忘却心中 2

 人気のない廊下の端、生徒指導室と体育教官室が並記されているドアの前に立ち、炭治郎はため息をついた。 
 生徒を竹刀片手に追いかけまわすようなスパルタ教師のお説教など、考えるだけでため息も落ちるというものだ。時間が時間だったとはいえ、コンビニに買い物に出るくらいのことで、わざわざ生徒指導室に呼ばれるわけもない。昨夜の台詞からしても、先生は炭治郎が口にした理由を信じていないってことだろう。
 うまくごまかさないと。ブルリと武者震いして、炭治郎は、よしっと一つうなずくと、意を決してノックした。
 根掘り葉掘り夜中の外出の理由を問いただされるかもしれないが、買い物自体は嘘じゃない。その前の行動を隠すだけだ。大丈夫、うまくやる。でなきゃ『あの人』を探せなくなってしまう。
 ドア越しのくぐもった「入れ」の声に、炭治郎はガチガチに固まる体を自覚しつつ、ドアを開けた。
「失礼します」
「そこに座って待ってろ」
 言ったきり、先生は炭治郎のことなどまるで気にする様子もなく、デスクに向かってなにやら書き物をつづけている。

 仕事があるなら、呼ばなきゃいいのに……。

 言われるままにソファに腰かけた炭治郎は、少し唇をとがらせて、手持ち無沙汰にきょろきょろと室内を見まわした。生徒指導室を兼ねているからか、ほかの教官室と違って富岡先生以外の体育教師はめったにこの部屋にはいない。
 二人きりだ。そんな言葉が不意に浮かんだら、叱られるというばかりではなく緊張する。所在なく周囲を見まわしていた視線が、先生の背中で止まった。
 青いジャージに包まれた背中は広く逞しい。一つにくくられた黒髪に、ざわりと心が騒いだ。
 入学式の壇上で、ほかの教師たちと並んであいさつした富岡先生を見たときも、同じように落ち着かなかったのを思い出す。
 周りの女子は、カッコイイとかすっごいイケメンとかコソコソと色めき立っていたけれど、炭治郎の目を奪って離さなかったのは、あの長い黒髪だ。
 『あの人』に似ている。そう思った。
 勇気を振り絞って登録したゲイ専用の出会い系サイトで、初めて連絡をくれた人に会ったのは、入学式の三日前。確かに髪は長めだったし、色も手を入れていない黒髪だったけれど、『あの人』とは比べものにならないくらい不潔な印象で、黒髪長髪という条件だけで探し出すのは先が思いやられると落ち込んだものだ。
 おまけに、ホテルの帰りには嫌だって言ったのに車から降ろしてくれなかったし。SEXだってとにかく自己中な感じで、炭治郎の初体験は散々だった。
 そんな経験をしたばかりだったから、余計に富岡先生のいかにも爽やかなスポーツマンらしい印象に、心ときめいたのかもしれない。
 『あの人』と同じ長い黒髪でも、この間のように最悪な奴はいるけれど、富岡先生みたいに素敵な人だっている。一度の失敗であきらめるなんて早計に過ぎると、先生の姿に背を押された気になった。
 富岡先生が『あの人』ならいいなとも、ちょっと思ったけれど、先生相手じゃ寝て試すわけにもいかない。卒業までに『あの人』と再会できなかったら、誘ってみようかなと、半ば本気で思ったのを覚えている。

