Hello! my family

「パパ、今日はちゃんと玉子買ってね。あと禰豆子のシャンプー!」
 足元から聞こえた声に、義勇は少し視線を下げて声の主を見下ろした。
 繋いだ小さな手の先で、幼い娘が義勇を見上げている。いったい誰に似たのやら、禰豆子は年齢の割にしっかりしていると思う。
 来年には小学校に上がるとはいえ、十二月生まれの禰豆子はまだ五歳だ。それにしては親の贔屓目抜きにしても言葉遣いも達者だし、理解も早い。
 自分に似ずなによりだと、義勇は内心苦笑した。別れた妻とは比べものにならないのは、言うまでもない。
「あぁ。忘れそうになったら教えてくれ」
「いいよ! 禰豆子が教えてあげる!」
 にっこりと笑う禰豆子に、少し疲れていた心がほっこりと温まる気がする。
 妻と別れて以来、慣れない手つきで自炊することにも、どうにか慣れてきた。とはいえ、まだまだ簡単なものしか作れない。禰豆子の好きなオムライスだって、いつも玉子が破れてしまって、皿を置くたび、禰豆子は落胆の顔を見せた。
 もちろん、そんながっかりした様子は一瞬で、すぐにパパありがとうと笑ってくれる。そのいじらしさが義勇の罪悪感を責め立てるのだ。せめて味がよければいいのだが、ご飯はケチャップの入れ過ぎでべちゃべちゃだったり、反対に味付けが薄すぎたりと、いまだにうまいかと聞いてやれるような出来のものは作れずにいる。
 毎朝の弁当作りも、今でこそてんやわんやな様子を禰豆子に見せずに済むようにはなったけれど、最初は黒焦げだったり生煮えだったりして、禰豆子にはずいぶんと我慢を強いてきたと思う。周囲の子どもたちの綺麗な弁当とは大違いの、義勇が作ったみすぼらしい弁当に、恥もかいていることだろう。今もおかずの大半は冷凍食品だ。おかげでいまだに義勇は、毎朝弁当を禰豆子のカバンに入れるのを躊躇してしまう。
 けれど禰豆子は、一度だって文句を言わない。それだけ以前の生活は禰豆子を傷つけてきたのだと思うと、義勇の胸は後悔と愛おしさに締めつけられる。

 せめてもう少し一緒にいられる時間を作れるといいんだが。

 思ってみても、なかなかうまくはいかない。大企業の財務部勤務ともなれば、月末、月初の業務量はまだ二十代の義勇にもこたえるものがある。残業だって増える。
 今日だって、禰豆子を迎えに行けたのは、保育園の延長保育時間ギリギリだ。運営方針だか知らないが、給食ではなく手作り弁当を持参と強要する割に、預かり時間は伸ばしてはくれないのだから、保育園に預けている意味を考えざるを得ない。とはいえ、入れたのがここだけで、しかも禰豆子には幼稚園から移ってもらっているのだ。文句を言うわけにもいかず、義勇はため息を飲みこむしかない。
 時刻はすでに夜の八時を回っている。スーパーの営業時間は九時までだから、こちらもギリギリだ。帰宅して禰豆子に食事をとらせて風呂に入れたら、持ち帰った仕事をしなければならず、のんびりとかまってやるような時間は到底とれない。
 この時間では弁当だって売り切れているだろうし、今日もレトルトのカレーになりそうだ。せめてサラダくらいは作れるといいのだけれど。
 思いつつスーパーの自動ドアをくぐると、いらっしゃいませと元気な声が聞えてきた。
 今まで何度も通った店だが、こんなに快活なあいさつなど一度もされたことはない。驚いて声の主を探せば、高校生くらいの少年がニコニコと笑いながらこちらを見ていた。
 ただしくは、禰豆子を。
「こんばんは!」
 大きな声で言う禰豆子にさらに相好をくずしたところを見ると、よほどの子ども好きなのだろう。義勇から見れば、少年だって十分に子どもではあるのだが。
 閉店が近いからだろうか、少年は、お薦め品のポップを明日のものと付け替えていたようだ。お仕着せのエプロンにつけられたネームプレートによると、竈門という名らしい。
「お兄ちゃん、お店の人?」
「うん。今日からなんだ。きみはお得意さんなのかなぁ」
