水天の如し 二 ◇少年、仰天すること甚だしの段◇

 ともあれ、深い話は場所を移してからだ。息を飲み絶句した炭治郎に、そう切り出してきたのは錆兎である。
「今は雲のおかげで日が差さないが、太陽が顔を出したらまずい」
「なんでですか? また雪が降るよりいいと思うけど」
 雪は今はやんでいる。とはいえど、またぞろ降り出せば、あっというまに身動きが取れなくなること必至である。視界は塞がれ、体力もいっそう奪われることうけあいだ。
 騎乗している錆兎はまだいい。だが、十三歳の炭治郎は、体格もまだまだ子供と言える。一つ年下の禰豆子は炭治郎と身長も大差なく、そんな禰豆子を背負って雪のなかを歩くのは、炭治郎でさえ骨が折れる。
 ここらは雪もまだやわらかいが、日陰の雪は固く締まって、氷の上と変わらぬようにもなるのだ。火急のことゆえ備えはなにもない。陽光に溶けた雪が雪崩を起こす不安はあるが、現状では日が差すに越したことはないのだ。

 義勇と錆兎はきっと、このあたりの雪深さに生じる困難を、実感できずにいるのだろう。もっと南のほうの人なのかもしれない。きっとここいらの冬の厳しさを知らないのだ。

 思いたずねた炭治郎に、錆兎は苦々しい顔で首を振った。
「日の光にあたれば、おまえの妹は死ぬぞ」
「えっ!? 死ぬってどういうことですか!?」
 炭治郎が仰天したのも無理はなかろう。そんな事象は聞いたことがない。鬼になるという義勇の言葉ですら、なんのことやら皆目わからなかったというのに、日光にあたると死亡するなど、理解がおよぶはずもない。森羅万象のことわりを知る白澤神ではないのだ。ただでさえ山出しの、陶磁器を焼くことしか知らない炭治郎には、寝耳に水な発言である。この二人の言うことは、すべて炭治郎の理解の範疇外な事柄ばかりであった。
 我知らず禰豆子を抱える手に力を込めた炭治郎に、錆兎は、とにかく移動が先だと促してくる。炭治郎たちを見据える眼差しはやはり厳しく、警戒していることが容易に伝わってきた。
 だが、なぜそれほどまでに、神経を張り詰めなければならないのか。異形の怪物という脅威はすでに去った。しばらくは痙攣していた肉体も、すでに息絶えているのが見て取れる。義勇も刀剣を鞘に収めていた。
 新たな怪物が襲ってくる恐れがあるのだろうか。いや、違う。すぐに炭治郎は悟った。
 錆兎が危ぶんでいるのは、炭治郎たちの存在だ。正しくは、禰豆子を。昏倒した禰豆子を見やる錆兎の灰紫色の瞳は、ひどく冷たい。
 ゾクリと背を震わせ、炭治郎は助けを求めるように、とっさに義勇へと顔を向けた。
 義勇は、なにも言わない。恩人ではあるが、まるで表情を動かさぬ様はどことなし人形めいて見え、得体の知れなさ加減では錆兎をはるかに上回る。
「妹をこっちに。おまえが抱えて歩くより甚九郎に乗せたほうが早い」
 甚九郎というのは、錆兎の乗る葦毛の馬の名だろうか。二人連れであるのに錆兎だけが馬に乗っているのも、少々解せない。思っていれば、義勇がふと口を開いた。
「寛三郎は?」
「じきに追いつくだろ。寛三郎は年寄りだからな。甚九郎について来いってのは酷だ」
 こくりとうなずき、唐突に義勇は歩きだした。深い積雪を歩いているとは思えぬほどに、その歩みは早い。
 どんどんと遠ざかっていく背に、炭治郎はあわてて声をかけた。
「あ、あのっ! えっと、義勇さん、待ってください!」
「おい、さっさとしろ。このまま妹が日輪に焼かれて死ぬか、おまえが妹に食われて死ぬのが先か、それとも俺たちについてくるか。今、この場でおまえが決めろ」
 炭治郎の呼びかけに答えたのは、義勇ではなく錆兎だった。
 錆兎の声は、いっそ冷酷にも聞こえる。示された選択肢も、いずれも不穏だ。理解のおよばぬ事態に炭治郎が戸惑ったのも致し方なかろう。
 だがしかし、炭治郎の逡巡は短かった。選べる答えなど一つきりである。
「禰豆子を、お願いします」
 馬上の錆兎に向かい、禰豆子を抱き上げれば、錆兎は無造作に禰豆子の腕を取り馬上へと引き上げた。まるで荷を扱うかの如き無造作だ。およそ怪我人に対する動作ではない。
「あぁっ! ちょっ、俺の妹を荷物みたいに扱うのはやめてください!」
「遅れるなよ。万が一封じる前にこれの目が覚めたら、おまえが追いついていなかろうと、俺たちがこれを殺すことになる。妹の最期を看取りたいのなら、さっさと走れ」
 封じる? 殺す? なにを言っているのだ。助けてくれたのではないのか。錆兎の言葉を飲み込みきれずに、炭治郎は一瞬ポカンと口を開けた。けれども、それもまばたき一つのあいだだ。
 いっそ傲慢と言っていい錆兎の物言いに、炭治郎はカッと怒りに燃えたが、錆兎はそんな炭治郎の様子になどもはや頓着していない。一瞥いちべつするでもなく、錆兎は早くも馬を走らせていた。
 甚九郎と呼ばれた馬の足取りは、危なげがなかった。深い雪など物ともしない。

