午後7時のルイスリンプ 1

 いつもの店のいつもの席に座り、ノートパソコンの画面を見つめたまま、義勇は深いため息をついた。
 愁いを帯びた横顔は、通りから歩行者が見ていたのなら、きっと息を飲んだだろう。もしもそれが少女であれば、黄色い声ぐらい上げたかもしれない。かすかに寄せられた眉。ため息を吐き出した唇はうっすらと開かれている。いくぶん伏せた目元は長いまつ毛が影を作り、いかにも悩ましげだ。
 当の本人は自分の容姿には無頓着と言っていいし、やたらと注目されるのも好かない。だが、美貌の青年であるのに違いはなく、そんな義勇が色香すら感じられるほどの憂い顔など晒せば、どうしたって衆目を集めてしまう。
 幸いというべきか、義勇の専用席ともなっているこの席は、並べられた観葉植物の鉢植えが壁代わりになっていて、ほかの客の視線をさえぎってくれる。レジ前からは見える席だが、常連はすでに義勇の習性を飲みこんでいるから、一々視線を向ける者は滅多にいない。大きな窓に下げられたブラインドも、スラットを開いてはいるけれども十分目隠しになっている。

 義勇がこの店を訪れだした当初、この窓にブラインドはかかっていなかった。イートインスペースの座席はすべて窓際にあるのだが、ブラインドを設置してあるのはこの席だけだ。ほかの席にあるロールカーテンでは完全に陽射しが遮られる代わりに、表を見るともなしに眺めるなんてこともできない。適度に視線をさえぎりつつ、けれども息抜きに外をぼんやりと眺めることもできる。そんな席は、この奥まった座席だけだった。
 どうしてこんなことになったのかは、実に単純明快だ。義勇が要望したわけではなかったが、通りから見られるのが難点だと思っていたのを、店側に見抜かれたらしい。義勇がこの店に通い出して三ヶ月ほどした夏のある日、ナチュラルウッドのブラインドはいきなりかかっていた。
 当時は特に気にしていなかったが、通りからの視線が気になる義勇のためであるのは、疑いようがない。
 義勇が人目を気にせず執筆に集中したり、こんなふうに懊悩していられるのは、店側の善意――というよりも、是が非でもこの席に義勇を引き留めたい約一名による、涙ぐましい努力の結果である。
 見られたところで、常連客の多いこの店ではさして問題はないのだけれど、落ち込んでいる姿を晒すのは勘弁願いたいところだ。鉢植えやブラインドを設置してくれた相手に感謝すべきだろうと、義勇も思う。
 しかし、煩悶の原因もまた、紛うかたなくその相手なのだ。

 開かれたワードに綴られた文章は、先ほどから増えては減りを繰り返している。いくら書いても納得がいかず、少し書いては削除しての連続で、どうにも進む気配がない。スランプという言葉が脳裏に浮かぶが、この状態を言い表すのに用いるのはおこがましすぎるだろうと、義勇は肩を落とした。
 文章が浮かばないわけではない。ただ義勇や編集部が望むような展開には、どうしてもなってくれないだけで、書くこと自体につまづいているわけではなかった。
 もしも依頼が異なれば、かつてないほどの執筆スピードで、作品を量産できるのではないだろうか。そう感じるくらいには、ある特定の内容に特化すれば、いくらでも書ける自信が義勇にはある。多分、いや、絶対に褒められたことではないが。

