風語る、流るる川の岸辺に寄せて

 それは、今は昔の物語。

 孟秋もうしゅう(七月)の陽光眩しく、川面を渡る風清やか。
 緩やかに流るる川はきらり、きらりと、陽を弾き、一月半ほど前までの荒ぶる顔など露と感じさせぬ。
 根こそぎ流された川岸の草花も、逞しさ見せつけるかの如くまばらなれども生え繁りだし、天高く鳶が舞う。
 ぱしゃり、音立てて魚が跳ね、ひらり、虫が飛んだ。いかにも穏やかな夏の午後である。

 そんな川岸の、幾分生え揃った柔らかな草に仰臥し、不機嫌極まりない顔で空を睨む、童子が独り。
 童子、と呼ばわれば、彼の者はむつりと顔をしかめるやもしれぬ。もしくは毛を逆立てる猫のように喚きたてるか。
 年のころは十四、五。浅く陽に灼けた肌は瑞々しく、伸びやかな四肢の隅々まで、抑えきれぬ若い闘気と才気漲るかのような童子であった。
 道行く者がその顔見れば、ほうと感嘆の溜息つくほど、あどけなさ残す顔は端正であるが、いかんせん浮かべる表情は険しすぎる。
 引き結ばれた唇や、秀でた眉の間に刻まれた皺の深さが、意思や癇癖の剛さを思わせて。
 空の蒼睨む瞳は、苛烈な光放つ。
 その双眸は、黒炭の如き深い黒。短く刈られた髪も艶のない漆黒で、触れれば意外なまでに柔らかいことがわかるであろう。
 着ているものは質素であるが、細腰に携えられた刀剣や、左耳に連なる黄金の耳飾りは、童子が市井の農民、商人とは異なることを、如実にあらわしていた。

 実際、この童子、近隣の村の者ではあらぬ。ここより歩くこと半刻(一時間)ばかりの村に逗留する、旅の道士の弟子という立場にある。童子に問えば、あれを師父と仰ぐなど死んでも御免被ると、渋面さらすであろうが。

「じきに一月半だぞ、あの色道楽の節操なしめ。なにを考えてやがるんだか」
 呟く声は忌々しげ。手なぐさみにむしりとった下草を眼前にかざし、舌打ち一つ。
「とっとと元に戻しやがれってんだ」
 指先で風に揺れる草見つめ、なにを思うか童子の瞳に、苛立ちとは異なる色がちらり浮かんだ。
 不意に強く吹いた風が指先の葉をさらい、遠く運んでゆく。見るともなし眺める瞳に映るは、空の蒼と緑の葉。童子は小さく溜息ついた。

 童子の名を、ゾロという。

 連れの道士はどこぞの女の閨で、房事の最中に違いない。昼日中から不道徳にもほどがあると、ゾロはきりりと唇噛んだ。
 この川に端を発する滞在は、すでに一月半あまり。半年にわたる長雨に、氾濫し荒れ狂った川は田畑や近在の家々を流し、あまたの人を飲み込んだという。
 ゾロと道士も、それゆえ足止めを食らったようなもの。請われるまでもなくいずれ手は打たねばならぬところではあったが、先に請われたをもっけの幸い。しっかり謝礼もいただきつつ。雨雲を晴らすための呪を唱えること、わずか半日足らず。
 見事陽光射し、あまつさえ、物はついでと仙術駆使し、堤や橋の修復にまで手を貸したともなれば、これは名のある仙ではと、村人達の感謝の念はとどまるところを知らぬ。
 仙にはなり損ねたのだなどとは伝えることもなく、さも当然と歓待受ける道士を思い浮かべ、色事ならば悪名も高かろうよと、ゾロは小さく鼻を鳴らす。
 道士を見やる女どもの目に宿る、明明白白とした阿媚あびの色。老若問わず頬染め、こぞってまとわりつくのを、またこの道士が諌めもせず。男相手の粗略ぞんざいな物言いなどどこへやら、にこり笑って口賢くちさかしく、歯の浮くような美辞麗句並び立てるものだから。

