満天の星と恋の光 5

 うっかり昼寝しすぎて――杏寿郎はまんじりともせず義勇を見つめていただけなのだけれども――完成しなかった標本箱を改めて作る日取りを決めていなかったことに、杏寿郎が気づいたのは、義勇の話題で盛り上がる夕飯の最中だった。
 出来上がったのは結局三分の二ほどで、このままでは数が足りない。義勇にはもう一度来てもらわなければ。
 もちろん、残りを杏寿郎がひとりで作ってしまってもいいのだけれど、たぶん義勇は気に病むだろう。それに、逢える機会は一日でも多いほうがいい。

 作業中はお互いあまり会話できないし、今のうちに次の採取の候補地なども相談しておいたほうがいいだろうか。

 思いついてしまえば、食事中だというのにどうにも気もそぞろになってしまう。とはいえ、食事の最中に電話をしに行くなんて行儀の悪いことを、父や母が許すわけもない。急いで食事を済ませなければと、あわてて杏寿郎はご飯をかっ込んだ。
「杏寿郎、お行儀が悪いですよ」
「はいっ、すみません! ごちそうさまでした!」
 いつもなら少なくとも三回はおかわりをする杏寿郎が、一膳きりで箸を置いたのに、父や千寿郎が不思議そうな顔をしている。だが杏寿郎が電話をしてきますと言うと、すぐに父の顔には苦笑が浮かんだ。誰にとも言っていないのに、義勇くんによろしくなと返ってくる辺り、杏寿郎が挙動不審になるのは義勇絡みと思われているらしい。実際そうなのだから、杏寿郎も「はいっ!」と明るく答えた。
 台所に食器を下げ、時計を見れば針は七時を指していた。

 あまり遅くに電話するのは迷惑になる。かといって夕飯どきもよろしくない。

 少しばかり悩んで、八時ごろならばいいだろうかと決めた杏寿郎は、部屋にも戻らず廊下に出ると、じっと電話を睨みつけた。途中で母と千寿郎が食器を片しに出てきたが、顔を見あわせただけでなにも言わなかった。もはや杏寿郎の奇行には慣れっこの体である。

 電話の近くに置かれた時計の針は、まだ七時半。秒針がひと回りするごとに緊張が募っていく。

 トイレに立った父が、身動きもせずに電話と時計を交互に睨みつけている杏寿郎を見てギョッとした顔をしていたけれども、かまっている場合ではない。そんな余裕もなかった。
 前回も緊張しきりだったけれども、やはり義勇に電話するのは、なんだか落ち着かない気分になるのだ。なにしろ、電話する先は錆兎の家である。義勇が出るよりも錆兎の家族が出る確率の方が高い。前回だって従妹の真菰が出たではないか。今度は錆兎のご両親が出るかもしれない。義勇にとっては世話になっている伯父や伯母だ。礼を欠いては一大事である。
 父や母に義勇が気に入られたように、自分もできれば義勇の家の人々には好印象を与えたいと、杏寿郎は腕組みしたままじっと電話を見据え続けた。
 錆兎のご両親なのだし、堅苦しい方達ではないのだろうが、義勇を危険な目に遭わせてしまったうえに無作法な真似などしてしまえば、友達付き合いを見直すべきだと思われてしまうかもしれない。
 杏寿郎は見栄っ張りなタチではないが、今後、義勇の家に招いてもらえる日のためにも、少しでも印象をよくしたいと思ってしまうのは致し方ないだろう。
 
 時計の針が五十分を過ぎたころから、頭のなかで告げるべき文言を何度も確認して、杏寿郎は、八時になったと同時に受話器を手にした。父が見ていたのならきっと、電話するだけでなんでまたそんな決闘にでもおもむくような顔をしているのかと、呆気にとられたことだろう。けれどもそんなことを気にしている余裕など杏寿郎にはなく、父も、真剣そのものな杏寿郎になにがしか悟ったのか、廊下に出てくる気配はない。もしかしたら母に注意でもされたのかもしれないけれども。むしろ、そちらのほうが正解のような気もしなくはない。
 ともあれ、慎重に番号を押して、呼び出し音を聞きながら杏寿郎は大きく深呼吸した。落ち着いて。礼儀正しく。聞き取りやすいように。何度も自分に言い聞かせていると、呼び出し音が途切れた。

