Hello! my family 4

 ピピピピピと軽やかな電子音が聞える。スマホのアラーム音だ。禰豆子が起きてしまう前に止めなければと、義勇は反射的に手を伸ばす。
 遮光カーテンの隙間から差す朝日は眩しい。今日は晴れているのだろう。雨降りだと禰豆子を送るのにいつもよりも時間がかかる。晴れていれば少しは楽だなとぼんやりと思いながら、義勇は緩慢な動作で起き上がった。
 傍らの禰豆子はまだよく眠っている。息をつめて見下ろした寝顔はあどけない。知らず義勇の口から小さな安堵のため息がこぼれた。
 禰豆子のまろい頬に涙の痕はない。昨夜は悪い夢は見なかったのだろう。禰豆子がうなされればすぐに目覚めているつもりだが、寝ているあいだのことだ。もしかしたら義勇が気づかずにいた可能性だってある。
 一時期、禰豆子は毎晩うなされ、真夜中に泣き叫びながら起きていた。そのたび義勇は飛び起きて、ガタガタと震える小さな体を抱きしめ、大丈夫だと何度もひたすらなだめたものだ。抱きしめる腕が義勇のものだと理解していたのか、いないのか。たいがいの場合、禰豆子は身を固くしたまま、疲れ果てて気を失うように眠るまで、義勇の腕のなかで泣いていた。

