Hello! my family 8

 義勇が作っておいた契約書のひな型は、いくらかの手直しを必要とした。相談するのはもっぱら不死川と炭治郎で、義勇は、一度炭治郎と言い合いはしたものの、ふたりが折り合いをつけた条件をパソコンに打ち込むばかりだ。
 蚊帳の外と言えなくもないが、不満などない。不死川は法務部だけあって、義勇がまるで考えていなかった点についても指摘してくれるので、文句をつける筋合いなどあるわけもなかった。
 たとえば
「医療保険や個人賠償責任保険には入ってるか?」
 など、不死川が言い出すまで、義勇の頭にはまったくなかった。
 だが、確かに保険への加入は必要だろう。紹介所などを介したわけではないから、炭治郎には後ろ盾となる団体組織がない。個人間での契約では、すべて炭治郎個人の責任となる。
「俺は健康だし丈夫なのが取り柄なので……風邪もほとんど引いたことないですけど、必要ですか?」
「いくら丈夫だろうと、なにが起きるかわかんねぇだろうがァ。医療費全部冨岡におっかぶせる気がねぇなら、保険には入っとけや。賠償責任保険だって、もしもテメェと一緒のときに、うっかり目を離して禰豆子が怪我することだってあるかもしれねぇ。掃除中に物を壊す可能性だってあんだろうが。テメェだけで全額支払いなんざできねぇ額だったら困るのはテメェだぞ。食器一枚にも責任は生じるんだ。仕事として家を預かるなら、そういうことはきちっとしとけェ」
「不死川、俺はなにがあろうと炭治郎に賠償請求するつもりは」
「払いますっ! ちゃんと自分で!」
 不死川を咎める義勇の言葉は、炭治郎の大きな声にさえぎられた。
 他人行儀なことをと思わず義勇は眉をひそめる。だがすぐに、そうだ他人なのだと思い直し、チクリと胸が痛んだ。
 炭治郎と自分は雇用関係にあるだけの他人だ。だから慣れあう必要はないと、自分でも思っていたはずだ。なのに、炭治郎が自分を頼ってくれないことに傷つくなんて、身勝手すぎると、義勇はわずかに目を伏せた。
 義勇の自嘲は、炭治郎にも不死川にも気づかれなかったようだ。炭治郎は真剣な顔で、未成年の保険加入について不死川から説明を受けている。
「施設に行くまでに必要な書類をそろえて、後見人の署名捺印をもらっておけばいいんですね」
「おう。そんじゃこっちもそろそろ確認な。勤務時間は一日八時間。平日のみ。ただし、月二回のスクーリング授業のときには、土日に勤務して代休扱い。仕事内容は、弁当を含む一日三食の炊事と、日常的な範囲での掃除洗濯。それから買い物に、禰豆子の保育園への迎えとその後の子守り。基本的には午前に四時間、午後は禰豆子の迎えの時間から四時間。急病なんかで早い迎えになったときは、時間外手当を支給。勤務時間外に手伝い程度の家事をするのは自由。ただし、学習時間を優先することが条件。食料や日用品の買い出しは、基本、月初めに冨岡が渡した金額におさめること。それ以外に禰豆子が保育園でいるもんなんかが突発的に出た場合は、預かってる金から支払っておいて都度報告。必ずレシートを取っておくこと。それを確認の上で冨岡から補充分を受けとる。次に給与だが、固定給」
「あの!! やっぱり十五万円じゃ駄目ですか? スーパーの給料だって手取り十三万円ぐらいだったのに、二十四万なんてもらい過ぎだと思うんですけど!! しかも夏冬にそれぞれボーナス一カ月半なんて、やっぱりどう考えても多すぎますよ!」
「おい……もう決めたことだろう」
 思い切り眉を下げて食ってかかる炭治郎は困り顔だ。対する義勇は、苛立ちに眉をギュッと寄せる。
 説明をさえぎられた格好の不死川派といえば、まるきりあきれ顔だ。さっきも散々もめにもめて、ようやく折り合いをつけたばかりなのだ。また蒸し返すのかと腹を立ててもおかしくないが、まだあきらめてなかったかとうんざりした様子で頬杖をついている。
「個人間契約だから給与から源泉徴収はしない金額だと言ったはずだろう。特別労災にも加入しないし、社会保険もなにひとつないんだ。渡した給与からお前が自分で税金や保険料を支払うことになる。所得税、住民税、国民健康保険に雇用保険、それに後々は年金もだ。高校を卒業するまでの契約とはいえ、おまえが在籍している通信制高校は公立なんだろう? 公立校で三年で卒業資格を得る者は少ないらしいぞ。二十歳を超えての卒業になる可能性は十分にある。そうしたら年金の支払いが生じることになるんだ。それを考えれば、そのぐらいの金額は当たり前だろう。おまけに住み込み。勤務時間は厳守させるつもりでいるが、二十四時間拘束することに変わりはない。給与額にはその分も入っている。平均的な住み込みの家政夫の給与額からすれば二十四万では少ないぐらいだと、何度言えばおまえは納得するんだ」
 炭治郎が以前の給与を口にしたとたんに、また店長への怒りがわき、義勇の口調は勢いきつくなった。あの勤務時間でその金額なんて、おまえはなんで納得していたんだとの、炭治郎への苛立ちも少し。
 家政夫の給与の平均額を調べ、これなら炭治郎も満足してくれるだろうと思って決めた金額だったが、まさか多すぎると文句を言われるとは思ってもみなかった。賞与だって二ヶ月半では多すぎるとわめくから、一ヶ月半まで減らしている。義勇にしてみれば、いっそ罪悪感を抱かざるを得ない金額だ。
 支払う側が少ないと怒り、受け取る側が多いと断固拒否する言い合いは、端から見れば馬鹿馬鹿しいの一言だったのだろう。不死川がキレかけるのも無理はない。だが、少なくていいと言うならありがたいと、納得するわけにはいかなかった。
 炭治郎は自分の不利など眼中にないのだ。支払う義勇の負担ばかりを気にしている。スーパーでもそうだったが、こんな調子では容易く人に利用され搾取される人生が待っているのじゃないかと思うと、義勇も気が気ではない。
 これ以上は折れないと、聞き分けのない炭治郎を睨みつけても、炭治郎は、でもやっぱり多すぎと、上目遣いに拗ねたような視線を向けてくる。
「……あいかわらず『仕事』だとまともに口が回んのな。普段もそれぐらいわかりやすく話せってんだよ。おい、テメェも多くて困るこたぁねぇだろうがァ。素直に受け取っとけや」
 これ以上もめんな、めんどくせぇ。そう言う不死川の声は、もはや投げやりにも聞こえる。
「禰豆子が戻ったら、買い物も行くんだろうがァ。さっさと済ませろや。禰豆子を腹ペコで待たせる気かァ?」
 禰豆子を持ち出されてしまえば、頑固な炭治郎もこれ以上ごねるわけにはいかないのだろう。グッと唇をへの字にはしたものの、黙り込んだ。
 義勇だって禰豆子を待たせるのは避けたい。文句もわがままも言わない子だからこそ、なおさらに。