『はい、もしもし』
「夜分に申し訳ありません。煉獄杏寿郎と申します。義勇くんはご在宅でしょうか」
 急いた声にならぬように努めて冷静に言えば、受話器の向こうで、あぁ、と明るい声がした。
『なんだ、杏寿郎か。義勇に用か?』
 電話に出たのは錆兎だった。思わず杏寿郎の肩から力が抜ける。
「うむ。自由研究のことでな。そうだ、錆兎。先日は義勇を危険な目に遭わせてしまって、本当にすまなかった。詫びて済む話ではないが、今度また改めて父や母とお宅に伺ってもいいだろうか。ご家族の方にもきちんとお礼とお詫びをしたいのだが」
『まだ気にしてたのか。義勇も杏寿郎の弟も無事だったんだ。大事にならずに済んだんだし、もう気にしなくていいぞ。礼だの詫びだのじゃなく、普通に遊びに来いよ。でないとまた義勇が気に病むぞ?』
 カラリと笑って言ってくれる錆兎は、本当に度量の広い男だ。最後の一言はちょっぴりからかい口調だった。幾ばくかは本心だろうが、杏寿郎に引け目を感じさせないためなのがわかる声だ。
「それは、ちょっと困るな。父や母にも伝えておくことにしよう。はいそうですかで済むとは思えんが」
『まぁ、大人はしょうがないだろうな。でも本当に、あまり気にしないでくれと伝えておいてくれ。こっちも義勇が世話になったんだしな』
 錆兎が苦笑する気配に、杏寿郎もちょっぴり笑った。けれども、緩んだ頬はすぐに、錆兎の言葉にわずかばかり強張った。
『なんか、ご馳走になったうえに昼寝までしてうっかり寝過ごしたんだって? 義勇が迷惑かけてすまなかった。アイツの寝不足、俺らのせいだからさ、杏寿郎にも申しわけないことしたと思ってたんだ』

 一緒に抱きあって昼寝したことも、もう筒抜けなのか。

 なんだか落胆するのと同時に、胸がズキリと痛む。
 寝不足になるほど遅くまで、錆兎は義勇と一緒にいられるのだ。俺らということは、もしかしたら真菰も一緒だったんだろうか。考えるとズキズキと胸が痛んで、息苦しさまで感じる。
「いや……こっちも気にしないでくれ。義勇にも気にするなと言っておいたんだが……帰るときちょっと落ち込んでるようだったけれど、大丈夫そうか?」
『あぁ、まぁ大丈夫だろ。失敗したとは言ってたけど、楽しかったのは本当みたいだぞ。おっと、義勇に用があるんだよな。すまん、俺が長話してる場合じゃないな。ちょっと待っててくれ』
 
 真菰と違って錆兎は保留音に切り替えてしまったから、錆兎が今、義勇とどんな会話を交わしているのか杏寿郎にはわからない。だけど胸が痛む理由は明白だ。

 浅ましく嫉妬している。錆兎に。真菰にも。

 昼間、自分の腕のなかにいた義勇は、今、ふたりと一緒にいる。小さいころから仲がいいのだから、今日の杏寿郎と義勇の距離も、錆兎たちはきっと経験しているのだろう。抱きあって、寄り添いあって眠ることぐらい、きっとあった。
 今は? 今も、あんなふうに抱きあって眠ることはあるんだろうか。気になってしょうがないのに、知りたくない。
 杏寿郎が義勇と友達よりも近い距離で、抱きしめあっていられたのは、ほんの束の間だ。どんなにずっと一緒にいたくても、義勇は錆兎たちの元へ帰ってしまう。そして、杏寿郎と過ごした時間のことを告げるのだ。楽しげに、杏寿郎よりも近く寄り添いあって。
 それは当たり前のことで、落胆するのも、ましてや義勇を責めるのも筋違いだ。わかっているから、杏寿郎は義勇にはこんな狭量な嫉妬を悟られまいと、大きく深呼吸して義勇を待った。