 まぁ、先生は違うだろうけれど。

 だって、先生は女子の人気者だ。スパルタで有名ではあるけれど、女子の人気はゆるぎない。女ばかり贔屓してるからだとのクラスメイトの文句は、モテっぷりに対するやっかみが主で、実際は女子にだってそれなりに厳しい。けれども、女子に囲まれているときは、少しだけ表情がやわらかいのは確かだ。
 あれだけ女の子にモテるのだ。男相手に恋愛なんて、先生はきっと考えたこともないに違いない。
 先生の背中をながめながら、ぼんやりとそんなことを考えていたら、突然くるりと椅子をまわして先生がこちらを向いた。
「待たせたな。で? なんでおまえは、あんな時間に家から離れたコンビニにいたんだ?」
 前置きもなく切り込まれて、炭治郎は思わず首をすくめた。ぼんやりとしていたものだから、咄嗟には言い訳も出てこない。
「えっと……その、なかなか眠れなかったから、ちょっと散歩気分で……」
 しどろもどろな言い訳に、先生は軽く眉をひそめた。この顔はまったく信じてない。
 ギシリと音をたてて、先生が立ちあがった。ゆっくりと応接セットに歩み寄り、なぜか腰かけたのは向かいの席ではなく、炭治郎の隣だ。
 ドキッと跳ねた鼓動は、そのまませわしなくドキドキと鳴り響く。なんで!? と問いただすこともできず、炭治郎がカチンコチンに固まっているのなんて、先生はこれっぽっちも気にしていないようだ。身を固くする炭治郎の顔を至近距離でのぞき込み、じっと見つめてくる。
 昨夜より、もっと近い。
 目をあわせたら、全部見透かされそうで怖くて、炭治郎は不自然に視線をそらせた。
「……うちの学校の男子生徒が、援助交際をしているという噂があるんだが」
「お金なんてもらってませんっ!!」
 叫ぶように言った瞬間、失態を悟ってあわてて両手で口をふさいだけれども、もう遅い。
 先生の目がたちまちすがめられて、ぎろりと睨みつけてくる。
「男と関係を持っていることは否定しないんだな?」
 地を這うような低い声に、背筋を冷や汗が伝った。
「昨夜も、誰かと寝た後だったのか?」
 気分はまるで猛獣に追いつめられた兎だ。なす術なく鋭い牙に捕らえられて、一飲みに食べられてしまいそうな気がしてくる。
 ガタガタと震えて青ざめる炭治郎に、先生が、ふぅっと小さくため息をついた。
「炭治郎」
 ビクンっと、炭治郎は肩を跳ね上げた。無意識に先生へと視線を向ければ、深淵のような先生の瞳と目があった。