 ごめんなさい。ごめんなさい。いい子にします。もうしません。泣かないからあのお部屋に入れないで。

 震えながらそんな言葉ばかりを繰り返し、必死に泣くのをこらえようとする痛々しさに、義勇こそ泣きたくなったいくつもの夜。いっそ、わんわんと声をあげて泣いてくれればいいのに。思いながら、義勇も必死に禰豆子のやせ細った体を抱きしめていた。
 禰豆子が子どもらしい寝顔を見せるようになってくれるまで、半年ほどはかかっただろうか。禰豆子は勿論、義勇にとってもつらい日々だった。
 毎日ろくに眠れず、慣れない家事や激務に追われて疲弊していく義勇を心配してだろう。同期の同僚たちが口々に、このままの状態がつづくようなら禰豆子が落ち着くまでだけでも施設か病院にと言うのを、受け入れるしかないのかと憔悴しきっていたころだった。
 朝まで目覚めることなく眠ったその日、アラームの音に気づいた義勇は、覚醒した瞬間に青ざめ飛び起きた。
 禰豆子が泣いていたのに、一人のうのうと惰眠を貪るなんて。焦りと後悔に追い立てられのぞき込んだ禰豆子の顔に、涙の痕は見つけられず……。
 眠る禰豆子の頬を濡らしたのは、こらえきれずに零れ落ちた義勇の涙だった。
 そのときの安堵と喜びを、今でも義勇はありありと思い出せる。
 けれども、悪夢がすべて消え去ったわけではない。まだ時折禰豆子はうなされる。傷つき疲弊した幼い心は、まだ完全に癒されたわけではないのだ。だから義勇は毎朝、禰豆子の安眠を確かめずにはいられない。
 今日の禰豆子の寝顔は、微笑んでさえいるように見えた。いい夢を見ているのだろうか。それならいいのだがと、やわらかな髪をそっとなで、義勇は静かにベッドから出た。急いで朝食と弁当を作らなければならない。それでなくとも繁忙期の今は、なるべく早めに出社して残業時間を少しでも短縮したいところだ。もっと手際よく調理できるようになるといいが、いまだ義勇の炊事にかかる時間は、手早いとは言えない。時間はいくらあっても足りなかった。
 音をたてぬようそっと部屋を出ると、ふわりといい匂いが鼻先をかすめた。
「みそ汁の匂い……?」
 知らずつぶやき、そして義勇は思い出した。そうだ、昨夜から炭治郎がいるのだ。
 急ぎ足で台所に向かえば、明るい朝の陽射しに満ちた台所に、小柄な背中が見えた。
 ジュウジュウとフライパンの上で食材が焼ける音がする。香る味噌とバターの香り。ふんふんと楽しげな鼻歌は、なんだか調子っぱずれだった。
 くらりと、かすかに目がくらむ。記憶の遠く片隅で、やさしい笑い声が聞こえた気がした。お母さん今日のご飯なに? と問いかけるうれしげな声は、幼い自分か、それとも、姉のものか。返された母の声は、いったいどんな響きをしていただろう。もう、思い出せない。
「あ、おはようございます! もうすぐできますから、顔洗ってきてください」
 入り口に立ちすくんでいた義勇に気づいたのか、振り向いた炭治郎が言う。朗らかで元気な笑顔は、窓から差し込む陽射しよりも輝いて見えて、なぜだか無性に目をそらしたくなった。
 自分でも理由のつかない狼狽が、表情に出たわけでもないだろうに、炭治郎は敏感に義勇の当惑を感じとったらしい。明るい笑顔が、ふと気遣わしげにくもった。
「あの、大丈夫ですか? 顔色が悪いです……もしかして、風邪ひいちゃいましたか? 俺、寝てる間に布団取り上げちゃったりしてました?」
 お玉を握りしめたまま、せわしない声で言いながら炭治郎が近づいてくる。心配そうな問いかけに、そういえば昨夜は禰豆子に請われて一緒のベッドで寝たんだったと思い出し、とうとう義勇は気まずく視線をそらせた。
「大丈夫だ……。支度してくる」
「あ、禰豆子は何時に起こせばいいですか?」
 立ち去ろうとする義勇の背中に投げられた声は、まだ心配そうな響きをしているが、重ねて体調を問い質す気はないようだ。それに少し感謝して、俺が起こすからいいと返した声は、我ながらそっけなさすぎた気がして、義勇は内心で苛立ちと動揺を持て余す。
 あれだけ強引に同居するよう仕向けたというのに、こんな態度はよろしくない。責任ある大人のとる態度ではないだろう。困惑に自然と歩む足が速まった。
 これから同じ家で暮らすのだ。もっと和やかな雰囲気を心掛けなければとは思う。けれどわからないのだ。どんな顔をして、どんな言葉で、炭治郎に接すればいいのかが。
 にこやかに笑って、おはようと返してやるだけのことだ。そう思いはすれど、そのときの自分の顔は、はたして『まとも』な大人の男のものとして炭治郎の目に映るのか、義勇にはわからない。
 足早に廊下を歩きながら、義勇は、落ち着けと自分に言い聞かせた。
 禰豆子には炭治郎のように明るく誠実な、誰の目にも『普通』である者が必要だ。炭治郎に依頼したいのは、禰豆子の世話であって、義勇が友人やましてや家族のように炭治郎と接する必要はない。職場と同じだと思えばいい。社会人として最低限の挨拶などなら、たぶんこんな自分でも特に問題はないはずだ。炭治郎にも同じように対すればいいだけの話だ。
 顔を洗い終えるまでに、どうにか義勇はそう結論付けた。
 禰豆子には本当の兄妹のように愛情をかけてやってほしいと思うが、自分と炭治郎のあいだには雇用主と家政夫という関係しかない。なにも同居に気負う必要はないのだ。ビジネスライクに進めていけばいいだけのことだ。炭治郎だってそのほうが気が楽かもしれないじゃないか。
 思い至れば、もう、そうとしか思えなくなった。年だって十以上も離れている。炭治郎の趣味などは知らないが、せいぜい詰め将棋をするぐらいが関の山な自分とは、話など到底合わないだろう。
 そうと決まれば、苛立ちも和らぐ。難しく考えることはない。無理になれ合う必要はないのだ。
 炭治郎はたいへん真面目な良い子ではあるけれど、同時に、どこにでもいる『普通』の高校生でもある。自分のようなおじさんと、好んで話などする気はないだろう。
 そういえば……と、ふと義勇は昨夜の炭治郎のうろたえっぷりを思い出し、小さく苦笑した。
 禰豆子にねだられたとはいえ、昨夜は三人川の字で眠る羽目になって、炭治郎もさぞ困ったことだろう。今夜からはちゃんと禰豆子に言い聞かせなければ。禰豆子だけならともかく、義勇が一緒では炭治郎だって気が休まらなかったかもしれない。ただでさえ突然の環境の変化だ。初めて訪れる他人の家で、気疲れだってしていただろう。なのに禰豆子を傷つけることなく快諾してくれたのだ。炭治郎の思い遣り深さには、感謝しかない。
 寝室に戻るころには、すっかり義勇の動揺は消えていた。せっかく悪夢も見ずにぐっすり眠れた禰豆子に、朝から不機嫌な顔など見せたくはない。
 そっと室内を覗くと、禰豆子はまだスヤスヤと穏やかな寝息を立てていた。
 他人が一緒ではろくに眠れないだろうと思ったのに、炭治郎が部屋を出たことにすら気づかないほど自分も熟睡していたなと、ふと思う。けれど、禰豆子の安らかな寝顔の前ではそんな小さな気持ちの揺らぎは、すぐに消えた。
 禰豆子の穏やかな寝顔を見ていると、ふわりとやわらかななにかに心の奥をなでられるような心持がする。温かくやさしい気持ちだけが胸に満ちて、いつまでだって見つめていたくなったが、そういうわけにもいかない。そろそろ起きてもらわなければ、せっかく炭治郎が作ってくれている朝食だって冷めてしまう。
「禰豆子、朝だ」
 静かに声をかけて軽くゆすると、禰豆子の稚い眉がしかめられ、ゆるゆるとまぶたが持ち上がった。パチパチとまばたきする顔は、まだ寝ぼけている。桃色の愛らしい瞳がキョロキョロと辺りを見回した。
「……お兄ちゃんは?」
「台所でご飯を作ってくれている」
「ほんと?」
 パッと顔をかがやかせた禰豆子は、義勇の一言ですっかり目が覚めたようだ。よいしょとベッドを降りて、パパおはようと笑う顔は朝からたいそうご機嫌で、義勇は、やっぱり炭治郎を雇うことにして良かったと胸中で独り言ちた。
 禰豆子が幸せそうに笑ってくれているなら、自分の葛藤や戸惑いも、なんの役にも立たないプライドも、抑え込み捨て去ることなど苦でもない。

