忙しなく息を吐きながら、炭治郎は必死に走る。だが、積もった雪に足を取られ思ったようには走れず、速度は平地を歩むのと大差はない。
空を覆う雲は厚く、また雪が降ってきそうだ。ぐっしょりと濡れた衣服が、炭治郎の体温を奪っていく。けれども足を止めるわけにも、ましてや家に戻り暖を取ることも、かなわない。
背に負った禰豆子の体重が、ズシリと肩にかかる。禰豆子の体は次第に冷たくなっていく。
「がんばれ、禰豆子っ。大丈夫だ。兄ちゃんが絶対に助けてやるっ! もう少し、もう少しだから……っ!」
懸命にかける声は、息が切れてかすれていた。禰豆子に対してというよりも、むしろ炭治郎は、自分にこそ言い聞かせていただろう。大丈夫だと思いたいのも、もう少しだと信じたいのも、炭治郎自身だ。
なぜ、こんなことになったのだろう。勝手に涙が浮かんでは、こぼれ落ちるなり頬で凍りつく。吸い込む息も、肺を凍らせそうに冷たかった。
どうして。なんで。嘘だ。嘘だ。こんなの嘘だ。切れ切れに浮かぶ言葉は、目にした光景を否定するものばかりだ。けれども鼻の奥に残る血の臭いも、冷たくなっていく禰豆子の体も、雪に阻まれ重くなっていく己の足だって、すべてが現実だと炭治郎に思い知らせる。
元宵節の、灯籠を買いに行っただけだった。父を亡くして沈みがちな弟妹を、喜ばせたかったのだ。小正月の盛大な法会。このときばかりは夜間の外出禁止令も解かれ、美しい灯籠がいくつも軒にあふれ輝く。
いつもは質素で飾り気もない提灯を、子供らの手で作って軒に掲げた。けれども今年だけは、麓の村どころか都でさえも羨まれそうに美しい灯籠を、みなに見せてやりたかった。
都の職人の手による美しい灯籠は、炭治郎が用意した金では少し足りなかった。手伝いをして差額の代わりとしたのは、想定内だ。
夜間の外出禁止令が解かれるのは、元宵節の三日間だけだ。田舎ではゆるい監視の目も、都では衛視の目は厳しい。元宵節までは、まだ五日ほどあった。日が暮れてしまえば、帰ることはかなわない。しかたなし、作業場の片隅で寝かせてもらった。
シンシンと冷える真冬の夜。体の芯までしみる冷気にガタガタと震えて、ろくに眠れもしなかったが、泊めてもらえただけでも僥倖と言える。新年を迎えたばかりだというのに、路地で眠った挙げ句に凍死などしてはかなわない。
夜半から降り出した雪は、朝にはかなり積もっていた。家に帰り着くのは昼をすぎるかもしれない。でも、これだけきれいな提灯だ。もち米だって買えた。母さんと禰豆子が作る湯円(もち米で作った、冬至の風物的料理)がみんな大好きだから、喜ぶことだろう。ごまと小豆だって買ったのだ。今年は甘い湯円と肉の塩辛い湯円の二種が、食卓にのぼることになる。豪勢な食事は望めずとも、こんなささやかな贅沢を、みなきっと幸せだと笑ってくれるはずだ。
働きづめに働いて、ようやく貯めた小銭を握りしめておもむいた都は、人が多すぎてそれだけで疲れた。けれども家族のためだ。険しい山道を、雪を踏みしめ歩く炭治郎の顔は、竹雄たちの喜ぶ顔を想像し、幸せそうに笑んでいた。
だが。
「最近、異民族の侵攻が激しいって話だから、気をつけるんだよ? いくら都は衛視が守ってくださっていると言っても、街道までは目が届かないかもしれないから」
「大丈夫だよ、母さん。ちゃんと注意するから」
心配そうな母を、安心させるために笑って。
「お兄ちゃん、異民族は人を食べるってホント?」
「やめてよっ、六太。そんなこと話してるだけで、襲ってきそうで怖いじゃない」
「花子姉ちゃんは怖がりだなぁ。やーい、弱虫ぃ!」
「なんですってぇ! コラ、待てっ、茂!」
鬼ごっこを始めた茂と花子に、思わず笑みを深め。
「人を食べるってのは荒唐無稽だけどさ、本当に気をつけろよ、兄ちゃん。危ないのは異民族だけじゃないんだぜ? 街道には最近、山賊が出るって噂もあるんだからさ」
「わかってるよ。竹雄も心配性だよなぁ」
ちょっぴり偉そうに忠告を述べる竹雄にも、笑って答え。
「はいはい、おしゃべりはそこまで。お兄ちゃん、早く行かないと、都で夜明かししなくちゃいけなくなっちゃうよ。はい、たいしたものは作れなかったけど、お弁当持っていって。気をつけていってね」
