁もまた、彼の妖魔への不満憤り覚えるものであるから、こちらもついつい些細なことにも反応著しい。
 今もなにが言いたいとまなじりつり上げヒル魔を睨み、返答いかんでは抜刀辞さぬかまえにて、葉柱の溜息を増やす。
「喧嘩するほど仲がいいとは言うけどよ、こんな狭い場所で刀振り回したり火炎飛ばしたりすんのは勘弁してくんねぇ?」
「誰が仲がいいって?」
 ぼやく葉柱に返す声音、ぴたり重なり。思わず見交わした眼差し、ふんと勢いよく逸らしあう。
 さても気の合うことよと苦笑する葉柱に、ともに冗談じゃないと食ってかかれば、葉柱とチョッパー顔を見合わせ笑いながら、肩すくめあった。
「ともかく飯にしようぜ。腹ごしらえしたら出るんだろ?」
「……サンジはご飯食ったのかなぁ」
 夕餉を勧める葉柱に、チョッパーが心配げな面持ちで言えば、ゾロの脳裏に連れの道士の皮肉な笑み浮かぶ。
「……どんなときでも飯は食えって奴なんだから、心配するこたねぇよ」
 ぶっきらぼうな物言い、不貞腐れたよにわずかばかり伏せた瞳は、ともすればチョッパー以上に連れの動向案じているよにも見える。
 道士の力量、充分承知の上。生半な相手では到底敵うわけなきことなど、わかっているのに。
 得体の知れぬ気配とやらに不安覚えているのかと問われれば、否と答えるに迷いはないが、なぜやら不穏な胸騒ぎ、身の内よりざわりざわりと湧いてくる。
 自分を遠ざけてまで一人で相対するからには、相手の実力軽んじることはできぬと見たのか、それともほかにゆえあってのことか。道士の真意など、ゾロにはまるで窺い知れぬ。
 危険から遠ざけようとの思惑ならば、子供扱いされているよで腹立たしい。そしてまた、おそらくは葉柱の気配にも気づいていたであろう道士が、逡巡なくゾロとの接触許したのも、ゾロにとっては面白くはない。

 常日頃、勝手に一人で出歩くな、誰彼となくついて行くなと、口やかましいほど言うのは、やはり自分を幼い子供のよに思うているだけなのか。

 思えば憤懣遣る方ないと同時、なにやら胸の奥底ちくりと痛む。
 葉柱の持つ気配、たしかに保護者守護者の色濃く感ぜられ、不安覚える要素は少なかろうが。それでも。

「ゾロ?」

 葉柱の声に我に返り、ゾロは慌てて供された椀を手に取った。なんでもないと口早に言い、染まりかけた頬隠すよに椀に口をつける。
 今日のヒル魔は葉柱の隣に腰を下ろし、自らの手で静かに食を進めている。時折交わす会話は他愛ない。小さく笑みを見交わしあいもする。
 こんな風に、道士とは違う誰かとゾロが笑み交わしあう姿を、道士はちらりとでも思い浮かべはしなかったのであろうか。小さな胸の痛み、覚えはせなんだか。

 いつでも飄々と、どこか皮肉めいた笑みたたえ、言葉ばかりは軽く睦言口にもするが、こんなときには妬いてもくれぬか……。

 溜息つきかけ、馬鹿らしいとゾロは瞳をすがめた。
 道士の思惑どうあれ宝珠の欠片――残る刀二振り己が手に戻るまで、竜宮帰還の意思などゾロにはなく。人界での旅暮らし続けるならば、童子姿の己一人では不都合ある場が多いは事実。
 道連れの理由など、それだけで充分ではないかと己に言い聞かすよに、ゾロは柳眉寄せて胸の奥独りごちる。
 今はまだ、離れてやる理由などない。傍らいる理由は、考えまい。いずれ道士が真の胸の内、己に伝えられるその日まで。
 自分ばかりが切なさ抱え苦しむは御免と、胸の痛みに気づかぬ素振り。
 ちらり視線上げ、瞳に映る妖魔と神の二人連れ、人の身からすれば永劫とも思われる永き時ともに過ごすが叶う彼らに、うらやましいと、思う心おし殺し、溜息とともに飲み込めば、不意にヒル魔と眼差しが出会った。
 心に浮かんだ一言、見抜かれたかと思わず視線逸らすゾロに、ヒル魔はすでに見慣れた小馬鹿にしたよな笑み見せるでもなく口を開いた。
「一緒に行くんだって?」
「……悪いかよ」
 自ら出向くのであれば人質など必要なかろうと返した口調、我ながら好戦的だと思いつつ、反論されるだろうと身がまえたゾロに、ヒル魔はこともなげにかまわないと言ったのみ。
 拍子抜けした面持ちにて思わず見返すゾロに笑むでもなく、続けて言うことには。
「邪魔するなとも言わねぇ。好きにしな」
「……俺の加勢なんて眼中にないって口振りだな」
 苛立ち覚えながら抑えた声音でゾロが言えば、やはり笑うことなくヒル魔はうなずいた。
 ゾロの眉尻ぴくりと跳ね上がるを認め、唇の端ヒル魔はわずかに上げた。
「テメェの相手は糞奴隷がするからな。テメェがどう仕掛けてこようと、俺には関係ねぇ」
「葉柱のほうが俺より強いって信じてるわけか」
 なめられたものよと皮肉な笑み返しかけたゾロの唇が、ヒル魔の返答に思わず閉じるを忘れる。