 すっかり件の憂いは取り除いたというのに、請われるままの長逗留。連日連夜、女の誘いは引きも切らぬ。

「見た目に騙されやがって、馬鹿ばっかりだっ」
 吐き捨てるように言い、蒼天から目を逸らさんと、ゾロはごろり寝返りを打った。
 たしかに容貌優れた男であるのは認めよう。かような田舎であれば、講談の中にしかあんな美丈夫は存在すまいと、誰もが思ってもいたであろう。事実、あれほど容色誇る者は、都どころか天界にもそうはいまい。思ってゾロは舌打ち響かせた。

 年のころなら二十四、五。若さと思慮をともに携えた眼差し清やか。白磁の肌に、ゾロより頭一つ半は高い均整のとれた長身。烏の濡れ羽色した艶やかな髪で、半面隠したその顔は、嫌味なほどに整っている。
 くるり巻いた珍妙な眉が、愛敬添えて。澄んだ瞳の色を黒水晶に例えられ、ふわり微笑んでみせる、優男。
 女の前で見せる所作はあくまでも優雅で、一見華奢にも見えるが、あにはからんや。引き締まった痩躯に秘められた逞しさの並々ならぬこと、今ごろ同じ閨にいる女も耽溺しているに違いない。

 じわり、ゾロの胸に言い知れぬ痛みが広がった。

 ちりりと指先で耳の飾りをもてあそび、すがめた瞳、悩ましく。憂いに震える吐息つく。
「こんなもんで人を縛り付けておいて……ふざけんなっ、色魔! 節操なし! 色惚けの下半身道楽! ……大嫌いだ、てめぇなんか……」
 悪口雑言並べ立て、ぽつり零した声に、切なさ滲む。
「早く戻せよ、阿呆道士……」
 気を使いすぎたの休息が必要のと、のらりくらりとゾロの追求かわし。なじる言葉にも、秀麗な顔に浮かぶ皮肉な笑みに陰り一つ落とすでないのが、また腹立たしい。
 毎日いそいそと、幾人もの女の元へと足繁く通っておいて、休息などとどの口が言うか。
 路銀や食料と引き換えに、易やら雨乞い、時に妖魔退治など。請われて数日滞在するはままあれど、かような長居は初めてのこと。
 明日はいずこの旅の空。星の天幕見上げて眠る日々は、ゾロにとっては苦痛ではなく。こたびのように調えられた寝台に眠るより、露に濡れつつ二人並んで草枕。下にも置かぬ歓待の膳受けるよりも、道士の手による質素なれども心安い食事のほうが、よほど楽しい日々であるというのに。
「あいつ、このまま村に居座る気か?」
 思い浮かぶは特に道士に執心激しい未亡人。田舎の農村には珍しい婀娜な風情の、道士に言わせれば好い女ではあるが、やたらに媚売りしな作る様は、盛りのついた雌猫と変わらんと、ゾロの評価は辛辣である。

 じわり熱くなる目頭に力をこめ、脳裏に浮かぶ光景を追い払い。独りでいるとろくなことを考えぬと、小さく呻く。

 チョッパーを連れてくるべきだったか。それともウソップを呼び出すか。
 ちらり考えて、溜息とともに即座に打ち払う。
 人気はないとはいえ、いつ何時誰が通りかかるか、知れたものではない。村の大恩人の道士の連れが、人語を解す馬だの、こともあろうに水妖(河童)だのと、さも親しげ、呑気に会話など交わす姿を見られでもしたら、一体どれほどの騒動巻き起こすものか。考えるだに憂鬱になるではないか。
 そこまで考えなしになれるわけもなしと、ゾロはゆらり身を起こした。
 同じ騒動起こすならば、憂さも晴らせる一挙両得。いい加減、ただよいきてはするりと消え失せるこの気も、腹に据えかねてきたところだと、にやり笑う。