「ま、待って! くそっ、禰豆子を殺されてたまるかっ!」

 まだ怒りが覚めやらぬ炭治郎が叫んでも、錆兎が止まる気配はない。見るまに距離が空いている。義勇に至っては、徒歩だというのに背中がもはや豆粒だ。雪に慣れていないどころではない。この山で生まれ育った炭治郎よりも、よっぽど雪上を歩くことに長けている。
 空身となった炭治郎は、錆兎たちの後を追い、必死に駆けた。
 頭のなかは混乱と不安が占めている。けれども、悠長に考えている場合ではない。
 こんな悲劇はないと、家のなかの惨劇を目にして思った。だが絶望にはまだまだ先があるかもしれないのだ。助かったと安堵するのは早かった。

 血の穢れのない真白な雪に、駆ける炭治郎の足跡は深く、くっきりと残されていた。まるで、なにがあろうと禰豆子だけは守るのだという、決意の現れのように。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 二人連れに追いついたのは、存外早かった。なんともなれば、麓にはまだまだ距離があるし夜には早いというのに、二人は野営の準備中だったのだ。
 木立に繋がれた馬は、二頭に増えていた。馬たちは雪を食んで乾きを癒している。新たに加わった馬の毛は漆黒であったが、ところどころに白いものが見える。この馬が寛三郎とやらだろうか。けっこうな年寄なのだろう。見るからに堂々たる体躯の甚九郎と並ぶと、やけにしょぼくれて見えた。

「あのっ、ね、禰豆子は!」
「来たか。意外と早かったな。感心、感心」

 天幕テントを広げる手を止めぬまま、振り返った錆兎が笑って言った。
 片方をゆがめるような笑みは、どこか小馬鹿にされているようで、ちょっとばかりカチンとくる。だが食ってかかっている暇はない。
 甚九郎の上には、すでに禰豆子はいなかった。どこだ。慌てて周囲を見回した炭治郎の目が、こんもりとした布の小山をとらえた。端から覗いている髪の毛に、炭治郎はひと声叫ぶなり、一目散に布の塊へと走り寄った。
「禰豆子!」
 布を少し持ち上げて確認すれば、やはり寝かされていたのは禰豆子だ。禰豆子の顔はやけに白いが、表情は穏やかに見える。思わず炭治郎の口から安堵の吐息がもれた。
 落ち着いてみれば、禰豆子がくるまれているのは、暖かそうなてん(ミンク)の毛皮のついた外套だ。炭治郎がハッとして視線をめぐらせると、義勇の背中が目に入った。
 雪の積もる山の冷気は厳しい。外套一枚脱いだだけでも、芯から凍りつく心地がするほどに。
 ようやく与えられた思い遣りに、惨劇を目撃して以来初めて、炭治郎の胸に温かなものが満ちた。

