無惨が初めて彼を見かけたのは、ほんの気まぐれで視察に行った子会社の倉庫でだった。無惨が経営する商社は多くの子会社を抱えているが、無惨自身がそれらを視察するなどめったにない。だというのに、その日にかぎってアポなしで視察をなんて考えたのは、気まぐれでしかなかったからこそ、運命と呼ぶべきものだったと無惨は思っている。
ダラダラとやる気なさげに作業しているアルバイト学生たちのなかで、ひとり黙々と作業していた彼は、まさに泥中の蓮というべき存在だった。センスなどかけらもないお仕着せの作業服を着ていても、彼の美貌はまったく損なわれておらず、無惨の目には清楚な輝きをまとって見えた。
最初は、生きた人形のごとき美貌にこそ、目をとめた。無惨は美しいものが好きだ。性別云々は問わない。だが所詮は暇つぶし。ただの遊び相手だ。成り行き次第で愛ではしても、飽きるのも早い。
無惨の審美眼のハードルは高く、お眼鏡にかなうほどの美貌には、そうそう出逢えない。だというのに、まさかこんな冴えない場所で滅多にない逸品に出逢うとは。常ならぬ興奮を覚えた無惨だったが、それでも、声をかけたのはやはり気まぐれとしか言いようがない。
味見程度に楽しんで、気に入ればしばらくそばに置いてみてもいい。それぐらいの軽い気持ちで声をかけたにすぎなかったのだ。
当然、尊大に彼を呼びとめ食事の供をしろと命じたそのとき、無惨は断られるなど考えもしなかった。なにせ無惨は、彼からすれば雲上人と言っていい。一介のアルバイトでしかない彼が、雇用主のそのまた上の存在である自分の命令を断るなど、無惨にとっては愚の骨頂としか言いようがない。おそらく無惨でなくとも、その場にいる誰もが思ってもみなかっただろう。
命じられた彼のほかには。
誰に対しても傲慢な態度を隠さぬ無惨に、反感を抱く者は少なからずいる。だが、それを露骨に示す者は皆無だ。
彼は稀有な例外だった。整った眉をわずかに寄せて無惨を見やった眼差しには、感情の色はまるでなく、冷ややかですらある。
「俺がなにをしているのか見えないのか。邪魔をするな」
言うなり台車を押して去って行こうとした彼は、子会社の重役が真っ青になって怒鳴っても、まったく動じた様子がなかった。
「なんて失礼な口をきいてるんだ! 鬼舞辻社長が直々にお誘いくださったんだぞ、そんなことをしている場合じゃないだろう!」
「そんなことと言われても困る。俺は商品の仕分け作業で雇われました。業務と関係のない私語は厳禁とも言われてます。服務規定違反で首にされるわけにはいかないので、失礼」
淡々とした声だった。恐れ入った様子も、反発心も見られない。決められたことだから守っているだけと言わんばかりのその様に、無惨の不快感が煽られたのは言うまでもない。
自分に向かって不遜な口をきく者など、無惨はついぞ出逢ったことがない。無惨の意のままにならぬものなど、腹立たしい太陽以外にはなにもなかった。
日光アレルギーだけは、どうしても克服できないのだ。医療技術は日々進歩しているというのに、無惨の体はいまだ忌々しい日光に打ち勝つことができずにいる。
だが、それだけだ。人は誰も無惨に膝を屈し、無惨の顔色をうかがう。それが当然だった。
「ならば、私が直接貴様を雇うことにしよう。給与はここの三倍出してやる」
面白いと興をそそられる以上に、この世間知らずの愚か者を屈服させたいという苛立ちのほうが勝る出逢いだった。
遊びたい盛りの大学生だ。金はいくらでもほしいだろう。多少はくだらないプライドに意地を張るかもしれないが、すぐに媚を含んだ目をするようになるに違いない。無惨はそう思ったし、それを疑いもしなかった。
けれども、初めてはっきりと動いた彼の表情筋は、法外な金額に心揺らぐ様子など微塵もなく、それどころか明らかな不快感を無惨に伝えてきた。そして、無惨はそのときになって初めて、彼の目を真っ向から見た。
まっすぐ睨みつけてきた彼の瞳の色は、無惨がどれだけ望んでも謳歌することが叶わぬ、晴れた空の色をしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「義勇」
呼びかけに振り向いた彼の目が、無惨を映して少しばかりすがめられた。不快。面倒くさい。そんな言葉が浮かんで見える眼差しだ。