 我ながら重症だ。

 思いつつ、義勇は酷使した目を少しでも癒すべく、眉間を揉んだ。無意識にまたため息がこぼれる。
 冨岡義勇という男のプロフィールから、職業・作家という文言は外せないだろう。ジャンルは主に恋愛小説。自身の身分を保証する団体を持たぬ、先の見えない自由業である。世間一般的に通りのいい肩書としては、大学生。誰もが知っている有名な一流大学ではないが、それなりに名の知れた学校だから、アンケートなどに答えねばならないときには学生で通している。
 だが、それも期間限定だ。留年する気はないし、院に進むつもりもない。この春に大学四年生になった義勇が、学生を名乗れるのは今年度限りである。卒業後は作家一本で暮らしていくことになる。
 幸いなことに、義勇の著作はそれなりの評価を得てはいる。だが、それだって書けていればこそだ。書けない状態がこのまま続けば、執筆依頼もこなくなるかもしれない。まかり間違えば、いつの間にやら根無し草なんてことにもなりかねないと、義勇は知らず背を震わせた。
 そうならないためにも、依頼は確実にこなさなければならない。書けませんなど言おうものなら、ベストセラーと呼べる作品をまだ持たない義勇など、昨今の不況の風吹く出版業界から、早晩見向きもされなくなること必至である。
 多少見栄を張っていいのなら、売れっ子とまではいかないが固定読者はそこそこいるし、コンスタントに新作を発行できるぐらいには人気もあると、義勇自身も思ってはいる。
 とはいえ、あくまでもそこそこだ。顔出しを心底嫌がる義勇は、宣伝活動に乗り気ではない。インタビューでも写真はかたくなに拒んでいるし、著者近影すら断り続けている。去年から付き合いのある出版社の担当編集者からは、写真を載せれば顔で売れるだろうなどと、褒めているんだか貶しているんだかわからぬことをネチネチと言われたりするが、嫌なものは嫌だ。
 早世した両親の遺産のおかげで食うに困ることはないから、よしんば仕事を干されたところで、生きてはいける。しかし小説を書くことは、義勇にとってはすでに生き甲斐なのだ。また、卒業後に曲がりなりにも社会人を名乗るためにも、小説家というのは、決して失うわけにはいかない肩書であった。
 後者について理由を問われれば、無職というのはかわいい恋人の家族や、幼馴染で親友な夫婦の手前、さすがに気まずいという、幾分情けない心情に尽きるのだが。

 あぁ、そろそろ桜も終わりだな。

 淡いピンクの花弁をハラハラ散らしている街路樹をブラインドの隙間から眺め、すっかり手を止めた義勇は、幾度目かのため息を漏らした。

 義勇に生まれて初めて恋人と呼べる相手ができたのは、去年のクリスマスイブだった。
 決してモテなかったからじゃない。中学から大学まで、学生時代を振り返れば、告白されたことは人並み以上にある。もっとも、それらはほぼすべて義勇の性的指向から外れる女性からなので、義勇にとっては一切無意味ではあったけれど。

 義勇はゲイだ。同性にしか恋愛感情も肉欲も向かうことはない。恋愛感情については、生まれてこのかた、たったふたりにしか抱いたことがないけれど、肉欲に関しては数えきれないほどの相手と経験がある。相手に困ったことは一度もない。義勇がハッテン場に顔を出せば、とたんに男たちは色めきだつのが常だった。義勇はそんな男たちのなかから、一晩限りの性欲処理として条件にあう相手をえらぶだけで良かった。

 あくまでも過去形だ。今の義勇は、ハッテン場には一切顔を出していない。

 義勇にとってセックスとは、浅ましい劣情や報われない恋心が生みだす醜い嫉妬を晴らすための、溝浚いでしかなかった。だから、今の義勇にはそれをする理由がない。
 いや、厳密に言えば、ないというのは語弊がある。

