風語る、誰彼に生まれ、払暁去りゆく闇の唄

 葉柱の、人質などという不穏な発言の真意汲み取りかね、一体なにが目的かと問うたゾロの声が、多分に呆れを含んだのは言うまでもない。
 我が身を盾にとり要求突きつける相手となれば、思い浮かぶは東海竜王であるが、それはさすがに愚の骨頂と言わねばなるまい。主の思惑はどうあれ、あれをたやすく手玉にとれるなどと、葉柱が思うているわけもなし、ましてや葉柱を名乗りし今、我が身ひとつの責などとどの口が言えよう。下手を打てば天上人すべてを敵に回すことになるやもしれぬ愚行を、いかに主の命とはいえど、葉柱が唯唯諾諾と了承するとは到底思われぬ。

 なにしろ、律儀にして責任感の塊のような男なれば。

 だがしかし、ならば誰を相手の人質か。ふと思い浮かんだ顔ゾロが打ち消すより早く、葉柱の口より彼の人物に違いなきこと伝えられ、ゾロが憮然と顔しかめたのは至極当然の成り行き。
「あんたの主は阿呆か。あいつが俺を助けにわざわざ来るわけねぇだろうが」
 今ごろ彼の者は市中に舞い戻り、どこぞの後家でも誑かしている最中であろうよと、ゾロは吐き捨てる。胸の奥、ちくりと痛むは気づかぬふり。
「大体、あいつをおびき寄せてなにしようってんだ」
「さて……ま、暇つぶしの玩具ってとこか?」
「はぁ? ……あんた、そんな奴を主だって言うわけか?」
 羨ましくあった一途な忠誠、そのような輩に捧げているとは思いもよらず。もしやからかってでもいるのかと眼差しで探れば、葉柱の眉尻ますます下がる。
「ああ、そうだ」
 あれが欲しいと望むなら、俺は決して逆らわぬ。いかなる手を講じてもあれの望み叶えるが、我が身に課した掟なれば。
 言う声揺るがぬものなれど、面持ちは沈痛と言ってよい。
 まったく、解せぬ者どもだと、ゾロは心底呆れ返ったものである。

「……こんなとこをねぐらにしてんのか?」

 先の場所より半刻ばかり歩いたろうか。道なき道を進み辿り着いたは断崖絶壁。地割れによって生じたものであろうか、深く長い地の裂け目、覗き込めば陽光一筋射さぬそこは暗闇に包まれ、奈落の底を思わせる。
 主はその絶壁の中腹にほど近い洞窟にいると、葉柱は言う。
 もういい、人質にでもなんでもなってやろう、連れて行けと、承諾したは主に対する関心、警戒心に勝りしゆえ。しかしながらよもやこれほどの難所に隠れ潜んでいるとは。まさしく早まったとしか思えぬ。
 なにしろ封印施されたままのゾロは人の身と変わらず、僅かにでも足踏み外せば一寸先も見えぬ奈落に落ち、ただでは済まぬこと必至である。
 いかに人目を避けんとて、これはいささか度が過ぎようと呆れた声のゾロに、葉柱は苦笑するばかり。
 時刻はすでに誰彼たそがれ近い。彼の地は真の暗闇であろう。好んでかような場所を塒にする輩もおるまい、さては追われてでもいるのかとゾロが問えば、葉柱は苦笑したまま否と答えた。
「好んでってわけじゃねぇが……こういう場所を選んでるのはたしかだな」
 理由はいずれ知れようと苦笑う葉柱の面持ち、どこか淋しげにも見え、ゾロはますます首をかしげる。
 まったくもって解せぬと当惑しつつも、葉柱に続き足場などなきに等しい断崖に足を踏み出せば、思った以上に脆い足場にごくりと喉が鳴った。
 一歩降りるたび闇は濃く深くなってゆく。主がいるという洞窟はどこであろうかと懸命に目を凝らすも、主とやらはかがり火ひとつ灯しておらぬようで、どこまでも闇が続くばかりである。
 早まったか。
 葉柱の声の誘導と、四肢に感ずる岩肌の隆起だけが頼りの道行きに、ゾロの脳裏に思わず不安がよぎる。額にじわりと汗の玉が浮いた。
「ったく、灯りも持つなってのは、どういう了見なんだか……」
 思わず呟けば、葉柱の応え申し訳ないと言わんばかりにて。
「用心深い奴なんでな、灯りを持ち込むと火炎に襲われるようになってやがんだ。もうじき着くから辛抱してくれ」
「火炎って……そこまでやるか?」
 ここに入り込む際も、結界抜けて来たではないかと呆れれば、闇のなかより苦笑が響く。
「日中俺が出歩くときには、どうしても、な」
「なんだ、主って奴はそんなに弱いのかよ」
「いや。あいつは誰より強い……俺は、あいつほど強い奴をほかに知らねぇ」
 ふんと鼻を鳴らし言い捨てれば、返ってきたのは存外真剣な声。だが、どこか淋しげに聞こえるのは何故か。
「おい、やっぱり今からでも背負ってやろうか?」
「いらねぇって言ったろっ。これぐらいなんてことねぇ!」
 揶揄含む声音に話はぐらかすよな気配はあったが、問うのはやめた。じきに葉柱が主との対面果たせば、疑問のいくつかは自然と知れよう。
 ここまで来てしまったからには成り行き任せ、出たとこ勝負といくしかなかろうと、ゾロは不敵に笑った。