出逢った日からもう五年。どうにか愚かで生意気な大学生をひざまずかせようと、手を変え品を変え篭絡手段を講じてきた無惨だが、気がつけば無惨こそが義勇にひざまずいている。愛を乞うなど認めたくはないが、そうとしか言いようがない。
身寄りは姉ひとりきりという苦学生であった義勇も、今ではもう社会人だ。仕事などする必要はない、自分がなにもかも面倒を見てやろうと再三無惨が言ったにもかかわらず、教職などというくだらない職業に就いている。おかげで義勇と過ごせる時間は、以前に比べてかなり減った。まったくもって腹立たしいかぎりだ。
ふぅっと小さくため息をつく様には、かわいげなどまるでない。それでも無惨が激昂せずにいるのは、義勇が素直に無惨の手招きに応え、ソファに腰を下ろすことを知っているからだ。
今夜もまた、義勇は無惨が思ったとおり、いかにも不承不承といった体でもって無惨の手招きに応じる。風呂上がりの清潔な肌を包むのは、無惨が吟味に吟味を重ねてえらんだシルクのパジャマだ。
真白い真珠のような布地がよく似合うと、ソファに腰かける義勇を見やり、無惨は満足げに微笑んだ。
たまには趣向を変えて無惨の瞳と同じ深紅をえらんでもよかったが、やはり白で正解だ。義勇を染める赤は、いかに高級だろうと所詮は布切れでしかないものなぞよりも、愉悦に紅潮する義勇本人の肌身のほうがふさわしい。
なめらかで清廉な白い肌が、自分の手によって花開くように赤く染まる様は、いつものことながら胸がすく心地がする。今はまだ健康的な白さを保っている義勇の肌は、今夜もきっと無惨によって、鮮やかに咲き誇る花の色に染まるのだ。それを思い描くだけで、無惨の背筋に言いしれぬ愉悦が走る。
征服欲に似た歓喜を押し留め、無惨は投げ出された義勇の足の間にひざまずいた。いっそ恭しいほどの仕草で義勇の足を手にして、無惨は薄く微笑む。至高の宝珠かのごとくに、そっと掲げ持った義勇の足は、白く骨ばっている。義勇がやってくるたびに無惨が手入れするからばかりでもなく、つま先はきれいに整えられていた。その理由を思うと、無惨の顔にはどうしたって笑みが浮かぶ。
出逢ったころには、こんなふうに触れられる日がくるなど、義勇は露ほども考えたことがないはずだ。それどころか、決して踏み込ませまいと線を引き、無惨が己に近づくことすら忌避していた。
けれども今の義勇は、無惨に触れられることも、与えられる愉悦も、拒むことはない。そんな義勇の変化を思えば、笑みのひとつもこぼれるというものだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
何度誘おうと首を縦に振らなかった義勇が、ようやく無惨の誘いに応えたのは、出逢ってから一年もしてからだ。
じかに雇うとの言は一語のもとに却下された。生真面目すぎる義勇は、給与の増額にも頑として首を振らない。所詮は借金でしかない奨学金は頼りたくないと、こまねずみのように働いているくせに、施しを受ける謂れはないなどと言って贈り物さえ受けとりはしなかった。
そんな相手は当然のごとく初めてで、無惨が躍起になるのは早かった。
旅行もブランド品も、車やマンションだって、義勇の関心を引くことはできず、金銭などもってのほか。食事の誘いにすら了承してはもらえぬまま、それでも無惨は義勇のもとを何度も訪れた。
なぜこんなにも必死になっているのか。不可解極まりない執着を持て余しながら、深草少将の百夜通いよろしく義勇詣でを繰り返した無惨に、呆れた顔で義勇がとうとう口にした了承の言葉はといえば、やはり無惨の理解の範疇を超えていた。
「俺の行きつけの店で、割り勘なら行ってもいい」
そうしてクスリと小さく笑ったどこか幼いその顔を、無惨は、今も忘れられずにいる。無惨が初めて目にした義勇の笑みだった。
運転手付きのリムジンに思い切り眉をひそめた義勇が、無惨に乗れと言ってきたのは、だいぶ使い込まれた自転車だ。無惨の眉根が義勇以上にきつく寄せられたのは言うまでもない。
無惨の美意識からは外れるが、バイクならばまだ我慢もできる。とくに興味もない代物とはいえ、見栄えは悪くない。少し想像してみても、風を切ってバイクを走らせる義勇は様になりそうだ。原付きでもベスパならまだギリギリ譲歩してやってもいい。ローマの休日を気取るのも悪くないと思えたかもしれない。