 観葉植物の隙間から、義勇はちらりと店内に視線を走らせた。店内に看板息子である炭治郎の姿は見えない。代わりに妹の禰豆子や弟の竹雄が、パンの補充やら会計やらに忙しなく動き回っている。
 高校二年生となった炭治郎は、今年度の文化祭実行委員にえらばれてしまったとかで、四月になってからやたらと忙しそうだ。
 炭治郎の通う学校は中高一貫で、文化祭や体育祭は中高合同で開催される。バザーやフリーマーケットなども大々的に行われるせいか、近隣の主婦までもが掘り出し物目当てに詰めかける、一般にも人気の催しだ。
 文化祭自体は十月で、まだ半年も間がある。それなのに四月の今から忙しいとはなんとも気の早いことだが、この時期から準備を始めないと到底間に合わないのは、義勇も知っている。なんともなれば、金土と二日連続で開催した文化祭の翌日である日曜日に体育祭が行われるという、過酷としか言いようのないスケジュールなのだ。
 しかも、文化祭には出し物の人気投票があり、上位グループには学校側からご褒美が出る。一位の賞金、なんと学食の食券五万円分。そりゃあ日頃から腹を空かせまくった中高生は、張り切るに決まっている。だからどのクラスも部活も、頭をひねりまくり知恵を絞り、大学の学祭もかくやと言うお祭り騒ぎになるのだ。
 そうなれば来場者の数も並大抵のものではなく、安全面への考慮もしなければならないし、各種届け出もせねばならず、その下調べだけでも時間がいる。おまけに同時進行で体育祭の準備もしなければならない。体育祭のほうにも同様に一位のクラスには賞金が出るから、そちらもまったく手が抜けない。ようは鼻先に人参をぶら下げられた馬である。ひたすら走るよりほかない状況だ。
 ともあれ、そんな文化祭であるから、実行委員ともなれば多忙を極めることこの上なく、へたばり具合は年末進行の編集者とタメを張れるほどである。しかも半年もつづくデスマーチだ。若さと夏休みをはさむ分、生徒たちのほうが少しはマシなのかもしれないが。
 義勇がなぜ炭治郎の学校の文化祭事情に詳しいのかと言えば、話は簡単だ。炭治郎が通う学校は、義勇の母校なのだ。
 中学から六年間通った学校は、義勇が卒業した次の年度から制服が替わり、炭治郎の制服姿を見ても特に郷愁を誘われることはない。だが、文化祭の話はやはり懐かしい。頑張りますから、よかったら来てくださいねと笑った炭治郎は、かわいかった。まさか実行委員がこれほど忙しいとは、高校からの外部入学だという炭治郎は、思ってもみなかったかもしれないが。
 ハードスケジュールな炭治郎の体調やらへの心配も当然あるが、十月ならば時期的に、義勇も卒論の準備にかからねばならない。とはいえ、炭治郎からの誘いならば行くのはやぶさかではない。というか、ぶっちゃけ楽しみだったりもする。
 だがそれも、半年も先の話だ。今は年末からつづくスランプのほうが一大事である。

 年末と言えば、と、義勇はつらつらと浮かんできた連想に、思わず頬を緩ませた。が、その笑みもすぐにスンッと消える。
 思い出は確かに幸せなものではあるのだが、反面、義勇にとっては、思い出すのもいたたまれない代物だったりもするのだ。

 去年のクリスマスイブに、まさにこの場所、この席で、義勇が生まれて初めて得た恋人。この店の看板息子である炭治郎――彼こそが、義勇のかわいい恋人なのだ。

 その日、閉店時間になりほかの客を送り出した炭治郎は、いまだ席に着いたままだった義勇のもとに、真っ赤な顔をしてやってきた。数時間前に義勇が奪った唇を小さく震わせて「義勇さん」と呼びかけてきた声は、今も義勇の耳に残っている。
 ためらいと期待、不安と喜び。正と負の感情をこれでもかと混ぜ合わせた、どこか固い声だった。緊張して見える顔は、炭治郎の大きな目と同じくらい赤く染まっていて、噛りついたら林檎のように甘酸っぱいのだろうかと思ったことを義勇は覚えている。
 言葉にせずとも伝わっただろうと高を括っていた義勇が「義勇さんは俺のことどう思ってるんですか」と問われたそのときに、つい脳裏に浮かべた言葉については、炭治郎には秘密にしておきたい。それぐらい自分で察しろなんて、どの口が言える。羞恥心や自責の念ぐらい、義勇にもあるのだ。
 炭治郎を邪険に扱ってきたのは義勇自身である。義勇から示されたあからさまな好意にも、炭治郎が疑いを消せずにいるのは手に取るようにわかった。
 クリスマスプレゼントとして渡した新刊に書いたメッセージを、炭治郎はまだ見てはいないようだった。見ていたのなら、瞳に怯えの色はなかっただろう。
 いや、見ていたとしてもやはり怯えは見せたかもしれないなと、あのころのことを思い出しながら、義勇は少し苦笑した。