 あぁ、そうか。こんなところも炭治郎と禰豆子は似ているのだ。

 ふと思い、義勇は胸が切なくうずくのを感じた。
 どんなにつらい境遇にあっても、禰豆子はけっして義勇に悟らせようとはしなかった。いや、させてやれなかったのは自分だ。義勇は知らず奥歯を噛みしめた。
 仕事を理由に家庭を顧みることがなかった義勇を、禰豆子はそれでも慕ってくれていた。まだ物心ついたばかりの幼子が、忙しい父を煩わせてはいけないと、必死に耐えてきたのだ。
 炭治郎も、ずっとそんなふうに生きてきたのだろうか。わがままを言い、文句をつけてはふてくされる。そんな子どもらしい反抗期すら、炭治郎は過ごしたことがないように見えた。
 思えばそれは切なく、義勇の胸を締めつける。

 せめてこの家で暮らす間だけでもいい、子どもらしく笑っていてほしい。

 ビジネスだと示すための契約だというのに、そんなことを思う。仕事だから、禰豆子のためだからというだけでなく、炭治郎自身が幸せだと感じられる家にしなければ。
 なぜそこまで炭治郎に笑ってほしいと願うのか。義勇にはよくわからない。炭治郎はいい子だ。禰豆子にとって必要な人物であるのに間違いはない。それでも、もしも禰豆子のことがなくとも、炭治郎には幸せであってほしいと思う。幸せであるべき子だと、心底信じている。
 そして、今では義勇自身が、それを望んでいた。
 人と関わることを忌避しつづけていたというのに、自らかかわり、この縁を手放したくないとさえ感じている。炭治郎と出逢う前の義勇なら、こんな変化が自分の身におとずれるとは、思いもしなかっただろう。
 理由はまだわからない。それでも、この変化は義勇にとって悪い気分ではなかった。

