「あの……ドキドキしますか?」
と、言われても。義勇はどう答えたものかと、わずかに眉根を寄せた。
ドキドキの意味によっては、はい、だ。つま先立ってプルプルしている炭治郎の足を見ると、どうにもドキドキする。もっとふさわしい言葉で言うなら、ヒヤヒヤする。
それ以外の意味でドキドキするかといえば、答えは、べつに、だ。
炭治郎の顔は真剣で、ついでにゆでダコみたいに真っ赤だ。大きな目で、にらみつけるように義勇を見上げている。
本当に、いったいなんなんだ、この状況。いったい炭治郎はなにがしたいんだか。
廊下で偶然会ったとたんに、ちょっとこっちに来てくださいと引っ張ってこられたのは、人気のない廊下の隅。もうちょっと詳しく言えば、職員トイレの脇。
そんなところに義勇を連れてきた炭治郎が、突然にとった行動が、これだ。
義勇を壁際に立たせたかと思ったら、いきなりドンッと壁に手をついてきたのである。
いかに朴念仁とからかわれる義勇でも、巷でこの動作がなんと呼ばれているかぐらいは、知っている。壁ドン。たぶん。壁に立つ相手の横に手をつくという姿勢だけ見れば、ギリギリ間違っちゃいない。
ただ、炭治郎はバレェダンサーのようにつま先立って、足をプルプルとさせているし、壁についた手は顔の横ではなく、義勇の肩あたりだ。片手ではバランスが悪いんだろう、突っ張らせた両手もちょっと震えている。
そうまでしても、義勇を見下ろすことはかなわずに、炭治郎は義勇を真正面から見つめていた。
なにがやりたいのかは、わかった。だが、なんでやりたかったのかが、わからない。
「……いったいなんなんだ」
「ドキドキしません?」
「ドキドキはしてる。足、攣らないか?」
「そっち!? あぁー、やっぱり失敗かぁ」
ぺたんとかかとを落として、ついでに眉尻もへにょっと下げた炭治郎に、義勇はフゥッと小さく息を吐きゆっくりと腕を組んだ。
「なんで壁ドン?」
「あ、義勇さんも壁ドンは知ってたんですね」
「冨岡先生。おまえは俺をなんだと思ってるんだ」
「今さらそこですか? だっておつきあいしてくれるって言ったのに、義勇さん……じゃなかった。冨岡先生、俺になんにもしないから」
ちょっとすねたように上目遣いで見上げてくる炭治郎に、義勇はいよいよ呆れた。呆れついでにちょっとばかりイラッともする。
「おまえが卒業するまではなにもしない。先生と生徒のままでいいかと、聞いたはずだが?」
「……そうですけど……まさか本当にまったくっ、ちっともっ、全っ然! なんにもなしだなんて、思わなかったんですよ! ちょっとぐらいフライングしたっていいじゃないですかぁ!」
ぷぅっと頬をふくらませて、少し肩を怒らせる炭治郎に、義勇はピクリと片眉をそびやかした。とたんに炭治郎は怒らせた肩はそのままに、ヒュッと首をすくめるから、義勇は知らず持ち上がりかけた口角を、しいて引き締める。
甘やかしてはあとが面倒だ。卒業式まであと一ヶ月。三年生はもう登校するものなどほとんどいないのに、せっせと毎日学校にくる熱意は買うが、方向がトンチンカンすぎる。
「で? なんで壁ドン?」
「……禰豆子や花子が、流行りは去っても壁ドンはやっぱり乙女の夢って言うから」
乙女。身長一七六センチの、腹筋だって六つにパッキリ割れてる男に言う言葉じゃないだろ。おまけに場所が悪すぎる。職員トイレの脇。壁ドンするのに、これほど不似合いな場所もなかろうに。
スンッと表情を消して虚空を見つめた義勇に、炭治郎はますます首をすくめた。カメじゃあるまいし、そんなに首を引っ込めたところで隠れられやしないだろうと、義勇の呆れはいや増すばかりだ。
フゥッとまた小さく、けれども今度はちょっとばかり長く息をついて、義勇が少し首をかたむけ静かに見つめれば、炭治郎の大きな目がとうとう潤みだした。
「壁ドンは、こういうのだろ」
組んだ腕を解くなり、さっと炭治郎と位置を入れ替え壁に押し付けた義勇は、炭治郎の顔の横に手をついた。
壁ドンとはいうけれど、ドンッと音がするほど強くはない。怖がらせないギリギリの力加減。
ただでさえ赤かった炭治郎の顔が、ますます燃えるように赤く染まって、うなじや耳まで余さず染め抜かれたのに、義勇は薄く笑う。
「あ、の……ぎゆ」
「炭治郎」
呼びかけるかすれた声すらさえぎって、そっと顔を近づければ、炭治郎がギュッと目を閉じた。心持ち上向く顔。ちょっと突き出された唇に、笑いたくなるのを懸命にこらえて。ささやきは、耳元で。
「ピアスを外せ」
「へ?」
ゆでダコみたいだった顔が、ポカンと目も口もまんまるに開いた。今度はハニワみたいだなと、義勇は笑いを噛み殺す。
「没収。ホラ、よこせ」
「……形見なので外せません」
しょんぼりと肩を落とした炭治郎の頭に、ポンと手を乗せ、義勇は今度こそこみ上げる笑みをこらえることなく笑った。
「生徒指導室に取りにくれば、コーヒーぐらいは淹れてやる」
今はそれぐらいで我慢しろ。言外に込めて笑ってやれば、そろっとあげられた炭治郎の顔に、ちょっぴり困ったようにも、照れてもいるようにも見える笑みが浮かぶ。
壁ドンの近さはそのままに、自分の胸元で伏し目がちにピアスを外す炭治郎を見下ろす義勇の顔は、薄く笑んだままだ。
ドキドキするかだと? しているとも。近い将来、こうして自分の前でピアスを外す炭治郎を、どんなふうに愛してやろうかと、期待と歓喜に胸が騒いでしかたがない。だけど答え合わせはまだ早い。
義勇が差し出した手にピアスを乗せて、ちらりと上目遣い見上げてくる炭治郎の頭を、もう一度軽く撫でる。
「……帰りは送ってやれないからな。あまり長居はさせられないぞ」
「はい。忙しいですもんね」
ニコニコとごきげんに笑うのに、軽く肩をすくめて、義勇は炭治郎に背を向け歩き出した。
そう。教師はたいへん忙しい。受験シーズンの今はなおさらだ。推薦合格している炭治郎はいいが、まだまだ受験生は大勢いるのだ。心乱されている暇はない。
だから。
このところ、恋をフライングで進展させようと的外れに煽ってくる愛し子からの質問に、模範解答は卒業式のあとで。壁ドンしてやれば、きっとまたタコみたいに突き出すに違いない唇を、ご期待どおりやさしくついばむ、義勇の飢えた唇で。