オー、アーオアオと低く鳴くアオバトの声が、高鳴る波音に紛れて聞こえる。絶え間なく届いてくる海水浴客の喧騒や、ときおり入る水難事故への忠告を呼び掛ける放送は、今この空間、この時が、日常と切り離されたものではないのを知らせるのに、なんだかひどく現実感がなかった。
仲良く飛ぶ二羽のアオバトが、岩礁に舞い降りるのが見えた。全身緑の鳥と、緑のなかで羽だけが赤い鳥。番だろうか。きっと雄と雌だ。群れのなかで仲良く寄り添うように海水をついばむ鳥も、それが自然なのだと告げているような気がする。
隣り合って座る義勇と自分は、あのアオバトたちからはどう見えるのだろう。いぶかるようにも、うろたえているようにも見える義勇の顔に、杏寿郎はぼんやりとそんなことを考えた。
義勇といちばん仲良しの友達になりたい。幼いころにたった一度逢ったそのときから、ずっと思ってきた。忘れたことなんてなかった。大好きの気持ちはいつまでも杏寿郎の胸にあって、再会してからはなおいっそう強く、深く、心に刻み込まれている。でも、どうやら自分は友達だけでは足りないらしい。
雄と雌――性別が違えばよかったのだろうか。義勇か自分が女の子なら、キスがしたいと思うことも自然だ。あのアオバトたちのように。
けれどもちらりと浮かんだそんな考えを、杏寿郎はすぐに一蹴した。
このままの自分だから、目の前の義勇のままの義勇だから、惹かれたのだ。義勇は義勇だからこそ、好きになった。毎日、毎日、今この瞬間も、もっと、ずっと、好きになる。
義勇は、友達になってはいけないと思っていたと、言った。友達だからキスはできないとも。後者はともかく、なぜ義勇が己を卑下するようなことを言うのか、杏寿郎にはわからない。少し腹が立ちもする。
苛立ちは、義勇に向けてではなく、自分自身に対してだ。
「話を聞いてくれと言っておいてなんだが、今は義勇の話のほうが重要そうだ」
どうか義勇の耳にやさしく届くといい。思いながら杏寿郎は一度義勇の手を離すと、立ちあがり義勇の後ろに回り込んだ。
不安げな様子で戸惑う視線を向けてくる義勇に微笑みかけ、背中から抱き締める。所在なげに震わせている白い手を、そっと両手で握りこんだ。
「もうひとつ、謝らなければならないな」
「え……?」
振り返ろうとする義勇の肩にトンっと顎先を乗せて、杏寿郎は小さく苦笑した。義勇の手はひどく冷たくなっているけれど、胸に触れる背中は熱い。夏の焼けるような日差しのなか、満ちる潮の香に交じって、かすかに汗の匂いがした。
「話すのがつらいなら話さなくていいなんて、勝手に俺が決めつけてはいけなかった。義勇は、本当は話したかったのだろう? 凍りつきそうなら俺が温めるからと約束したのに、すまなかった。だから、話してくれ」
思い出の本を読み返すことすらできない義勇は、それでも、杏寿郎が感想を告げるのを咎めなかった。静かに、穏やかに、そしてどこかうれしそうに聞いてくれていた。
両親を褒められて、面映ゆそうに笑っていた。姉の話をしたときの眼差しは、遠く眩しいものを見るようだった。
自分が心配そうな顔をしなければ、姉の話を義勇はつづけようとしていたのかもしれない。杏寿郎は、歯噛みする思いで自身の失態を悔いた。家に来たとき、両親のことを過去形で口にしなかった母に、義勇はなにを思ったろう。思い出の本の話を、どんな気持ちで聞いていたのか。思えばそれらはすべて、義勇からのSOSだったのではないだろうか。
思い出すこともつらいのなら、自ら口にしようとなんてしない。はにかむように笑ったり、ましてや思い出を共有するかのように本を貸したりなどしなかったはずだ。
腕のなかの義勇は驚きからか身を固くしている。警戒してないといいのだけれどと、杏寿郎はかすかに思う。義勇に避けられるのは身を切られるようにつらい。だからまだ、義勇を抱える腕に力は込められない。オーアオ、アーオアオと鳴く声と、打ち寄せる波音がひびくなか、耳元に聞こえる義勇の息づかいは苦しげだ。無理やり義勇の心をこじ開けるようではいけない。落ち着けと自分に言い聞かせ、杏寿郎は殊更ゆっくりと言葉をつむいだ。
「義勇、さざれ石と同じなんだと俺は思う」
「……なに?」
「悲しみの話だ」
