ゾロの剣技の優れたるは、先の対峙で重々承知してはいたが、しょせんは道士風情の稚児に甘んじる程度の小物よと、易心捨てるにはいたらずにいたこと、蝦蟇は己の失態と悟らざるを得ない。
真実この童子が、天上天下並ぶ者なしと謳われた東海竜王の末子だとすれば、その腕前は蝦蟇如き足元にもおよばぬこと、自明の理。あまつさえ先までの己の所業鑑みれば、まさに進退極まったと、ぬめる肌に冷汗流す。
たとえこの場は逃げおうせたとしても、水神の長である東海竜王の目届かぬ水場など、あるわけもなし。ひとたび竜王が耳にこたびの件伝われば、たかだか齢三百年の妖魔の命など、握り潰すはたやすかろう。
生まれ落ちたその時より十五年余り、行方知れずになっていたという末皇子が、人界からようやく連れ戻されたは百数十年ほど前のこと。
以来、竜王の寵愛まさしく掌中の珠の如きと、かような僻地にまでも伝え聞こえるほどである。
まさかまさかと打ち消そうとも、ゾロのその姿、剣技、滲み出る光輝。すべてが蝦蟇にとっては最悪の結果導く答えしか浮かびはせぬ。
うろたえおののく蝦蟇の隙、見逃すことなくゾロの剣が襲いかかった。
「ぐわぁっ!!」
上がる血飛沫、響く絶叫。ぼとりと落ちた蝦蟇の右手、ひくひくと。青竜刀握り締めたまま、血濡れて痙攣繰り返す。
「終わりだ」
のたうつ蝦蟇見据えるゾロの、烈火の瞳、すいと細まり。振りかざされた刀剣、陽光弾いたその瞬間。力振り絞り跳躍した蝦蟇の降り立った先に、ゆらりただよう紫煙一筋。
サンジの背に立ち、白い喉元爪突きつけて。にたり、大きく裂けた蝦蟇の口。
「東海のゾロの名、確かに真実であるようだ。俺如きがかなう相手ではないやもしれん。だが、こいつはどうかな?」
ついと白い肌撫でる爪。苦痛に顔歪ませながらも勝ち誇る蝦蟇の声。ゾロの顔が盛大にしかめられた。
「なにやってんだ、阿呆道士! 亀よりのろまかっ!」
噛みつくように言うゾロに、泰然と煙管くゆらせたまま、サンジは呆れた溜息つく。
「てめぇがさっさととどめ刺さなかったのを棚に上げて、どの口が言うかね、クソチビ竜子」
「竜子って言うなっ。それに俺はチビじゃねぇ!」
「俺の肩を越えるぐらい育ってから言いな、お坊ちゃま。口づけするのに首が痛ぇったら」
毒爪突きつけられ絶体絶命のはずが、当のサンジは依然、悠然。真っ赤に染まったゾロの顔にも焦りは見えぬ。
「ええいっ、この阿呆どもめが! 己が立場わかっておらぬようだな。小僧、愛しい道士の命が惜しくはないのか? ならば今この場で一飲みにするぞ。この傷癒す滋養もいるでな」
苛立つ蝦蟇の声にサンジの瞳、ふと細められた。
「滋養ねぇ……。一つ、てめぇに聞きたいことがあったんだがな。川に飲まれた奴らを喰ったのか?」
淡々とした声でサンジは言う。背後に立つ蝦蟇に、その白皙は見えぬ。ゾロの眉根がつっと寄った。
「おうよ、喰ったとも」
「俺達が淫雨晴らした前日に、濁流に飲まれた幼子を助けようと、ともに飲まれた母親がいたらしいが?」
感情見せぬ低い声音。それを恐怖ゆえと取ったか、蝦蟇の下卑た笑い声響き、赤い舌がぺろりと白い首筋舐めた。
「あれは旨かった。恐怖に顔歪ませて子供だけはと泣き叫ぶのを、生きたままゆっくり喰らってやったわ。恐怖すればするほど、俺にとっては妙なる美味よ。お前はどんな味がするであろうなぁ」
淫猥な笑み浮かべ、長い舌先肌を辿る。
「どうした、恐怖のあまり声も出ぬか」
「阿呆が。本気で怒らせやがって。さっさと俺に殺されてりゃいいものを、自業自得だ」
溜息一つ。ゾロはやれやれと肩を竦める。
「なにを言って……ひっ?!」
突然、蝦蟇が悲鳴上げ飛びのいた。
「しまった。汚くてもう使えねぇわ」
蝦蟇の舌に押しつけた煙管をぽんと放り捨て、サンジはゆるり微笑み浮かべる。
「ゾロ、交代だ。こいつは俺がやる」
婉然な笑みつくる唇が紡ぐ声音、穏やかに。佇む姿も典雅な道士を見つめ、ゾロは再び溜息ついた。