 口下手な義勇にとって、自分の心情を誤解なく人に伝えるというのは、中々にむずかしい。プロの小説家としては恥ずべきことかもしれないが、これはもう性分だ。スマートかつ心に残る名文句で、記念すべきそのときを飾りたいところではあったが、そんなことは到底できるわけもなかった。
 だからあのときの義勇が、盛大に口ごもったあとにようよう口にできたのは「好きだ」というありふれた一言である。
 それだって顔を見て言ってやることはできず、キスしたときと同じように引き寄せ、腕のなかに閉じ込め顔を見られぬようにして、やっと言えた一言だ。
 嘘だぁと泣きだした炭治郎に、何度も嘘じゃない好きだと繰り返すあいだ、焦りもあったが義勇の胸のなかには、コンデンスミルクよりも甘くとろりとした幸せがあった。
 多幸感に包まれて発した義勇の声は、気恥ずかしいぐらいの甘さを含んでいた。
「本に書いたメッセージは、まだ見ていないのか?」
 問えば、炭治郎の濡れた目がパチパチとまばたいた。キョトンと見上げる顔が幼い。

 やっと泣きやんでくれたか。泣き顔もかわいいが、あまり泣かれるのはこちらもつらい。

 ようやく涙を拭った炭治郎に、義勇は内心ホッと胸を撫でおろした。だが安堵したのも束の間、幸せそうに笑い返してくれると思った炭治郎は、義勇の意に反しパッと腕のなかから抜け出してしまった。
「見てきます!」
 一声上げるなり駆けていってしまった炭治郎に、呆然とするよりほか、残された義勇にできることなどない。

 いや、おまえ、このムードのなかで行くか!?

 抱きしめていた腕を所在なく降ろした義勇の耳に、しばらくして届いたのは、まさに奇声としか言いようのない炭治郎の叫び声だ。思わずビクッと肩を跳ねさせたのは不可抗力である。
 なにか失敗しただろうか。不安にドキドキと速くなる鼓動を持て余しつつ、待つこと暫し。
 足音高く駆け戻ってきた炭治郎は、手にした本を掲げ、本と義勇を代わる代わる見ては「ここここっこれっこここっこれっ」と、おまえは鶏かと問い詰めたいような声をあげた。
 炭治郎の混乱っぷりに反して、義勇の心中は冷めていく。なんなら顔も、スンッと虚無感を漂わせていただろう。
 けれどもこの状況は、炭治郎ばかりが悪いわけでもない。まさか義勇が、手にした本の作者である真滝勇兎だとは、炭治郎だってこれっぽっちも思っていなかったのだろう。
 それはまぁ当然で、真滝勇兎は顔も含め一切のプロフィールを公表していない。性別さえ明かしていない覆面作家だ。ペンネームで辛うじて男だと思う者が多いだけで、インタビューやごく稀に書くエッセイでも人称は私で統一しているからか、いまだに「真滝先生は女の人ですよね?」と手紙に書いてくる読者だっているのだ。
 理由としては、恋する女性の心理描写が繊細かつ克明で、若い女性の共感を生むものだからということだが、さもありなん。真滝勇兎が書く小説の登場人物は、義勇が親友の錆兎に向ける恋心の代弁者だったのだ。女性が男性に向ける恋心と大差はない。
 炭治郎はといえば、真滝勇兎は男だと思っていたようではある。それにしたってまさか、義勇が真滝勇兎その人だなんて、一ミクロンたりと考えていなかったに違いない。
 困惑は当然で、炭治郎はもはや恐慌状態とも言えるありさまだった。本と義勇を見比べる首は、高速すぎてブンブンと音が聞こえそうなほど。そんなに振って痛めないかと、義勇は見当外れな心配をしてしまったくらいだ。
 炭治郎のかわいそうなほどの困惑っぷりは、義勇とてわからないではない。中学生のころから炭治郎は、ずっと自分の恋について当の本人である義勇に向けて手紙に綴ってきたのだし、知らなかったとはいえ大ファンだと義勇自身にも言っている。恥ずかしいことこの上なかったことだろう。
 後に炭治郎が語ったところによると、作家というのは、自分よりもずっと年上しかいないのだと思い込んでいたらしい。まだ大学生でもあった義勇がプロとして小説を書いていて、しかも自分がファンレターを出すほど大ファンな作家だなんて、思い浮かぶわけもないだろう。

 ともあれ、炭治郎の驚きが凄まじすぎてついていけない義勇はといえば、虚無としか言いようのない顔のまま、言葉もなく虚空を見ていた。
 だってどうしろというのだ。炭治郎の初恋が義勇だと言うのなら、炭治郎にとっても義勇が生まれて初めての恋人になるのだ。冷たくあたっていた分も、思い出に残る告白にしてやらねばと、義勇がかなり知恵を絞ったのは言うまでもない。なのにこんな事態になろうとは。
 もはや恋人だなんだという甘い空気は、微塵もなくなってしまったが、義勇にしても初めての経験でリカバリーしようもない。

