彼岸花が枯れるまで シーン抜粋1

・錆兎と義勇の殴り合いの後、独房での会話。

「そうか……冨岡は、自分が嫌いなんだな」
 壁越しに聞こえる密やかな錆兎の声に、不快感を露わに義勇の眉はしかめられた。好きになどなれるわけがないだろうと、内心では腹立ちと共に吐き捨てるが、口には出さない。
 錆兎は義勇の沈黙など意に介さぬのか、なおも続けた。
「お前がしているのはただの自虐だ、違うか?」
 自虐という言葉に目を見開いた義勇は、思わず壁を叩きつけた。だが錆兎の言葉はやまなかった。
「お前が姉さんのことで悔やんでるのは分かった。けど、お前の姉さんはお前が自分と同じ目に遭うことを願う人なのか? 違うだろう?」
 蔦子の笑みが義勇の脳裏を過る。
「……お前に、なにが分かる」
 押し殺した怒りを秘めた義勇の声に、返された錆兎の声が明るさを帯びた。
「やっと返事したな。いい傾向だ」
「うるさい、いい加減黙れっ」
 刑務官に咎められぬよう、互いにひそめた声ではあるが、義勇の怒りは確実に錆兎に伝わっているだろう。けれど錆兎は、義勇を諫める言葉を止めるつもりはないようだった。
「なぁ、冨岡。自分が悪いって思い込むのをやめろとは言わない。お前自身が後悔してるなら、俺がなにを言ったって、お前の罪悪感が消えるわけじゃないからな。
 だけど、お前に罪があるとしても、罰を決めるのはお前自身じゃない。いつかお前にも逃げようのない天罰が下る時が来る。その前に自分を痛めつけるのは、ただの逃げだ」
「逃げだと……?」
「そうさ。自分で罰を決めるなら、逃げ出すことだって自由だろ? 天罰は、逃げられないんだ。どんなに辛かろうが、苦しかろうが、自分じゃどうしようもできないからこそ、罰になるんだ。お前は自分で自分を痛めつけることで罰を受けてる気になってるかもしれないが、それが自虐じゃなくてなんだって言うんだ?」
 黙れ。そう怒鳴るのを堪え、義勇はきつく歯を食いしばった。ギリッと奥歯が嫌な音を立てる。微かに血の味がした。
 自分の現状を蔦子は望まぬことなど、言われずとも義勇にも分かっている。だが、それならばどうやって償えというのか。せめて蔦子が味あわされた苦しさを自分も負わねば、蔦子に詫びる術など義勇にはない。
「……俺が決めた罰だろうと、逃げるつもりなどない。余計なお世話だ」
「うん、余計な世話を焼いてるな。だけどな冨岡、俺が気にしてるのはお前以上に、お前の姉さんのことだよ。お前がそんなんじゃ、お前の姉さんが可哀相だ」
 義勇の喉が小さく鳴った。知らずおののく唇から絞り出された声も震えていた。
「姉さんは……っ」
「お前が自分から辛い目に遭うのを哀しんでる。お前だって本当は分かってるだろ?」
 枯れたと思っていた涙が一粒、義勇の瞳から零れ落ちた。
「も、遅い……俺は、もう、人殺しだ。あの外道どもを殺したことを後悔なんてしない、もしやつらが生き返って俺の前に現れたら、俺はまた殺す……っ! けど……」
「お前の姉さんはお前を責めたりしないよ」
「勝手なことを言うな!! お前はただの身代わりかもしれないが、俺は自分の手でアイツらを刺してるんだ! この手で、アイツらの首を、斬りつけて……腹、を……刺し、て……」
 今までその感触を義勇が思い出すことはなかった。
 自分は人殺しだ。その言葉が初めて閉ざしていた義勇の心に落ちた。けれどやはり、後悔は心のどこを探しても見当たらない。
 義勇は微かに震える己の両手を見た。薄曇りの夜空に輝く月の、仄かな光に照らしだされた掌は、今も血に濡れ赤く染まっている気がした。
 蔦子は、今の自分をどう思うだろう。人を殺しても後悔すらしていない、そんな畜生にももとる存在に落ちた自分を、どんな目で見るのだろう。
 そして、父は……。
 蔦子を守ると約束したのに果たせず、父がつけてくれた正義のために発する勇気との名を穢した自分は、二人にどう詫びればいいのだろうか。義勇にはわからなかった。
「……冨岡、大丈夫だ。償いはできる。きっと、俺にも、お前にも、天罰は下るんだ……本当の裁きを待とう? な? ……義勇」
 義勇。その名を呼ばれたのはいつぶりだろう。最後に呼んでくれたのは、誰だったろう。
 義勇の喉が震えた。唇がおののく。我知らず上がった義勇のどこか幼い嗚咽を、錆兎は静かに聞いていた。