「よく来るのかって聞かれたんだ」
 ん? と首をかしげている禰豆子に義勇が言うと、禰豆子は元気よくうなずいた。
「うん! あのね、保育園の帰りにパパとくるの。お弁当とか、禰豆子のおやつとか買うんだよ。パパが遅い日はね、袋のおかずを買うの」
「袋のおかず?」
 今度は少年がきょとんとする番だ。義勇としては、もういいからと立ち去ってしまいたいところだけれど、禰豆子がうれしそうに話をしているものを、無下に会話を断ち切るわけにもいかない。
「……レトルトだ」
「あぁ! そっかぁ、たしかに袋にはいったおかずだね」
 恥を忍んでいったのだが、少年はまったく気にした様子がない。たいがいの人はこれを聞くと、子供にレトルトばかりなんてと眉をひそめるものだが、この少年は禰豆子を憐れむでも、義勇を軽蔑するでもなく、ただ笑っている。
「レトルトって手軽でおいしいですもんね」
 義勇に向かいそう言って、少年は禰豆子に手を振った。
「おいしいの買ってもらえるといいね」
「うん! 今日はねー、ハンバーグ! 目玉焼き乗っけてもらうの!」
「へぇ、おいしそうだ。いっぱい食べるといいよ」
 義勇に向かいぺこりと頭を下げると、少年は仕事を再開した。それに手を振ってバイバーイと笑う禰豆子は、ずいぶんと機嫌がいい。禰豆子にまた手を振ってくれた少年に、義勇も軽く会釈して、いつのまにやら禰豆子のなかで決定していたメニューを食卓にあげるべく、チルド食品のコーナーへと向かった。
「お兄ちゃん、なんてお名前かなぁ」
「竈門って名札がついてた」
「かまど? お兄ちゃんのお名前?」
「あぁ。下の名前まではわからないが」
 じゃあ今度聞くと笑う禰豆子に、義勇も小さく笑った。
 禰豆子が初対面の人をここまで気に入るのもめずらしい。とくにこの一年ほどは、慣れた人にでさえ少し怯える様子をみせるぐらいだったというのに、初めから笑顔で、あんなに楽しそうに話をするなんて。
 あけっぴろげな明るい笑顔を、思い浮かべる。あの竈門という少年の、下の名前はなんというのだろうか。これからも禰豆子と仲良くしてくれるといいけれど。
 ご機嫌に話しながら歩く禰豆子に相槌を打ちながら、義勇は頭の片隅で、そんなことを考えていた。

 初めて竈門という少年と出逢ったのは、まだ時折肌寒い日もある四月だったが、梅雨に入った六月の今は、蒸し暑い日が続いている。
 今日の降水確率は二十パーセントで、雨の心配はいらないだろうと傘を持ってきていない。だというのに、だんだん雨雲が広がってきていて、義勇は少しばかりうらめしげに空をにらんだ。月初ということもあり、保育園への迎えが遅くなってしまった上に、雨に降られてはかなわない。忙しい時期だ。有給などとれる状態ではない今、禰豆子に風邪でも引かれては、にっちもさっちもいかなくなってしまう。
 こんな日はスーパーに寄るよりも、コンビニで弁当でも買ってしまえば楽なのだが、禰豆子は毎日スーパーで買い物するのを楽しみにしているから、しかたがない。
 いや、本音を言えば義勇だって楽しみではあるのだ。
 スーパーの新人店員だという少年と禰豆子は、すっかり仲良しだ。この一月のあいだに、炭治郎という名前も教えてもらったし、炭治郎にも禰豆子と呼ばれてうれしそうに笑っていた。
 年はかなり離れているが、本当の兄妹のように楽しげに話すふたりを見るのは、実のところ、義勇のひそかな楽しみにもなっている。
 会話するのは長くとも五分程度。仕事中の炭治郎を、それ以上禰豆子につきあわせるのは申し訳なく、五分経ったら禰豆子をうながすようにしている。
 禰豆子は残念そうだが、炭治郎は義勇の気遣いを察しているのだろう。またねと禰豆子に笑いかけた後で、義勇に少しだけ未練ありげな苦笑で会釈するのが常だ。
 本当は義勇だって、禰豆子と炭治郎の楽しげで他愛ない会話を、もっと長く聞いていたい。けれども、禰豆子のせいで炭治郎の勤務態度を咎められたりするのは避けたいし、帰りが遅くなるのも少々困る。