義勇を襲った絶望の百分の一だって、共感してやることはできないのかもしれない。家族はみんな壮健で、仲睦まじい。大きすぎて飲み込むことのできない悲しさなど、杏寿郎は一度も感じたことはなかった。
それでも、寄り添うことが叶うなら。支える役目を任せてもらえるのなら。全身全霊をかけて、義勇に寄り添い、支えていきたい。
キスできない友達のままだって、義勇がそれを望むならかまわないと思う。こうして腕のなかに抱きしめ温めてやることが叶うなら、それだけできっと自分は満足だ。
「大きな岩のような悲しみも、時の流れに削られて、さざれ石のように小さくやさしい思い出ばかりが残るんじゃないだろうか。そして、電車のなかであのご婦人が言っていたように、今度は幸せな記憶という揺るがない巌に戻っていくんだ。きっとそうだ」
義勇の悲しみはまだ、大きな岩のように心を占めているのだろう。人の一生は短くて、千代に八千代にとはいかぬものだから、きっと絶望の岩がすべて小さな小石のようになるのは難しい。義勇の絶望はまだ生々しく、重く、義勇の心を埋めつくしているのに違いない。
それでも、いつかと杏寿郎は願う。義勇の悲しみがやさしい思い出に変わり、幸せな記憶に笑えるまで、支えてゆくのだと誓う。義勇が拒んでも、許されるまであきらめない。ほかの誰にも、その役目を渡したくはなかった。
ふと、杏寿郎の胸に重みがかかった。力を抜いた義勇が持たれかかってきたのを知る。強く吹く風がふたりの髪をなぶって、杏寿郎の頬が義勇の髪でくすぐられた。
「錆兎も、真菰も、おじさんたちも……みんな、つらいなら話さなくていいって」
「うん」
義勇の声は震えていた。絞り出すような声だった。
初めて錆兎と話した日のことが、杏寿郎の脳裏に思い出された。同じ悲しみに溺れると、錆兎は言っていた。それでもきっと溺れる者の必死さですがれば、錆兎たちも義勇の話を聞きつづけていただろう。けれど義勇はそうしなかったのに違いない。ひとりで悲しみの大岩を抱え込んで、ひとり沈むことを選んだのだろう。共に溺れてしまわぬように。
なんて。なんて、やさしい人だろう。義勇はこんなにもやさしくて、やさしすぎて、杏寿郎には悲しい。
もっと自分のことだけ考えたっていいのに。静かに涙を流しながら、ごめんなさいと呟きつづけていたという当時の義勇を、抱きしめに行きたい。俺がいる。温めてやるからと、悲しみが削り取られていくまで一緒にその岩を抱えるからと、抱きしめたい。どんなに願っても時は戻らず、そんなことは不可能だけれど。
でも、今、こうして抱きしめることを許された。だから杏寿郎は、義勇を抱える腕に力を込めた。ギュッと強く震える手を握る。温もりよ移れ、義勇を温めろと念じながら。
「思い出すと、苦しくて……でも、思い出さなきゃ、父さんや母さんが、姉さんが、俺のなかから消えていくような気がして……誰かに、話したかった」
「話してくれ。いくらでも」
義勇の声は途切れ途切れだ。ささやきよりもさらに小さいその声は、けれども、大きな潮騒にかき消されることなく杏寿郎の耳に届く。
聞いて? 聞くよ。知って? 教えてくれ。声にならないやり取りを、震える手と、包み込む手で交わしあう。分ちあえることは、苦しくとも幸せだ。
喜びだけでなく、悲しみも、苦しみも、全部、義勇となら分ちあいたいのだ。ほんの些細な思い出も、全部、一緒に抱きしめたい。義勇をもっと知りたい。自分のことも、もっと義勇に知ってほしい。
汗と潮風にべたつく肌。不快感はなかった。義勇が流すものなら、汗も、涙も、杏寿郎が厭うことはない。自分がぬぐってやれるならなおのこと。
「俺も、なんども姉さんに、読んでってねだった」
「『パール街の少年たち』か。義勇が貸してくれてうれしかったぞ。義勇と同じ本の話ができる」
「玉子焼き……母さんのも、しょっぱいんだ」
「なら今度から弁当の玉子焼きは、いつも半分こしよう」
「帰ってきて、靴を脱ぎ散らかすと、母さんや姉さんに叱られて……父さんが、こっそり『ついやっちゃうよなぁ』って、笑って、撫でてくれて」
「俺も小さいころにはよく叱られた。うちは父上も叱られることがあるぞ」
ヒクッと、小さくしゃくり上げる声がした。義勇の手はまだ冷たい。