「あの……ありがとうございます、義勇さん」

 感謝に胸を詰まらせ言っても、義勇は振り返りもしなかった。天幕の杭を打ちつける手を止めもしない。
「あ、俺も手伝います!」
 外套にくるまれた禰豆子に、ちょっと待っててくれなとやさしく声をかけ、炭治郎は義勇の傍らへと走り寄った。
 手伝うと声をかけたものの、義勇は炭治郎を見もしないし、指示を口にするわけでもない。どうすればと戸惑う炭治郎に、助け舟を出してくれたのは錆兎だった。
「そこの紐を杭に結びつけてくれ。義勇が打ったやつ全部にだ」
「わかりました!」
 やるべきことを示され、ホッとする。おびただしい血も、家族の凍りついた亡骸も、すべてが温かな日常からはかけ離れていて、混乱はいまだやまない。そんななかで自分にもできることがあるというのは、こんなにも安堵するのか。
 野営などしたことがないが、することは日ごろ家で行うこまごまとした事共と大差はない。天幕の裾から伸びる頑健な紐を、杭へとしっかりと結んでいく。ただそれだけの行為は、まるで日常の延長線上にあるかのようで、少しずつ心が落ち着いていくのを炭治郎は感じた。
 とはいえど、この事態が異常であることに違いはない。禰豆子が目を覚ます気配はいまだにないし、義勇と錆兎の素性だってまるきりわからないままなのだ。
 それでも、今はこの二人に従うより、炭治郎に選べるものはなかった。二人が口にした言葉の真意も、炭治郎がただ一人で考えたところで、てんでわかりはしないだろう。鬼とはなんだ。禰豆子を日光に晒したら死ぬとは、いったいどういうことなんだ。わからないことばかりだ。
 疑問が頭をめぐる。だが作業中の今は、二人が答えてくれるとは思えなかった。それに禰豆子の寝息はしっかりとしていたし、表情も穏やかだった。怪我はもしかしたら深くはないのかもしれない。ならば、早く野営の支度を済ませるのが先決だ。暖かな外套にくるまれているとはいえ、傷をおった身を雪の上に横たえていては、治るものも治らないだろう。もちろん怪我がなくとも、炭治郎は禰豆子にそんな仕打ちをしたくはない。
 禰豆子を一刻も早く暖かな場所へ。その一心でせっせと錆兎の指示に従ううちに、野営の準備は終わったようだ。天幕は簡素で飾り気がない。だが、目にしたことのある国軍の野営光景とくらべると、なんとなく違うような気もする。
 天幕の大きさは、もちろん異なる。軍のものは数人で使用するのか、炭治郎たちが設置したものよりもだいぶ大きかった。けれども違和感はそういったことではなく……。

「あ、これ、義勇さんたちの外套と同じ柄だ」

 そうだ。違和感の正体はこれだ。炭治郎は視線を落とした天幕の裾に、合点がいったと誰にともなくうなずいた。
 軍隊の天幕には、旗は立つが文様などない。けれどもこの天幕は、波濤のような文様が描かれている。禰豆子に貸してもらっている義勇の外套や、おそろいの錆兎の外套にも、裾に同じ柄が描かれていた。
 衣服と天幕を揃いでしつらえるような酔狂な真似は、聞いたことがない。陣営に洒落めかした文様など入れてどうする。戦時にそんな雅やかさなど必要なかろう。歴史のなかではそんな洒落者な将軍もいたかもしれないが、少なくとも炭治郎が目にしたことのある陣営には、そんなものはなかった。
 そこでふたたび疑問が湧いた。
 この二人は、本当に何者なんだろう。二人の出で立ちは、一見すると帯刀も相まって軍人のように見える。だが、きっと軍とは無関係だ。少なくとも、将軍格ではありえない。こんな天幕を使用することが許される軍人は、少なくとも千人将ほどでなければならないだろうが、だとすると、またおかしなことになる。寛三郎の存在だ。
 将軍の軍馬が老いていては、話にならない。戦場を駆け抜けるのに、老馬では役に立たないだろう。それに、そもそも軍人がこんな辺鄙な山へとやってくる道理がない。国境に面した山ならば、外敵の侵入に備えて警邏の必要はもちろんある。けれどもこの山は、軍備の必要があるような位置にはないのだ。

「厄除の文様だからな。師のお手製だ」

 炭治郎のつぶやきを聞きつけたのだろう。答えた声はまたもや錆兎だ。追いついてからというもの、炭治郎は義勇の声をとんと聞いていない。
 義勇はずいぶんと寡黙な人なのだろう。静かなのは表情や佇まいもだ。およそ感情というものを義勇はまるで示さない。礼を言われようと食ってかかられようと、義勇はいっさい反応しなかった。かろうじて錆兎とならば会話らしきものは成り立つようだが、炭治郎に対しては無関心を貫いているように見える。思った瞬間、炭治郎の胸がツキリと痛んだ。

