忘却心中 1

 そろそろ時刻は午前一時。駅前周辺は、まだそれなりに人がいるんだろう。飲み屋街から少し外れたこの路地にも、酔っ払いの笑い声が聞こえてくる。
 (今日も外れだったかぁ……)
 炭治郎はスマホの画面に視線を落として、小さなため息をついた。収穫もない上に、運動あとの気だるい体で自転車をこいで帰る一時間を思うと、ため息だって出るというものだ。
 それでも今日の人は、無茶なことをさせるわけでも、卑猥な言葉ばかり言わせようとするわけでもなかったのだから、よしとしよう。
 駐輪所までは歩いて十五分ほど。なんとか二時前には帰れそうだ。二時をまわるとさすがに睡眠不足がつらい。今週は週末に家を出られそうになかったからしかたないが、明日の授業を考えたら、げんなりとしてくる。
 風が人気のない通りを吹き抜けて、足元で枯葉がカサリと音をたてた。まだ十月だというのに、真夜中の風はすっかり冷たい。パーカー一枚で出たのは失敗したなと、炭治郎は思わず首をすくめる。
 我知らずブルリと体がふるえたのと同時に、静かな声がかけられた。
「……送っていく」
「駅に自転車置いてるんで。お気持ちだけで大丈夫ですよ」
 車なんて密室と変わらない。移動する密室。ふたりきりなんてとんでもない話だ。ホテルの部屋でふたりきりで過ごすのは、また別の話だと、炭治郎は笑顔のまま内心で独り言ちる。
「それじゃ、俺はここで」
 にっこり笑って、はい、さよなら。とは、いかなかった。
 歩き出そうとした途端グッとつかまれた腕に、思わず顔をしかめる。細身のくせに意外と力が強い。
 いや、意外でもないかと、炭治郎は思い直す。さっきまで一緒にいたベッドの上で、炭治郎に覆い被さった男の肉体は、余計な脂肪なんてどこにもなくて、腹筋は見事なシックスパックだった。ボディービルダーみたいな誇張された筋肉ではない、鍛え抜かれた抜身の刀身を思わせる引きしまった筋肉には、炭治郎も思わず見惚れた。そりゃあ、力も強かろう。
 けれど、男でも憧れるような肉体美や、今までで寝た男のなかではダントツに綺麗な顔も、炭治郎にとっては、大した意味を持たない。
 余計なことも言わないし、慣れていないのか触れる手は少し震えていたけれど、とても丁寧でやさしかったから、そこそこ好感を持ったのに。この人もほかの男と変わらないなと、炭治郎はちらりと男を見上げる。それでも、馴れ馴れしく肩を抱いたりしないだけマシか。
「あの、放してくれませんか。痛いんですけど」
 自分でも思ったより冷たい声が出た。ハッと目を見開いて、男の手がすぐに離れていく。聞きわけが良くて幸いだ。いくら人気ひとけはなくとも、こんな真夜中にホテルの前で長話なんてしたくはない。
「……すまない。だが、こんな時間に一人で帰らせるのは……」
「俺、自転車通学なんで、自転車置いてくわけにはいかないんです」
 こんなふうに引き留められるのは、別にめずらしいことじゃない。なにが気に入ったのかはわからないが、執拗に連絡先を聞いてくる人も少なくなかった。

 このあいだの人も定期的に会わないかってしつこかったっけ。この人は紳士的だったから、すんなり終わると思ったんだけど……結局、この人もほかの人たちと同じかぁ。

 苛立ちだしたことが伝わったのだろう。男はそれ以上言葉を重ねることはなかった。
 けれども、離れがたいと思っている空気は伝わってくる。ジャケットの内ポケットに手を差し入れたのは、名刺かスマホを取り出そうとでもしているんだろう。
「それじゃ、失礼します」
 先手を打ってペコリと頭を下げると、炭治郎はくるりと男に背を向け走り出した。
 一瞬追いすがる気配はしたけれど、走りながらうかがい見れば、男はただその場に立ち尽くしているだけだった。
