Hush a Bye Baby(ロング&炭治郎おたおめvr.)

 眠い。半ば眠りながら歩いてるぐらい、とにかく眠い。
 昼休みの喧騒すら意識の片隅をかすめるだけで、炭治郎の頭には「眠い」以外の言葉はろくに浮かばなかった。誰かに呼びかけられるたび反射的に笑顔を向けるのは、長男として培ってきたやせ我慢のたまものだ。つらい、苦しい、痛い。無意識にストッパーがかかるから、そんな言葉は口にできない。心配されれば大丈夫と笑うしかないし、実際、家族には大丈夫だと笑って胸をたたいた。その結果がこの深刻な睡眠不足だ。
 四時限終了まではどうにかこらえてきた睡魔が、昼休みに入ったとたんにドッと襲ってきて、気を抜くと勝手に上瞼と下瞼がくっつきそうになる。店を切り盛りしながらも、毎日四人分の弁当を作ってくれていた母さんはすごい。
 一昨日、昨日は、なんとか用意できた弁当も、今日は売り物のパンになってしまった。竹雄と花子に謝ったら、なぜだか「なんで謝るんだよ!」と竹雄に怒られた。花子もむくれていたし、不甲斐ないかぎりだ。おにぎりだけからパンだけになった弁当や朝ごはんは、やっぱりお気に召さなかったんだろう。
 眠気に押しやられる思考は上滑りして、感情もどこか薄かった。罪悪感や予想外にうまくいかない悲しさや悔しさも、日頃の炭治郎では考えられないぐらいにどこか他人事だ。しっかりと受け止めて考えるというプロセス自体が、うまく機能していないらしい。
 食欲なんててんでなく、どうにか善逸と伊之助をごまかして教室を出たのはいいけれど、廊下を歩く炭治郎の足取りは重かった。そのくせ体は妙にふわふわとして、地に足がついている感覚がない。座っていたらパンにかじりついたまま机に突っ伏しそうだ。少し歩けば眠気も遠のくかと思ったのに、足を踏み出すそばから意識のほうが遠のきそうになる。
 よろけそうな足取りをどうにか踏ん張って歩みを進めつつ、炭治郎はぼんやりとした視線を窓へと向けた。
 梅雨が明けた七月の空は、忌々しいほどに青い。普段の炭治郎なら、気持ちのいい空だなぁと笑いたくなるだろう青空だが、今の炭治郎には眩しすぎた。四日前の豪雨を思い返し、呪詛の唸りが出そうになるぐらいには。