 飲みこまれる。

 なぜだかそんな気がして。きゅうっと心臓が痛くなった。
 早鐘のように鳴り響く鼓動は、治まる気配を見せない。初めて下の名を呼ばれた。ただそれだけのことが、なんでこんなにも心を騒がせるのか。
 唇をおののかせて、なにも言えずに先生の目を見つめていると、不意に先生の手が上がり、炭治郎の頬に触れた。
「おまえは、誰彼かまわずに寝るような子じゃないだろう? なぁ、炭治郎?」
 囁く声は、笑っているようにも感じる。そんなわけないのに。
「怒らないから……ちゃんと言え。どうして、そんなことをしていた?」
「あ……あの、人を、探したくて……」
 どうにか答えた声は、みっともなくかすれていた。体が震える。先生の目から、目が離せない。
 頬に触れる手は大きくて、固い。大人の男の人の手だ。炭治郎の体に触れてきた何人もの男の手と、それは変わらないはずなのに、今までのどんな手とも違う。そんな気がした。
「どんな人?」
「長い、黒髪で……でも、それしか、わかんないから……」
「それしか? そいつはおまえのなんなんだ?」
 顔が、また少し近づいた。先生の息がかかるぐらいに。
「恋人……です」
 前世の、だけど。今のところ。
「髪しかわからないのに?」
 馬鹿にしたように、先生の唇が少し笑って見えた。その瞬間、カっと衝動が身を焼いて、炭治郎は怯えも狼狽も忘れて先生を睨みつけた。
 話せばきっと誰にだって馬鹿にされる。わかっていたから、今まで誰にも言わなかった。それこそ、今までの男達にも。だから先生のこんな反応は想定内だ。
 なのに、我慢できなかった。先生が『あの人』ならいいのにと、思ったりしてたからだろうか。そんなわけがないだろうと、切り捨てられたような気になったのかもしれない。
 刹那走った衝動は、けれども、怒りだけとは言いがたい。羞恥もあったろう。悲しいとも思ったかもしれない。複雑に絡み合った感情の爆発は、明確な輪郭を持たず、炭治郎自身よくわからなかった。言葉にするなら、ただ一言「黙まれ」だ。
「いいでしょう、べつに。先生には関係ないじゃないですか」
 先生に対してこんな口の利き方をしたことなんて、今まで一度たりとない。優等生ぶっているわけではないけれど、大事な目的があるから行動を制約されるのが嫌で、なるべく目立たないようにしてきたつもり。だけど、どうしてもいつものように笑ってみせることができなくて。
 その口の利き方はなんだと、いっそ怒鳴ってほしい。こんな空気も距離感も、先生と生徒に許されるものじゃないだろう。
「誰彼かまわず寝てるわけでもないです。ちゃんと人は選んでる。危ないことにならないように、注意だってしてるし、お金なんてもらってない。生徒指導っていうのは、生徒の恋愛にまで口出すんですか?」
 生意気な口調は承知の上だ。いっそ怒れよと、なんだか捨て鉢な気分になっていたのかもしれない。勝手に、先生が『あの人』ならいいな、なんて考えて想像したりしていた自分の馬鹿さ加減にうんざりしていたし、先生に対して身勝手な幻滅を感じてもいた。
「それとも、先生が俺と寝てくれるんですか? そしたら俺もやめるかもしれないですよ? まぁ、違ってたらほかの奴らと同じく、二度としませんけど」
 だから言ったのだ。できるわけないだろうと、少し馬鹿にして。でも、半分くらいは本気だった。期待していたと認めるのは癪だけれど、確かめたかったのは事実だから、否定はしない。
「違ってたらっていうのは、前世の恋人じゃなかったら、ってことか? それは有り得ないな」