 追いかけてこないのなら、走る必要もない。激しい運動の後だ。余計な体力を使うこともないだろう。立ち止まって振り返れば、男もこちらに背を向けたところだった。
 また風が吹いた。遠目に見た男の背で揺れる長い黒髪に、炭治郎は少しだけ泣きたくなった。
「また……違った……」
 知らずこぼれた声は切なさを含んで、風音にまぎれて消えた。

 炭治郎が『男』と逢うのは、いつでも最寄り駅から三駅分くらいは離れた街だ。家から自転車で一時間ぐらいが理想的。あまり近いと知り合いに見られるのが怖いし、遠すぎると帰りがつらい。相手の車に乗るのは、最初で懲りた。だから、駅近くにホテルがある場所を選ぶ。待ち合わせ場所から歩いてホテルに行けるし、大概は駐輪所も近くにあるから、送っていくという誘いも断りやすい。
 初めてのときにはそんな知恵もなく、言われるままに車に乗った。最寄り駅とは見当はずれもいいところな知らない街まで連れ出され、心底怯えたのは苦い思い出だ。隙を見て逃げ出せたのは、つくづくラッキーだったと思う。
 それでも、もうやめようと思わなかったのは、どうしても探し出したかったからだ。逢いたかった。名前も知らない『あの人』に。
 高校に入ってから始めたこんな生活は、そろそろ半年になる。
 ゲイの出会い系サイトに年齢をごまかして登録した時には、心臓が止まりそうなぐらい緊張した。最初の男に会ったときの緊張ほどではなかったけれど。
 今ではすっかり慣れて、メッセージのやり取りをするのも、待ち合わせ場所に向かうのにも、緊張なんてしない。それでも、挿入されるその瞬間には、やっぱりドキドキとして、期待と不安に息がつまる。
 もしかしたら、今度こそ『あの人』じゃないかと期待して、緊張に体が固くなる。どうしても体の力が抜けなくて、いつだって受け入れるときは痛みを伴った。だから本当は、SEXなんて好きじゃない。
 それなりに気持ちがいいのは確かだし、男だから、出すものを出せばスッキリするのは否定しない。けれどそれだけだ。炭治郎が望む瞬間は、何人と寝ようと一度も訪れなかった。
 寝るのはいつでも一度きり。二度目はない。違うとわかっている相手に、わざわざ会う必要なんてまったくないのだから、当然だろう。
 真夜中の道を自転車で走りながら、炭治郎は大きくあくびした。
 眠い。でも喉も乾いた。そういえばシャーペンの芯が切れてたんだっけ。家に帰るならまっすぐ進むほうが早いけれど……考えたのは一瞬で、炭治郎は十字路を右に曲がった。
 遠回りにはなるけれど、コンビニに寄っていこう。家に帰ってからもう一度出るのも、家を通り過ぎて近所のコンビニに向かうのも、億劫だ。遠回りとはいえ、帰り道には違いないんだから、ミネラルウォーターとシャーペンの芯を買って、ついでに明日の朝ご飯用にサンドイッチでも買っていけばいい。いつもなら朝ご飯くらい自分で適当に作るけれど、早起きするのはさすがに面倒だ。
 決めてしまえばペダルをこぐ足に力がこもる。遠回りする分、スピードを上げた。

 いくらも走らないうちに、青と白に光るコンビニの看板が見えてきた。駐車場には車が一台。客が少ないならラッキーだ。たとえ見ず知らずの他人だろうと、男と寝た後はなるべく自分の顔を見られたくない。コンビニの店員ぐらいがギリギリ許容範囲。
 サンドイッチあるといいけどと思いつつ、自動ドアをくぐったとたんに、炭治郎は自分の選択を後悔した。
 レジで会計中だった男が、ちらりとこちらに向けた瞳を大きく見開いている。整った顔に浮かんだ驚愕は一瞬で、次の瞬間には盛大にしかめられた顔に、炭治郎は思わず首をすくめた。
 じろりと睨みつけられて、つい愛想笑いなんかしてしまう。一時間前にしていたことが頭をよぎれば、なんとはなしいたたまれない。