禰豆子の細やかな気遣いに、感謝し、笑って包みを受け取りうなずいた。
いつもの光景だった。母が炭治郎の身を案じてくれるのも、花子たちがワイワイと騒がしいのも、なにひとつ、変わったことなどない。いつもの、見慣れた日常の一場面だ。炭治郎の顔にも、家族の顔にも、笑みがあった。
いってきますと炭治郎は手を振り、家族もいってらっしゃいと笑顔で送り出してくれた。当たり前の会話と笑顔。ただいまと戻れば、必ずおかえりなさいと出迎えてくれる家族がいる。幸せだと思う。暮らしは貧しいし、父も病に取られたが、それでも助け合って生きる毎日は、穏やかだ。
そんなささやかな幸せは、今日も、明日も、変わりなく続いていくのだと、炭治郎は思っていた。
なのに、後生大事に灯籠を抱え持ち帰り着いた家に、日常はどこにもなかった。
温かいはずの家は、シンと冷え切って、血の臭いがした。
熊か? それとも虎か? あきらかにみんなは食われていた。やわらかな腹ばかりをえぐられて。鋭い爪で喉をかき切られて。血も、肌も、冷たく凍りついていた。
まだ温もりがあったのは、禰豆子だけだった。
麓の村まで行けば、医者がいる。医者にさえみせれば、きっと禰豆子は助かる。助けてみせる。炭治郎は必死に走った。
「おや、エサが増えた」
聞こえた声は、喜々としていた。女の声だ。まだ麓の村まではだいぶある。こんな雪の日に、山に登ってくる女など、いるだろうか。ヒヤリと背筋を冷汗が伝った。
人の声は、炭治郎に安心をもたらすどころか、恐怖を与えるものでしかなかった。
あわてて周囲を見まわすが、人の気配は感じられない。けれども幻聴などとは思えなかった。
「だ、誰だ!」
「生き残りがいたのかえ。私としたことが、もったいないことをしちまうところだった」
クツクツと笑う声は、ドロリと粘るようだった。
昼日中だというのに、厚い雲に阻まれて、周囲は薄暗い。高い梢から、ドサリと雪が落ちて、炭治郎は背負う禰豆子を支える手に、力を込めた。
「生き残り……禰豆子のことか?」
顔がこわばる。姿を見せぬ女の声が示すものが、空気の冷たさよりもなお、炭治郎の腹のうちを凍りつかせた。
母や竹雄たちの体は、明らかに食い散らかされていた。人の仕業ではありえない。
だがもし、女があの惨劇の場にいたのだとしたら、なぜ女は生きているのか。なぜ獣に食われていないのだろう。
そもそも、この声の主は何者だ。こんな山奥に、雪を踏みしめやってくる酔狂なものなど、そうそういない。なのになぜ、女はここにいる?
「ほかのを食らってるあいだにくたばって、すっかり冷え切ってると思ったのにねぇ。やれ、うれしや。私はね、腸が好きなのさ。とくに、生きてるうちに食うのがね。湯気を立てるほどに温かいやつが、一番美味い」
食い破られていた、母の腹。花子も、竹雄も、茂も。六太の小さな体は、胸より下がごっそりなかった。
虎か、熊だと思った。真冬の今、熊は冬眠中だけれども、虎はいる。それに熊だって、この時期に動き回っているやつがいないわけではない。総じてそういう熊は凶暴だ。だから、炭治郎は、獣の仕業だと疑わなかった。
けれど。あぁ、だけど。
「おまえ……おまえが、食ったのか……? 俺の母さんを、竹雄を、花子をっ、茂と六太を!」
脳髄の奥が、カッと燃えた。激高して叫んだ炭治郎に、声は嘲笑をひびかせた。
「出てこいっ!! 俺の家族をよくも……っ!!」
涙が勝手に溢れ出す。怒りが身のうちで灼熱となって暴れまわっていた。武器は、万が一のために腰に帯びていた鉈だけ。剣があったとしても、炭治郎には使うことなどできなかっただろう。炭治郎の家は、窯場だ。土を練り陶磁器を焼く。ただそれだけしかできない。
それでも、己がどうなろうとも、禰豆子を守り家族の仇を打つ。決意は熱く炭治郎の胸で燃えていた。
とはいえども、姿が見えぬことにはどうにもならない。
「姿を見せろっ、卑怯者!」
「生意気なガキだ。言われぬでも見せてやろうよ。そら、とくと見るがいい」
ドサリとまた、背後で雪が落ちた。ビクリと肩を跳ねさせ振り返った炭治郎の目に映ったものは、雪の塊だけだ。そのとき、かすかに鼻先をよぎったのは、血の臭いだった。そして、生臭いような、物が腐ったような、なんともいえぬ悪臭。