 義勇が一番心を開いているのは、今のところ錆兎なのだろう。それは疑いようがない。いくら以前よりも距離が近くなり、凍りつく手を温めながら話を聞く役目を許されたからといって、杏寿郎はまだまだ錆兎には勝てそうにない。義勇にとって誰よりも近いのは、幼いころから仲のいい従兄弟である錆兎だ。今ではともに暮らしてもいる。
 受話器を持つ杏寿郎の手に知らず力がこもった。流れる保留音はパッヘルベルのカノン。杏寿郎の心のわだかまりとは裏腹に、耳が拾うのは軽やかなメロディーばかりだ。義勇と錆兎の声は聞こえてこない。
 嫉妬するなんてお門違いだ。わかっているけれど嫉妬してしまう未熟さを、杏寿郎は恥じた。

 ゆっくりだ。一歩ずつ前に進めばいい。錆兎は目標だ。いつかは錆兎をも超える度量の広さを持った男になればいい。

 自分に言い聞かせているうちに、保留音のメロディーが途切れた。
『もしもし? 杏寿郎? あのっ、今日は本当にごめん』
 開口一番あわてた様子で謝る声が受話器から聞こえ、杏寿郎は無理にも笑ってみせた。電話なのだから義勇には見えないけれども、気は心だ。どうにか頬を緩ませれば、声にも明るさがにじんでホッとする。
「気にすることはないぞ! 寝不足だったのならしかたがない! それに、錆兎が自分たちのせいだと謝っていた。義勇だけが悪いわけではないのだろう?」
『それは、そうだけど……』
「じゃあ、もうその話はおしまいだ! それよりも、標本箱の残りを作る日を決めていなかっただろう? 次はいつ来られる?」
 気に病んでほしくなくてことさら明るく言うと、義勇は少し黙った後で、明日でもいいかなと聞いてきた。その瞬間に、パッと杏寿郎の顔に明るさが戻る。
 いいなんてものではない。夏休み中だというのに連日義勇に逢えるのだ。杏寿郎に否やなどあるわけがなかった。
「もちろんだ! 明日も是非我が家で昼を食べて行ってくれ!」
『でも、それじゃ悪い』
「そんなことはないぞ! 父や母も君のことが気に入っているのはわかっただろう? きっと喜ぶ!」
『……そうか。じゃあ、あの、明日も同じ時間に。明日は絶対に寝ないからっ』

 それは残念だ。思わず杏寿郎は眉を下げたが、そんなことを言うわけにもいかない。勢い込んで言った義勇は、すっかり寝入ってしまったことを本当に後悔しているようだ。また一緒に昼寝したいなんて言ったら、からかわれていると思ってしまうかもしれない。

「わかった。そうだ、もう少し話していても大丈夫か? 次に石を拾いに行く場所と日取りも、よければ決めてしまおうと思うんだが。作業しているとなかなか相談もできないだろう? 色々準備がいるだろうから、ちょっと間は空くがお盆の辺りではどうだろう」
 次に集める石は川の上流のものだ。源流までさかのぼる必要はないだろうが、それでも下準備は必要だろう。川沿いをずっと歩くわけにもいかないだろうから、予め交通機関やルートを調べておかねばならないし、もしかしたら登山の準備もいるかもしれない。
 山登りとなると、申しわけないが千寿郎には留守番してもらうことになるだろう。今度は義勇とふたりきりだ。
 思い至った途端にワクワクと心が弾みだした杏寿郎だったが、残念ながら膨らんだ期待はすぐさましぼむこととなった。
『すまない、お盆の辺りはお爺ちゃんの家に行くんだ』
 受話器から聞こえた義勇の声は、少し申しわけなさげだ。期待が大きかっただけに、思わず杏寿郎はしゅんと肩を落とした。
「そうか……では、石の採取は別の日取りだな!」
 どうにか笑って言ってみせたけれども、落胆は少々声に出てしまった気がする。情けない。こんな調子では、義勇に頼られる男となれる日はまだまだ先かもしれない。
 落ち込みかけた杏寿郎の心情を、再び浮上させたのも義勇の言葉だった。