「わかりました……それでいいです。あの、いただく給料分、しっかり働きます! よろしくお願いします!」
 義勇が思考を巡らせているあいだに、ためらいは吹っ切れたのだろう。炭治郎はようやくいつもの明るい笑みを見せた。
「……勉強もしろ。あと……ちゃんと、高校生らしく遊ぶ時間も作れ」
 炭治郎の大切な時間をすべて奪う気は、義勇にはない。自分と同じように家に閉じこもる高校生活など、炭治郎に送らせたくはなかった。
「えっと、ちゃんと遊んでますけど……。さっきも禰豆子とお絵かきして遊んでましたよ?」
 キョトンと首をかしげた炭治郎に、ブハッと不死川が吹きだした。義勇も思わず目を丸くしてしまう。高校一年だというのに、遊べと言われてまず思い浮かべるのが、幼児とのお絵かきとは。
 この子はずいぶんと初心なのだなと、心のどこかで愉快な気持ちになっているのが、義勇には不思議でならなかった。
 炭治郎にはすれたところがちっともない。期待や勝手な印象を押しつけてはいけないと、思ってはいる。けれど、炭治郎の些細な一言に浮かび上がる為人ひととなりは、義勇がイメージする炭治郎そのままで、陶酔に似た喜びが胸にわくのを止められなかった。
「そりゃ子守りだろうが。友達と遊んだりしねぇのかよ。夜遊びは褒められねぇが、勤務時間外まで家政夫でいるこたぁねぇぞ。問題さえ起こさねぇならそれでいいんだからよ、好きに遊びに行けやァ」
 そうだろ? と視線を向けてくる不死川に気づき、義勇はあわててうなずいた。
 自分が抱く印象通りだからといって、それを押しつけ炭治郎を束縛するようなことがあってはならない。自分と炭治郎は違うのだ。人と関わるのが怖かった自分とは違い、人懐っこく朗らかな炭治郎には、きっと友達も多いだろう。友人たちとの交流を制限させては申しわけがない。
 義勇は、よし、と自分に喝を入れるように、もう一度小さくうなずいた。しっかりと炭治郎の目を見つめ、わずかながら声を張って言った。
「休みの日は俺が家にいる。おまえがいなくても大丈夫だ」
 安心していいと義勇は告げたつもりだったが、炭治郎の瞳は義勇の言葉を聞いたとたんに劇的に曇った。
 少しぎこちなく口角があがる。わずかに細まった目。炭治郎は薄く笑ってはいる。けれどもどう見たって作り笑いなのが丸分かりだ。
「……そうですよね! えっと、じゃあ、お言葉に甘えて、休みの日は出かけるようにします」 
 笑って言うが、声もなんとはなし寂しげに聞こえた。
 どうしてだろう。そんなにも自分は頼りなく思われているのだろうか。不安と焦りに、義勇は言葉を失い思わず目を伏せた。なぜ炭治郎がこんな反応をするのかはわからないが、自分の言葉が炭治郎を悲しませたことに間違いはない。