だが、目の前で義勇がまたがっているのは、どう見ても世間で言うところのママチャリだ。しかも、かなり年季がいったオンボロときている。
ふざけるなと不快感を隠さず吐き捨てた無惨に、駐車場なんてないし自転車で帰らなければ明日俺が困ると義勇も譲らず、結局折れたのは無惨だった。
自転車の二人乗りなど無惨にとっては人生初の経験で、一生経験しなくてもよかったものをと何度も舌打ちしたのは、最初のうちだけ。
「つかまってろよ」
そう言ってペダルをこぎ出した義勇の言葉に、素直に従うのは業腹だった。デニムにパーカーの義勇はともかく、無惨のオーダーメイドのスーツは、古びてところどころ錆の浮いたママチャリにはあまりにも不似合いすぎる。リムジンの居住性とは雲泥の差な荷台の乗り心地は、思ったとおり最悪で、なんでこんなものに私が乗らねばならないのかと、腹立ちばかりが掻き立てられた。
けれども、義勇の固くしまった腰を公然とつかめるのは、悪くない。義勇の真意はまったく読めないが、一度きりならこんな道行きも許してやろう。そう思った。
日はすでに暮れ、空には満月が白く輝いていた。頬をなぶる風はまだ生温く、夏の余韻が漂う初秋のことだった。
金木製の香りがする通りを、義勇の自転車は進む。周囲はありふれた住宅地で、ムードなどかけらもない。無惨の属する上流階級の日常からすれば、あまりにも取るに足りず、陳腐で凡庸極まりない光景だ。けれども、低俗の一語で切り捨ててもいいような風景のなかをゆく言葉もない道行きは、無惨の苛立ちをゆっくりと溶かしていった。
家々の窓から漏れる明かり。時折聞こえてくる子供の笑い声。どこかで犬が吠えた。風に乗って香る金木犀。白い月。古い自転車は義勇がブレーキをかけるたびに、不快な金属音を立てた。掴みしめた義勇の腰は無惨が想像したよりも細く、けれども頼りなさなど微塵も感じさせない。
オンボロ自転車の荷台はとんでもない乗り心地で、快適さとはほど遠く、けれどもし義勇が望むならまた乗ってやってもいい、そんなことを思いもした。もうしばらくは手に伝わる義勇の温もりと、金木犀の香りに混じってかすかに鼻先に届く義勇の匂いを、堪能するのも悪くない。いや、むしろもう少し。もう少しこのままと、わずかに願いもした。
だが、無惨のそんな思惑など知ったことではないと言わんばかりに、無情にも自転車はキィィッと嫌な音を立てて止まった。
行き着いた店は、これまた無惨が人生で一度として足を踏み入れたことなどない、いわゆる大衆食堂だ。染みのついた暖簾とアルミサッシの引き戸は、義勇の自転車以上に年季が入って見える。
無惨はまたぞろ頭をもたげた不快感に、知らず眉をひそめた。
「フレンチも料亭も断っておいて、こんな小汚い店ならいいのか、貴様は」
「体育会系の学生の食欲をなめるなよ? そんなもので腹がふくれるか」
苛立ちのままに吐き捨てても、義勇はこたえた様子など一向にない。いっそ小馬鹿にしていると言わんばかりな言葉と眼差しを無惨によこすなり、さっさとひとり引き戸を開けて店へと足を踏み入れる始末だ。
こんな店で食事などできるか舌が腐ると罵倒し、迎えを呼ぶのはたやすいが、それではなんの意味もない。そんなことをすれば、おそらく義勇は二度と無惨の誘いに応えることはないだろう。憤懣やるかたなくともついて行くよりなく、ギリギリと眦をつり上げつつ、無惨も店に入った。
行きつけというのは事実なのだろう。注文を聞きにきた垢抜けぬ年増女は、今日はまたずいぶんとオシャレなお連れさんだねぇ冨岡くん、などと言って笑っていた。
「そういえば貴様は水泳部だったな」
壁の油汚れやらテーブルに残る輪染みが気になって、義勇が一緒でなければ一秒たりといるのはごめんな店だった。口を開くのも嫌なぐらいだったが、千載一遇のチャンスを無言のままにふいにするわけにもいかない。
会話のきっかけとしては特別ウィットに富んだものではなかったが、それでも義勇は、常のように無視するでもなく、こくりとうなずいた。
「泳ぐのは好きだ。水のなかはなんとなく安心する」
穏やかな声だった。倉庫で立ち働いているときの、どこかキリキリと張りつめた風情は消え失せていて、リラックスした空気をまとった義勇は、怜悧な目元すら和らいで見える。
あぁ、こいつの瞳は海にも似ているな。
ふと思ったそれは、納得とともに無惨の胸のうちに収まった。