「炭治郎、なんなの? 大声出したりして。あら、冨岡さん」

 もしも、店の厨房から炭治郎の母の葵枝が顔を出さなければ、鶏もどきと化した炭治郎となんとも言えない顔になった義勇は、膠着状態から抜け出せなかったかもしれない。
 とはいえ、義勇にしてみれば葵枝は、感謝するより先に圧倒的緊張を覚える相手ではあった。面と向かうには罪悪感は半端なく、できれば当分顔を合わせたくはなかった人である。
 なにしろ義勇はたった今、葵枝の息子に恋の告白をしたばかりなのだ。もしも義勇がノンケで、炭治郎が女の子であったとしても、恋人になった直後にその母親と顔をあわせて平然としていられるような精神力は、義勇にはない。
 メンタルが弱いというわけではないが、こと恋愛ごとに関して言えば、義勇の経験値はすこぶる低い。体の経験値はカンスト近いが、恋人同士のアレコレなど想像上のものでしかなく、恋愛小説を主とする作家としては、恥じ入るよりほかない現状だ。
 しかも、ゲイである。唯一の肉親である姉にもまだカミングアウトなどしていないし、考えたこともない。両親が早くに他界していることもあり、親代わりとして育ててくれた姉には感謝しかないのだ。そんな姉に、世間の目をはばかるゲイだなどと、仇や疎かに言えるものではない。

 閉店を過ぎてもまだ店内に居座っている気まずさも相まって、ピシリと固まった義勇に、笑顔で近づいてきた葵枝は深く頭を下げた。
「いつもご利用いただきありがとうございます。炭治郎がうるさくしてごめんなさいね」
 禰豆子の美少女っぷりも納得の美しい女性だが、やさしい笑みを前にしても、義勇の心境はといえば蛇ににらまれた蛙である。
 息子さんに手を出しましたと言うほどのことは、まだしてはいない。今のところは想いを伝えただけだ。キスしかしていないし、それだって唇を触れ合わせるだけの可愛らしいもの。当然、炭治郎が高校を卒業するまでは、義勇とて清らかで健全なお付き合いをする予定ではある。
 が、後々はその限りではない。というか、手を出す気は有り余るほどある。
 下心込みの恋心は、以前の義勇にとっては忌むべきものだった。しかし、炭治郎との恋においては、劣情も包み隠さず伝えていきたいと思っている。明け透けに言ってしまえば、炭治郎と寝たい。甘い恋心だけでなく、赤裸々な肉欲だってしっかりとあるのだ。想いを認めてからこっち、二、三度、我慢しきれず妄想のなかの炭治郎のお世話になったぐらいには。

 一体どの面下げて葵枝に気楽に接することができようか。

 固まる義勇をよそに、葵枝は少しばかり眉をひそめて炭治郎をいさめている。原因となった義勇としては、それもまたいたたまれない。
「そんなにうるさくしたら、冨岡さんに嫌われちゃうわよ」
 葵枝の言葉に特別な意味はないと思いたいところだが、炭治郎の反応がそれを許さなかった。
「えっ!? あ、あの、冨……じゃなかった義勇さん! ごめんなさい、静かにしますからっ」
 だから嫌いにならないでと言わんばかりに、大きな目に涙を溜めて詰め寄ってくる炭治郎は、おそらく平常心なんて遠くに放り投げていたのだろう。店の看板息子と常連客という立場を装うどころか、義勇の胸にすがりつかんばかりだ。
 葵枝がこの場にいなければ抱きしめ、泣くなと頬にキスのひとつもしてやりたくなるほどに、かわいい。間違いなく、誇張なく、誰がなんと言おうと、かわいい。だからこそ義勇は困るよりほかない。
 衝動のままにうっかりあげかけた腕を、炭治郎の背にまわすには、葵枝の目が気になる。さりとてそのまま降ろすのもためらわれ、義勇は、中途半端な体勢でオロオロとするしかなかった。文字通り、お手上げだ。
 どうしたものかと困り果てている義勇の心中を知ってか知らずか、葵枝は、あらあらとやわらかく笑っている。苦笑としか言えぬ笑みではあるが、不快げな様子はまるでない。
「……俺が、驚かせてしまったもので……こちらこそ、遅くまですみません。今、出ます」
「帰っちゃうんですかっ!? 俺がうるさくしたから!?」

 おい、母親の前だってことわかってるのか!?