 悲しい? 今、俺は炭治郎が悲しんでいると思ったのか。

 何気なく心に浮かんだその言葉に、少し愕然とする。
 炭治郎が自分の言葉ひとつごときで悲しむ理由などあるわけないのに、なぜそんなことを思ったのだろう。わからず、けれども炭治郎の様子は、怒ったり不安がったりしているようには見えない。義勇の目には懸命に悲しみをこらえているように映る。
「テメェはよぉ……もうちっと言葉をえらべや。ガキを落ち込ませてんじゃねぇよ」
 不死川に肘で小突かれて、義勇は焦りを隠しきれずに不死川の袖を掴んだ。炭治郎が落ち込み悲しがっているのは、どうやら自分の思い違いではないらしい。不死川にもそう見えるのなら確実だろう。だからといって、どうすればいいのか、義勇にはわからない。
 助けを求める視線を投げても、不死川は目をすがめ無言で義勇をねめつけるだけだった。
 自分でなんとかしろ。きっと不死川はそう言いたいのだろう。義勇だって三十路も近いいい大人だ。これぐらいのことは自分でどうにかするべきだと、義勇も思いはする。
 会社でならば、意思疎通の行き違いを不死川たちがフォローしてくれることは、たびたびある。けれども今この場においては、助け船を出してくれる気は不死川にはないらしい。そもそも、そんなものを同僚に求める自分が間違っているのだ。義勇はわずかに唇を噛んだ。
 不死川の立場はあくまでもオブザーバーだ。炭治郎と契約を交わし、ひとつ屋根の下で暮らしていくのは、ほかの誰でもない義勇自身である。赤の他人な炭治郎と一緒に暮らしていくのだから、こういった出来事はそれなりにあるだろう。そのたび不死川たちのフォローを求めるわけにはいかないのだ。
 だが、炭治郎が悲しむその理由が、義勇にはわからない。迂闊なことを言えば、さらに悲しませてしまうかもしれないと思うと、言葉などまるで浮かんではこなかった。
 常日頃、人を苛つかせがちな自分を自覚している義勇にしてみれば、自分がなにか言えば炭治郎の悲しみを深くしてしまうだけな気がしてならない。

 わからないことばかりだ。けれどわからないままにしていては、問題はひとつも解決しない。

 情けさなさはいかんともしがたいが、素直に問い質すよりほかないだろうか。
 聞いたところで、頑固な炭治郎が素直に答えるとは限らない。けれど少なくとも、炭治郎を悲しませる意図など義勇にはなかったことぐらいは、伝わるかもしれない。
 意を決して口を開きかけた義勇だったが、その声は、玄関から聞こえた禰豆子の「ただいまぁ」という声に、音になる前にひっこんだ。
「テメェらがもたもたと給料でもめっから、禰豆子が帰ってきちまったじゃねぇか」
 不死川のあきれ声に、とっさにパソコンの時刻表示を見れば、もう正午が近い。昼は外食と伝えてあったのだから、伊黒たちが戻ってくるのも道理だ。もめたことも事実だし、まったくもって反論のしようがない。
 あわてて腰を浮かせかけた炭治郎が、困ったような顔で義勇と不死川を見る。迎えに行きたいが、今は面談中だ。どうしよう。そんな逡巡がありありと伝わってくる様子に、義勇も、どうしたものかと不死川に視線を向けた。
 ふたりの視線を期せずして集めてしまった不死川はといえば、あきれ返った顔でため息をついていた。
 いたたまれぬ気分で、思わず義勇は炭治郎と顔を見あわせた。困り顔ながらも苦笑を浮かべた炭治郎からは、悲しみの気配は消えている。
「パパ、お兄ちゃん、お話終わった?」
 パタパタと近づいてきた小さな足音が途絶えたと同時に、襖が小さく開いて、禰豆子がひょこりと顔をのぞかせた。
「おー、ワリィな、禰豆子。もうちっと待っててくれやァ。オラ、さっさと今できる契約を済ませんぞ」
 はぁいと返事し、襖を閉めた禰豆子は、不満などまるでなさげな笑顔だ。だがあまり待たせるわけにもいかない。
 不死川にうながされるままに、契約書の確認をし、プリントアウトするあいだも、義勇の胸中は迷いでいっぱいだった。
 重い空気が消えたのはありがたい。けれどこのままうやむやにしてしまってもいいのだろうか。
 炭治郎がもう気持ちを切り替えているのなら、もう気にすることはないじゃないか。そんなふうに忘れてしまいたい気持ちは、義勇にもいくらかある。だがそれでは問題を先送りするだけだ。
 知り合ったばかりの他人と暮らすのだ。いくら炭治郎の為人が心安くあろうと、まだ互いにわからないこと、知らないことのほうが多いのに違いはない。諍いまではいかずとも、こういった些細なずれや衝突は、たびたびあるだろう。
 そうして生まれたヒビは、少しずつ大きくなり、気がつけば修復できない大きな溝となるに違いない。後悔したくないのなら、避けて通ってはいけないのだ。
 わかっているけれど、だからといって、即決断することもできない。
 炭治郎がもう気にしていないのなら、話を蒸し返すのはかえってよくないかもしれない。流してしまえばそれで済むものを、なぜわざわざ? と、炭治郎を不快にさせないとも限らないではないか。
 人と関わらずに生きてきたから、経験値が少なすぎて、こんなときどうするのがベストなのか義勇には判断がつかない。三十年近く生きてきてさえ、義勇が『普通』に人づきあいができた時間など、わずかでしかないのだ。