晴れた空の青。きらめく海の青。無惨がどんなに望んでも手に入れられぬ、忌々しい太陽とともにあるその青が、義勇の端正な顔で静かに輝いている。
溺れそうだ。不意にそんな言葉が浮かんだ。それもまたいいかもしれない。この海にならば、この空にならば、囚われ生きてもいい。
義勇の青く澄んだ瞳を見つめ、無惨はなぜだか、そう思った。
無惨の人生に登場する予定などなかったはずのアジフライ定食とやらは、意外なことに、それなりに美味であったように思う。口数の少ない義勇は、ほとんど無惨の言葉を聞くばかりであったが、曲がりなりにも会話する気はあるようで、問えば一言二言であっても答えが返ってくる。出逢いからすれば格段の進歩だ。
このチャンスは逃せない。できることなら今しばらく、義勇とともに過ごしたい。できれば朝まで。どう切り出せば義勇はうなずくだろう。考えてみても、自分とは隔絶した価値観の義勇を言いくるめるうまい手立ては見つからず、店を出ても無惨は黙り込んだままでいた。
義勇も無言のまま、無惨に視線をやるでもなく自転車のスタンドを外しまたがっている。私の家まで送れと命じれば、義勇は従うだろうか。だが義勇は、常日頃から無惨が電話一本で車を呼びつけるのを目にしている。なにも言わずにいれば、このまま「それじゃあ」と無惨をひとり残して去るぐらいはしそうだ。
言葉をかけあぐねていると、自転車にまたがったまま義勇が振り向いた。
「乗らないのか?」
小首をかしげた義勇はいつもの無表情だが、どこか幼く見えた。キョトンとしている。無惨とここで別れるなど、露と思っていない。そんな口調と瞳だった。
なぜ今日にかぎって義勇が、自分の誘いにうなずいたのか。無惨が義勇に問えたのは、義勇の住む質素なアパートに転がり込んでからだ。
「おまえはしつこいから。いい加減、根負けした」
言葉はまったくかわいげがないが、クスリと笑った義勇の顔はほのかに艶めき、青い瞳はまっすぐに無惨を見つめていた。揺らめく瞳は少し潤んで、ゆっくりとまばたきした睫毛の先が小さく震えている。
アスリートは体毛を処理する者が多いと聞くが、義勇もそれに倣っていることを無惨が知ったのは、その夜のことだった。
懸命に性急さを堪えながら暴いた義勇のしなやかな肌身は、どこまでも白く、黒々とした茂みとのコントラストに息を飲んだ。
淡く、赤く、染まっていく白い肌。ギシギシと軋む安物のベッド。キュッと丸められたつま先が、やけに目に焼きついた、初秋の夜。薄いカーテンの隙間から、月が白く輝いていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「なんでつま先なんか舐めたがるんだか……」
ふてくされたような声音に、無惨はうっそりと笑う。嫌がるそぶりをするくせに、義勇のつま先はいつでも整えられている。無惨が初めて唇で触れた、あの夜から、ずっと。
もう泳ぐことなどめったにないのに、義勇は体毛だって今も処理している。その理由もまた、つま先の手入れと同様なのだろう。まったくもって優越感をくすぐるのがうまい。しかも、おそらくは無意識にやっているのだから、かわいいものだ。
ヒギンズ教授を気取るつもりはないが、義勇を磨き上げるのは、無惨にとっては心躍るものだった。物慣れぬ義勇に少しずつ上流階級の世界をしみ込ませていくのは、たやすかったとは到底言いがたい。それでも最近では、義勇の価値観と無惨の価値観の境界線は、ゆるやかに馴染みだしている。
同居はまだ了承してもらえずにいるが、おそらくはそれも時間の問題……とは、楽観が過ぎるだろうか。
まぁいい。かわいげなく不満を露わにしようとも、義勇はここにいる。
一生手放す気などないのだ。時間はまだある。
喉の奥で忍び笑う無惨の顔を、義勇の足が押しやった。
「その笑顔、ムカつく」
「……足癖が悪いぞ」
「うるさ……ひゃんっ!」
ぺろりと足の裏を舐めてやれば、なんとも愛らしい声で小さく叫んで、義勇は思い切り眉を寄せた。
青い瞳が潤んでいる。凪いだ波間のように揺れる青。
あぁ、溺れる。溺れている。いっそ、息絶えるまで、この瞳の青に飲まれてしまおうか。
熱を帯びだした青に見据えられ、無惨は、義勇の白い肌を己の瞳と同じ色に染め上げるべく、義勇の体を抱きあげた。するりと首に回された腕に、満足げに笑いながら。