 素直に帰ればよかった。まさか、こんな真夜中に、この人に逢っちゃうなんて、ついてない。
「先生、こんばんは」
 ペコリと小さく頭を下げて、炭治郎はそそくさと店の奥へ向かった。ペットボトルが陳列されているケースを開けつつそっとうかがい見れば、先生は、レジを済ませて店を出るところだった。思わず安堵のため息が落ちる。さすがに店内でお説教されてはかなわない。
 ミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、ため息をもう一つ。まさか先生と、こんなところで会うとは思ってもみなかった。こういう時にはどんな知り合いでもあまり顔をあわせたくないが、学校の教師なんてその最たるものだ。
 とはいえ、ほんの少しラッキーと思う気持ちもある。
 絶滅危惧種並みのスパルタっぷりで有名な体育教師の富岡先生、通称トミセンは、学校中の生徒に恐れられているのと同時に、女子の人気はすこぶる高い。なにせ芸能人と並んでも遜色ないぐらいのイケメンだ。炭治郎だって実は気になっている。
 炭治郎の心を騒がせるのは、その顔立ちよりも、長い黒髪のほうだけれども。
 手早く買い物を済ませて店を出れば、案の定、車に寄り掛かって先生が待っていた。
 教師には珍しい長髪は、学校にいるときと同じく無造作にくくられている。学校と違うのは、いつものジャージではなく、着ているのがカットソーにジーンズという点だ。もはや制服かというぐらい、学校ではジャージ姿しか見たことがなかったから、初めて見る私服は新鮮で、なんとなく楽しい気分になった。
 けれども、そうそう喜んでもいられない。わざわざ待っていた理由なんて、考えなくてもわかる。
「……何時だと思ってる」
「すみません。シャーペンの芯が切れてたの思い出して。朝ご飯も買いたかったし……すぐ帰ります」
 ほら、きた。疲れてるのにお説教は勘弁してほしいなぁと思いつつ、炭治郎は神妙に頭を下げる。素直に謝ってさっさと解放してもらおう。別に夜中にコンビニに買い物にくるぐらい、注意されるほどのことじゃない。そんなに目くじら立てて叱られることもないだろう。高校生が夜中に出歩くんじゃないぐらいは言われるだろうけれど、それでおしまいだ。
 そんなふうに考えていた炭治郎の想像に反して、先生は、スッと目をすがめると顔を寄せてきた。
「……おまえの家からじゃ、このコンビニは遠いだろう? 大通りからの帰りに途中で寄るならともかく」
 至近距離でささやかれて、ドクンと大きく心臓が鳴った。
 まさか、なにをしてきたかまでは、わかるわけがない。思ってみても、やましい気持ちがあるだけに落ち着かなかった。
「夜遊びの説教は明日だ。放課後生徒指導室にくるように」
 ポンっと頭に乗せられた手の大きさに、先ほどとは違う意味で心臓が跳ねた。
 先生はそれ以上なにも言わず、車に乗り込むと、遅刻するなよと言い残し車を発進させた。ドキドキと落ち着かない鼓動を持てあます炭治郎を、一人残して。

     ◇◇◇

 ゆらゆらと、黒い髪がゆれる。半身互いの風変わりな羽織の背でゆれる髪は、癖が強いのかところどころはねている。でも、綺麗な髪だ。
 あぁ、どうして振り向いてくれないんだろう。切なくて、でも、その背を見ているだけで安心する。胸にあふれるのは、信頼と、切ないぐらいの恋心。
 振り向いて。抱きしめて。名前を呼びたい。願うのに、体はどうしても動かなくて、声も出ない。
 これは夢だ。わかっている。いつもと同じ夢を見ている。
 幸せで、でも、どうしようもなく、悲しい夢。
 いつも夢の内容は変わらない。すぐそこにいるのに、炭治郎は彼の名を呼ぶことも、走り寄ることもできない。優しくてつれない背中を、ただ見ているだけの夢だった。
 