 六歳だった。『普通』でいられたのは、たった、六年。

 ふと浮かんだ当時の記憶に、ヒュッと息を飲む。
 割れた鏡台、引き裂いた服、塗りつぶした写真たち。幻覚のように目の前にちらついて、呼吸が苦しい。眩暈がしてくる。

『ほら、やっぱり似合うわ。とってもかわいい。×××なんだから、かわいくしてなくっちゃね』

 笑う声が耳の奥にこだまする。なのに、それがどんな声だったのか、もう思い出せない。言葉だけが文字となって、脳のなかを暴れ回っている気がする。

『もう××××××でくれ……』

 呟いた自分の声がよみがえる。取り消せない、もう。後悔しかない言葉だ。けれど本心だった。だからこそ、今も消えない。償えない……!

 ――駄目だ、落ち着け。
 義勇は必死に自分へと言い聞かせた。プリントした書類を炭治郎に手渡す手が震えぬよう、こっそりと大きく深呼吸する。
 三年。少なくとも高校の卒業資格を得るまでの三年間は、炭治郎にはこの家にいてもらいたい。社会に出るまでのあいだだけでもいいのだ。そのあいだ、炭治郎には笑っていてほしかった。
 そのためには、自分の過去を知られるわけにはいかない。知れば炭治郎だって、自分を忌避するだろう。嫌悪や軽蔑の目で見ないとは限らない。考えた瞬間、義勇の胸はしんと冷えた。

 知られたら、炭治郎に嫌われる。

 思っただけで、義勇は理解不能なほどの動揺にみまわれた。
 人に嫌われるのはもう慣れているはずだった。自分ではそこまで嫌われるようなことをした覚えはなくとも、他人は義勇を厭うことが多い。嫌悪の瞳に気づくたび、悲しいと思いはしても、しかたのないことだとあきらめるのは苦じゃなかった。
 嫌わないでくれなどと言えるほど、自分に価値はない。だから義勇は、気にしないよう努めてきたし、あきらめてもいた。
 なのに、なぜ炭治郎に嫌悪されると思うだけで、こんなにもつらいのだろう。

 最初は、禰豆子のためだった。禰豆子が懐いているから。炭治郎といると禰豆子が明るさを取り戻せるから。ただそれだけだと思い込もうとしていた。けれども、今は、義勇自身が炭治郎に笑顔でいてほしいと願い始めている。
 まともではない自分では、禰豆子に『普通』の暮らしをさせてやれない。そんな強迫観念は確かにあるが、炭治郎の幸せを願う心も、義勇にとっては真実だ。
 恩返しといえば大げさかもしれない。けれども、笑っていてほしいのだ。安定した衣食住だけでは足りない。幸せであるには、それだけでは満たされることがないのを、義勇は知っている。

 炭治郎が笑っているだけで、心がやさしい温もりに満たされる。炭治郎にもそうあってほしい。

 自分と過ごすことで、とは、言わない。そこまで図々しい望みは持っていなかった。望んではいけないとも思っている。義勇はそっと炭治郎を盗み見た。
 自分のような男が炭治郎の人生に深くかかわるなど、あってはならないだろう。不死川たちが聞けば、どうしておまえはそんなにも卑屈なのだと責められそうではあるが、義勇にとっては覆しようのない事実だ。

