ふわりふわり

その人は、とても奇妙な人だった。
山育ちでそれほど多くの人を知っているわけではないが、その人はきっと都会でも群を抜いて変わっているだろうと、禰豆子は思った。
それはぼんやりと靄に包まれたような感慨で、その頃の禰豆子にとってはっきりと言語化されてはいなかった。なんとなれば鬼と化していた当時の禰豆子の思考は、幼子のそれであり、端的な感情より他に、本来の年齢相応な思考は奪われていたので。

その人は、いつでも笑顔だった。脂下がっていた、とも言える。鬼になる以前の、14歳の多感な少女である時に出逢っていたのなら、なんてみっともない人だろうと、もしかしたら嫌悪したかもしれない。
兄や弟妹は元より里の人たちは皆、禰豆子を綺麗だ、可愛いと、よく誉めそやした。殆どは純粋な親愛の言であり、禰豆子は照れたり馬鹿なこと言ってないでと苦笑したりしていたのだが、時折、口説いているのだと禰豆子にも分かる人もいた。
禰豆子は、そういう人はあまり好きではない。年頃の少女らしく恋を夢見ることもあったけれど、禰豆子にとって恋は、まだまだ遠い未来のこととしか思えなかった。
だから、色恋を滲ませた褒め言葉には、表情は硬くなった。そんなことを言われても困る。そうとしか思えなかった。

その人は、いつでも禰豆子に可愛いと笑いかけていた。鼻の下を長くしてみっともないと、人だった頃なら思っただろう。けれどその頃、禰豆子は鬼で、余計な知識も感情もない幼子であったので、可愛いとの言を素直に受け止めた。
禰豆子は鬼だ。なのに可愛いと笑い、その人は、花やら金魚やらその人が可愛いと思うものを、禰豆子にも与えようとする。誰もが眠る深夜に、並んで座って月を見上げては、綺麗だねぇ、優しい光が禰豆子ちゃんみたいだねと、笑って言っては照れたりする。一緒に花畑に行き、花冠を作り似合うよと、禰豆子の頭に乗せたりもする。そうして禰豆子と共に夜を過ごし、朝日が昇る前に禰豆子を箱へと送り、また遊ぼうねと笑った。
心の奥底に封じられた14歳の少女である禰豆子は、それをぼんやりと見ていた。聞いていた。

変な人。私は鬼なのに。綺麗だ、可愛いと、皆に言われていた禰豆子は今はいない。ここにいるのは人に恐れられる鬼なのに。なんとも奇妙で、呆れるほどに珍妙な人である。

鬼の心に占められて、小さく小さく封じ込められた14歳の禰豆子の心は、その人の好意を訝しみながらも、段々とそれに慣れていった。
兄や、天狗の面の優しい翁より他に、鬼の禰豆子を可愛いという者などいなかった。人のように接し、人に対するように笑いかけてくれる人など、その人に逢うまでいなかった。
その人に出逢う前に知り合ったとても綺麗な女の人は、禰豆子に優しくしてくれたけれど、禰豆子を人として見てくれていたわけではない。それを哀しむような聡明さはその頃の禰豆子にはなく、別段不満もなかった。

その人は禰豆子が鬼だと知りながら、人にするように禰豆子に接する、とても奇妙な人だった。くねくねと脂下がりながら、大袈裟な身振りや言葉で禰豆子を誉めそやす、珍妙な人だ。
それでも優しくされれば嬉しい。可愛いと言われれば嬉しい。なによりも、誰も彼もが眠りにつく一人ぼっちの寂しい夜を、共に過ごしてくれるのが、とても嬉しくて、とても楽しかった。