 会話途切れ闇のなか、ゆっくりと歩みゆけば、やがて着いたぞと葉柱の声。
 辺り見回しても闇は深く、己の立つ場所も定かではない。と、唐突に手を引かれ声上げる暇なく葉柱の懐に抱え込まれた。
「こっちだ」
 抱きかかえられるよに進めば、強烈な違和感身を包み、ゾロは思わず顔をしかめた。

 ここにも結界か。

 道士との旅でも結界張ること多々あるが、これほど幾重にも張り巡らせるは稀である。強いと葉柱は言うが、ここまでの用心が必要とは、一体いかなる理由であろう。
 どくりと鼓動速まれば、目を閉じよと声がする。
「闇に慣れた目に、灯りはきついからな。俺がいいって言うまで目を閉じてな」
 言われ素直に目を瞑る。
 瞬間、瞼を透かして光を感じた。長い腕はいまだゾロの躯を抱いている。
 と、温もりが離れた。
「いいぜ。けど、ゆっくりな」
 ゆるゆると瞼押し上げれば、ほのかな灯り、揺らめいて。眩しさにまたたき幾度か繰り返す。
「……俺はまた少し出かけるが、適当に過ごしててくれ」
 ただし、わかっているとは思うが洞窟の入口には強力な結界張られているゆえ、一人で脱け出そうとはせぬことと言い置き、葉柱は早、踵を返す。
「ちょっと待てよっ。主って奴は?」
 慌てゾロが聞けば、葉柱はゆるり笑い長い腕伸ばした。
「そこで寝てる。寝起き悪ぃから起こすなよ?」
 指し示す先に視線を移して、思わずゾロは息を飲んだ。
 さして広くもない洞窟の最奥、生者の息吹感じさせることなく横たわる人影、ひとつ。
 小さな灯りに煌めいて見ゆる。まるで見慣れた誰かのよに。

「金の髪……異国人か……?」

「半分当たりで、半分外れだ。異国から来ちゃいるが、人じゃねぇからな」
 静かな声、なおも続けて言うことには。
「ここじゃ妖魔って呼ばれてる」
「妖魔だとっ!?」
 慌て振り返れば、すでに葉柱の姿はない。
 灯り届かぬ闇のなかより、声だけが響く。
「じきに目を覚ますから、訊きたいことがあんなら自分で訊きな。素直に答えるかはわからねぇけどよ」
「おいっ、俺を一人にしていいのかよ! こいつを殺すかもしれねぇぞ」
 言えば密やかな笑い声、ひとつ。
 寝首をかくよな輩ではあるまいと、こともなげに言い。

「もしお前が変わっちまってて、そいつに手を出したとしても、お前がそいつにとどめを刺す前に俺がお前を殺すだけだ、ゾロ」

 笑う声、戯れの響き欠片もなく、ごくりと喉を鳴らせば、葉柱の気配、完全に消えた。

 
 さて、一人取り残され一体どうしたらよいものやらと、ゾロは困惑あらわに周囲に視線を巡らせた。
 いかにも仮住まいといった風情のしつらえにて、主とやらが横たわるしとねも、枯れ草集めた上に絹一枚被せただけという有りさま。我らと同じ旅暮らしでもあるのかと、ぼんやり思い、ゾロは手持ち無沙汰に主より幾分離れた場所に腰下ろした。