 そして、今日もなにもできぬまま、アラーム音に覚醒をうながされて、夢は終わった。
「……起きなきゃ」
 あぁ、久しぶりに『あの人』の夢を見られたのに、今日が平日なのが恨めしい。
 二度寝したくても、寝るのが遅かったから起床時間もいつもよりは遅めに設定している。今起きなければ遅刻するだろう。
 しかたなし、炭治郎はのそのそと起き上がると、スマホのアラームを止め、壁に貼った布を見やり小さく笑った。
「おはようございます」
 えんじ色の布と亀甲模様の布を貼り合わせたそれは、夢のなかの人が着ている羽織と同じ柄だ。
 夢のなかでしか逢えないから、写真なんて不可能だ。絵心もないから絵を描くこともできない。それでもせめて『あの人』を感じられるものをと考えて、選んだのが、その布切れだった。
 壁に近寄り、小さな布にそっとキスする。はたから見れば馬鹿馬鹿しいことこの上ないだろうけれど、炭治郎にしてみれば大事な日課だ。
「さてっ、支度するか」
 口に出せばどうにか体も動く。翌日にひびくような抱かれ方ではなかったから、体調は悪くない。カーテンを開ければ天気も良好。いい一日になりそうだ。
 んーっと伸びをしながら思った瞬間に、昨夜の一幕をハタと思い出し、炭治郎の眉尻がさがった。
「……放課後の呼び出しがあったか」
 はぁっと朝からため息なんかついてしまう。先生のことが気になるのは確かだけれど、お説教されるのは勘弁してほしい。
 夏前に一度、保健体育の授業中にスマホをいじっていたのを見つかって、没収された上、放課後に生徒指導室で反省文を書かされたのを思い出す。あのころは面倒くさくて画面ロックをしていなかったものだから、中を見られたらどうしようって、心底不安で気が気じゃなかったっけ。
 出会い系サイト……しかも、ゲイ専用のなんて、万が一見られでもしたら、最悪人生終了だ。
 幸い、取り上げられる前にサイトの画面は消していたから、通り一遍の当たり前なお説教だけで済んだけれど、あんな怖い思いはこりごりだ。
 げんなりしつつも身支度を済ませて部屋を出る。
 顔を洗ったら、昨夜買っておいたサンドイッチを冷蔵庫から出して、牛乳をお供に一人の朝食。父は毎度おなじみの出張中だし、母も繁忙期らしく週末まで泊まり込みだ。一人きりの食事は、子供のころから慣れっこで、もう寂しいなんて思うこともない。
 それでも、小さいころはやっぱり一人ぼっちが悲しくて、ベッドで泣きながら眠ることも少なくはなかった。
 寂しさを紛らわせてくれたのは、あの夢だ。
 夢を見だしたのは、確か中学一年生の冬だった。珍しく大雪が降って、一人で過ごすのが心細かったその夜、初めて『あの人』の後ろ姿を見た。
 夢のなかで、慰めてくれるわけでも、優しく語りかけてくれるわけでもない『あの人』は、それでも寂しいときにはいつだって、そこにいた。夢のなかでしか逢えない人。振り返ってさえくれないから、どんな顔をしているかすらわからない。名前も知らない。
 最初は、ただの夢だと思った。次に見たときには、もっと小さいときに会ったことがある人なのかなと考えた。だけど、すぐにそれはないと考えなおす。だってその人の手には、ときどき刀があった。目に鮮やかな青い光を放つ、不思議な刀。偽物かなとも思ったけれど、なぜだか真剣だと信じられた。
 あんなふうに抜身の刀をぶら下げている人なんて、現代の日本にいるわけがない。武道をやっている人なのかもしれないが、アルバムにはそんな人は一人として写っていなかった。両親に本物の刀を持っている人を知っているかと聞いてみても、どちらも答えは否だ。幼い炭治郎が実際に会ったことがある人なら、両親だって記憶に残っているだろう。だからきっと、その人のことは炭治郎しか知らない。