 ヒル魔曰く。

「べつに? どちらが強いかなんて、それこそ関係ねぇからな」
 ヒル魔の声音、淡々と。表情わずかにも動じず。眼差し傍らの葉柱に向かうわけでもなく。
「俺の邪魔をさせるなと命じたからには、こいつはどんなことがあろうとテメェを止める。それだけだ。そうだな? 糞奴隷」
 揺るぎなき声、凛と響けば、傍らで葉柱小さくうなずいた。
「それがお前の命令なら」
 こちらも声に迷いなく。ゾロを見つめた眼差し苦笑めいた微笑みたたえているよに見えるが、深緑の双眸、思いの外強い光持つ。
「簡単に俺は止められないぜ?」
 以前のままだと侮るは早計と、葉柱の瞳真っ直ぐ見返すゾロの瞳もまた、揺るがぬ強き光放ち煌めいた。
 強きを望むゾロの気性、この場においても変わりはせぬ。一度敗した相手ならば、なおさら負けるわけにはいかぬと、早相対す時待ち侘びるは、もはや業と呼んでもよかろう。
 道士を案じる心や認めたくもない憧憬やら嫉妬、すべて好敵手目の前にした歓喜の底に沈め考えまいとすれば、なおのこと心逸る。
「お手並み拝見……なんて、悠長に構えてる余裕は、たしかになさそうだな」
 眉尻下げた見慣れた苦笑で葉柱言えば、ヒル魔の眉間に不満げな皺刻まれて、ちろり忠実な臣をねめつけた。
「やる前から弱気なこと言ってんじゃねぇ」
「カッ! べつに弱気にゃなってねぇよ。ま、なんだ、客観的な視野を持てと、口うるさく言う奴がいるもんでよ」
 冷静に判断した上で的確な評価下したまでと笑う葉柱、深緑の瞳にわずかばかり揶揄浮かべるのが癇に障ったか、ヒル魔は眉跳ね上げ、瞳に険宿しながら形ばかりの笑み、牙煌めかせている。
「ほぉ、その誰かさんは、どこかの単純な糞蜥蜴野郎と違って、戦術ってやつを知ってるらしいな」
「その代わり常識やら物の道理っていう、当たり前のもんの持ち合わせはえらく少ないみてぇだけどな」
「テメェの舌ほど非常識なもんがあるとは思えねぇが?」
「非常識でも結構だね。誰かさんは、その舌がお好みのようだからな」
 たちまち赤く染まるヒル魔の白皙、幾分呆れて二人のやり取り見ていたゾロは、思わず目をしばたたかせた。
 羞恥や道徳観など持ちえぬかと思われた、居丈高な支配者の表情取り払われ、頬染め瞳大きく見開きたるヒル魔の面持ち、いっそあどけなくも見え。言葉に詰まっているさまが、愛らしいなどと。彼の妖魔にはなんとも不似合い極まりない感慨、不意に覚えれば、ゾロの頬も知らず赤く染まる。
 ゾロに対しては常に挑発的なヒル魔の言動、葉柱に対しても奴隷呼ばわりがんとして譲らず。可愛げなどこの妖魔のどこにあるのか、葉柱も大概見る目がないと思うていたが、このような顔もできるのかとゾロが不躾な視線をヒル魔に注いでいれば、ヒル魔の頬にますます赤みが差した。
 だが、もはやそれは羞恥以上に怒りの度合い大きいようで、白い指先不意に掲げた刹那、葉柱の顔が強張った。
 一体どうしたと思う間もなく、ヒル魔の指先から迸る火炎、正確に葉柱の眉間貫きかけるを、間一髪かわした葉柱に舌打ちひとつ。真っ赤に染まった額に青筋立てて、ヒル魔は牙煌かせ怒鳴る。
「避けてんじゃねぇよ、糞好色蜥蜴! くだらねぇこと抜かすその口、永久に閉じさせてやっから大人しくぶっ殺されろ!」
「ちょ、待てって! 誰もテメェのことだなんて言ってねぇだろ、おいっ!」
「あぁ? テメェ、ご主人様に無断で、ほかにもその非常識な長ぇ舌使ってる相手いんのか? ならやっぱり死ね!」
「んなわけねぇだろうが! 全部テメェ専用だっての!」
 言う間もヒル魔の指先から放たれる火の玉絶えることなく、右へ左へと逃げ回る葉柱に呆気に取られるゾロの足元、あわあわと、怯えあらわにチョッパーがしがみつく。
 と、迸る火炎一筋、ゾロとチョッパーの足元近くで盛大に爆ぜ、二人は思わず悲鳴上げ飛びのいた。
「こんな狭いとこで傍迷惑な術使ってんじゃねぇ! 痴話喧嘩ならよそでやれよ!」
「うっせぇっ、ここは俺の塒だ、糞苔頭! 第一痴話喧嘩なんて誰がするか、生意気な奴隷を制裁してんだよ、俺は! 人のことに口出してる暇があったら金髪道士のことでも心配してやがれ!」
「なんでそこでサンジが出てくんだ! あんな奴の心配なんて誰がしてやるかってんだ!」
「おい、そりゃねぇだろゾロ。もうちょっと素直になったほうが可愛い……って、ヒル魔! テメェ今のデカすぎだって! 裾焼けたぞ!」
「やかましいっ! 止めてほしけりゃとっとと死ね!」
 まったくどいつもこいつも、自分と道士のことをどう思っているのかと憤慨しきりのゾロに、怯えながらもチョッパーがちらりと眼差し向ける。
 傍迷惑な痴話喧嘩ならばゾロとサンジも同様。やはりよく似た二組であることよと、口で言うより見やる瞳は雄弁に物語るが、誰もそんなチョッパーの呆れた感慨気に留めるものはおらぬ。
 それぞれ憤ったり逃げ惑ったり、おおわらわの洞窟内、火炎の乱舞がやむころには、みな肩で息する有り様。
 葉柱の衣に所々焼け焦げ作り、ようやく気が済んだか、ヒル魔が深く息ひとつ吐き乱れた呼吸整えた。
 さてと言わんばかりに腰に手を当て一同眺めまわすさまに、ゾロはこめかみ引きつらす。
 焼け焦げできたはゾロとて同様。弾けた火炎の余波被り、チョッパー抱えて右往左往。いくつかは明らかにゾロに狙い定めた火の玉もあったと思われるは、ゾロの被害妄想でもなかろう。
 思わず抜き放った刀身にて弾き飛ばした火の玉は、両の手指の数を越える。直撃避けたはいいが、火の粉払うまでにはいたらず、むき出しの腕には小さな火傷がちらほらと。その腕に抱えこまれたチョッパーなど、避けるも叶わず青息吐息である。
「ちっ、すっかり焦げ臭くなっちまったな。うっとうしい。そろそろ行くぞ」
 お前がそれを言うかとのみなの視線など意にも介さぬ風情にて、ヒル魔は鼻梁に皺寄せると、顎先で葉柱を促した。
 条件反射の体で疲れ切った溜息つきつつ葉柱が立ち上がれば、ゾロとチョッパーもしかたなく腰を上げる。
「なぁ、サンジにつきまとってる気配ってのは、まだサンジの傍にいるのか?」
 葉柱の気配含めてともにいるときにはなにも感じられず、自慢の鼻も他者の匂い気づかぬままであったのだが。チョッパーが少しばかり落胆の色成す声音にて問えば、葉柱の手がチョッパーの頭を撫でた。
 口許に苦笑浮かべてはいるが、存外瞳は真剣な面持ちにて葉柱の言うには、探れぬほどに気配殺せる者など日常出会うことなき暮らしであったならば、嘆く道理はなかろうし、必要とあらばこれから先身につけるもできよう。焦ることはないのだと、語る声音にゾロは過日を思い描く。