 眼差し誘う、金の髪、小さな灯りきらきら弾き。

「妖魔、ねぇ……」
 天上人、神仙ともなれば、妖魔使役する者少なくはないが、妖魔に使われるなど、いまだかつて聞いたこともない。
 それどころか、遥か異国の妖魔だなどと。かような者がこの大陸にいることすら、戯言めいた噂でさえも伝わってはこなかったが。しかし、たしかに今ゾロの目前で眠る者の髪、異国の血流るること明白な、金色≪こんじき≫の煌きたたえている。
 不躾な視線まじまじと、ゾロは彼の妖魔を眺めやる。
 見たところ年のころは葉柱と変わりない。だが、妖魔や神仙の年など見た目ではわかりかねる。
 葉柱の言から察するに、より永きを経ているのであろうことは明白。とはいえ華奢な体躯は、眠っていること差し引いても頼りなく見え、ゾロはやはり強そうには見えぬなと小さく唸る。
 真白な肌に纏うは葉柱と相対するが如く、黒一色。柔らかな風貌のどこぞの道士に比べて、鋭利な印象受ける容貌は、けれど同じよに作り物めいた美しさたたえている。
 異国の者みな、かように美しき者ばかりなのであろうか。
 思いゾロは小さな吐息零した。

 月も恥じらい顔隠すよな美貌、見つめられれば今も時折目が眩みそうになる。
 淡雪のよな白い肌、触れれば溶けてしまうかと、いまだ縋りつくのに一瞬のためらい感ずる。

「……なに考えてんだか。くそっ」
 金の髪見つめながら、思うはただ一人とは。まったくもって腹立たしいと舌打ち一つ。
 と、横たわる妖魔の瞼が、ぴくりと小さく痙攣した。