「言うと思った。しょうがねぇから譲ってやるぜ、阿呆道士」
言うなりどかりと腰を下ろし、片肘付く様、高見の見物。
「さて。俺はあいつと違って、苦しまずに死なせてやるほど、優しくはねぇ」
ふわり舞うように蝦蟇へと向き直るサンジの顔、端麗にして穏やかなる笑みばかり。語る声音も剣呑さなど微塵もなく。細めた瞳だけが、冴えた氷の如き眼差し宿す。
「子供と母親を喰ったと言ったな、クソ野郎。俺にしてみりゃ万死に価する所業だ。覚悟はいいか?」
にこり微笑む花の顔。さらり髪揺らして歩み寄る。
「たかが人間の道士風情が、なにを……っ!?」
言葉最後まで紡ぐ事なく浮き上がる巨体、空を舞い。腹にめり込ませた履(靴)の爪先、サンジがとんと下ろしたと同時に、地響き立てて落ちた。
ふわり揺れた袖払い、地べたに這いつくばる蝦蟇の腹の下に爪先差し入れ、サンジの足がさも軽々と蝦蟇の巨体を持ち上げる。
「こんなもんでくたばるなよ? てめぇに喰われた奴らの痛みも恐怖も、こんなもんじゃねぇだろ」
見据える眼差し冴々と。紡ぐ声音、楽しげに。一体その細い体躯のどこにこれほどの力秘められたるものか、のたうち回る蝦蟇の巨塊、サンジはいともたやすく宙に跳ね上げる。
流れるようなその動き、信じ難い力とうらはら、妖婉なまでに優雅極まりなく。二度、三度と鞠の如くに蹴り上げられ、そのたび上がる蝦蟇の悲痛な絶叫。
それを呆れた顔で聞きながら、ゾロは生欠伸噛み殺す。
本気の時ほど笑う男だ。見た目に騙される輩のなんと多いことよと、独りごち。じっと眺める背に、微笑み絶やさぬさま思い浮かべて嘆息する。
侮られるぐらいがちょうどいい、勝手に隙を作ってくれる。皮肉に笑うサンジの言、さもありなんと、ゾロは思う。
優男の道楽道士、浮かべる笑み嫋やかに。眼前で微笑まれれば、天女も頬染めうつむかんばかりのその笑みは、内に秘めた力、微塵も見せず。
「ちっと考えりゃわかるだろうに。顔だけが取り柄の道士に、この俺がこんなもんで封じられるわきゃねぇだろ?」
ちりん、指先で耳の金細工弾き、つまらなげに呟いて。ゾロはごろりと仰臥した。
後は勝手にやってくれと、呑気な欠伸一つ洩らし、蝦蟇の叫び声聞きながら、早夢の中。
自業自得の蝦蟇はといえば、もはや息も絶え絶え、血反吐を吐いて。のたうち回り命乞い。
この場に封じられ千年の永き眠りにつこうとも、命ばかりはお助けと、サンジの足元這いつくばり、履の裏までも舐めんばかりの懇願しきり。
当のサンジはにこり笑い、
「やなこった」
つれなく吐き捨ておもむろに、指先立てて印を結ぶ。
黒髪さらり揺らす風に乗り、唱える呪、かすかかに響き。
「ひぃっ!」
絶叫上げてのたうつ蝦蟇のぬめる巨躯から、やがて立ち上る水蒸気。次第に肌は乾きだし、締まりのない体、ますます奇怪に膨らんでゆく。
「熱い、体が煮立つ! 頼む、やめてくれっ!! 助けてくれぇっ!!」
無様に転げ回り、涙と血反吐に汚れた顔引きつらせ、蝦蟇の左手が縋るように伸ばされる。
不意に消えた婉麗な笑み。今や鞠の如く膨らみ体の内からごぼごぼと、奇怪な音立て熱持つ蝦蟇を見下ろす顔、無情。
表情なくさば、その娟秀光麗なる顔は、鋭い刃の切っ先にも似て。ひたりと見据える眼差しの、凍りつく如き冷ややかさ、溶けることなき氷壁もかくや。
「何人が、そうやってお前に助けを乞うた? お前はその時、独りでも助けてやったのか?」
淡々と問う声低く、情の色、露ほどもなく。
「おい、木っ端妖魔。俺の名を覚えておけよ? 東国が果ての仙洞バラティエが主、ゼフ禅師が弟子の中でも、来し方行く末秀偉比類無しと謳われた一番弟子、サンジ様だ。仙骨無く仙には成り損ねたが、てめぇ如き木っ端妖魔が束になってもかなう相手じゃねぇ。冥府の底の底まで堕ちても忘れるなよ、クソ野郎」
ゆるり唇つり上げて、微かに笑み浮かべる顔、凄艶な。
「お前を殺した男の名だ」