 義勇の葛藤や焦燥は、炭治郎にはもちろん、不死川にも気づかれてはいないようだった。
 慎重に書類に署名捺印していく炭治郎は真剣な顔だ。不死川も確認作業に気を取られているのか、義勇のことにまで気が回らないように見えた。
 悟られなくて幸いだ。義勇は安堵のため息を飲みこんだ。
「ん、まぁ、こんなもんだろ。オラ、テメェもちゃんとチェックしとけ。俺にばっかり任せてんじゃねぇよ」
「すまない」
 ひらひらと振られる書類を受けとり、義勇は紙片にまなざしを走らせた。ざっと目を通した限りでは、問題はないようだ。
 義勇が署名していくのを、炭治郎はなんとはなし緊張した面持ちで、じっと見つめている。すべての書類に判を押し終えたと同時に、ハァッと大きく息を吐きだした炭治郎は、ホッとしたように笑った。
「あとは鱗滝さんに署名と捺印してもらったら、契約は終わりですよね」
「あぁ。近いうちに俺からも連絡を取る。報告の際にはよろしく伝えておいてくれ」
 義勇の声は我ながら平坦で、感情の揺れは表れてはいない。
 大丈夫だ。ちゃんと話せる。先までの恐慌状態は、炭治郎には伝わっていない。深い安堵に、義勇の口からもついため息が落ちた。
「あの、意地になっちゃってすみませんでした。こんなに時間とらせて……禰豆子を待たせちゃうなんて、申しわけないです。義勇さんも嫌でしたよね。ごめんなさい」
 しょんぼりと肩を落とした炭治郎に、薄れかけていた懸念が再び頭をもたげた。
 炭治郎が悲しげだった理由は、まだわからないままだ。
 今、落ち込んだ様子でいる理由なら、はっきりしている。義勇のため息を、疲れや腹立ちからだとでも勘違いしたのだろう。理由の知れないことについてはともかく、現状の勘違いについては正しておかねば。焦りながら、義勇は炭治郎を見つめ口を開いた。
「お互い様だろう」
 炭治郎をうまく説得できなかった自分にも責任はある。義勇にしてみれば炭治郎ひとりが反省する必要など皆無だ。むしろ今のため息が炭治郎を不安にさせたのなら、誤解させた自分こそが反省すべきだろう。気にすることはないと告げるように義勇がじっと見すえれば、炭治郎も少し瞳を明るくした。
 先ほどの一幕についても、原因はきっと自分にあるに違いない。かすかな笑みを浮かべた炭治郎を見つめたまま、義勇は思った。
 きちんと理由を知り問題解決するべきだとの決意は、禰豆子たちの帰宅で機先を制された形になったが、わだかまりを残したままというのはよくないだろう。幸い、炭治郎は義勇の言葉に安心したのか、重ねて謝ることはなかった。このまま、先ほどはなぜ悲しそうだったのかと、聞いてみればいい。
 思いはするが、臆病な心が邪魔をして、義勇はその先の言葉をつむぐことができなかった。
 不死川は言葉をえらべと言ったが、自分の言葉のなにが悪かったのかが、義勇にはわからないのだ。判断がつかない以上、問う言葉自体がまた炭治郎を傷つけることだってないとは限らない。そんなことを思いついてしまえば、不安ばかりがふくらんで、義勇は炭治郎に話しかけることができなかった。
「おい、終わったか?」
 襖の向こうから伊黒の声がした。炭治郎が立ちあがり襖を開ける。義勇が言葉を見つけられないまま、面談は終了だ。時間を置けば、より聞き出しにくくなるのはわかっているが、禰豆子のことが気にかかるのも確かである。これ以上待たせるわけにもいかないだろう。
 プリンターを片付けだした不死川につづき、義勇がパソコンの電源を落として書類を整えていると、禰豆子を抱いた甘露寺も部屋に入ってきた。
「禰豆子、待たせて悪かった」
「いいよ」
 甘露寺から禰豆子を受けとり、抱っこしたまま謝れば、禰豆子はいつものように笑って答えてくれる。その笑みには憂いなどどこにもない。甘露寺や伊黒も来てくれてよかった。義勇が微笑み返したのと同時に、きゅるると小さな音がひびいた。禰豆子の腹の虫だ。
「あらら、禰豆子ちゃんお腹空いちゃった?」
「まったく、おまえらがもたもたしているからだぞ」
 ツンと禰豆子の頬をつついて笑った甘露寺も、皮肉な目つきで義勇たちを眺めまわした伊黒も、なにも気になどしていないだろう。ワリィな禰豆子と、謝る不死川も、なにか小腹ふさぎになるものあったかなと台所に向かおうとした炭治郎だって、禰豆子を責めるそぶりなどかけらもない。義勇だって同じことだ。