「……葉柱……?」

 呼ぶ声どこか幼く頼りなく、かすかな不安漂わせ。
 どくりと鼓動跳ねさせたゾロの目前、ゆるゆると瞳が開く。
 ぎこちなく頭巡らせた妖魔の瞳が、ゾロを捉えた。
「……ふん、連れてきたか……」
 先の頼りなさ消え失せた、冷ややかな声音、鋭く。赤味がかった金の煌きたたえる瞳、射抜くようにゾロを見つめる。
「おい、そこのファッキン苔頭、うちの糞奴隷ファッキンスレイブはどうした?」
「は? あの……」
 話しかけられたる聞き覚えない言葉に戸惑い、どぎまぎするゾロに妖魔は舌打ち一つ。
「使えねぇな。ったく」
 吐き捨てるよに言い、横たわったまま小さく吐息零す。
 人質云々といい、いきなり使えぬなどとこき下ろすといい、一体なんなのだこいつはと、ゾロは額に青筋浮かべ、ぎろりと妖魔を睨みつけた。
 しかし当の妖魔はこらえた様子もない。
「わかりやすく言い直してやっから感謝しな。クソ苔頭。うちの奴隶ヌーリーはどこに行った?」
「こ、苔頭だぁ? テメェいい度胸だ!」
 なんたる言い草だと怒気あらわに、ゾロはすくと立ち上がると、腰の刀剣に手をかけ横たわったままの妖魔を見下ろした。
 自分に対する言もはなはだ業腹であるが、あれほどの忠誠誓う葉柱を奴隶奴隷扱いとは、まったくもって我慢がならぬ。
「うるせぇガキだな。そんなデカい声で言わなくても聞こえるっつの」
 ふんと鼻鳴らし冷ややかに笑うと、妖魔はゆっくりと身を起こした。
 幾分ぎこちなく見ゆるは気の所為か。ほのかな灯りの陰影相まって、白い肌が病持ちの証のようにも見える。
「おい、質問の答えがまだだ。とっとと答えろ、糞苔頭」
「テメェ、それが人に物尋ねる態度かよ!」
 彼の道士の口癖思わすガラの悪さに、異国の血は悪癖まで似せるものかと歯軋りする。
 と、不意に妖魔の表情が変わった。
 射抜くよな鋭い瞳がわずかに和らぎ、少しばかり肩の力抜けたさま、安堵しているよに見える。何事かとゾロが眉根寄せれば、時置かずして騒がしい声が洞窟に響いた。
「ゾロッ! 良がっだぁ~!」
「おら、ちゃんと無事だったろうが」
「うん! ありがとう、お前いい奴だな」
 振り返れば入り口に立つ大きな人影。よくよく見れば、肩に小さな人妖担いだ葉柱である。
「チョッパー! お前、なんでここに?」
「ゾロを探してたら、あの人が連れてきてくれたんだ」
 葉柱の肩から飛び降り駆け寄ってきたチョッパーを抱きとめて、ゾロは歩み寄る葉柱に視線を移した。
 葉柱の眼差しはゾロを通り越し、ただ一人に注がれている。
「ヒル魔……起きてたのか」
「オゥ、うるせぇ奴がいたからな。……どこ行ってた?」
 ゾロとチョッパーの姿などもはや目に入っておらぬよに、葉柱は迷いなく妖魔の元へと歩み寄る。
 差し出しかけた手を軽く払われても、落胆するでもなく肩すくめ。
「カッ! いつもと同じ、飯の調達だよ。ついでにそこの人妖も拾ってきたけどな」
「えっ? 俺、拾われたのか?」
 べつに落ちてたわけじゃないのにと慌てるチョッパーに、ヒル魔と呼ばれた妖魔、途端にけたたましいほどの笑い声上げた。
「おっもしれぇー! おい、そこの糞子狸こっちに来な」
「お、俺は狸じゃねぇ! トナカイだっ!!」
「あー、わかったわかった。いいから、来いって」
 手招きされ瞬時ゾロとヒル魔を見比べたチョッパーは、ゾロの腕からするり抜け出ると、おっかなびっくりといった様子にてヒル魔に近づいていった。
「おい、チョッパー!」
「なぁ、お前顔色悪いぞ? 病気なのか?」
 咎めるゾロの声さえぎって、チョッパーの心配げな問掛け響く。
 笑いやみ、まじまじと小さな人妖見つめたヒル魔の金赤の双眸、ふと和らぎ、微笑みに似て細められた。
「べつに病は持ってねぇよ。寝起きは躯がだるいだけだ」
 言いながら小さな躯抱き寄せる。
「うわわわわっ!」
「うっわ、獣臭ぇ。ふっかふか! 手触りいいな、お前」
 チョッパーの全身覆う毛並に頬埋め、ヒル魔はまるで童子のよに笑う。
「ほ、誉められたって嬉しくなんかないぞ、コノヤロ!」
 口では言いつつ、喜び隠せぬさまにて浮かれる人妖に、ヒル魔はなおも高笑う。
「意外と可愛いもん好きなんだ」
 ゾロにこそり耳打ちする葉柱の瞳、慈しみに細められ、なにより可愛いらしくあるは金色こんじきの妖魔だとでも言わんばかり。そんな葉柱を見やったゾロはといえば、どうにも面白くない。
 葉柱ほどの男が忠誠誓い、一心にかしずく相手となれば、聖者とゆかぬまでもそれなりできた人物であろうと、心のどこかで思うていたが、いざ対面果たせばかような有りさま。