 きっとやさしい人だと思うんだけどな……でも。

 ふと義勇が天幕から離れた。大股に向かう先は禰豆子のもとだ。
「お、俺が! 俺が運びます!」
 あわてて炭治郎は義勇を追い越し、禰豆子を腕に抱えた。悪い人たちではないのだろう。嫌な匂いは二人からはまるでしない。けれども、まだ心から信用するのは怖かった。なにせ錆兎は禰豆子を殺すようなことを口にしているのだ。義勇は禰豆子を自分の外套で包み込んでくれたのだから、触れないでくれと拒むのは今さらだろうと思いはする。こんな態度は恩人に対して不適切だとの申しわけなさも湧いた。それでもやっぱり、不安のほうが大きかった。
 思わず睨むように強くなった炭治郎の視線にも、義勇はなにも言わなかった。玲瓏な顔には、不快感の色もない。
 炭治郎の声に足を止め、義勇はまたくるりと背を向けた。ふたたび天幕へと歩んでいく義勇に、炭治郎の肩から力が抜ける。
 錆兎は二人のやり取りを黙って見ていた。視線に気づき炭治郎が顔を向けたとたんに、言葉もなく錆兎の顔もそむけられた。そのままやはり天幕へと歩を進めた錆兎は、入り口で一度だけちらりと炭治郎に視線を投げてきた。

「話はなかでだ。そろそろまた雪が降り出しそうだからな」
「あ、はい」

 あわてて禰豆子を外套ごと抱え上げ、炭治郎も天幕へと入る。天幕のなかはガランとしていた。目立つ荷は見当たらない。表に繋がれている馬たちの背にも、荷はなかった。二人は旅をしているのかもと思ったが、それにしては軽装すぎる。二人きりとはいえ、こんな天幕を持参しているぐらいだ。もっと大仰な荷物があってもおかしくはないのに。
 だが、炭治郎はさほど深くは考えなかった。馬は二頭きりだ。しかも一頭は老馬だという。ならば荷は少ないほうがいいのだろう。あんまり大荷物では馬たちがかわいそうだ。
 なかではすでに義勇が火をおこしていた。湯を沸かしているのだろうか。雪を詰められ火にかけられた小さな青銅のかなえは、ずいぶんと古いもののように見えた。それも当然だろう。はるか昔には煮炊きに使われることも多かったと聞くが、今ではこんなものを使うものなどいない。炭治郎は、宗廟で祭事の儀式用の大鼎を見たことはあるが、こんな時代物を旅時に携帯するのはなんだか不自然だ。それに。
「あ……」
 鼎の装飾には、通常、饕餮とうてつ紋が多く使われる。廟に参拝したときに炭治郎が目にしたものもそうだった。けれどもこの鼎には、二人の外套などと同じように波濤が刻まれていた。
 厄除の文様。錆兎はそう言っていた。けれど、炭治郎は波模様にそんな意味合いがあるなど、聞いたことがない。
「娘をこちらに。おまえは甚九郎たちにエサをやってきてくれ」
「え、でも……」
 禰豆子と離れるのは不安だ。眠っている小娘一人を殺すなど、一瞬あれば事足りる。腰の剣を胸に突き刺すのに、時間はかからない。
「殺さない」
「え?」
 唐突に聞こえた声は、錆兎のものではなかった。
「まだ」
 ふたたび聞こえた声は淡々としている。義勇だ。
「まだってなんなんですか!」
 ようやっと言葉をかけてもらえたことよりも、内容の不穏さのほうが気がかりで、炭治郎はつい義勇へと詰め寄った。それでも義勇は静かなまま、表情一つ動かさない。
「今ではなく、後でならという意味だが」
「いや、だから、まだって言葉の意味を聞いたわけじゃなくてですね! 今でも後でも、まず殺さないでください!」
「あー、もういいから。義勇、おまえが説明するのは無謀だ。やめとけ。おい、おまえ。この娘を殺すかどうかは、おまえのいないところでは決めない。それでいいだろう?」
 少し呆れて聞こえる錆兎の言葉に、炭治郎は激高を鎮めた。
「炭治郎です。竈門炭治郎。焼き物職人の炭十郎の息子です。父さんは去年亡くなりましたけど」
「そうか」
「うん、言葉をつづける気がないなら、ちょっと黙ってようか、義勇。いや、おまえが口をきいてくれるのはうれしいけどな。今はちょっと面倒だから」
「わかった」
 なんだか気の抜ける会話だ。ともあれ、このまま意地を張っても始まらない。今は素直に二人の言葉を信じるよりなかった。
「エサあげてきます」
 禰豆子をそっとおろすと、炭治郎は示された藁束を手にふたたび天幕を出た。なんだかどっと疲れた気がする。
 二頭の馬は仲良く並び、大人しく立っていた。炭治郎の手にした藁に気づいたか、長い首を巡らせ前足で雪をかく様に、なんとはなし癒やされる。
「おぉ、食事の時間か。待ちわびたぞ」
「寛三郎じいさん、あんまりはしゃぐと疲れるぞ? 年なんだからおとなしくしてなよ」