「どっちを見ている。ほれほれ、私をごらん。どうだえ? 私は美しいだろう? 恐ろしいだろう? 怖いものは美しいのさ。だから私はこんなにも美しい。あのお方の美しさにはおよばずとも、もっともっと美しくなる。おまえの血肉と恐怖を食らってね」
クククッと忍び笑う声のほうへと、あわてて目を向けた炭治郎は、とっさに上がりかけた悲鳴を飲みこんだ。
虎。いや、違う。二本の足で立っている。けれども人ではない。ありえない。長い尾をパシリパシリと雪に打ちつけながら立っていたのは、虎の毛に覆われながらも人の形をした、異様な生き物だった。
かろうじて性別を判断できる乳房の膨らみも、毛に覆われている。身につけているのは腰にまとう裳だけで、そこだけ人の理性を残しているように見え、やけに異質だ。爛々と燃える瞳と、大きく裂けた口。顔だけはつるりとしていた。やけに生白く、大きな口だけが血濡れたように赤い。
女は鋭い爪と牙を持っていた。ニタリと笑う口から覗く牙は、黄ばみながらも光っている。
「と、虎……?」
「私を獣風情と一緒にするなど、不遜なガキだねぇ。だがまぁいい。私はやさしいから、選り好みはしないでやろうよ。おまえの腸も残さずたいらげてやるから感謝しな!」
言うなり女は音も立てずに飛び上がった。雪煙が立ちのぼる。とっさに腰の鉈へと手をやった炭治郎の背から、禰豆子がズルリと落ちそうになった。
一瞬、炭治郎の意識が禰豆子へと逸れた。
それら一連の流れは、まばたき一つする間でしかなかった。けれどもそれだけで異形の女は、炭治郎に肉薄している。鋭い爪が眼前に迫った。駄目だ。間に合わない。鉈を抜く余裕などなかった。
禰豆子だけは……っ!!
決心は早く、雪の上へと落ちた禰豆子に、炭治郎は覆いかぶさった。死が目前に迫っていた。
泰山へ行けば、母さんたちに逢えるだろうか。ちらりと思う。生身では果たせぬ願いも、魂魄別れ、死者となれば、果たせるかもしれない。そんな愚かな考えが頭を占めた。
禰豆子。禰豆子。おまえだけは、守るから。
力のかぎりに抱き締めた禰豆子の体は、もう温もりがない。だがまだ、かすかに息がある。死なせるものか。食わせてなるものか。たとえこの身は異形の怪物の顎門に噛み砕かれても。
死と延命の覚悟は、けれど、辺りに轟きわたった絶叫で、寸時炭治郎の心から消えた。
自失は一瞬である。即座に我に返り振りむいた炭治郎の目が、吹き上がる血しぶきをとらえた。
誰……?
悲鳴を上げてのたうち回る怪物と炭治郎の間をへだてるように、男がひとり立っていた。吹き抜けた風に、男のまとった外套がはためく。男の手には抜身の剣があった。
撒き散らされる血しぶきが、純白の雪を真紅に染めている。異形の怪物であれど血は赤いのか。妙な感慨がふと湧いた。
暫時ぼんやりとしていた炭治郎は、雪に落ちているそれに気づき、ヒッと小さく悲鳴を上げた。虎の毛に覆われた腕が、雪の上でもがいている。斬り落とされてなお、腕はそれ自体が生き物のようにうごめいていた。
男の手がスッと掲げられた。握る刀剣が、キラリと光を弾く様は、なんだか現実味がない。こんなのは、日常にふさわしくない光景だ。あぁ、そうだ。冬の間に村へ興行にくる劇団の舞台。講談師の話のなかにしかありえぬ光景。夢の……とびきりの悪夢のなかの、光景に違いない。
けれども、夢ではなかった。頬をなぶる風の冷たさも、血の臭いも、冷えた禰豆子の体の重みだって、すべてがこれは紛うかたなき現実だと、炭治郎に突きつけてくる。
音もなく、鈍い銀色に光る刃が振り下ろされる。その瞬間を、炭治郎は見ていなかった。とっさに目を閉じてしまったのは、ただの反射だ。炭治郎とて山の獣を屠ることはある。命を奪い、食らう。そうでなければ自分と家族が生きられない。だがそれでも残酷な光景は苦手だった。
ふたたびあがった金切り声は、もはや意味のある言葉をなしていない。命乞いの間すらなかった。バサバサと鳥が羽ばたく音がする。怪物の悲鳴に鳥たちが逃げたらしい。見たくない。けれども、目をそらしてばかりもいられない。覚悟を決めて、炭治郎は恐る恐る目を開けた。