「きょう、じゅ、ろ」
「うん」
「きょうじゅ、ろう」
「うん、義勇」
ヒクリ、ヒクリと、義勇は小さくしゃくり上げる。杏寿郎の名を呼びながら、義勇が思い浮かべる面影はきっと、やさしい人たちなのだろう。義勇をやさしく誠実な人に育てた、今はもういない人たち。杏寿郎にはもはや逢うことが叶わない、彼岸にいるその人たちを、杏寿郎も思う。そして誓う。顔も知らぬやさしい人たちへ、大好きな義勇へ。
「義勇が許してくれるなら、俺はずっと義勇といる。ずっと、こうやって抱きしめて、温めるから。いくらでも話を聞くから」
コクン、コクンと、義勇はうなずく。小刻みに震える体を杏寿郎にすっかり預けて、義勇は、ポロポロと涙を零していた。頬を寄せれば、杏寿郎の頬を義勇の涙が濡らす。
杏寿郎の手は、義勇の手を温めるのでふさがっている。涙を拭ってやりたくても離すわけにはいかない。だからそっと唇を押し当てた。舌先で舐めとった涙は少し塩辛い。涙だけでなく潮風のせいでもあるかもしれない。
この行為もキスだろうか。
気づいて一瞬あわてたけれども、義勇の体からは力が抜けたままだ。逃げ出すこともなく、杏寿郎に身をゆだねたままでいる。
「いっぱい、杏寿郎の、話、した。やさしかったんだって。また逢えたらいいなって。姉さんも、逢えたらいいねって、笑ってくれた」
「俺と同じだな。俺もいっぱい義勇の話をしたぞ。今もそうだ。だから母上も父上も、千寿郎だって、義勇のことが大好きになってくれた」
許されたのならと、話す合間に杏寿郎は義勇の涙に舌先で触れる。そっと、やさしく。
くすぐったいと笑いだしてくれたらいいのに。涙が止まったら、笑ってくれたらいい。キスはしないと言ったのにと、ふてくされた顔をされたってかまわない。きっとそんな顔も義勇はかわいい。
「もう……姉さんたちのこと、話したらいけないって、思ってた……みんなも、悲しませるから、駄目だって。心配、させたら、駄目だって……」
「俺なら大丈夫だ。聞かせてくれ。話すのがつらいなら抱きしめるし、ちゃんと温めてやる。だから、いっぱい話していいんだ。俺は、溺れない。水難救助は後ろから抱きかかえてやるといいんだろう? 調べてみたのだ。な? こうしていれば大丈夫だ、義勇」
ポツリ、ポツリと、義勇の言葉はつづく。うん、とうなずいて、泣きじゃくる声は稚い。冷えた手は、少しずつ温もりを取り戻してきていた。
どれぐらいそうしていただろう。頬に触れた舌先に、義勇が小さく肩をすくめた。
「杏寿郎、くすぐったい」
まだ涙の余韻に言葉を詰まらせながらも、義勇の声はわずかに明るい。ほんの少し笑みをにじませた声だ。
振り返った義勇と、目があった。
涙にぬれた青い瞳がゆらゆら揺れている。吸い込まれていきそうな海の色をした瞳は限りなく澄んで、杏寿郎を映していた。
気にならなかった顔の近さに、今さらのように杏寿郎は息を飲む。義勇も同様なのだろう。パチリとまばたいたら、最後の涙の粒がポロリと頬を伝った。目じりの赤さは泣いていたからばかりではないようだ。コクンと、小さな音は義勇の喉から。杏寿郎も思わず喉を鳴らす。
この距離は、友達のものだろうか。大好きの距離は、どこまでが友達と言えるだろう。
寄り添う番の鳥と同じ距離まで、近づいてもかまわないのなら、もっと、ずっと、近くまで。こんな至近距離でさえ、まだ遠い。もっともっと近くへと望んでしまう心は、どこからくるのか。杏寿郎には、まだわからない。
つかまえられそうでつかまえられない自分の心は、もどかしくてモヤモヤとするのに、もう不快ではなかった。
だって義勇は許してくれている。この距離を。抱きしめることを。悲しみをともに抱えることを。杏寿郎にだけ、義勇は許してくれた。ゆだねてくれた。
見つめあったふたりに言葉はない。黙ったまま、互いの瞳だけをじっと見つめていた。
いつまでもこのままでと、願った刹那。
「おいっ! 子どもが流されてるぞ!!」
悲鳴に似た怒鳴り声に、弾かれたように杏寿郎は海へと視線を投げた。
波間に浮かんで、沈んで、垣間見える金色と赤の髪。
「千寿郎――ッ!!」
ほとばしり出た叫び声は、なぜだか遠く、遠く、こだまのようにひびいて、杏寿郎には聞こえた。