 けれども、ただの夢にしてはあまりにもその後ろ姿は鮮明だ。実際に目にして、記憶に焼きついているからこそ、夢のなかでも詳細に思い浮かべられるのだろう。ゆれる黒髪の癖の強さも、刀を持つ手の大きさも。はためく羽織の柄だって、炭治郎は鮮明に思い浮かべることができる。想像だけで思い描くには、無理があると炭治郎は思う。
 とはいえ、わかっているのは後ろ姿だけだ。夢のなかで、その人は一度も振り向いたことがない。
 それでも、恋をした。いや、恋していることを思い出した。
 きっと『あの人』に、自分はずっと恋していたんだと、炭治郎は思ったのだ。思い、そして、信じた。
 前世なんてものがあったとして、そのころの自分はきっと『あの人』に恋いこがれていた。好きで好きで、大好きで、生まれ変わっても夢に見るほどに、好きだったに違いない。
 荒唐無稽もいいところだ。人に話せばきっとあきれられて笑われる。けれども、その思いつきはストンと炭治郎の心の隙間にはまって、驚くほどたやすく馴染んだ。もはや引きはがし、否定し捨て去ることなどできないくらいに。
 だから、探そうと決意したのだ。手掛かりはなにもないけれど、きっと『あの人』だって炭治郎を探してくれていると思った。夢のなかの背中から伝わるのは、炭治郎のことを絶対に守るというゆるぎない決意と、包み込むような慈しみだ。振り向かず、なにも言ってくれない人だけれど、それは疑うことなく信じられた。
 きっと前世で自分たちは恋人同士だったに違いない。なんで振り向いてくれないのかはわからないけれど、探してくれっていうメッセージなのかもしれないと思った。
 でも、どうやって探せばいい? 顔も名前もわからない。もし思い出すことができたとしても、前世と同じ姿や名前をしているとはかぎらない。自分の前世だって、どんな顔をして、なんていう名前だったのかすらわからないのだ。『あの人』も探してくれていたとしたって、すれ違ってもお互いわからないままかもしれなかった。
 夢のなかの『あの人』に恋いこがれながら、無為に過ぎていった中学時代。留守がちな両親には当然言えなかった。友達にも相談できない。前世の恋人ってだけでも笑われそうなのに、相手は男の人だなんて、誰にも言えるわけがない。
 高校生になって、ゲイ専用の出会い系サイトや、マッチングアプリがあるんだと知った。信用されているのか、それとも忙しすぎて気が回らなかったのか、幸いにして炭治郎が買い与えられたスマホにはフィルタリングがされていなかった。
 もしかしたら、こういうところにメッセージを送ったら、逢える確率が上がるんじゃないのか? 思い至ったときには、すごく興奮した。だって『あの人』が男だって俺が知っているように、『あの人』だってきっと俺が男なことはわかっているはず。
 どこに住んでいるのか、今はなにをしている人なのか。なにもわからないけれど、夢のなかで見る『あの人』の背中は、俺よりも年上に見えた。今生でも俺より年上の可能性は高いと思う。
 だとしたら、こういうサイトで俺にだけわかるようなメッセージを残して、俺を探してくれているかもしれないじゃないか。
 炭治郎も同じように『あの人』を探しているメッセージを入れて待てば、出逢える可能性は高まるに違いない。興奮のままに震える指で登録したサイトに、目元だけを自撮りした写真をアップした。アピールの文章は『長い黒髪の人がいいです』とだけ。だってそれしか知っていることはない。
 風変わりな羽織の柄は、確認のために使うつもりで書かなかった。
 と、鳴り響いた電子音に、炭治郎はびくりと肩をはねあげた。
 ぼんやりとあのころのことを思い返しているうちに、いつの間にか結構な時間が過ぎていたらしい。もう家を出る時間だ。