 過ぎた日に、同じよな声で急ぐなと、言った葉柱の双眸今と変わらず、慈しみたたえ。語る声音の真摯な響き、今も胸に染み入る。

 一族の者からも慕われ、望めば栄華手にする力量持ち合わせた男であるはずが、なんの因果で傍若無人な妖魔から奴隷扱いされねばならぬのか。憤るももはや馬鹿馬鹿しいかぎりではあるが、やはり受け入れ難きは拭いきれぬ。
 無意識に柳眉寄せたゾロの心情読み取ったものか、ヒル魔の顔からすいと表情消え失せ、わじかに苛立ち覗く硬い声音で行くぞと言い放った。
 慌て後追うチョッパーと、その後に小さな苦笑たたえつつ続く葉柱の背を追い越して、ゾロの眼差しがヒル魔の背、無言のまま眺めやる。
 凛と伸ばしたヒル魔の華奢な背、問いかけるを拒む気配漂わせ、挑発すら見せぬ。不満あるなら先までのよに、委細構わず口にすればよいものを。いらぬことはたやすく言葉にするくせに、肝心なことには口をつぐむ。
 まるでどこかの誰かのようだと、ヒル魔の金の髪眺めながら、思い浮かべるその笑みに、小さく舌打ちひとつ。
 怪訝な顔で振り返るチョッパーに、なんでもないとわずかに笑い。ゾロもまた、歩を進めた。

 灯り消え、闇に飲み込まれるよに一同去れば、洞窟内には先の喧騒が信じ難いほどの静寂が満ちるばかりであった。