 口の悪さだけならばいざ知らず、これほどまでの忠義捧げられながら、奴隷呼ばわりなどもっての外であろうと憤り隠せず。こんな輩に葉柱が従うを、銀をはじめ賊徒の者みな快諾したとでもいうのかと、ゾロの苛立ち賊徒の面々にも向かう。
 銀がゾロとの約定失念したとは思い難く、さりとて諸手もろて挙げて見送ったとも到底思えぬ。
 であればゾロが知らぬ顔、この妖魔が持ち合わせているためなのやもしれぬが、今までの態度鑑みれば好意的にはどうあってもとれず、ゾロは憮然とするばかり。
 そんなゾロの様子など意に留めず、彼の妖魔はチョッパー抱きかかえ、やかましい笑い声立てている。
「人にはうるさいって言ったくせに。自分こそやかましい馬鹿笑いやめろってんだよ」
「ここは俺の塒だ。俺の言葉が掟なんだよ、糞苔頭」
 ぼそり呟けば即座に返る冷ややかな声、なんとも腹立たしいことこの上ない。
 腹立ちあらわにまなじりつり上げ睨みつければ、ヒル魔はチョッパー腕に抱いたまま、口許にだけ笑み残し、葉柱へと視線転じた。
「おい、つっ立ってねぇでさっさと飯の支度しやがれ、糞奴隷」
 その声音、眼差し、唇わずかに歪めた笑みさえ、ゾロには優越感滲んでいるよに思われる。肩すくめ、夕餉の支度に取り掛かる葉柱の背中しり目に、ゾロはもはや我慢も尽きたと声張り上げた。
「チョッパー、帰るぞ!」
「え? で、でも……」
 おろおろと、自分抱くヒル魔と呼ぶゾロにチョッパー眼差し行き来させ、やがてごくり喉を鳴らし恐る恐る言うことには。
「お、俺、もうちょっとここにいる」
「はぁ? なに言ってんだ、お前」
 虐げられ育ちし小さな人妖が、称賛やら受け入れる腕やらに滅法弱いはゾロとて承知。だがしかし、懐柔されたゆえばかりとも言えぬ、この真剣な面持ちは何事か。
「だ、だって俺は医生医者だ! 具合悪い奴ほっとけねぇ!」
 小さな躯から漲るは大いなる意志。揺るぎもせず。
 飲まれ刹那言葉失うゾロの目前、いと小さく人ですらなき医師は、金色の妖魔を腕のなかより見上げ問う。
「お前、すごく冷たいぞ。脈も弱いみたいだ。どっか悪いんだろ?」
「病じゃねぇと、言ったはずだが?」
 返すヒル魔の声音、思いがけず静かであるのにいくばくか驚き、ゾロは黙したまま、人でも神仙でもあらぬ陰の業背負いし者どもを見つめていた。
 ゾロの視線の先、しばし沈黙たたえチョッパーをまじまじと見据えていたヒル魔が、不意にゆるり微笑んだ。
「妖魔を診察するってのか? 物好きだな」
「俺は、人でも獣でも治せる、世界一の医生になるんだ! 妖魔だって……よ、妖魔ぁ!?」
 目を丸くしいきなり慌てだすチョッパーに、ヒル魔がくっくっと声殺し笑えば、チョッパー、わずかにばつ悪さ見せつつ、己を抱くヒル魔を改めて見つめた。
「こここ怖くなんかないぞっ! だってお前、俺が知ってる妖魔と違って、悪いこと考えてる匂いしねぇもん」
「ホォ、匂いねぇ。隠してるだけで、実はテメェを食っちまうつもりかもしれねぇぞぉ?」
 殊更目をつり上げ、笑う口許牙覗かせヒル魔が笑えば、びくりチョッパーの小さな躯がすくむ。けれど腕のなかより逃げ出すことなく、なおも言う。
「こここ怖くなんかないったら、ないんだからなっ。お、俺は医生なんだから、具合悪い奴は妖魔だって治すんだ!」
 言い切ればヒル魔の双眸、満足げに細まり、麒麟の魂持つ者は口にする言葉も俗な輩とは一味違うてみゆると、今度は声上げ笑った。
「そっ、それ前にナミにも言われた! お、俺は本当は麒麟児として産まれるはずだったって。……本当なのか? お前、わかるのか?」
 驚きあらわに勢い込むチョッパー同様、ゾロも瞠目しヒル魔の言待つ。
 この小さき人妖が出自、知らせた知己を疑うではないが、にわかには信じがたきものであったゆえ。
 息飲む二人にヒル魔はこともなげにうなずき、我は千里眼よ知らぬことなどあろうかと笑い、さらに重ねて言うことには。
「信じられねぇなら、見せてやるよ。おい、糞苔頭。そこの鏡よこしな」
「おいっ、ヒル魔!」
 ゾロの文句が口をつくより早く、慌て振り返る葉柱に、ヒル魔の鋭い視線注がれた。口答えは許さぬとばかり、無言のまましばし睨みつける。
 小さな溜息ひとつ。肩を落とし立ち上がった葉柱、取り上げたる鏡ヒル魔に手渡し、気遣わしげな眼差しで見やるも、ヒル魔はチョッパー抱いたまま素知らぬふり。
 鏡面の前に手をかざしたヒル魔に顎先で促され、不承不承の体にてゾロが近寄ると、白く長い指先鏡面をついと撫で、鏡が小さな唸りを上げた。
 ヒル魔の白皙、洞窟をほのかに照らす灯りに揺らめき見えて、硬い面持ちにて一心に、なにやら指先が曇った鏡面に文字を描いてゆく。
 やがて瞠目するゾロとチョッパーの眼前、一面の丸い鏡はぼんやり曇りながらも発光始め、うっすらと像を結びだした。