 すっかり夏めいた気温が続くなか、突然にグッと冷え込んだ四日前の雨降りは、竈門家にとっては災厄の幕開けとなった。
 今日は冷えるね気をつけないとと話した翌朝になって、まず六太が咳をした。ついで茂がくしゃみを連発し、頭が痛いと禰豆子が言い出したころには、発熱していたらしい母の体温は三十八度近くまで上がっていた。かくして、今や竈門家の半数が寝込んでいるありさまだ。たちの悪い夏風邪は、どうにもしぶとく、三日が経つ今も母たちの具合はよくない。
 幸い花子と竹雄、それに炭治郎は無事だ。全滅じゃなかったんだから最悪のケースは免れたと胸をなでおろす余裕が、その時点ではまだ炭治郎にもあった。
 小さいころから高三の今に至るまで、当たり前のように家の手伝いをしていた炭治郎は、料理だってアイロンがけだってお手のものだ。家事をするのは苦ではない。無事なのが今年小学校に上がったばかりの六太や小三の茂では、子守りまで加わるところだが、中三の竹雄と中二の花子なら、手助けもしてもらえる。無事な三人が日中は学校にいかねばならないのは不安だったが、近所に住む三郎爺さんという常連さんが、様子を見に来てくれることになったので助かった。
 とはいえ、三郎爺さんに気にするなと言われても、食事の世話まで頼むのは申し訳ない。毎日、母たちのぶんのおかゆを炊いて、それとはべつに育ち盛りの竹雄や花子の食事も作らねばならなくなったのは、当然の成り行きだ。おかゆだけじゃ足りないのは炭治郎だって同様なので、文句なんてあるわけなかった。食器洗いを花子が請け負ってくれたのがありがたい。買い物は竹雄が行ってくれている。
 炭治郎一人でなにもかもをやらねばならないわけでなし、なにも問題なんてないと思ったのだ。二日目までは。
 学校に通いながらの看病と家事、それに朝夕だけとはいえ店まで営業していれば、いかに若く体力があり余った炭治郎でも体は限界に近かった。体が痛いと真夜中に六太が泣き出すたび飛び起きて、抱っこしてあやすから、睡眠時間は削られるいっぽうだ。まだ幼い六太に関節痛を我慢しろなど言えるわけもない。炭治郎自身の体もキツイが、それ以上に、苦しいのも痛いのも代わってやれぬことがどうにもつらかった。看病はもちろんのこと、店や家事の手伝いならば楽勝だったけれど、手伝いでなくなるとこんなにも大変なのかと、今さらのように母の偉大さを感じずにはいられない。
 不幸中の幸いは、期末テストが終わっていたことだ。このうえ試験勉強まで重なっては、にっちもさっちもいかなくなっていただろう。さすがに高三ともなると、赤点をとるのは避けたい。
 十七歳になってすぐに炭治郎が食品衛生責任者資格を取っていたことについては、炭治郎にとっては幸いでも、母さんや禰豆子たちにとっては不幸になるらしい。どうしてなのかは、よくわからない。深く考える余裕は今の炭治郎にはなかった。
 常連さんの多い竈門ベーカリーには、毎日、開店と同時にいつも同じパンを買いにくるおじいちゃんやら、お小遣いたまったと誇らしげに笑いながら、小銭を握りしめて人気商品であるたぬきケーキを買いにくる子がいるのだ。せっかく来たのに店が閉まっていたら、さぞやガッカリするだろう。期待を裏切るわけにはいかない。葵枝の反対を振り切り、登校前と帰宅後の朝夕だけでも店を開けることにしたのは、炭治郎の意地でもあった。この店は俺が守るのだという決意表明だ。
 進路の話が頻々ひんぴんと耳に入るようになり、常連さんにも炭治郎ちゃんはどこに進学するのと聞かれることも増えた。高校三年生ともなれば、それはしょうのないことだろう。
 炭治郎は高校を卒業したら進学はせず、店の手伝いをするつもりだ。けれども母の意見は違っていた。お金の心配なんかせずに、専門学校でも大学でも好きなところに進学しなさいと母は言う。子だくさんな竈門家にとって、子供たちの進学にかかる出費はかなり痛手のはずだ。炭治郎だって、禰豆子たちには心配などせず好きなことをやれと笑ってやる気でいるが、そのためにはなおさら、自分が悠長に大学に通うなどできるわけもない。
 進学なんてしなくてもちゃんと店は継げるんだし、なにも我慢なんてしていないよ。それを証明したかった。この事態を無事に乗り切れば、母もきっと、炭治郎にならこのまま店を任せても安心ねと笑ってくれるだろう。だから炭治郎はずいぶんと張り切ったのだけれど、慣れぬ生活がこれほどキツイとは思わなかった。
 頑張ったものの、この三日ほど炭治郎の睡眠時間はほとんどないも同然だ。店のパンだって定番のいくつかと看板商品のたぬきケーキだけにしたし、数もいつもよりずいぶん減らしているのに、家事や看病と並行してでは思うようにいかない。どうしても睡眠時間を削るよりなかった。
 ノロノロではあっても足取りがふらつかないのは、身に染み付いたやせ我慢ゆえでしかない。おかげで、善逸たちに心配されて保健室へと連行される羽目にも陥らずにいる。
 誕生日おめでとうと笑顔でプレゼントを渡されたのが、登校してすぐでよかった。満面の笑みで受け取る余裕がほんの少しとはいえあった。伊之助のピカピカと光るほど磨かれたどんぐりはともかく、これで禰豆子ちゃんにおいしいパンを作ってあげてくれと善逸がくれたオーブン用の手袋は、どちらへのプレゼントなのか悩むところではある。とはいえ、長いこと使っているものが擦り切れていたのに気づかず火傷しかけたと話したことを、ちゃんと覚えていてくれたのだから、うれしいことに違いはない。
 母や禰豆子たちだって「誕生日おめでとう。こんな日に寝込んでてごめんね」と言ってくれた。六太や茂も兄ちゃんの誕生日なのにとベソをかいていた。苦しいなか炭治郎の誕生日を忘れずにいてくれたのだ。思ったよりもキツイなんて弱音は絶対に言えない。
 
 ゴホゴホと咳きこみながらも何度もごめんねと謝っていた、母と禰豆子の赤い顔を思い出し、炭治郎は勢いよく自分の両頬を手でたたいた。
「しっかりしろ、俺っ。苦しいのは母さんや禰豆子たちのほうなんだぞ!」
 突然自分をひっぱたいたうえに大声を出した炭治郎を、見とがめるものはいなかった。いつのまにか保健室近くまできていたものらしい。生徒の姿がまるでない。
 校庭に出ようと思ったのに、まさかベッドに呼ばれた? よっぽど眠いんだな、俺、と思いがけず自覚を深めたところで、炭治郎はあわてて足を早めた。
 保健室は中等部からも見える。うっかり入ってしまう前に気づいてよかった。竹雄に保健室にいるところを見られたら、心配させてしまう。