 まだ自分で顔を洗うと洗面所を水浸しにしてしまう禰豆子の洗面を手伝って、着替えをさせたら台所へと一緒に向かう。飛び跳ねるようなウキウキとした足取りの禰豆子に、また炭治郎への感謝が胸にわいた。
「パパ、いい匂いするね!」
「そうだな」
 ニコニコとした可愛らしい笑みは、台所に立つ炭治郎の姿を認めた瞬間に、いっそう深まった。
「お兄ちゃん、おはよう!」
「おはよう、禰豆子。よく眠れたか?」
「うん! お兄ちゃんは?」
 うれしげに炭治郎に抱きついて笑う禰豆子に、炭治郎が勿論と笑い返す。けれども、その笑みはすぐに苦笑めいたものへと変わった。
「あんなフカフカのベッドで寝たの初めてだったから、ちょっと緊張しちゃったよ。なぁ、俺、夜中に布団取り上げちゃったりしなかったか?」
 ……まだ気にしていたか。
 少しバツの悪い思いをしつつ、義勇は禰豆子の椅子を引き、手招いた。
「禰豆子、炭治郎が作ったご飯が冷めるぞ」
 食卓には、すでに唐揚げやら、ブロッコリーとウインナーの炒め物やらが鎮座している。唐揚げは弁当用の冷凍食品だろうが、こんなにしっかりとした朝食は、久しぶりだ。
 ごまかすばかりでもなく言えば、禰豆子はあわてて椅子に腰かけた。炭治郎もさらに追及する気はないのだろう。いそいそと炊飯器へと向かっている。
「朝はしっかり食べないとなっ。おかわりしてもいいぞ」
 ニコニコと笑いながら差し出される茶碗に盛られた白飯も、つやつやとしていかにもおいしそうだ。同じ米と炊飯器で炊いているというのに、義勇が炊いたご飯とは見た目からして違う。
「うんっ。いただきます!」
 元気に言う禰豆子に、はい、いただきます、と返した義勇と炭治郎の声がぴたりと重なった。
 思わず顔を見あわせると、炭治郎の顔に面映ゆそうな笑みが浮かぶ。
「小さい子にいただきますって言われると、つい言っちゃいますよね」
「……そうだな」