 けれど、禰豆子にとっては空腹を訴えるどころか、それを悟られることすらが、トラウマを刺激するのに十分だったようだ。
 ギュウッと義勇のシャツを握りしめて胸に顔を押しつける禰豆子に、思わず義勇は、小さな体を抱きかかえる腕に力を込めた。
「禰豆子、誰も怒っていない。お腹が空いたならそう言っていいんだ。誰も怒らない。腹を空かせるまで待たせた俺が悪かった。すまない」
 ごめんなさいと震える声で言われるのが嫌で、義勇は、禰豆子が口を開くより早く小さな頭に顔を寄せると、静かな声でささやいた。焦りを悟らせぬよう、ゆっくりとつむいだ声は、禰豆子の耳にやさしく届いただろうか。
 失態に気づいたのだろう、ハッと目を見開いた同僚たちは、一同に息をつめて義勇と禰豆子を見守っている。禰豆子の事情をよく知らない炭治郎もまた、禰豆子の様子や義勇たちの反応に、なにがしか悟ったに違いなかった。
 誰もが身動きひとつできずに息をつめているなか、そっと近寄り禰豆子の頭を静かに撫でた炭治郎に、義勇は目を見開いた。
「禰豆子、お腹が減るのは元気な証拠だぞ? みんな、お腹が鳴るぐらい禰豆子がいっぱい遊んできたのがうれしいってさ。俺も、禰豆子がお腹空いたってご飯をいっぱい食べてくれたらうれしいよ。それに禰豆子はちっとも悪くないぞ? 悪いのは早く終わらせなかった俺のほうなんだから、禰豆子はお腹空いたよって文句言っていいんだぞ? ごめんな、禰豆子」
 そろりと禰豆子の顔があげられた。炭治郎と義勇の顔を交互に見上げて、いいよと呟いた顔は、まだ少し青ざめている。それでも涙はそこにはなく、声はしっかりとしていた。
 ほぅっと聞えた小さな安堵のため息は甘露寺のものだろうか。見れば不死川や伊黒でさえも、見るからに肩の力を抜いて安堵の色を浮かべている。
「よしっ、それじゃなにかちょっとだけ食べたら、お着替えしようか。せっかくみんなでお出かけするんだもんな。おめかししような」
「……お兄ちゃんも一緒は、やっぱりダメ?」
 不安げにポツリと言って、禰豆子がまた義勇に縋りつく。まろい桃色の瞳で見上げられた義勇は、どう答えたものかと言葉に詰まった。
 炭治郎は休みなのだからと言い聞かせたときには、納得した様子だったのに。だがこれは、うれしい変化だと思う気持ちもある。
 禰豆子はわがままを言ったことがない。なのにこんなふうに一度言い聞かせたことを再度ねだるなど、今までの禰豆子からすれば喜ばしい以外のなにものでもなかった。
 それは確かだが、炭治郎に無理を強いるつもりも、義勇にはないのだ。ただでさえ堅苦しい場で気疲れもしているだろう。その上、休みだというのに家事どころかつき合いで外出までさせるなど、頼めるはずもない。
 逡巡する義勇に、禰豆子がしゅんと眉を下げただけでなく、炭治郎までもが、また悲しげに瞳を揺らせた。
 どうすべきだろう。迷う義勇が言葉を探しているうちに、現状打破の一言は、当の炭治郎の口から発せられた。
「禰豆子、俺のことは気にせず楽しんでおいでよ。俺はひとりでも大丈夫だから」
「……俺たちと一緒では、おまえの気が休まらないだろう? ひとりのほうが嫌なのか?」
 気詰まりだろうから自由にしていてもらおうと思ったのに、ひとりでも大丈夫とはどういうことだろう。わからずにまじまじと炭治郎を見つめた義勇を、炭治郎も、ポカンとした顔で見返してくる。
「だから、言葉足らずを自覚しろっつってんだろうが」
 やれやれと言いたげな不死川の声に、思わず義勇は首をかしげた。けれども視線は炭治郎からそらさない。炭治郎もまた、見開いた目をじっと義勇に据えている。
「じゃ、禰豆子ちゃんも喜ぶし、みんなでお出かけしましょ! えっと、炭治郎くん? それでいいかなぁ?」
「甘露寺がこう言ってるんだ、おまえらさっさと支度しろ」
 甘露寺と伊黒の言に、へぇへぇと不死川も立ちあがった。義勇に断りを入れるわけでもなく、プリンターなどを勝手知ったる他人の家とばかりにしまいに行くその背を、義勇は思わず視線で追いかけた。炭治郎も同様だ。
 そうして再び顔を見あわせたとき、クスリと笑ったのは炭治郎のほうだった。
「義勇さんが迷惑じゃなければ、俺も一緒に行ってもいいですか?」
「おまえを迷惑だと思うことなんてない」
 事実だから、ためらうことなく義勇は即答した。頬を淡く染めた炭治郎は、義勇が望むそのままの、幸せそうな顔で笑った。