 駄目だなぁ。もっとしっかりしないと。ちゃんとしなきゃ。心配かけたら、やっぱり兄ちゃんじゃ駄目だって呆れられるかもしれない。母さんだって安心させてやれなくなっちゃうぞ。頑張らなきゃ、頑張らなきゃ、炭治郎はうわ言のようにブツブツと繰り返す。
 頑張ってるよ。でも足りないんだ。きっとまだまだ足りないんだ。でも、そしたらどれだけ頑張ればいいんだろう。どこまで頑張れるだろう。
 勝手に目が潤む。泣き出しそうだなんて言いたくはない。
 今日を乗り切ればたぶん大丈夫。六太の喉の腫れもだいぶおさまってきたし、母も関節痛が楽になってきたと言っていた。熱はまだみんな下がりきってはいないけれど、三郎爺さんが今日また病院にみんなを連れていってくれる。今日は金曜だから、明日は休みだ。登校しないぶん楽になる。
 とにかくもうひと踏ん張りと、フラフラ歩いていたら。

「竈門」

 背後からかけられた馴染みのある声に、炭治郎は反射的に「外せません!」と一声叫んで走りだした。気持ちだけは。
 足がもつれて転びそうになったとたん、腕をつかまれた。ため息が頭上から降ってくる。
「保健室行くぞ」
 有無を言わさぬ声に、炭治郎の体は固まった。知らず眉だって情けなく下がる。心配をかけてしまったと罪悪感を覚えるより早く、ぶわりと身の内でふくれあがったのは不安だ。

 頑張ってる。まだ頑張れる。でも、そう思ってるのは俺だけですか? これぐらいじゃ頑張っているようには見えませんか? 竹雄たちにも呆れられますか?

 そんな身勝手な疑心暗鬼は、睡眠不足のせいだろう。追い詰められているなんて自覚もないまま黙り込んだ炭治郎の上で、またため息がした。ぼんやり見上げれば、鬼教師はいつもの仏頂面だ。
 なんの感情も読めない顔を、怖いと思ったことは一度もない。怒っているときはそりゃ怖いけれど、炭治郎は、善逸みたいに冨岡先生の無表情を闇雲に怖がることはなかった。
 なのに、今日はなぜだか無性に怖い。呆れられているかも、嫌われたのかもと、怖かった。

「じゃあ指導室」

 炭治郎がなにも言わぬうちに、先生はそれだけ言うと炭治郎の手を引き歩き出した。
 自慢の鼻は寝不足のせいか役に立ってくれない。先生が考えていることを、匂いが教えてくれることはなかった。
 それでも、炭治郎は小さく笑った。ぼんやりと定まらぬ思考でも、竹雄たちに見られたくない炭治郎の葛藤を、ちゃんと悟ってくれたのだとわかるから。泣き出す寸前みたいな顔で、炭治郎は先生の背中を見つめ、笑った。

 保健室のある廊下を戻った行き止まりに、指導室をかねた体育教官室はある。以前まで生活指導は職員室の隅でおこなっていたそうだけれど、炭治郎はそのころを知らない。炭治郎が高等部に上がったときにはすでに、体育教官室が生徒指導室になっていた。
 部屋の主は言うまでもなく冨岡先生だ。だからこの部屋は、生徒にとってはデンジャーゾーン。誰も近づきたがらない。
 保護者を呼び出す場合もあるからだろう、体育教官室には応接セットが鎮座している。リサイクル品なのか、かなり年季の言った代物だ。部屋にそぐわぬ大きさなのは、サイズ感よりお得感で選んだせいかもしれない。知っているのは生徒指導室の常連ばかりだ。戸口からは衝立で隠されて見えないから、長時間指導されないかぎり、応接セットの存在を知ることはない。
 部屋に入るなり、先生はすぐに応接セットのソファに座った。一人がけ用ではなく、三人は座れるほうにだ。
「あの、冨岡先生……?」
 いつもとは逆に、自分が向かいの一人がけに座ればいいんだろうか。とまどいを呼びかけに乗せた炭治郎は、グイッと手を引かれるままによろけて、先生の隣に腰を下ろした。アレよという間に無理やり横にさせられる。枕はこともあろうか先生の膝だ。
 思考が追いつかないのは、寝不足のせいばかりではないだろう。あり得ない事態だ。もしかしたら俺、とっくに眠っちゃってる? これって夢? と混乱するぐらいには。

「授業の前に起こしてやる。寝ろ」

 ぶっきらぼうな声に、じわりと目頭が熱くなった。夢だとは、もう思わなかった。
 先生はこれだから、困ってしまう。
 無愛想無口な仏頂面。竹刀を持って般若を背負い追いかけてくる姿は、下手なホラー映画より怖い。なのに、やさしい。炭治郎の胸をキュゥッと締めつけるやさしさを、こうしてこともなげに与えてくるから、炭治郎はどうしようもなく困ってしまう。