 自分では特に気にしたこともなかったが、そうか、これは『普通』のことなのか。

 思い返してみれば、まだこの食卓が毎日明るい笑い声で満ちていた日々のなかで、母が姉や義勇に返していた言葉だ。ごく当たり前の家庭の風景のなかにあった言葉なのだから、問題はない。一瞬だけ胸の奥にヒヤリとしたものが走ったのを取り繕うように、汁椀を手にした義勇は、味噌汁から少し顔を出している具材に気づき、パチリとまばたきした。
「ジャガイモ?」
 昨夜見たかぎりでは、残っていたのはひとつきりだったし、それは夕食に使われていたはずだ。まさか早朝にコンビニにでも買い物に出たのだろうか。まだ生活費を渡していないのに、自腹を切ったというなら、そこまでしなくていいと注意しなければならないだろう。
 思っていれば、炭治郎は、あぁ、と明るく笑った。
「フライドポテトがあったんで、具に使わせてもらいました」
「……味噌汁に使えるのか」
 思わず義勇は味噌汁をまじまじと眺めた。カルチャーショックもいいところだ。
 昨夜のスパゲティもだが、義勇にはドレッシングをソースとして使うような発想はまるでない。ドレッシングはサラダに、フライドポテトはフライドポテトとして。それしか使い道などないと思っていた。
 料理というのは意外と奥が深いなと、思わず虚無の顔で義勇は空を見つめた。
「お弁当のおかずのグラタンにも使ったんで、空になっちゃいましたけど……大丈夫でした? 買い足しておいた方がいいですか?」

 なんてことだ。グラタンにもなるのか。

 昨夜も思ったが、義勇にしてみればここまでくるともはや魔法の域だ。禰豆子もキラキラと目を輝かせて、尊敬のまなざしを炭治郎に向けている。
「グラタン!? お弁当にグラタンが入ってるの!?」
「マヨネーズを使ったなんちゃってグラタンだけどな。あとは朝ご飯と同じだよ。ごめんな。明日からはもっとちゃんと作るから」
 少し困ったような声には、幾ばくかの申し訳なさがにじんでいるような気がして、義勇はかすかに眉根を寄せた。
 炭治郎にとっては、これでも手抜きらしいが、元々食材などろくになかったのだ。それなのにこれだけの料理を作れるなんて、誇りこそすれ、困り顔をする必要などありはしないだろうに。なぜ謝ると、いっそ苛立ちすらして、義勇は味噌汁に口をつけた。
「……うまい」
「え? あ、ありがとうございます!」
「昨夜も言っただろう。あれしかなかった材料で、これだけうまい飯が食えるなら十分すぎるほどだ」
「おいしいよっ、お兄ちゃん!」
 黙々と箸を進めだした義勇の言葉を後押しするかのように、顔をほころばせた禰豆子の言葉が、炭治郎の心苦しさを晴らしたのだろう。気恥ずかしげではあるが、炭治郎の顔にもやわらかい笑みが戻った。
 良かった。不意に浮かんだのはそんな安堵だ。炭治郎にはあんな申し訳なさげな苦笑よりも、朗らかな温かい笑みのほうが似合う。
 どうしてそんなことを思ったのかはわからない。けれども、炭治郎の笑みに、胸の奥がほわりと温かくなったのは確かだ。それは、禰豆子のあどけない笑みを見つめているときの、胸にあふれる愛おしさに似ていた。