 突然聞こえた声に、炭治郎の目が丸く見開かれた。錆兎と義勇は天幕のなかだ。声も二人のものとは似ても似つかない。けれども辺りに人影などなかった。

「喋ったぁぁぁっ!!」
「やかましい! 馬が話したぐらいで叫ぶな!」

 バサリと音を立てて天幕から顔を出した錆兎と、どこかのほほんとして見える馬たちを、アワアワと交互に見やる。
「いやっ、だって、馬だし! 馬が喋るなんて驚くに決まってるじゃないですか!」
「ただの馬と一緒にするな。甚九郎と寛三郎は俺らの師である鱗滝老師ラオシー(先生)から借り受けている。仙人が飼っていた天馬だからな。人語ぐらいお手の物だ」
 フンと鼻を鳴らして錆兎はこともなげに言うが、炭治郎の肩がガクリと落ちたのは当然だろう。そんなこと事前に言っておいてくれよと、少しばかり思いもする。
 仙人? 喋る馬? 天馬ってなに! そんなもの、日々陶磁器を焼いて暮らしてきただけの炭治郎にしてみれば、遠い異国のおとぎ話と変わらない。
 大将軍の馬ならば、そういうものもいることぐらいは、炭治郎とて知っている。馬によってはまさに天駆けることもあるとかないとか。けれども炭治郎が住むこの山や麓の村では、仙人ですら見たことがない。仙境など行ったこともない。炭治郎の世界は、せいぜいが都までだ。都には宗廟も多く存在するし、辺鄙な山とはくらべものにならないぐらい人も多いとはいえ、市井の営みには変わりがなかった。街角にいるという怪しげな道士にすら、炭治郎は出逢ったことがない。
 呆然と立ちすくんだ炭治郎に、寛三郎がまた口を開いた。

「はよ、飯をくれ」
「あ、うん。ごめん」

 仰天する炭治郎になど、馬たちはまるで頓着していない。早く早くと前足で雪をかく寛三郎と、隣で呆れたようにため息をつく甚九郎に、毒気を抜かれた炭治郎は、藁を手に二頭に歩み寄った。
「はい。いっぱい食べろよ」
「おぉ、うまいうまい」
「じいさん、落ち着いて食えってば。また喉につまらせたら困るだろ」
 すまし顔をしている甚九郎も、腹の減り具合は寛三郎と差がなかったんだろう。やさしい孫のように寛三郎に注意してやりながらも、自分もむしゃむしゃと藁をほおばっている。
 そんな二頭の様子に、炭治郎はようやく頬をゆるめた。言葉を話すとはいえ、見た目はただの馬だ。可愛いものである。
 じゃあねと天幕に戻ったときには、炭治郎はもう落ち着きを取り戻していた。が、それも束の間だった。

「戻ったか。話は飯を食いながらにしよう」
「それ、どこから出しましたか!」

 炭治郎に声をかけてきた錆兎が手にしているのは、青銅の鼎だ。義勇が湯を沸かしていたものではない。天幕のなかには、そんなものが入るような大きさの荷はなかったはずである。しかも、見間違いでなければ、錆兎はその重そうな鼎を、腰にぶら下げたひょうたんから取り出した。
 少し大ぶりとはいえ、ひょうたんはひょうたんだ。あんな物が入るわけもない。もっと幼いころに一度だけ見た西遊記演義の舞台で、人を吸い込むひょうたんがあることは知っている。だがあれは作り物だ。金角銀角が持つ宝貝など、実際にはあるわけがない……と、思っていたのだが。

「師からもらった宝貝パオペエからだが? あぁ、人は吸わない。なかに入れたものも溶けないしな。荷物を入れているだけだ。だからこんな天幕も運べる」
「便利だ」
「はぁ……そうですか」
 驚かされることばかりで、炭治郎は、ハハハと乾いた笑い声を立てた。
 人を食う異形の怪物。人語を解する馬。大きさも重さも関係なく出し入れできる、荷袋の如きひょうたん。理解できぬ出来事は、もはや考えるだけ無駄というものだ。
 もうどうにでもしてくれ。遠い目をして笑う炭治郎を見やる義勇の目からは、なんの感情も見いだせなかったが、どことなしキョトンとしているように見えた。