「……出るぞ」

 かすかに掠れたヒル魔の声。誘われるように身を乗り出し、青白き光放つ鏡面を覗き込めば、なにやらうごめく影が見える。
「……麒麟だ……」
 ゾロの呟きに、チョッパーの喉がごくり鳴る。
 鏡の中でうごめく幾体かの聖獣、生まれ出でしばかりの様子にて、弱々しく立ち上がり。やがて四肢で地を踏みしめると、凛と面上げ地を蹴り、一体、また一体と、天に舞い空を力強く駆けてゆく。
 鏡はその内の一体の姿を追った。
 やがて、白銀に輝く体躯の麒麟は、天翔け人界へと辿り着いた。
 鏡に映し出されたは、一棟の小さな家屋。その屋根に降り立ちし麒麟は、しかし、なにやら苦しげにいななき、しきりに首を振りたてている。
「……家のなか映すぞ」
 ヒル魔の声小さく響き、わずかばかり震える指先、またも鏡を撫でるように見えぬ文字書く。
 するとたちまち鏡に映る光景変わり、チョッパーが小さな悲鳴を上げた。ゾロの目も見開き、その陰惨な光景に息を飲む。

「ここが、テメェの家になるはずだった場所だ。そこに倒れてる女の腹に、あの麒麟は入ることになってたようだが……ま、見ての通りだ。
 麒麟は血を嫌う。不浄の血の臭いだけじゃなく、ここには呪法による瘴気も満ちてる。このままじゃ弱って死ぬしかねぇ」

 鏡のなか彩りしは、凄惨な深紅。獣に食い散らかされたかのよな、人の屍見つめながら言う、ヒル魔の声音、淡々と。
「あの人達、食われちゃったのか……? 俺の母さんになるはずだった人なんだろ?」
 泣き声混じり、よしんば自分が世を救う聖人としてこの世に生まれ出ずるが真実であったとして、ならば何故かような事態起こりえたのかとチョッパーの問う。ヒル魔答えて、曰く。
「麒麟児の出生を決めるのは八卦によってだ。卦で先を読むことは難しくはねぇ。大方の未来は予想ができる。だがな、それは絶対じゃねぇんだ。もしもテメェが世界一の医生になった未来をこの照魔鏡が映し出したとする。でもそれは決定じゃねぇ。今のテメェが努力し続けた結果の未来を、照魔鏡が映しているだけのことで、未来はたやすく変わる。テメェが見た未来に安心しきって努力を忘れたら、どうなると思う?」
「……努力しなくちゃ、世界一の医生になんてなれねぇ……」
「そうだ。未来は変わる。卦も同じことだ。指針にはなっても決定にはならねぇ」
 ヒル魔の声音、先よりまた幾分掠れ、どこか疲れたよに吐息す。
 だが、語る言の葉止まらず、指先がまた、鏡面の上でゆるゆると動いた。
「あの女が麒麟の宿り先に選ばれたのは、信心深く、慎みと節度をわきまえた女だったからだが……そっちに倒れてる旦那、あいつが手にした大金が、女を変えた。金に飽かせ自堕落になり、子を腹に宿しながらも不義繰り返して、この女の未来は変わった。
 金を使い果たして夫婦の諍いが絶えない毎日。みっともねぇったらありゃしねぇな。
 そこに落ちてる札見てみな。ありゃ妖魔妖怪をおびき寄せる呪法の札だ。お荷物でしかなくなった女房の始末のついで、金儲けの種にでもするつもりだったんだろうぜ。どこで手に入れたんだか知らねぇが、生兵法はよくねぇな。ま、旦那も因果応報だ。自分も食われてちゃ世話ねぇっての。
 あいつらを食った妖魔は……ああ、ほら、麒麟に気づいた……。舌舐めずりしてやがる。あれは無機物の変化へんげだな。血に餓えきってやがる」
 わずかに口許皮肉げに歪め言うヒル魔の指先止まれば、青白き光のなか、鏡の隅でごそりと動く影が大きく映し出された。
 その妖魔、痩せ細った男に見ゆる。夥しい血に濡れゆらゆら揺れ立つさま、禍々しく、鏡のなかより凝縮された陰の気漂い出でてくるよな気さえする。と、ヒル魔の指先動くにあわせ、また映し出される光景変わり、鏡は再び麒麟の姿を映し出した。
「聖獣とはいえ、あれはまだ産まれたばかりだし、核になるためだけの存在だ。とにかく定められた女の腹に潜り込むことだけしか頭にねぇ。あれはそういう生き物だからな」
 言ってまた吐息すヒル魔に、チョッパーの気遣わしげな眼差し注がれた。
「なぁ、お前大丈夫か? どんどん具合悪くなってきてないか?」
 心配あらわな問いにかまうなと応え、ヒル魔はなおも語る。
「女は死んだ、だが、麒麟児が世に生まれ出ることは、天に定められている。いたる道筋は変わったが、麒麟は子を宿した女の腹に潜り込まなきゃならない。おまけに妖魔が自分を狙っているのにも気づいちまった。女の選り好みしてる時間はねぇときた。
 だから……ほら、見な、あれがテメェの生みの親だろ?」
 促され白い指先示すを見れば、臨月間近い獣が一頭。ふらふらと息も絶え絶え揺れ飛ぶ麒麟、草食む獣の上に落ちてゆき、そして。