 クッと喉を鳴らして忍び笑いながら、先生がささやいた言葉に、時が止まった気がした。
「え……?」
「おまえが探しているのは、前世でおまえの恋人だった男だろう? なら、もう探す必要はないな。なぁ? 炭治郎?」
 なんだ……? なにを言っている? 困惑は恐慌を引き起こして、炭治郎は知らず身を引いた。
「すぐに気づくと思っていたのにな。だが、もうわかっただろう? 俺が、おまえの恋人だった男だ」
 想像したことはある。もしかしたらと、そうならいいなと、考えたことはあるのだ。否定はしない。でも、そんなことあるはずがないと思ってもいた。
「……羽織」
「羽織? ……左右の布地が違うあれか?」
 ヒュッと息を吸い込んで、炭治郎は先生の目をまじまじと見つめた。
 飲みこまれそうな深い瞳の色。落ちて、飲まれて、もう二度と這い上がってはこられない。とらわれて、閉じ込められそうな、その瞳。
 ざわりと、心の奥底で蠢いたものはなんだろう。
 誰にも言ったことがなかった。鍵のかかる自室には、布を貼って以来両親だって入ったことはないはずだ。友達を呼んだこともない。だから、誰も知らないはずなのだ。『あの人』の羽織のことなんて。炭治郎以外に知っているのは、きっと、本人だけだ。
「先生……」
「義勇だ。二人きりのときは先生じゃなく、義勇って呼べ。いいな?」
「義勇、さん……?」
 うながされるままにその名を口にした刹那、全身を満たしたのは歓喜だった。ぶわりとわき上がってあふれだした感情の渦は、涙になって炭治郎の瞳からこぼれて落ちた。
 口にしただけで、体中を歓喜が巡るのを感じる。なぜだか涙が止まらない。
「義勇さん……」
 こんなにもやさしくて、幸せな響きを、炭治郎は知らない。知らなかった。たかが名前一つ。けれども、口にするだけで、心臓を鷲掴みにされたように胸が痛くて。どうしようもなく、うれしい。
「炭治郎……もう、ほかの男はいらないな?」
 うっすらと笑いながら囁かれて、操り人形のようにうなずいた。先生の――義勇の言葉が、催眠術のように炭治郎の意識を縛り上げる。
 疑う余地はない。羽織のことも言い当てられた。名前を呼ぶだけで、こんなにも心が騒ぐ。
 なのに、なぜだろう。少し、怖い。
 あまりにも突然すぎたからだろうか。今までそんな素振りは一度もなかったのに、急に前世の恋人は自分だと告白されて、心が受けとめきれないだけなんだろうか。
 『あの人』の背中から伝わる、泣きたいような安心感と慈しみ。馴染んだそれと、義勇の有無を言わさぬ性急な告白とは、なんだか差がありすぎて、戸惑いが消えない。
 頬に触れていた手が、するりとうなじにまわされた。薄く笑う顔がいっそう近づいて、ごくりと喉が鳴る。体は動かなかった。なにが起きるか、わかっていても。
 触れた唇は、離れていくことなく深くかみ合わされて、強引に入り込んできた舌に翻弄される。
 伸しかかる体を受けとめきれずに、ソファに押し倒された。安っぽいソファは、ギシリと不快な軋みをあげる。展開の速さに思考がついていかなくて、炭治郎は、絡めとられる舌になす術なく体を固くした。
 応えない炭治郎の舌に焦れたのだろう。義勇の唇が一度離れた。
「……今度も、恋人になろう。炭治郎」
 言いながら、頬に、鼻先に、キスが落ちてきた。うなじをつかんでいた手は、ゆっくりとまた頬に触れ、両手で顔を固定するように包み込んでくる。
「はい……義勇さん」
 言えば、やっぱり胸は甘く痛む。炭治郎は自分から目を閉じた。