 うるうると瞳を潤ませて見上げてくる上、もっと一緒にいたいとばかりに、キュッとスーツの胸元を掴みしめる炭治郎は、どうしてやろうかというほどにかわいい。だが、この状況で義勇にどうにかできるはずもない。
「もう、閉店時間だろう? ……また来るから」
 そう言うのが、義勇にとっては精一杯だった。

 あれは、はっきり言って記憶から消したい出来事だ。黒歴史としか言いようがない。思い返せば、ため息だって出る。
「冨岡さん、さっきからため息ばっかりついてません? お仕事進まないんですか?」
 突然かけられた声に、ビクリと義勇の肩が揺れる。物思いにふけっているうちに、いつのまにか禰豆子がテーブルの傍らに立っていた。コーヒーのお代わりを聞きにきたのだろう。サーバーを片手に、心配そうに小首をかしげている。
 まったく気がつかなかった自分に、義勇は、また出そうになったため息を無理やり飲み込んだ。なんというていたらくっぷりだ。人の気配には敏感だったはずなのに、このところとみに腑抜けていると、認めずを得ない。
「……まぁ」
「小説家さんって大変なんですねぇ。私なんて作文書くだけでも一苦労だから、尊敬しちゃう」
 ニコニコと笑いながらコーヒーをついでくれる禰豆子は無邪気だ。その無垢さに罪悪感をかきたてられ、義勇は黙ってカップを口に運んだ。
 大変なのは反論しないが、ため息の理由は到底口にはできない。あまりにも馬鹿馬鹿しすぎる。しかも、相手は禰豆子だ。炭治郎の妹である。絶対に知られたくはない。

 おまえの兄貴とキスするのに自信がない。

 ――無理だろ。言えるわけあるか。
 ごゆっくりと笑って立ち去る禰豆子の背をぼんやり見つめて、義勇はまた、深く深く肺のなかの空気を吐き出した。
 まったくもって馬鹿馬鹿しい悩みだ。けれども、義勇にとっては深刻である。
 散々男と寝てきたくせに、たかだかキスひとつにこれほど躊躇するとは、義勇自身だって思ってもみなかった。けれども、どれだけ淫らなプレイに興じようとも、キスだけはかたくなに拒んできたのだ。経験値は圧倒的に少ない。というよりも、ほぼゼロだ。
 恋愛小説を書いているくせに、恋人とのアレコレなど、義勇は人生のなかで一度として経験したことがなかった。義勇が書いてきたのは、恋い焦がれ、けれど決して口にすることができなかった親友への片想いから生まれた、ただの妄想ばかりだ。かなわぬ夢物語を、小説という形でかなえてきたにすぎない。ごく稀に受けるインタヴューなどで、記者たちは判で押したように実体験ですかと聞いてくるが、義勇が知っているのは片恋と淫らな性体験だけである。
 恋人としての振る舞いなんて、勝手がわからない。炭治郎への接し方ひとつとっても、どうしたってとまどってしまう。
 炭治郎に対しては歳の差もあり、余裕のある顔を装っているが、義勇は内心ではいつだって、なにか間違えていないかとヒヤヒヤしっぱなしだ。告白したときこそスマートにキスできたとは思うが――その後の一幕はともあれ――あれ以来、キスひとつ満足にできていない。

 知らなかったのだ。恋しい相手とのキスが、こんなにも緊張するものだなんて。

 ファーストキスは唐突に奪ったから、なにも身構えることはなかった。けれど、ふたりでいるときにふとそんな空気になると、途端に緊張してしまうのを義勇は自覚していた。
 逢うのがいつもこの店か義勇の家なのも、緊張の要因かもしれない。
 店ではいつ禰豆子や葵枝たちが顔を出すかわからない。一人暮らしの義勇の家では、それはそれで問題がある。
 誰もいないということは、歯止めが利かなかった場合、そのまま手を出してしまう可能性があるということだ。なにせ止める者はいないのだ。いまやかわいくてしかたない恋人が、二人きりの部屋で自分の腕のなかで口づけに酔う。そんな様を見て、自分の理性ははたしてどうなるのか。経験がないだけに、義勇にもさっぱりわからない。