タンポポのような黄色い髪。いつでもニコニコと笑う顔。禰豆子に触れる手は優しい。夢現に聞こえてくる昼間のその人の声は、弱音ばかりで怯えてばかり。兄や親分の声に混じって聞こえる声は、なんとも騒がしいのに、夜の声はただただ優しく穏やかだった。
皆眠ってるから静かにしなくちゃねと、しー、っと人差し指を口に当てて笑った顔は、悪戯っ子のようだった。
いつでもその人は禰豆子の前では笑っていた。真剣な顔で、禰豆子ちゃんは俺が守ると禰豆子を助けてくれた時もあったけれど、すぐにそんな凛々しさは消えてしまって、鬼の禰豆子も人の禰豆子も、やっぱり変な人と思ったものだ。
それでも、その瞬間にトクンと鳴った胸の鼓動は、小さく今も鳴り続けている。

ふわり、ふわりと、タンポポの綿毛のように、その人の笑顔と言葉は禰豆子に向かって飛んでくる。禰豆子の心の中に、一つ一つ落ちては根付く。小さな小さなタンポポの種。好意の種は、ゆっくり、ゆっくり、禰豆子の中で育って、もうじき花が咲く。黄色いタンポポの花が咲く。

禰豆子が人に戻った時にその人は、良かった、良かったねぇ、禰豆子ちゃん良かったねぇと、盛大に泣いた。涙と鼻水でぐしょぐしょの顔は、格好いいとはとても言えない。他人が見れば醜態としか言えないだろう。それでも禰豆子の胸はやっぱりトクンと鳴って、涙が込み上げた。
人に戻った禰豆子は、もう自分の心をきちんと言葉に出来る。だから言おうと思ったのだ。禰豆子の心にも花が咲いたことを。春のお日様のように心を温かく優しく慈しんでくれるタンポポの花が、私の中にも咲いていますと、タンポポのようなその人に告げようと思っていた。

「滅多に逢えなくなっちゃうんだろうけど、元気でね。禰豆子ちゃんは可愛くて優しいから、きっとすぐにお嫁に行くんだろうけど、お嫁に行っても俺のこと忘れないでね」

泣き笑いながら言ったその人の言葉が、信じられなかった。
どうしてそんなことを言うの? 私を守ってくれるのは貴方じゃないの? 貴方は言ったじゃない。禰豆子ちゃんは俺が守るって。いつでも笑って、禰豆子ちゃんとずっとこうしていたいなぁって、二人きりの夜に、嬉しそうに言っていたのは貴方でしょう?

「なんでそんなこと言うの? お嫁になんて行かない」
そう言った禰豆子の声が震えたのは、哀しかったからだし、怒ってもいた。
「あぁ、うん。そうだよね。やっと人に戻れたんだもんね、炭治郎と暫くはゆっくり暮らしたいよね! ごめんね、変なこと言っちゃって。でもさ、きっといっぱい縁談が来るよ。禰豆子ちゃんはとっても可愛くて優しいから! 炭治郎のお眼鏡にも適う格好良くて優しくて頼りになる男がさ、きっとすぐに禰豆子ちゃんを見初めるよ。幸せな花嫁さんになる禰豆子ちゃんかぁ、きっと凄く綺麗だ……」

遠い目をして言わないで。笑っているのに哀しそうな目でなんて、私を見ないで。いつものように、二人きり過ごした夜と同じ優しい目で、お願い、私に笑いかけて。

「馬鹿ッ! 善逸さんの馬鹿馬鹿馬鹿っ! なんで私が他の人のお嫁さんになるの!? 縁談なんか来たって知らない! そんなのポイって捨てちゃうんだから! だって、だって私は……私が好きなのは……っ」

あんまり腹が立って、あんまり哀しくて、ポカポカとその人の胸を叩いた拳はもうただの女の子のものなので、大して痛くもないだろうに、その人はとても痛そうな顔をした。
「だって、禰豆子ちゃんはもう人に戻ったんだから、大勢の奴が禰豆子ちゃんを好きになるよ。俺より格好良くて、俺みたいに泣いたり怯えたりしない強い奴で、いつだって禰豆子ちゃんを守れる炭治郎みたいな男が、きっと禰豆子ちゃんを好きになるんだよ」