 白き光となりて、麒麟は獣の腹に吸い込まれていった。

 言葉なくその光景見つめるゾロとチョッパーの耳に、小さな忍び笑い、ひとつ。
「さて……ご覧の通りだ。テメェが人妖として産まれたのは、当然の理ってわけだな」
 妖怪妖魔として産まれたならば、麒麟を核とす聖人など到底なりえぬ。人と陰の者の血ともに引く人妖ならば、かろうじて定められたる未来に近づけようとの配慮がなされたとみえる。
 言って疲れたよな息深く吐き、ヒル魔の手再び動けば、光失いし鏡はもはやぼんやりと覗く者ども映すのみ。
「……これ、本当なのか?」
「照魔鏡が映す行く末は変わることがあるが、過去は変わらねぇよ。どんなに取り返そうとしても、失ったものは返らないし、過ぎた時間は戻らない」
 ゾロの問いに答えるヒル魔の声音硬く、見上げたチョッパー、慌てヒル魔の腕より抜け出した。
「あの、見せてくれてありがとう。けど、やっぱりお前、全然大丈夫そうには見えねぇぞ」
 自分では頼りにならぬかと、真摯な面持ちにて見上げるチョッパーに薄く笑い。
「世界一の医生だろうと、病じゃねぇものは治せねぇよ。夜が更けりゃ力も戻る。心配なんざいらねぇ」
「そ、そんな病気聞いたことねぇ」
「だから病気じゃねぇっての。俺はな、そういう生き物なんだよ」
 日のあるうちには動けぬ定め、それだけは来し方行く末永劫変わらぬと、小さく笑う。
「今日はまだ日が沈みきらねぇうちに起きちまったからな、ちっとばかり疲れやすくなってるだけだ。気にすんな、糞子狸」
「狸じゃねぇ! トナカイだ!」
 わかったから喚くなと笑うヒル魔の顔は、疲れやすいなどというものではない。白い面は生気乏しく、金の瞳だけがかろうじて力保っているよに見える。
「……照魔鏡使うには、強い念が必要なんだ。念を使うにゃ、体力を削る。いつもならこんなこともねぇんだがな」
「余計なこと言ってんじゃねぇ、糞奴隷」
 湯気立つ椀をゾロとチョッパーの前に置きながらの葉柱の言に、チョッパーの瞳が丸く見開かれた。
「お、俺が知りたがったからか? お前、俺の所為で……」
「うるせぇぞ、糞子狸。お前お前って、気安く言ってんじゃねぇよ。俺にはヒル魔って名前があんだよ。オラ、言ってみな」
「ひ、ひゆま?」
 頬を摘み引かれながらも、チョッパーが素直に繰り返せば、ヒル魔は先までと同じよにけたたましく笑った。
「ともかく、俺のこれは治すことはできねぇよ。治すもなにも、これが普通なんだからな」
 よしんば克服しようとも、それは名医の手による治療では有り得ぬと、笑いやみヒル魔が言えば、チョッパーの黒く丸い双眸、涙に潤んだ。
「それじゃ、お前……じゃなかった、えっと、ヒル魔は、ずっとお日様を見られないのか?」
 ヒル魔は応えず、ただ金赤の瞳、皮肉げに見える笑みに細めたのみ。

 日のある内は動けぬとなれば、なるほど、幾重の結界火炎の罠もうなずけると、二人の会話聞きながら、ゾロは合点がいったと胸の内独り言ちた。
 いまだ信じ難くはあれども葉柱の言葉通りこの妖魔、強き力持っていたとしても、日中身動きとれぬのであれば、息の根止めるも苦ではないのやもしれぬ。であれば用心に用心を重ねるは道理。また、塒にこのような地を選ぶも納得がいかぬでもない。
 闇深く、日の光挿さぬ場所でなければこいつは動けぬのかもしれぬと思いかけ、だが、とゾロは少しばかり眉根寄せて思案した。
 葉柱はこの妖魔のことを強いと言うたが、そのような有り様で、敵と相対したときに一体どのようにして己が身守れるというのか。見た目で武を計るは愚の骨頂とは、道士だけでも骨身に沁みて承知してはいるが、剣携えるでなく、また日暮れて宵闇のなかでしか動けぬような輩に、果たして葉柱ほどの男心酔させる強さあるものであろうか。
 むうと顔しかめ考え込めば、わずかに苦笑含んだ葉柱の声がかけられた。
「とりあえず話は飯を食いながらにしねぇか? ゾロもそっちの坊主も、あれだけ歩き回ってりゃ腹が減ったろう。肉が食えねぇようなら取り替えてやるぞ」
 ゾロとチョッパー、言われてみればと顔を見合わせたと同時、小さく響いた腹の虫二つ。途端ににけたたましい笑い声が、洞窟内に響いた。
「躯は正直だな、おい」
「うっ、うるせぇ! 敵の施しなんか受けるか!」
「へ? 敵? ヒル魔達は敵なのか?」
 ぽかんとするチョッパーに、ゾロは憮然と黙り込む。
 味方かと問われれば確実に、否。されど敵というには、葉柱は知己であるし、ヒル魔というこの妖魔もまた、真意は読めずとも敵意悪意はどこにも見受けられぬ。目下のところはであるが。
 とりあえず今はただただ傍迷惑、且つ、小面憎いだけである。