・鱗滝の児童養護施設の前。炭治郎との出逢い。

「お兄ちゃんが、おっかない小父さんたちから守ってくれるんですか? 禰豆子のことも守ってくれますか?」
 パジャマ姿で駆けてきた子供を、義勇は訝しげに眺めた。
 まろく大きな目を不安げに揺らし、子供は義勇を仰ぎ見ている。幼さに似合わぬ大振りのピアスが耳元で揺れていた。
 あまり素性のよろしくない親なのだろうか。思いはするが、ピアス以外、子供に崩れた様相は見受けられない。
 義勇の感情の読めぬ目が自分のピアスに向けられていることに気づいたものか、子供は一つ瞬くと、言い訳めくでもなく父の形見なのだと言い、真菰姉ちゃんにお願いして付けてもらったと笑った。
 少し誇らしげな子供の声に、あぁそうか、ここは児童養護施設だったなと胸の奥で独り言ちる。
 義勇は改めて古びた建物へと視線を向けた。錆兎やいつも話に出てきた真菰という少女のことばかりが念頭にあり、これぐらいの年頃の子供がいることを忘れていた。そう言えば今日は平日だ。静かだったのは子供たちが学校へ行っていたからなのだろう。
 なにも言わない義勇に不安を蘇らせたのだろうか。子供は僅かばかり俯き、もじもじと体を揺らせた。ほのかに赤い頬は熱があるのかもしれない。パジャマ姿であることを鑑みれば、おそらくは風邪でも引いたかして休んでいたものと思われる。
 黙っている義勇に、答えをくれと見上げてくる子供の瞳は煌めく赫灼。火のように強い瞳だなと少し感嘆しつつ、子供の視線を受け止め、義勇は、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
「禰豆子?」
「妹です! 鱗滝さんにしがみついてたら、怖い小父さんに払い除けられて転んじゃったんです……俺、兄ちゃんなのに守ってやれなかった……」
 大きな瞳を揺らめかせるが、子供は涙を落とすことはなかった。悔しげに握る拳には、かなり力が込められているだろう。
 小さな拳に、義勇はふと蔦子の言葉を思い出した。
 母がいないことをからかわれ、級友と喧嘩してしまったときのことだ。

──握れば拳、開けば掌。ね、義勇。拳では殴ることしかできないけれど、掌ならなんだってできるわ。こうやって義勇の頭を撫でてあげることもできるし、握手することも、抱き締めることもできるでしょう?──

 蔦子のやわらかな声を思い出しながら、義勇は改めて目の前の子供を見つめた。きっと妹想いの子なのだろう。責任感も強そうだ。笑った顔は明るく温かかった。この子の手は、きっと拳を握るよりも妹の頭を撫でるほうが似合う。
「……守る。だから、俺のことは誰にも言うな」
「なんでですか? 守ってもらったら鱗滝さんだってお礼が言いたいと思います!」
「礼を言われることじゃないからだ」
 分からないと首を傾げる子供の眼前に、立てた小指を掲げ義勇は視線で子供を促した。
 子供はまだ納得しきっていない様子だった。それでも、義勇の目と小指を交互に見遣った子供は、やがておずおずと手を上げ、義勇の小指に自分の小指を絡めた。
 約束だと言った義勇に頷き、子供は不安を払い去った顔で笑う。
「誰にも言っちゃいけないなら、俺がお兄ちゃんにお礼を言います! お兄ちゃん、守ってくれてありがとうございます!」
 ニコニコと明るい笑みを浮かべる子供は眩しかった。
 あぁそうか。この子の笑顔を俺は守るのだ。義勇は思った。
 贖罪とは言わない。そんなものにこの子を利用するわけではない。これから行うのはただの自己満足であり、善行ではないのだ。
 この子の為にと思うことで、こんな稚い子供に因果を負わせてはならないと、義勇は絡めた細い小指に誓う。
 錆兎の為ではなく、ましてやこの子の為でもなく、守りたいと思うから守るだけのことだ。
「あぁ……絶対に、守るから」
 愛らしく元気なありがとうの声と、笑顔の眩しさ。汚れた自分が守るものとしては、あまりにも清廉すぎる。けれど、だからこそ守らねばと、心に決意も湧く。
 指切りげんまんと歌う子供の声は調子っぱずれだ。この子はどうやらかなりの音痴らしい。義勇は我知らず小さく笑った。
 揺らされていた子供の手が止まった。訝しさに子供の目を見返せば、その目は大きく見開かれ、柔らかそうな頬は真っ赤に色づいていた。
 そうだ、この子は学校を休む程に体調を崩しているのだったと思い至り、義勇は指切りの小指を外すと、ぎこちなく子供の頭を撫でた。
「もう戻れ」
 言いながら立ち上がり、子供に背を向ける。
 歩み去る義勇の背に、子供の声が投げかけられた。
「お兄ちゃん、さよなら! また来てくださいね!」
 振り返れば、子供が笑って手を振っていた。開かれた掌に、少しだけ安堵する。

 二度と逢うことはない。その約束はできないなと微かに目を伏せると、義勇はもう振り向くことなく歩いて行った。