 定時に帰れた日には手料理だって作ってやりたいし、風呂だってまだ禰豆子は一人では入れない。洗濯や掃除だってしなければならないし、ときには、保育園で必要なものを用意する時間だっている。今日のように残業した日なら、なおさら時間が足りない。
 だからあまり長話はしないようにさせているのだが、今日は少々勝手が違った。
 店内に入ってすぐ、禰豆子がきょろきょろと炭治郎を探し始めたのは、いつもどおりだ。日用品の品出しをしていた炭治郎を見つけたのも、いつもと変わらない。問題はその後だ。
 洗剤を並べていた炭治郎を見つけた禰豆子が、いつものように口にしかけたお兄ちゃんとの呼びかけは、パンっという頬をたたく音にとまった。
 音高く自分の頬をたたいた炭治郎は、ブルブルと頭を振り、はぁぁっと深い溜息をついている。
 いったいなにごとかと、義勇と禰豆子が呆気にとられたのはいたしかたない。ふたりに気づいた炭治郎が、顔を真っ赤に染めて立ちあがるまで、義勇たちは声をかけることもできずに呆然としていたものだ。
「その、お見苦しいところをお見せしまして……」
「いや……」
「お兄ちゃん、大丈夫? ほっぺ痛くない?」
 気まずさを隠せない義勇と炭治郎に対して、禰豆子は素直そのものだ。いかにも心配げに聞かれ、炭治郎が照れたように苦笑した。
「大丈夫大丈夫。驚かせてごめんな。ちょっと眠かったもんだから……ひっぱたいたら眠気が飛ぶかと思って」
 言われてみれば、炭治郎の目の下にはうっすらと隈が見える。炭治郎はかなり生真面目そうではあるが、もしかしたらバイトの後で、友達や彼女とでも遊びに行っているのかもしれない。
 たぶん、今時の若い子ならば、それぐらいは普通なのだろう。

 俺は、普通の高校生の生活なんて、わからないけれど。

 沈みかけた義勇の意識を、禰豆子の声が引き戻した。
「お兄ちゃん、眠ってないの? パパがね、寝る子は育つって言ってたよ? おっきくなりたかったら、いっぱい寝なさいって」
「うーん、おっきくなれないのは困るなぁ。俺もいっぱい寝たら、禰豆子のパパみたいにおっきくなれるかな」
「義勇だよ! あのね、パパのお名前はね、冨岡義勇っていうの!」
 一瞬きょとんとした炭治郎が、じっと義勇を見上げてくる。ザクロのように赫い炭治郎の瞳は、幼さを残してくりりと丸い。その目がまっすぐに義勇を見つめ、ぱちりとまばたいた。
「義勇さん……義勇さんっていうんですね」
 なぜだか炭治郎は、噛みしめるように義勇の名前を繰り返した。
 大切な者の名を呼ぶように、ひとつひとつの音を慈しんでいるみたいに。
 炭治郎のその様子は、どうにも面映ゆいというか、なんとなく座りが悪い。そんな義勇の困惑に気づいたのか、たちまち炭治郎はあわてだした。
「あ、すみません! あの、俺、子どもとはすぐ仲良くなれるんですけど、親御さんの名前を教えてもらうのとか、初めてで! なんか……その、禰豆子だけじゃなくて、ぎ、義勇さんとも、その……仲良くなれたみたいな、そんな気がしちゃって……」
「いや……」
 可哀相なぐらいのあわてっぷりに、どうにかなだめてやりたいと思いはするのだが、どうにも口下手なものだから、うまく言葉が出てこない。気にするなと一言告げればそれで済む。そう思う端から、冷たいと言われがちな自分の言葉に、炭治郎が傷ついたらどうしようかと、そんなことばかりが頭に浮かぶ。
 戸惑いの空気を破ったのは、禰豆子のあどけない一言だった。
「じゃあ、パパとお兄ちゃんはもう仲良しだね! パパもちゃんとお兄ちゃんのお名前呼ばなくちゃダメよ。仲良しなんだもん!」
 明るい声で言う禰豆子に悪気はない。だが、義勇の狼狽を深めるには十分すぎる一言だった。
 たいしたことはないのかもしれない。名前で呼ぶなんてことは、普通のことなのかもしれないと、思いはする。けれども、めったに下の名前で人を呼んだことなどない義勇には、なかなかにハードルが高かった。