「ヤバイ、遅刻するっ」
 慌ただしく牛乳を飲み干して、シンクにコップを置いたら、大急ぎで歯磨き。それでも、自室の壁に貼られた布への挨拶は忘れない。
「いってきます!」
 笑って言ったら、『あの人』の背中でゆれる黒髪が見えた気がした。

 必死にペダルをこいで、校門が見えてきたのはチャイムが鳴る五分前。今日も門のところには、竹刀を片手にトミセンが立っている。今日も今日とて着ているのはジャージだ。
 昨夜見た私服をなんとなく思い出しつつ、更にスピードを上げる。ただでさえ放課後にはお説教されることが決まっているのだ。遅刻までしたら、いったいどれほど雷が落ちることか。
 遅いっ! との怒鳴り声を聞きながら校門をくぐったのは、HR開始三分前。ギリギリセーフ。一年の教室が一階でよかった。担任がくる前にはどうにか教室にすべり込めるだろう。
 通り過ぎるとき、トミセンの視線がいつもよりも長くこちらを向いていた気がするけれど、とりあえず今は考えない。腹に響くような怒鳴り声も、長々としたお説教も、放課後だけで十分だ。久々に『あの人』の夢を見られたっていうのに、鬱々と過ごすなんてもったいない。
 放課後のことは放課後考えればいいと、炭治郎は弾む足取りで教室へ向かった。

 午後一の古文は、どうにも眠い。ただでさえ睡魔に襲われる時間だというのに、寝不足な今日は尚更だ。古文の担当はおっとりとしたお爺ちゃん先生で、話し方がなんとも穏やかなものだから、朗読されるとまるで子守唄のように聞こえてしまう。
 わりと好きな先生ではあるし、前世を意識しだしてからは古文と日本史に関しては、ほかの教科以上に真面目に受けているのだけれど――なにせ、自分の前世が何時代なのかもわからないから、なにかしら思い出すヒントになるんじゃないかと、ちょっと思うので――今日はどうにも駄目だ。
 このままじゃ寝ちゃいそうで、眠気覚ましにちょっとだけと、炭治郎は机の下でスマホを起動する。幸い、炭治郎の席は窓際の一番後ろだ。炭治郎は滅多にしないけれども、この先生の授業では内職する生徒が多いから、見つかる心配もないだろう。
 昨日の今日だけれど、久しぶりにあの夢を見たのは、再会の先触れかもしれない。来週末は両親が留守にするから、外出もできる。新しいメッセージを――といっても、文面はいつも同じだけれど――書き込み、目に留まりやすくしたところで、返信が即入った。受信箱を開いてみれば、差出人はGの一文字。昨夜の男だ。
 思わず炭治郎はスマホをにらみつけ、眉をひそめた。
 既読スルーするにしても、一応はメッセージを読んでみるかと開いてみれば、昨夜は無事に帰れたかと気遣う言葉の後に、できればもう一度逢えないかと書いてある。
 予想と違わない内容に、冷めたため息がこぼれた。
 無視してしつこくされるのも面倒だし、一度くらいは返信したほうがいいかもしれない。断っても何度もメッセージを送ってくるようなら、ブロックしよう。思いながら机の下で指先を動かす。
(あなたは違ったから、もう会いません。メッセージはこれっきりにしてください……っと)
 これで良し。イラっとしたおかげで、眠気が覚めたのだけは感謝しよう。
 ぼんやりと脳裏に浮かんだ男の秀麗な顔に、モテそうな人だし、これだけ素っ気なくすればすぐあきらめるだろうと、唇だけで笑う。
 吸い込まれそうな瞳の色だけは、嫌いじゃないけどねと心のなかでだけつぶやき、炭治郎は、頭のなかから男のことを追い出した。二度と会うこともない人だ。だって『あの人』じゃなかったんだから。
 スマホをしまい込んで、教科書に視線を落とす。『あの人』と自分が生きていた時代は、いったいいつなんだろうなと、ぼんやり考えながら。