 酔うもなにも、そんなテクないだろうが……。

 思わず舌打ちしそうになり、義勇は深くうなだれた。
 義勇は以前、炭治郎に自分の性遍歴を匂わせてしまっている。まさか義勇がキスひとつに緊張しているなど、炭治郎は思ってもみないだろう。
 
『全部義勇さんが教えてくれるんでしょう?』

 キラキラとした目が期待を込めて伝えてくるのは、そんな言葉だ。おそらく自分の気のせいじゃないはずだと、義勇は小さく唸った。
 パソコンの画面に、小説のつづきは一文字だって打ち込まれていない。まったく進まないまま今日も時間だけが過ぎていく。今年度は卒論に追われることになるからと、連載を断っていたのが辛うじて救いだと言えた。
 とはいえ、秋口には新刊の出版が待っている。タイムリミットは七月。なのにまだ全然進んでいない。三ヶ月で書き上げられるかどうか、かなり微妙なところだ。
 ストレスもどんどん溜まっていく。コンスタントに出る新作、自分の恋愛、どちらも順風満帆なように見えるのは見掛け倒しだとわめきたくなるほど、義勇は正直ダウン寸前だった。
 こんなときには炭治郎に逢いたくなる。悩みのもとではあるけれども、恋しさにはいささかの迷いもないのだ。
 逢いたい。かわいい笑顔に癒されたい。けれど逢えば抱きしめてしまいたくなる。抱きしめればきっと、キスしたくなるに違いない。だが、自信はない。キスのテクニックもだが、義勇は自分の理性にこそ自信が持てなかった。

 駄目だ。これ以上ここにいても仕事にならない。

 どうにも進まないワードの画面に見切りをつけて、義勇はカップに残ったコーヒーを飲み干した。禰豆子が入れてくれたお代わりは、すっかり冷めていた。
 いったいどれだけぼんやりしていたんだか。またこぼれそうになったため息を無理やり飲み込んで、義勇はパソコンの電源を落とした。
 炭治郎が帰ってくるのは閉店後だ。ここで粘ったところで逢えるわけでもない。
 トレイを手に立ちあがった義勇に気づいたか、禰豆子がニコニコと近づいてきた。
「お帰りですか?」
「あぁ。いつも長居してすまない」
 気にしないでと笑った禰豆子は、ふといたずらっ子のような目で義勇を見上げてきた。
「あのね、お兄ちゃんが冨岡さんに逢えないってへこんでるの。でね、今週の土曜日はお兄ちゃんを冨岡さんに貸し出そうって、家族会議で決まりましたぁ!」
 パチパチと小さく手をたたいて笑う禰豆子に、義勇は、は? と目を見開いた。
 貸し出すとはどういう意味だと義勇が問うより早く
「ということで冨岡さん、お兄ちゃんとデートしてあげてください」
 と、こともなげに禰豆子は言う。

 待て。いろいろと、待ってくれ。

 おそらく表情はろくに変わっちゃいないだろうが、義勇の胸中はパニックだ。デートってどういうことだ。確かに炭治郎とは恋人同士ではあるが、炭治郎が家族に自分との関係を伝えたという話など、義勇は一切聞いていない。
 半年近くも前のことだが、炭治郎から義勇に恋していると伝えられたと、禰豆子が言っていたのは覚えている。熱に浮かされた状態でのことではあるが、忘れようのない記憶だ。
 恋しい人の役に立ちたい、この席を好きな人のために使いたいのだと、炭治郎は葵枝に頼み込んだらしい。自分の好きな人は男で、恋が実ることはないだろうけれども、きっと一生その人が好きだから。そう炭治郎は言ったのだと、禰豆子は静かに笑っていた。
 それを聞いたときの、泣きたいような、それでいて怒鳴り散らしたくなるような、複雑で忸怩たる胸の痛みを、義勇は苦く思い出した。
 その日は、最低な男との最悪なセックスで、体調も気分もどん底だった。それも元をたどれば炭治郎に恋する少女への嫉妬からだ。俺を好きになっても無駄だ、あきらめろと、炭治郎につれなくしてきたのは自分のくせに。義勇にしてみれば自業自得としか言いようがない。
 けれども、浮かぶ苦さは現状への戸惑いにすぐ失せた。今はそれよりも、禰豆子たちが自分と炭治郎の仲を知っているかもしれないことのほうが、義勇にとっては重要だ。
 いずれはカミングアウトすることになるかもしれないと、義勇とて思ってはいる。長くつきあっていくのなら、いつかは真摯に考えねばならない日もくるだろう。