 けれども、炭治郎の瞳に期待の色が浮かぶのを見てしまったら、ごまかすこともためらわれた。
「……炭治郎」
 頭のなかでは何度も呼んでいた名前を、義勇がそっと口にしたあとの炭治郎の表情の変化は、それからしばらく義勇の頭から離れなかった。
 きょとりと見開かれた目が、たちまちやわらかくたわみ、頬がゆるむ。うれしげに目を細めて、大きく「はい!」と答えた唇が、優しい弧を描く。
 幸せという絵があるとしたら、それはきっと今の炭治郎の表情が描かれているに違いない。そんな言葉が浮かぶほど、炭治郎の微笑みはうれしげで、光り輝くようだった。
 呼び捨てにするなんてマズかっただろうか。一瞬浮かんだ義勇のそんな周章など、すぐさま霧散して、思わず見惚れてしまったほどに、それはそれは幸せそうな笑みだ。
 そしてまた、義勇は動揺する。だって初めてなのだ。こんなふうに誰かに見惚れることなんて、生まれて初めての経験で、どうしたらいいのかわからない。
 けれど、不快感はまるでなかった。困惑はしているが、胸の奥は不思議に温かい。
「あ、お買い物の邪魔しちゃってすみません」
「邪魔じゃないもん。ねー、パパ?」
「あぁ」
 義勇と炭治郎の、こんな会話とすら呼べないようなやり取りですら、禰豆子にはうれしくてたまらないのだろう。つないだ義勇の手をブンブンとゆらせて、ご機嫌に顔をほころばせている。
 自分が炭治郎と話すのもうれしいが、義勇が炭治郎と仲良くしているというのが、禰豆子にとっては喜ばしいことらしい。
「……俺たちのほうこそ、いつも仕事の邪魔をしてすまない」
「いえっ、そんな! 邪魔なんかじゃないです! 禰豆子かわいいし、俺も禰豆子と話すのがすごく楽しみなので!」
「パパは? ねぇ、お兄ちゃん。パパとお話するのも楽しい?」
 頼む、禰豆子。少し黙ってくれ。いや、禰豆子に悪気なんてひとかけらもない。子どもの無邪気な問いかけに、さしたる意味などないのもわかっているのだ。
 けれど、なぜだか禰豆子の問いは、ひどく義勇を動揺させた。
 なぜ自分の鼓動がこんなにも不安に速まるのか。なんで自分は炭治郎の返答をこんなにも緊張して待っているのか。わからなくて、義勇の困惑は深まった。
「楽しいよ! 義勇さんとお話できてすごくうれしい」
 ニコニコと言う炭治郎の言葉に、その笑顔に、なぜ、これほどまでに喜びが胸に満ちるのか。炭治郎の声でつづられる、義勇さんという自分の名前が、なんでこんなに優しく心にひびいて聞こえるのか。
 わからないけれど、それはとても温かく、やわらかな心地がした。
「ねぇ、お兄ちゃん。なんで寝なかったの? お兄ちゃんもご本の続きが気になっちゃったの? 禰豆子はね、パパにご本読んでもらって寝るとき、ご本の続きが聞きたくて眠れないことあるの」
 禰豆子の問いかけに、炭治郎の笑顔が苦笑に変わったのが、少し残念な気がする。だがその疑問は、義勇にとっても、多少気になるものではあった。
 プライバシー侵害という言葉が頭をよぎるが、炭治郎のうっすらとした隈が気になるのもたしかで、聞いていいものかと逡巡する。しかし、当の本人はとくに気にする様子もなく、ケロリとした顔でこともなげに言った。
「学校のレポートを提出しなきゃいけないんだけど、俺、英語と数学が苦手で……。先生に聞こうにも、うちの学校、あんまりサポート体制よくないんだ」
 先生たちも忙しいんだろうから、しかたないけどねと、炭治郎は残念がるようでもなく笑う。
「お勉強?」
「うん。俺は通信制高校だから、レポートを出さないと単位がもらえないんだ。ちゃんと三年で卒業したいから、頑張んなきゃ」
 寝不足は遊んでいたからではなかったのか。真面目な炭治郎らしいと、心のどこかで安堵している自分に気づき、義勇は知らず覚えた罪悪感に、つい眼差しをそらせた。
 どうやら自分は、炭治郎に対してずいぶんと夢見がちなようだ。勝手なイメージや理想を押しつけられる苦しさを、嫌というほど知っているくせに、炭治郎の日常が自分の想像通りの真面目なものであってほしいと、知らず知らずのうちに思い込んでいたらしい。