禰豆子ちゃんにはそういう奴が似合うもの。俺なんかじゃ駄目だもの。
そう言って、痛そうな顔で泣き出しそうに笑う。

「駄目じゃない! 逆だもん! 善逸さんじゃなきゃ駄目なの!」
もしも。もしも、そういう人が好きだと、可愛いと、昔のように禰豆子に言ってきたとして。それを聞いても、禰豆子はやっぱり困るだけだ。
だってもう、胸の中にタンポポの花は咲いてしまった。頑固なのは兄譲りだ。きっとこの花は枯れることがない。ふわりふわりと綿毛を飛ばす先は、たった一人しかいない。

「私と一緒に夜を過ごしてくれたのは、善逸さんでしょ? 私に花冠を被せてくれたのも、可愛いねぇって一緒に金魚を見たのも、私を守ってくれたのも、全部全部善逸さんでしょう?」

鬼だったのに。頸を刎ねようとする人たちだっていた、鬼なのに。初めて逢った時から、善逸だけは優しかった。鬼だと分かっていても、顔も見ないその時から守ってくれたことを、封じられていた少女の禰豆子は知っている。夢現に聞こえた声を、禰豆子は忘れてはいない。

「だって……俺は、炭治郎と違って弱虫だし」
「弱虫なのに守ってくれた!」
「伊之助と違って、すぐ泣くし」
「泣いたら慰めてあげるし、叱ってあげる!」
「千寿郎くんとかと違って身寄りだってないし、鬼殺隊は解散しちゃったから無職だしっ」
「私だってお兄ちゃんしかいないし、一緒に働けばいいだけでしょ!」
「冨岡さんや宇髄さんみたいに格好良くないし!」
「顔で選ぶような奴だって思ってたの!? 酷い! 善逸さんも私の顔だけが好きなの!? だからそんなこと言うの!?」
「そんなことあるわけないでしょっ!! 禰豆子ちゃんはすっごく優しくて、頑張り屋さんで、勿論滅茶苦茶可愛いけど、顔だけが好きなんてあるわけないでしょうがぁぁぁっっ!!」
「じゃあいいじゃないっ! どうして他の人と自分を比べるのよ! 善逸さんは善逸さんだからいいの! だからさっさと私を好きだって、俺のお嫁さんになってくださいって言いなさい!」

なんでこうなっちゃうの? 恋を夢見ていた頃は、告白というのは御伽噺のように素敵なものだと思っていたのに。禰豆子はなんだか泣きたくなったが、先に盛大に涙を零したその人が、大きな声で叫ぶように言ったので、泣き出すより先に笑った。

「好きだよっ! 禰豆子ちゃんが誰よりも好きだ! 俺のお嫁さんになってくださいっ!!」
「……はいっ!」

うぅっと泣きながら、嘘だぁ、絶対に夢なんだぁ、と往生際悪く言うのには呆れるが、それでもぎゅうっと抱き締めてくれたから、禰豆子の胸の中でタンポポの花は咲き誇る。恋の花が咲き乱れる。
夢じゃないよと分かってもらう為に、ぎゅっと強く抱き締め返して、禰豆子は笑った。
きっと兄は喜んでくれるだろう。この珍妙なタンポポのような人が、本当は強くて誰より優しいことを、兄だって誰よりも知っているのだから。

夢じゃないから、本当だからと、自分を抱き締め泣く人の背を優しく撫でてやりながら、禰豆子は婚礼は春がいいなとふと思う。春には禰豆子ももう15になっている。嫁に行ける年だ。
兄も未成年だから、禰豆子の結婚に許可をくれる後見人は天狗の面の翁だろうか。それとも、鬼の禰豆子を見逃して生きる道を与えてくれた、兄が心の底から慕う無口で不愛想なあの人だろうか。どちらにしても、きっと反対などはしないだろう。だから一切問題はない。祝福されて、禰豆子は嫁に行く。

春になったら、タンポポの綿毛のように真っ白な綿帽子を被って、タンポポのように明るい髪のこの人の元へ、お嫁に行くのだ。

タンポポの花が咲き乱れる春の日に、眩しい青空を見上げながら。ふわり、ふわりと、幸せの種を振りまきながら。

                                    終