 そうだ。今度も。前世と同じように、今度も恋人になれる。いや、この瞬間から、恋人なのだ。先生と……義勇さんと俺は、恋人同士。

 再び触れあわせた唇が、次に離れたのは、炭治郎の舌がしびれるほどに貪られた後だった。

     ◇◇◇

 日が暮れるのがだいぶ早くなった。熱すぎた夏以来、いつまでもつづいていた残暑は、手のひらを返したように消え失せて、十一月間近の今では肌寒い日のほうが多い。街路樹のイチョウもすっかり色めいて、黄色い葉におおわれている。
 炭治郎は手にしたスマホに視線を落として、時刻を確認した。デジタルの文字は七時半を示している。約束した時間からもう三十分は経った。義勇はまだこない。
「ドタキャン……は、ないよな」
 自分に言い聞かせるようにつぶやいてみる。電車に乗って一時間。初めてくる街は、週末ということもあってにぎやかだ。知らない街でなかなか現れない人を、炭治郎は一人ぽつんとたたずんで待っている。人待ち顔でソワソワとしていられたのは、十分前まで。待ち合わせの時間から十分を過ぎたころに、遅れるなら連絡をくれればいいのにと少しむくれて、今はもう、ただただ不安と心細さが胸に満ちていた。

 富岡先生が前世の恋人である『あの人』だとわかったあの日。さんざんキスだけで乱されて、それでもその場でことに及ぼうとするのを、どうにか「ここじゃやだ」と止めたとき、義勇はいかにも不機嫌だった。
 小さな舌打ちに身がすくんで、ようやく『あの人』を見つけ出せたうえ恋人にもなれたのに、まさかこれで嫌われて終わるのかと、怯えた炭治郎に、けれど義勇は笑ってくれた。
「確かにこんな場所じゃ堪能できないな。どうせなら長く楽しめるほうがいい」
 