 忸怩たる思いのなか、ふとよぎった疑問に、義勇は無意識につぶやいていた。
「勤務時間はどうなってるんだ?」
「え? あの、俺のですか?」
 問いかけるつもりはなかったのだが、小さなつぶやきはしっかりと炭治郎に拾われたようだ。
 逆に問われて、義勇はしかたないとうなずいた。
 義勇は本来、あまり他人に対して関心がない。詮索するのは嫌いだし、会話することも苦手だ。
 けれど、炭治郎の疲れた様子はどうにも気になる。悶々と考え続けるよりはいいと、じっと見すえれば、炭治郎は少しとまどっているように見えた。
 義勇たちが店を訪れるのは、早くても七時。遅ければ今日のように閉店ギリギリだ。炭治郎はいつもいるから、午後の勤務だと思っていたのだけれど、寝不足になるということは、学習時間は帰宅してからなのだろうか。それなら、午前中はどうしているのだろう。
 通信制高校でも、週五日間通学するコースもあるらしいから、炭治郎がそういうコースを選んでいる可能性はある。それはたしかなのだが……それにしては、疲れすぎではないだろうか。
「えっと、一応朝九時から夜九時までいます」
 は? と声が出たのはしかたがない。
「休憩時間は?」
「一時間もらってますけど……」
 どんどん険しくなっていく義勇の表情に、炭治郎と禰豆子が不安がっているのはわかっていたが、怒りはとめようがなかった。
「十八歳未満の年少者の労働時間は、一日八時間以内と定められている。労基違反だ」
 平日の帰りに、炭治郎の顔を見なかったことはない。土日は休みをもらっているのだとしても、それにしたって超過勤務にもほどがある。
「おい、まさかタイムカードを押してから、残業しているなんてことはないだろうな」
 ふと浮かんだから聞いたものの、まさかそれはないだろうと思ったのに、炭治郎はビックリ顔で「なんでわかるんですか!?」と反対に聞いてくる始末だ。
 思わず絶句し、こめかみを押さえたのは当然の反応だろう。怒りと呆れがないまぜになって言葉を失った義勇に、炭治郎と禰豆子はあわてた様子で、大丈夫ですか? だの、パパ頭痛いの? だのと心配してくる。
「大丈夫かはおまえのほうだろう、馬鹿者!」
「へっ? え、あのっ」
「サービス残業は違法だ。そもそも年少者の時間外労働は禁じられている。完全に労働基準法違反だ。店長の命令か?」
「ち、違います」
 視線をそらせ、なんとも言えない表情で言う炭治郎の声は、あきらかに上ずっている。見るからに挙動不審なその態度に、義勇は思わずため息をつきたくなった。
 嘘のつけない性格なのだろう。それはそれで好ましいと思いはするが、この場合は苛立ちのほうが勝る。
 店長をかばいだてする必要など、どこにあるというのか。違法な超過勤務を強いられた結果、自分の頬を張らねばこらえきれないほどの睡眠不足に陥っているのは、ほかならぬ炭治郎自身だというのに。
「もういい。おまえじゃ埒があかん。店長と直接話をする」
「ま、待って! あの、しかたないんです!」
 踵を返した義勇に追いすがって、炭治郎がわめくことには、曰く、コンビニに押されて経営不振だの、高齢化した店員が続けざまに退職したばかりだの、義勇に言わせればそれがどうしたということばかりだ。
 店が困っているのはたしかなのだろう。個人経営のあまり品ぞろえもよくないスーパーだ。閉店前ということを差し引いても、客が少ないと感じてもいた。義勇だって保育園からの帰りに丁度良い立地でなければ、買い物に寄ることもなかっただろう。時間を気にせずに済むのなら、少し遠い全国チェーンの大手スーパーに行っていただろうし、割高になってもコンビニだってある。
 正直なところ、この店がつぶれれば多少は時間の余裕が失われるだろうが、たいして問題ではない。それはほかの客にしたところで同様だろうと思われた。