 どうして、わかっちゃうんだろう。先生には――義勇さんには、いつもバレちゃう。

 強がっていても本当はつらいときや苦しいとき、竈門ベーカリーの常連でしかなかったころから、義勇はいつでも不思議とそれを悟って、炭治郎にさりげないやさしさを投げかけてくる。
 憐憫めいた慰めやおためごなしではない労りは、いともたやすくおこなわれ、傍目には気づかれにくい。それが示されるのは炭治郎だけにではないことを、炭治郎は知っている。義勇は本当は誰にでもやさしいのだ。いつでも仏頂面だし、言葉選びが下手だから、気づかれないだけだ。
 だけど、炭治郎はちゃんと気づいている。気づいているから好きになったのか、好きになったから気づいたのか。それは炭治郎にもわからないけれど。
「倒れてからじゃ遅い。竹雄たちに心配をかけたくないなら大人を頼れ」
「……俺、もう大人です」
 だって、今日は誕生日だ。炭治郎は十八になった。法令が変わった今、炭治郎は今日から成人だ。
「……先生とは、先に生きると書く」
 義勇の言葉はいつでも唐突すぎる。だから誤解されるんですよとは先輩であるしのぶの言だ。同意しかない。本当はとてもやさしいのに多くの人から誤解されるのは、義勇の口下手が災いしているのは否めなかった。
 だけど炭治郎は、義勇の言葉が気に触ったことなど、一度もない。
 だって。
「どれだけ歳を重ねても、先生は生徒からすれば先に立って生きるものだ。いくつになったって頼っていい。親にも言えずに苦しいときは、先生を頼れ。……こういうときは、先生にぐらいは甘えてくれ」
 いつでも義勇の言葉選びは上手じゃない。けれどうまいなぁと思わせるから、うれしくなって困ってしまう。お願いされたら断れないじゃないですかと、泣きそうな顔で炭治郎は笑った。
「はい……」
 竈門家の現状を、義勇がどこまで知っているのかはわからない。一年の担当教師から禰豆子が休んでいることが伝わっているとしても、母まで寝込んでいるなど炭治郎は誰にも言っていないし、中等部でも竹雄や花子も口にはしていないだろう。そういうところは、二人とも炭治郎によく似ている。人に心配をかけまいと笑うのは、竈門家の習性だ。
 眠くてどうしようもなかったはずなのに、ときめきに高鳴る鼓動が邪魔で、素直に眠りの底に落ちることができない。もぞりと身じろげば、トンッと背中をやさしくたたかれた。
 トン、トンッと、穏やかなリズムで大きな手が背をたたく。赤ん坊を寝かしつけるみたいに。
 なんだか妙におかしくなって、いっそ子守唄も歌ってくれないかなと思ったそのとき、頭のうえからささやくような声音が落ちてきた。

 ねんねんころりよ おころりよ

 やわらかい声は、聞き取りにくいぐらいに小さい。やさしくてあたたかなメロディー。義勇が歌っている。とっさに目を見開いたぐらいの衝撃は、けれど、途端にふくれあがった不思議な安堵に押しやられた。たちまち瞼が重くなり、とろとろとした眠りの波が炭治郎をさらう。
 義勇の太ももは固い。枕としてはあまり寝心地がよくない部類に入る。けれど、肌に伝わる体温に、途方もなく安心できた。トン、トンッと、炭治郎の丸めた背をたたく大きな手のひら。やさしい子守唄。全部、義勇だからうれしい。義勇だから、甘えていいんだと思えた。

 眠い。安心する。この温もりが、好き。大好き。

「好き……」
 意識が途切れる前にぽつりと呟いた声は、無意識だ。
 パチリと目を見開いた義勇が、めずらしくも頬を染め、頭のなかで必死に素数を数えていたことも、炭治郎は知らない。
 やさしい大好きな温もりに触れて、安らかな寝息を立てていたから。
 起きたらもうひと頑張り。見守ってくれる人がいるから、きっと大丈夫。家のことも進学も、今だけは忘れていよう。眠くて眠くてしかたないから。安心して甘えなさいと、大好きな人が言ってくれるから。
 もしも、卒業したら行きたい本当の場所はねと告げたら、このやさしい人はどんな顔をするんだろう。でもそれも、考えるのはまた今度。勇気のゲージが満タンになったら、きっと伝えてみせるから、それまで待ってて。
 大人になった今日、甘えていい人に子供みたいに体をあずけて、今はただ、やわらかくて甘い眠りにすべてを委ねた。