 そういうことじゃ、なくて。

 こともなげに囁かれた言葉に、首をすくめる。戸惑いがまた炭治郎の胸をざわつかせた。
 ゆっくりと過ごせるほうがうれしいのは勿論だけれども、それよりなにより、学校であんなことをすることへの、嫌悪のほうが強い。出会い系サイトで探した複数の男達と寝てはいても、炭治郎は本質的に真面目だ。友達には頑固すぎて融通が利かない石頭とからかわれることも多い。
 そんな炭治郎にしてみれば、いくらなんでも学校でそういうことをするなんてモラルにかけること甚だしくて、落ち着かないことこの上なかった。誰かに見られるのも怖い。

(先生なのに、義勇さんは気にならないのかな……)

 ましてや義勇は生徒指導の先生だ。こんなことをする生徒をいさめて、注意する立場にある。
 爽やかなスポーツマンで、厳しいけれどいい先生。そんな義勇の印象をくつがえす言動に、興をそいでしまった怯えも相まって、狼狽に再び身を固くした炭治郎は、そっとうつむいた。
 けれども、ほんのちょっぴり生まれた義勇への不審は、腕を引いて起き上がらせてくれた義勇が、耳に直接吹き込むようにささやいた言葉に、するりと溶けて消えた。
「来週の金曜、俺の家に泊まりにこい」
 約束にドキドキとして、嫌われたわけではなかったことがうれしくて。はいっ、と笑ってうなずいた炭治郎に、気をつけて帰れと頭をなでてくれた義勇の顔は笑っていた。

 それからの十日余りは、ふわふわと夢見心地で過ぎた。
 衝撃を過ぎれば、心に浮かぶのは喜びだけだ。学校で見かける義勇は、今までと変わらず厳しい先生の顔を炭治郎に対してもくずさない。けれども、今までと違って視線が追いかけてくる。意味ありげに見つめてくる瞳は、あのキスと約束が夢じゃないことを教えてくれる。幸せで、ドキドキとときめいて、すれ違うたびに熱くなる顔を持て余す時間だった。
 出会い系サイトにきたメッセージは、どれも断った。だってもう会う必要なんてない。最後に寝た男も、あきらめたのか連絡はない。サイトの登録自体を消さなかった理由は、炭治郎にもよくわからなかった。ほんの少し……そう、きっと小指の爪よりも小さなものだけれども、不安が残っていたせいかもしれなかった。
 寝ればきっとわかると思っていた。顔も名前もわからない人だ。それでも恋人だったのだから、寝てみればなにか天啓のようなものがあるはずだと、炭治郎は信じている。
 初めてした自慰は『あの人』の手指を想像しながらだったけれど、そのときに無意識に想像したのは抱かれる自分の姿だ。恋人なら、当然そういうこともしていたのだろう。恋人にだけわかる瞬間があるとすれば、抱かれるそのときだと、思いついたら頭から離れなくなって。だからこそ、初めての男とも寝てみたのだ。
 女の子じゃないから、妊娠なんてしないし、コンドームは絶対につけてもらうようにすれば病気にもならないだろう。心が伴わなければ男同士なんて、ただの性欲処理と変わらない。人間を相手に自慰をしてるようなものだ。
 中学生であっても初体験を済ませている友達だって、それなりにいたから、倫理観に反する意識はあまりなかった。
 出逢えるまでは、複数の男と行為に及ぶことになってもしかたがない。出逢った瞬間にお互い恋人だったことを思い出したのなら、それが一番いいのだけれど、そんな偶然だけを頼りにするのは心許なかった。
 自分の判断は間違ってなかったはずだ。富岡先生を初めて見たときだって、『あの人』だとはわからなかった。今だって前世を思い出すこともない。それが少し不安ではあるけれど。
「でも……きっと、寝てみればなんかわかるよな。ほかの人とはなにか違う筈なんだ」
 スマホを睨みつけながら、ぽつり言う。小さな声だったけれども、往来で口にする言葉じゃなかったと、炭治郎はあわてて周りを見回した。
 炭治郎の独り言を聞きつけた人は誰もいないようで、ホッと肩の力が抜ける。同時に、待ち人の姿も見えないことに、焦燥もまたわき上がった。
 LINEは交換したけれど、義勇からの連絡はきていない。というよりも、せっかく連絡先を交換したというのに、メッセージがきたのは約束の時間と場所を伝えるものが一度きりだ。
 炭治郎からだって、了解を伝えたきり、自分からは一度も送っていない。恋人らしい甘いやり取りなんて、今はまだ一度もないのだ。
 炭治郎は、出逢えたなら必ずまた恋人になって愛しあって過ごすのだと信じていたけれど、もしかしたら義勇は違ったのかもしれない。前世のことを義勇は覚えているようだったのに、なにも言ってくれなかったのは、そういうことなのかもしれないと思いついたら、どうしようもなく不安がわき上がってくる。
 『あの人』に出逢えたなら……また恋人になれたのなら、きっと胸に巣食う寂しさは、みんな消えると思っていた。けれど、まだ消えない。寂しい。寂しい。友達と笑っていても、誰と寝ても、胸の奥深くで小さなすすり泣きが聞こえてくる。