『あのっ、石を拾うの、同じ川の上流じゃなくちゃ駄目か? お爺ちゃんちの近くに川が流れてて、けっこう上流のほうなんだ。杏寿郎が嫌じゃなかったら……その、一緒に泊まりに』
「行くっ!!」

 食い気味に叫ぶように答えた杏寿郎の声は、どうやら大きすぎたみたいだ。
 ビックリしたのか義勇も黙り込んでしまったが、居間にいた父たちも何事かと一斉に襖から顔を出した。
「おい、杏寿郎、なんなんだいきなり」
「あ、すまない、義勇! 大きな声を出してしまって申しわけない! あの、本当に俺が一緒に行ってもいいのかっ? もちろん君の誘いなら万難を排して伺うとも!!」
「おい、コラ。話を聞けっ」
「川が違うのは別にかまわない、いや、むしろふたつの川を比べてみても面白いかもしれないぞ! そうなると、祖父殿のお宅の近くの川とその河口、前の海岸に続く川の上流の三か所だなっ!」
 父がなにか言っているが、杏寿郎の耳にはちっとも入ってこなかった。
 だって、義勇と初めて一緒に夜を過ごせるかもしれないのだ。一緒にお泊りなんていったら、夜だけじゃない。朝も、昼も、ずっと一緒にいられる。
 しかも夏休み中のお出かけも増えるのだ。なんて最高な提案なんだろう。断るなんてもったいないこと、できるわけがない。

『……かなり本格的に調べることになるな。杏寿郎はやっぱり真面目で勉強熱心だ』

 義勇の言葉は、ちょっぴり耳に痛い。図らずも感心されてしまったが、正直なところ、研究うんぬんよりも杏寿郎にとって重要なのは義勇と一緒に出掛けられるということなのだから。

『じゃあ、詳しくは明日』
「うむ! 楽しみにしている! おやすみ、義勇!」
『……おやすみ、杏寿郎』

 やわらかな声は、少し微笑んでいるようだった。チンッと音を立てて電話が切れる。ツーツーと電子音が流れ出しても、杏寿郎は、受話器をおろすこともできぬまま喜びに打ち震えた。

「……っ、やったっ!!」
「ぅぐっ!!」

 思わずこぶしを突き上げ杏寿郎がガッツポーズを取った瞬間、手がなにかにぶつかって変な悲鳴が聞こえた。
「父上? なにをなさってるんですか?」
「……おまえなぁ……父を殴っておいて、その言い草はないだろうが!」
「は? あ、今当たったのは父上でしたか! すみませんっ! それより、お盆に義勇の祖父殿のお宅に泊まりに行ってもいいでしょうか!」

 申しわけないとは杏寿郎だって思う。父を殴るなど言語道断だ。思うのだけれども、どうしても顔が笑ってしまってしょうがない。
 満面の笑みで言った杏寿郎に、半目開きの変な顔で父が答えるより早く、母の落ち着いた声で了承の旨が告げられた。
「ご迷惑をおかけしないようにするのですよ?」
「はいっ! あ、母上、明日も義勇が来ます! 義勇の分の昼飯もお願いしてよろしいでしょうか」
 明るく笑う杏寿郎にうなずいた母も、なんだか楽しげだ。父を蚊帳の外にしてしまったが、母は微笑んでいるから、まぁ大丈夫だろう。

「……お赤飯を炊く日が楽しみだこと」
「え? お、おい、瑠火? やっぱりそういうことなのかっ?」

 母と父の会話の意味はよくわからないが、杏寿郎の胸は弾んでいた。
 中学生になって初めての夏休みは、一生忘れられない夏になる予感がする。義勇と過ごす初めての夏。悩みはまだ晴れたわけではないけれど、それでもきっといい夏になるに違いない。