 和やかに進んだ食事を終えて、自分と禰豆子の身支度を済ませても、まだ少しばかり家を出る時間まで間があった。食事を作らずに済んだ分、ゆっくりと過ごせるのはありがたい。
 禰豆子は手を焼かせるようなことは一切しないが、それでも朝はいつだって慌ただしいのが常だったというのに、たった一人同居人が増えただけでこんなにも余裕が生まれるとは。
 おかげで炭治郎と今日の予定を話しあう時間もとれそうだ。
「炭治郎、ちょっといいか」
「はい、なんですか?」
 再び台所に顔を出すと、炭治郎は食器を洗い終えたところのようだった。にこやかに笑いながら近づいてくる炭治郎に、義勇は財布から取り出した札を差しだした。
「とりあえず、食費や雑費としてこれだけ渡しておく」
「わかりました! あ……でも、俺が買い物に行っちゃっていいんですか? 保育園の帰りに禰豆子とスーパーに行くのが日課なんでしょう?」
「いや……できれば今日から禰豆子の迎えも頼みたい」
 名を呼ばれ、禰豆子がきょとんとした顔で義勇と炭治郎を見上げてきた。
「お迎えパパじゃないの……? お買い物、お兄ちゃんと三人で行くんじゃないの?」
 少し寂しげな声で言われて、義勇はグッと言葉につまった。繁忙期なこともあり、義勇の迎えはどうしても遅くなる。保育園でひとり寂しく待たせるよりは、炭治郎に迎えを任せるほうが禰豆子も喜ぶと思ったのだが、禰豆子はすっかり二人が迎えにくるものだと信じていたらしい。
 勿論、禰豆子が望むのなら今まで通り義勇が迎えに行くのはかまわない。けれども義勇と禰豆子の帰りを炭治郎に待ってもらい、三人で買い物に行くのなら、遠目の大きなスーパーかコンビニに行くことになるだろう。そうなれば夕飯はかなり遅い時間になってしまう。
 帰宅時間を考えるなら、帰りに待ちあわせて炭治郎の元勤め先に行くのが、一番楽ではある。けれども、さすがに昨日の今日であの店に行くわけにもいくまい。
 どうしたものかと義勇が困っているのが伝わったのだろう。禰豆子の前にしゃがみ込み視線を合わせると、炭治郎がにっこりと笑った。
「禰豆子、俺じゃ義勇さんの代わりにはならないかもしれないけど、我慢してくれないか? 俺が迎えに行くから、一緒に買い物に行って、パパの好きなもの一緒に作ろう?」
「……鮭大根、お兄ちゃんと一緒に作るの?」
 小さな声でたずねる禰豆子に、炭治郎の首がことりとかしげられた。
「鮭大根?」
「パパが好きなの、鮭大根だよ。禰豆子にも作れる?」
 視線でそうなんですか? と問うてくる炭治郎に義勇がうなずき返すと、炭治郎の笑みが深まり、勿論と明るい声がひびいた。
「禰豆子はなにが好きなんだ?」
「んとね、金平糖」
 それはご飯にはならないなぁと苦笑した炭治郎に、禰豆子も恥ずかしそうに笑う。どうやら話は決まったようだ。ホッとして、義勇の肩からも力が抜ける。
「楽しみにしてる」
「うんっ、頑張って作るね!」
 言ってやり頭をなでれば、禰豆子もようやく義勇に笑顔を向けてくれるから、義勇は、助かったと伝えるために炭治郎にも小さく笑いかけた。パチリとまばたいた炭治郎が、ボッと火のついたように顔を赤くした理由はわからないが、このぶんなら問題なく禰豆子を任せられそうだ。
「あ、あのっ、お弁当も作ってあるんで二人とも持っていってくださいねっ」
 上ずる声で言ってテーブルに置いてあった弁当の包みを差しだしてくる炭治郎に、禰豆子の目が輝いた。
「グラタン?」
「うん、入ってるよ」
 ありがとうと素直に受け取った禰豆子と違い、義勇は、少々困惑気味に炭治郎が手にした包みを見つめていた。弁当など持っていったことがない。妻はそんなものを作ったことがなかったし、義勇も禰豆子の分を作るだけで手一杯で、自分の弁当など考えたこともなかった。そもそも、義勇の弁当箱などあっただろうか。
 義勇が困惑しているのに気づいたか、炭治郎の眉がくもった。
「えっと……義勇さんは、もしかしてお弁当いりませんでしたか?」
「いや……しかし、二人分も作るのは手間だろう? 明日からは禰豆子のだけでかまわない」
 申し訳ない心持ちで言えば、炭治郎はきょとんとしたあとで、こともなげに笑って言った。
「一人分も二人分も手間は変わらないですよ」
「……そういう、ものか?」
 はいっ! と明るく答える炭治郎と、禰豆子のより大きな弁当を見比べ……そして、義勇は差し出された包みを受けとった。
「ありがとう」
 自然と口をついた礼に、炭治郎が浮かべた笑みは幸せそうで。ほんのりと染まった頬に、なぜだか義勇の胸はキュッと痛んだ。
 それは、不思議と甘い痛みだった。