 そばにいて。寂しい。一人は寂しいんだ。お願い、大丈夫だって、そばにいるって抱きしめて。

 しゃがみこみ、膝を抱えてしまいたい。小さな子どものように泣いてしまおうか。往来でわんわんと声をあげて泣くなんて、できるはずもないのにそう思う。
 これだけ待たされたのだから、こちらから連絡を取ればいいのかもしれない。けれども、あまり連絡を寄越さないよう言われているから、それもためらわれた。
 いや、寂しいけれどそれはいい。生徒との関係が知られれば、先生という立場上とてもまずいことになるのは炭治郎だって理解している。だから、こんなふうに待ちぼうけをくらわされても、まだ? と聞くことすらできない。なによりも、言いつけを破って嫌われるのが怖かった。
 心細さに打ちのめされそうになって、炭治郎の瞳に涙の膜が張る。その涙は、目の前に止まった車の窓が開いた瞬間に、とうとう雫となってポトリと落ちた。
「乗れ。人に見られるとまずい」
 遅れてごめんでもなく、あわてるでもない命令に、グッと喉の奥がつまった。けれども、反発する気持ちはなかった。
 来てくれた。ただもうそれだけでうれしい。涙を拭って歓喜に震えていると、車中の義勇が小さく舌打ちした。不満げに刻まれた眉間の皺に、炭治郎の背筋をヒヤリと冷や汗が流れる。あわてて車に乗り込むと、炭治郎がシートベルトを締めるのもそこそこに、義勇は車を発進させた。
「あ、あの……」
 話しかけようとした炭治郎に、責める気持ちはなかったのだけれど、義勇は、炭治郎の言葉をさえぎるように口を開いた。
「臨時会議で学校に行っていた」
 声も不機嫌そのもので、炭治郎は思わず首をすくめる。顔立ちが整っているから、不快げな表情をすると、妙に怖い。
「お休みなのに?」
 それでも会話したくて、恐る恐るたずねれば、義勇の眉間の皺が深くなった。
「教師に休みなんてほとんどない。年間で十日も休めればいいほうな学校だってある。教頭なんて、前年度の完全休暇は正月の三日間だけだったらしいぞ。着任するときに、休日出勤は極力したくないって伝えてあったっていうのに……教員の勤務状況なんて、ブラック企業と変わらん。だから部活動にかかわるのなんて嫌だったんだ」
 苛立つと饒舌になるタイプなのだろうか。不満をあらわに、舌打ちまじりに話す義勇は、いつまでも愚痴を止めそうにない。
 バリトンの声は耳馴染みが良くて、不快なものではないけれども、話す内容は相づちを打つしかできないものばかりだ。義勇のことを知れるのはうれしいが、もっと楽しい話がしたくて、炭治郎は義勇の言葉が途切れた隙にどうにか問いかけた。
「剣道部、でしたっけ?」
「学生時代にやっていたせいで、副顧問をやらされた。迷惑な話だ」
 いつも校門で手にしている竹刀は飾りじゃないというわけだ。
 今日の義勇は、休日出勤だったせいか、学校と同じくジャージ姿である。この前のような私服を見られると思っていただけに、ちょっぴり残念だ。
「義勇さんが剣道やってるところ見てみたいな」
 夢の中の『あの人』の手にしていた刀を思い浮かべて、炭治郎の声が無意識に弾んだ。
 義勇さんが羽織を着ることはないだろうし、高校の部活動で真剣を手にすることはないだろう。それでも、竹刀とはいえ剣士の格好には違いない。大好きなあのやさしくてつれない背中を、現実でも見られるなんて、舞い上がりそうにうれしい。
 けれど炭治郎の歓喜を掻き消すように、義勇は、いかにも不快だと言わんばかりに小さく鼻を鳴らした。わずかに鼻に皺をよせ、苛立ちを隠しもしない。
「部活中に覗きにくるなよ? 変に噂されたら困る」
「……そうですね。ごめんなさい」
 剣道部が使用している道場は、放課後ともなれば、義勇のファンだと公言してはばからない女生徒たちが鈴なりになっていると、もっぱらの噂だ。袴姿が格好いいと、教室で女の子たちがキャアキャアと騒いでいたのも聞いている。
 それなら俺が見に行っても問題はないだろうと思ったけれど、確かに、男子が女の子達に混じって先生に黄色い声援なんて送るのは、はたから見れば異様な光景かもしれない。
 それでも、こんなふうに迷惑千万と言わんばかりに切り捨てられると、胸がキリキリと締めつけられるみたいに痛かった。
 しゅんと肩を落とした炭治郎に、さすがに言い過ぎたと思ったのか、義勇の左手が伸ばされ炭治郎の髪に触れた。
「代わりに生徒指導室に来い。二人きりでいられるときには合図する」
 くしゃりと髪をなでられながら言われて、ふと息が楽になる。痛みを訴えていた胸も、とくりとときめいて、炭治郎の口元に笑みが浮かんだ。
「合図?」
「校門で目があったときに、竹刀の柄を指で三回たたいたら、放課後逢えるっていうのはどうだ?」
「指で三回……はいっ、楽しみにしてます!」
 にこりと笑った炭治郎を、横目で見つめた義勇が薄く笑った。手は離れてまたハンドルを握ってしまったけれど、それを寂しく思うことはなかった。二人だけの秘密にときめく胸は、とくとくと甘く高鳴っている。
 迂闊なことを言って嫌われたかもと不安だっただけに、約束をしてくれた義勇に、喜びが胸に満ちる。そうだ。不安になることなんてない。だって義勇と自分は前世も今も恋人同士なのだ。前世のことは覚えていないけれど、きっと前もこんな風に過ごしていたに違いない。
 ほんのひとかけらほど残された疑いを、炭治郎は心の片隅に追いやった。
 義勇は誰にも言っていない羽織の柄だって知っていた。前世を覚えていなければ、そんなこと口にできるわけがない。胸の奥に巣食ったざわめきは、きっとこれから解消されるはずだ。今夜、炭治郎はきっと前世と同じように、義勇に抱かれるのだから。

(そうしたら、きっと俺も全部思い出すんじゃないかな。義勇さんとのエッチは、きっとほかの誰とも違うんだ。だって、ずっと、ずっと……生まれる前から好きだった人なんだもの)

 大丈夫。なにも不安がる必要なんてない。きっと、大丈夫。
 義勇の不興を買わないよう、にこにこと微笑み相づちだけを打ちながら、幾度も心のなかで繰り返した言葉は、まるで自分に言い聞かせるような響きをしていたけれど、炭治郎は、気がつかなかった。