「おい、どこのどいつだか知らねぇが、こそこそ隠れて見てんじゃねぇよ。うっとうしい」

 穏やかな川面の一角に眼差し据えて、浮かぶ笑みに凄艶とすら言える色香と、抑えきれぬ闘気を乗せる。

 ごぼり、と、澄んだ水面に浮かんだ泡が弾けた。

 ごぼり、ごぼりと、泡は生まれては弾け。見る間に川面は煮立つように泡立ち、淀みにごってゆく。
 漂う妖気。広がる臭気が鼻をつく。
 不意に響いた下卑た笑い声に、ゾロの瞳がついとすがめられた。
「ほうほう、気づいていたか。寵童風情と思うたが、威勢のいいことよ。腰の剣は飾り物ではないらしい」
「誰が寵童だっ! 人を稚児扱いしやがって……ぶった斬るぞ、てめぇ!!」
 激昂し、途端膨れ上がる闘気と殺気。反して声はますます愉快げに高まる。
「気の短い小僧だ。ふん、たしかにあの道士、この一月半女の家をふらふらと、蜜蜂のように飛び回っていたからな。悋気に苛立ちもしようよ」
「俺は稚児じゃねぇっつってんだろうがっ!! いいからとっとと出てきやがれ!」
 ぎりりとまなじりつり上げ、腰の刀剣に手を掛ける。張り上げる声に怒気孕ませ、睨みつける瞳、爛々と。漲る闘気は壮絶なことこの上ない。
 だが笑い声は一向にやまぬ。一層楽しげに響きわたるばかり。

 やがて妖気は周囲を満たしきり、川面が凪いだ。
「……蝦蟇がまか」
「おうよ。齢三百を超えるわ。なまくら刀で斬れるものか、試してみるか? 小僧」
 水面に立つ巨大な体躯。かろうじて人の姿をしてはいるが、それはあまりにも奇怪であった。
 迫り出した腹はぶよぶよと締まりなく、いたるところ隆起した肌は嫌らしげにぬめる。四肢だけがやけに長い。
 緋の腰帯に連なる髑髏、おどろおどろしく。大きく裂けた口からちろちろと、長い舌覗かせる様は、まさしく異形の蝦蟇である。
「なまくらかどうか、てめぇの体で試すか? 老いぼれ」
 言いざま抜き放つ刀剣、陽光弾き。端麗な顔に浮かぶ笑み凄艶、熾烈な火の如く。
「口の減らぬ餓鬼よ。あの優男の道士に甘やかされ放題とみえるわ」
 刹那、水面を切り裂いた斬激。水飛沫が上がる。
「思ったより素早いな」
 淡々と呟き一つ、ゆるり唇つり上げる。
「でなけりゃ面白くねぇ。おい、一つ聞くが、あの長雨はてめぇの仕業か?」
「ほうほう、察しがいいな。少しは腕も立つようだ」
 こちらも焦った様子なく、瞬時に飛びすさった先で、蝦蟇は下卑た笑い声立てる。
「ったく。あの色惚け道士、手抜きしやがって」
 元凶を放っておくとは、画竜点睛を欠くどころではないではないか。
 呆れ返った声で言い、ゾロは蝦蟇を睨み据えた。
「あの色魔の後始末ってなぁいただけないが、俺は今機嫌が悪い。いい憂さ晴らしだ。覚悟しやがれ」
 切っ先突きつけ、言い放つ。凜と伸ばした背がしなり、爪先が地を蹴った。
っ!」
 気合い一声、白刃閃かせ切りかかる。飛び去る後追い返す刀、空を薙ぎ。川面にわずかに顔出す岩を蹴り、しなやかな体が再び空に舞う。
 しかし、鈍重そうな蝦蟇の巨体は、存外素早く。加えて足場などない水面では、斬りつけるにも限度がある。
 舌打ち一つ、眉根を寄せて。斬激に上がる水飛沫浴び、ゾロは二度、三度と斬りかかるが、どうにも分が悪い。
「川岸に呼び寄せねぇと駄目か」
 思い定めた刹那。

「……っ!?」

 伸ばした舌先、ゾロの足首に巻き付けて。蝦蟇の大口が笑みに歪む。
「しまった!」
 体勢崩した肢体が川面に叩きつけられた。
 盛大な水柱上げ、水中に沈むゾロの体。時を置かず空に引き上げられ、雫払う如くに振り回される。
「く……っ」
 掠れた苦鳴洩らしながらも、舌を断たんと剣を振り上げた途端。
「うわっ!!」
 するり外れた戒め。止める手立てなく弾き飛ばされた体が空を切る。
「……つぅっ!」
 川岸に激突し、跳ねた骨身に走る激痛。飲み込みきれぬ苦鳴が零れた。
 痛みこらえて起き上がり膝つくゾロの眼前で、蝦蟇はにたにた笑いながら、長い腕を己の口に差し入れた。