 だが。

「……俺をここに連れてきたのは、あの阿呆道士をおびき寄せる人質にするためなんだとよ」
 人質など言うも癪に障るし、まったく理解しがたいことではあるが、たしかに葉柱はそう言ったはずである。
 少なくとも、膝突合せ仲良く夕餉を囲むのは、なにやら間違っているよな気がするのだがと、ゾロはちらりと葉柱を横目で睨んだ。
 葉柱はただ苦笑するばかり、ヒル魔の前に湯気立つ椀差し出し、肩すくめるのみ。
「サンジを? なんで?」
「面白そうだから」
 にまり笑ったヒル魔の即答に、ゾロとチョッパーがわけがわからぬと言いたげ首をひねるをまた笑い、ヒル魔は、葉柱の手から椀を受け取るでもなくただ座っている。
 と、葉柱の口から零れた小さな溜息。二人の見る前でヒル魔を背後から抱え込むよに腰下ろせば、ヒル魔の背がさも当然といった風に葉柱にもたれかかった。
「どれ?」
「肉」
「テメェは本当に肉ばっかだな」
「うっせぇ、さっさと食わせろ、糞奴隷」
「はいはい」
 呆気にとられる二人の眼前、まるで赤子にするよに甲斐甲斐しく、葉柱は手ずからヒル魔に夕餉を食させている。
 いくら主従とはいえそこまでするかと思っていれば、二人の視線に気づいたか、葉柱が照れた様子など微塵もなく、お前らも冷める前に食えと声かけてくる。
 毒気抜かれて慌てて椀を手に取ってしまえばなし崩し。勢い箸をつけぬわけにもいかず、なにかがやっぱり間違ってはいまいかと、ゾロは胸中こっそり唸りつつ、やり場のない視線を椀の中身に注いだ。
 チョッパーもいたたまれなさは同様だろうが、好奇心抑え切れぬ様にてちらちらと、ヒル魔と葉柱伺い見ている。
「ヒル魔とその人、仲いいんだなぁ。サンジとゾロは喧嘩ばっかりしてるのに」
 感嘆しきりの声に、ゾロが思わずむせたは言うまでもない。
「なっ、なんでサンジが出てくんだよ!」
「えっ、だ、だってサンジとゾロも、ヒル魔達も、恋仲なんだろ?」
 同じ恋人同士でも随分違うものよと思うたのだが違うのかと、チョッパーの首かしげられるのに顔を染め、断じて違うとゾロは喚いた。
 チョッパーに悪意や揶揄の意思なきは明白なれど、であればこそ、なおさらゾロの羞恥戸惑いは深い。
 道士への執心、恋情と認めたことなど一度もなく。また、道士の本意もいまだ知ること叶わぬ。
 躯重ね欲吐き出しあっても、道士が真実己をいかに思うているのか、ゾロにもわからぬ。そんな有りさまで恋人などと呼ばれるは腹立たしい。

 哀しい、などとは、断じて認めぬ。

「糞苔頭と同意見てのは面白くねぇが、俺とこいつも恋人なんかじゃねぇよ。こいつは俺の奴隷だ……そうだろ?」
「……ああ。俺は永劫テメェの奴隷だ」
 言い切るヒル魔の声音固く。返す葉柱が応えも感情の色なく淡々と。
 混乱しきりのチョッパーに、いいから食えとつまらなげに促すヒル魔の顔、作り物めいて見えるのにゾロは小さく唸る。
 ヒル魔に対する葉柱の執心、恋慕の情としか見受けられぬものを、その言いようはあまりに無体であろうと、再び葉柱の給仕受けるヒル魔を睨むが、当の二人は意に介した風もない。
 チョッパーも場の空気の強張り感ずるか、黙し食べるに専念しだし。

 会話なきまま、細やかな食事は終わりを告げた。