 だが、今じゃない。まだ早い。

 義勇の戸惑いに気づいているのかいないのか、禰豆子はニコニコと笑ったまま
「たまにはお兄ちゃんにも、家のこと忘れて楽しんでほしいんです。お兄ちゃんは、冨岡さんと一緒にいられるのが一番うれしいだろうから、デートしてあげてください」
 禰豆子はお願いと手を合わせてくる。茶目っ気のある仕草は愛らしいし、話の内容は実に兄想いのいい妹だと思うが、それで義勇の当惑が消えるわけでもない。
「デート……」
「あ、普通にお出かけするだけでいいの。お兄ちゃん、冨岡さんのお家に行くだけでもすっごく大はしゃぎだから、一緒にお買い物したり映画観たりできたら、委員会での疲れも吹っ飛んじゃうと思って。……あの、ご迷惑ですか?」
 わずかに顔をくもらせる禰豆子に、義勇は小さく首を振った。
 いきなりのことにうろたえたが、どうやら禰豆子の言うデートに深い意味はないらしい。まだ義勇と炭治郎が恋人同士だとは知らないのだろう。馬鹿正直な炭治郎のことだから、楽観はできないが、今のところ心配はなさそうだ。
「迷惑なんてことはない。だが……いいのか? 店の手伝いができないのを気に病んでいるようだし、炭治郎は、休みの日ぐらい店に出たいんじゃ……」
「それは大丈夫です! 竹雄がお兄ちゃんの代わりにってすっごく張り切ってるの。やる気をそぐようなこと言っちゃ駄目って、お兄ちゃんには言っておくから」
 いたずらっ子のように言った禰豆子の瞳が、不意にどこか大人びた。
「高校受験のときだって、お兄ちゃんったら私たちがどんなに店のことはいいよって言っても、大丈夫ってお手伝い休んでくれなくて……。それで夜中に勉強して寝不足になってたんだよ? 馬鹿でしょ。長男だからなんて……お兄ちゃんだけ大変な思いすることないのに。忙しいときぐらい、家のことはほっぽって少しは休めばいいんだよ。でなきゃ、お兄ちゃんまでお父さんみたいに倒れちゃうかもしれないのに……」

 あぁ、目に浮かぶようだ。義勇は内心で独り言ちた。

 炭治郎は頑張り屋で生真面目だ。誰もが認める長所ではあるけれども、裏を返せば、融通が利かず思い込みが激しいということでもある。長男として、父の代役として、家族を守るのは自分ひとりと思い込んでしまっているのは、想像にかたくない。
 話に聞く父親の死因はあくまでも病死で、過労ではないらしいが、それでも、多忙を理由に受診を怠ったことが寿命を早めたのは間違いがないだろう。禰豆子たちの心配はもっともだ。
 だからね、と、禰豆子は笑う。
「お兄ちゃんがわがまま言って、冨岡さんのことではしゃいでるのが、私たちみんな、すっごくうれしいんです。本当はとっても冨岡さんに逢いたいのに、無理してるの見てられないんで、お願いします!」
 ぺこりと頭を下げた禰豆子は明るく笑ってはいるが、瞳に浮かぶ恐れの色は、義勇にも伝わった。父のことがどうしても頭をよぎるのだろう。万が一炭治郎もと考えるだけで、不安と恐怖に怯えてしまうのかもしれない。
 きっとそれは、家族全員が抱く恐れで、願いなのだ。義勇だって、炭治郎が無理をすることなど望まない。
 ならば、義勇に否やはなかった。
「……今度の土曜でいいのか?」
「はいっ!」

 うれしそうに笑う禰豆子の顔は、咲きほころぶ花のようだった。