禰豆子を抱く手の力はそのままに、炭治郎は、惨劇の結末を確認すべく男へと視線を向けた。赤く染まった雪の上で、首のない怪物の体がビクビクと痙攣している。またあがりそうになった悲鳴をどうにかこらえ、炭治郎は震える唇を開いた。
「あ、あの……ありがとう、ございます」
男が何者なのかはわからない。なぜここにいるのかも、理解がおよぶことはなかった。それでも、男が炭治郎たちを助けてくれたことだけは間違いがなかった。
炭治郎の礼を聞いているのかいないのか、男は眼差しを炭治郎へ向けることもなく、冷めた目で怪物が息絶えるのを見下ろしている。
軍人、なのだろうか。刀剣を手にしているからには、そう考えるほうが自然だ。けれども男のまとう空気は、炭治郎が知る都の衛視とはずいぶんと異なる。居丈高さなどどこにもなく、静謐さしか男の佇まいからは感じられない。
それに男は甲冑だって着けていない。下級の軍人でさえ、甲冑ぐらいは装備するものだ。それすら果たせぬ捨て駒の如き兵と、男の姿はどうにも重ならなかった。帯刀と手甲だけが、軍人かもと思わせる所以だ。
とはいえ、炭治郎は兵のことなどよく知らない。大将軍ほどともなれば、陣営深くに陣取り、戦乱のなかで剣を振るうことなく酒を喰らうばかりという御仁もいると聞く。おおむねそんな不名誉は、講談のなかで聞く演義の登場人物ばかりだけれども。まさかこの男がそんな不徳の輩だとも思えず、疑問ばかりが頭に渦巻く。
亀甲の文様と臙脂の半身半柄の衣は、見るからに仕立てが良い。炭治郎よりもよっぽど良い暮らしをしているに違いなかった。もしも軍人だとしても、貧しさに食い詰めて兵となったわけではないだろう。
男はまだ若かった。落ち着いてよくよく見れば、やけに整った顔立ちをしている。均整の取れた体つきと、癖の強い黒髪、肌は白い。けれども異形の女のような生白さではなく、清らかな新雪を思わせる肌だ。衝撃的なことばかりで、いまだ現実味が薄いのか、炭治郎の目には、男はまるで戯曲の扇子生(貴公子役)のように映った。
「あ、あなたはいったい……」
「義勇!」
炭治郎の問いかけが、どこからか聞こえた声にかき消された。
声のしたほうを見れば、男が葦毛の馬で駆けてくる。雪煙を舞い立ててやってきた新たな青年の髪は宍色で、顔にはやけに目立つ傷があった。
義勇というのが、恩人の名なのだろう。炭治郎にはまるで関心なさげに向けられることのなかった顔を、男――義勇はゆるりと、やってきた青年へと向けた。
「錆兎」
「いきなり飛び出していくから慌てたぞ。なにがあったかは、見ればわかるけどな」
言って宍色の髪の青年――どうやら錆兎というらしい――が、炭治郎へと視線を投げかけてきた。その瞳はわずかに厳しい。錆兎の身なりは義勇とよく似ていた。というよりも、まるで一対だ。異なるのは衣の半身が臙脂ではなく白なことぐらいだった。刀剣も、帯びている。
思わず身をすくめ、禰豆子を固くかき抱いた炭治郎に、錆兎は小さくため息をついた。
「……その娘は?」
「まだわからない」
炭治郎を無視してかわされる言葉は、簡潔であるがゆえに、炭治郎には意味がわからない。
「い、妹の禰豆子です。怪我をしていて……そうだ! あのっ、その馬を貸してください! 禰豆子を早く医者に見せないと!」
「無駄だ」
義勇の冷えたそっけない声音に、炭治郎の背が凍りつく。だがそれも一瞬だ。すぐさま炭治郎は、憤りのままに眉をつりあげた。
「無駄じゃない! 禰豆子はまだ生きてる!」
「そういう意味じゃない」
「義勇、それじゃこの子には通じないぞ」
錆兎の声は、苦笑しつつもどこか悼ましげなひびきをしていた。
不意に、義勇が炭治郎の正面に進み出た。初めて真っ向から見た義勇の顔には、感情の色がいっさいない。炭治郎の自慢の鼻でさえ、義勇がなにを思っているのかさっぱり感じ取ることはできなかった。
義勇からは、なにひとつ感情の匂いがしてこない。
「医者では治せない。その娘は、鬼になる」
ひとかけらも感情を含まぬ静かな声で、義勇は言った。
それは、炭治郎の人生を大きく変えた、運命の言葉となった。