 それでもまだ潰れずにいるのだから、競合他社に押されるなか、営業努力はそれなりにしているのだろう。経費の節約もしているに違いない。義勇がおとずれる時間が遅いことを差し引いても、店員の姿だって少ないことを見れば、人員不足でもあるのは容易に知れた。
 だが、そのしわ寄せを、高校生でもある炭治郎に背負わせるのは、あまりにも非道というものだ。
 それなのに、炭治郎は店長をかばう。あまりにも必死すぎて、さらに疑問を呼ぶだけだと、炭治郎はわかっていないようだ。
「なんだってまた、そんな必死にかばうんだ。義理でもあるのか」
 苛立ちを抑えきれずに言った声は、冷ややかに聞こえたのだろう。炭治郎だけでなく、禰豆子までびくりと肩を震わせて、義勇は、しまったと思わず舌打ちしたくなった。
 おびえさせたいわけではないのに、いつでもこうだ。そんな気はみじんもないのに、どうにも自分は人から見ると居丈高に見られるらしい。お高くとまっているだの、高飛車だのと、聞こえよがしに言われたことも、一度や二度ではなかった。
 禰豆子の教育によくないだろうと、自分では気をつけているつもりなのだが、それでも義勇の言葉は人を不快にさせたりおびえさせたりしてしまう。
 自己嫌悪におちいりかけた義勇に気づいたわけでもないだろうが、炭治郎は、すっと肩の力を抜き苦笑めいた笑みを浮かべた。
「心配してくれてありがとうございます。でも、本当に大丈夫ですから。俺、頑丈なのが取り柄なんです。働けるだけでもありがたいし、働かなきゃ家賃も払えなくなっちゃいますから」
「……おまえが払っているのか? 親は」
「俺、孤児なんで」
 さらりと、なんでもないことのように、炭治郎は言う。微笑みすらして、言いよどむこともなく。
 きっと、何度も繰り返し口にした言葉なのだろう。炭治郎にはなんの気負いも見られなかった。動揺しているのは、義勇だけだ。そしておそらくは、動揺されることにももう、炭治郎は慣れているのだろう。かける言葉を失った義勇に、炭治郎はなおも笑った。
「養護施設には十八まではいてもいいんですけど、俺、早く自立したかったんです。施設の先生たちは優しかったし、下の子たちもかわいかったけど、早く家庭を持てるようになりたくって」
 静かに言って笑う炭治郎を、義勇がなにも言えずじっと見つめていると、くいくいと手が引かれた。おびえさせたのは禰豆子も同様だったことを思い出し、内心少しあわてながら禰豆子を見下ろすと、禰豆子はちょっともじもじとしながら、コジってなに? と聞いてきた。
 どう答えたものかためらう義勇より早く、禰豆子の疑問に答えたのは炭治郎だった。
「お父さんとお母さんがいない子のことだよ」
「お兄ちゃん、パパとママがいないの?」
「うん、赤ちゃんのころからいないんだ。禰豆子はいいな。こんなかっこよくて優しいパパがいて」
 しゃがみ込み、禰豆子と視線を合わせて言った炭治郎に、禰豆子の顔がなぜだか泣きだしそうにゆがめられた。その様子には、義勇のみならず炭治郎も驚いたのだろう。どうした? と聞く声があわてている。
「お兄ちゃんにはパパがいないのに……禰豆子ばっかりパパがいて、ごめんなさい」
「なんで謝るんだ? 禰豆子は全然悪くないぞ?」
「でも……」
 自分ばかり恵まれてズルいとでも思ったのだろうか。大好きなお兄ちゃんにたいして、禰豆子はたいそう罪悪感を抱いてしまったようだ。
 義勇も困惑したが、炭治郎もまさか禰豆子が落ち込んでしまうだなんて、想像すらしていなかったのだろう。どうなぐさめたものかとあわてている。義勇だって禰豆子が悲しむのはつらい。けれど、なにを言えばいいのか……と、悩んだりあわてたりしている義勇と炭治郎をよそに、不意に禰豆子はパッと顔をかがやかせた。
 そして言ったのだ。
「そうだ! お兄ちゃんにパパを貸してあげる!」

 は?

 今、炭治郎と自分の心境は、ぴったりとシンクロしているのだろうなと、呆然としながらもほんのちょっぴり笑いたくなった義勇だった。