 ずるりと引き出されたは、唾液にまみれ、てらてらとぬめる青竜刀。

「てめぇは奇術師かよ。てんで面白かねぇけどな」
「ほうほう、まだかような減らず口をたたくか。黙っておれば稀なる美童だというに、あの道士、躾がなっとらんな」
「あんな色道楽に躾けられてたまるかっ! 俺はあいつの稚児じゃねぇって言ってんだろうが!」
「道士は可愛がってはくれぬか。可哀相になぁ。安心するがいい、喰らう前に俺が慰めてやろう」
 長い舌で舌舐めずりする卑猥な様に、ゾロの体が総毛立つ。
 冗談じゃない。まったくとんでもない話だと、一瞬青ざめ引きつらせた顔に、流れ落ちたは先の名残か冷や汗か。
 伝い落ちる雫を、ふるり頭振って払うと、ゾロはすっくと立ち上がり剣をかまえた。
「蝦蟇なんぞと同衾する趣味はねぇし、喰われるのも御免だ」
「なに遠慮するな。どのみちあの道士も俺の腹に納まる定めよ。たぶらかす手連手管は教えてやろうほどに、俺の腹の中で待つがよいさ」
 ぺたりぺたりと湿った足音立てて、近づく蝦蟇の顔、目を背けたくなるほど淫猥なことこの上ない。
「……てめぇ、あいつを喰う気か?」
「知れたこと。俺の雨雲晴らすほどには力あるなら、喰らえばそれだけ俺の力も増そうよ。そうでなくともあの美貌、さぞかし美味だろうて」
 鄙陋な笑い声立て腹を揺する蝦蟇を、見据えたゾロの眼差しが、火と燃える。
「させるかっ!!」
「ほうほう、かえりみてはくれぬ男でも恋しいか。健気なことよな」
「ほうほううるせぇんだよ、てめぇはふくろうかっ! 黙らねぇとその口、一寸おきに切り刻むぞ!」
 言う間も激しく剣花煌かせ、斬り結ぶこと、数十合。
 しなやかで剛急なゾロの剣受け、返す蝦蟇はといえば力業。体躯の差が技量の差を埋め、生半なことでは勝負はつかぬ。
「ほうほう、人間の小童が、なかなかどうしてやりおる。ますます喰らいたくなったわ。お前の肉はさぞかし甘く瑞々しかろうよ。道士恋しと震える花芽を存分に可愛がり、蕾の奥の奥まで嬲った後で、髪の一筋までもあまさず喰ろうてやるわ」
「気色悪いことぬかすな! ……つっ!?」
 大上段に斬りかかる太刀受け、怒声浴びせて弾き返したその隙をつき、蝦蟇の長い手がゾロの胸元を薙いだ。
 はらり、裂けた布地から覗く肌に、血の赫一筋、胸元を走る。
っ!」
 飛びすさり息を整えるゾロの耳に、哄笑高らか。蝦蟇はさかんに舌舐めずりする。
「人の身で俺の毒受け、どこまで保つか。なに死にはせんさ。体が痺れ四肢の自由が利かなくなるだけのこと」
「毒……? あっ!」
 がくり崩折れるゾロの足。冷たい汗が額に滲む。
 剣に縋りかろうじて上体は起こしているが、縋るその手も痺れだし、気力振り絞ろうとも意のままにならぬ。
「さて、まずは味見といこうか」
 目に宿る欲火爛々と、蝦蟇はじわり近づいてくる。
 霞む目すがませ、かすかに後ずさるゾロの耳元で、金の飾り揺れ、涼やかな音立てた。
「畜生、戻れさえすりゃ……」
 ぎりり唇噛み、屈することない瞳が燃えた。
 ぬめる蝦蟇の手があどけなさ残す頬に触れ、びくりと体すくませる。

 てめぇのせいだ、阿呆道士。元に戻せ。力を返せ。

 喚く言葉は胸の内。もはや声すらままならぬ。
 近づく蝦蟇にきつく目を閉じ、ようよう絞り出した声は。

「サンジッ!!」