※実弥、誕生日おめでとう!
最寄り駅近くのデパートには、昔、屋上遊園地があった。
当時でも、そんなものが残っているデパートは、相当珍しかっただろう。古めかしくはあるが、休日ともなればそれなりに家族連れでにぎわう場所だった。
乗り物には全部金がかかる。ほかの子どもたちのように、次はあれ! と大はしゃぎで親の手を引くようなことは、できやしなかった。背に乗って園内を動くパンダやゾウも、小さな回転木馬や機関車も、横目で見るだけ。食堂でお子様ランチを食べることもない。
「誕生日なのにごめんね、実弥。乗りたいよね」
「いいって、俺もう七歳だぜ? あれはチビが乗るもんだろォ。あ! ホラ、あそこでやってるよ、母ちゃん!」
十一月末の、木枯らしが吹く寒い屋上遊園地には、多くの人が集まっていた。賑やかな歓声が聞こえる。母の手を引き、実弥は明るく笑って歓声のするほうへ歩き出した。
誕生日プレゼントを買ってあげる。デパートに行こう。母が約束してくれたのは一週間前。楽しみ過ぎて眠れない夜を過ごした実弥は、十一月二十九日の誕生日に、約束通りデパートにいる。ただし、おもちゃ売り場などには寄らずに、エレベーターで屋上へ直行だ。
母が実弥へのプレゼント代にとっておいた金は、父のパチンコ代に消えたから。
ごめんね、ごめんねと泣いた母の背で、まだ小さい弟の玄弥も、母につられて泣きだす。不死川家では日常的な光景だ。誕生日だからといって、なくなることなんてない、慣れた日常。
プレゼントなんていらねぇよと笑った実弥の手を引き、それでも母はデパートへとやってきた。
バスで三十分ほどの道のりの半分は、節約するために歩いた。小学一年生の実弥には、なかなかに遠い道のりではあるが、文句や泣き言など言うわけもない。
玄弥は母の背で眠っている。一緒にお出かけなんてどれぐらいぶりだろう。それだけで実弥の胸は弾んで、歩く長い道のりはただ楽しかった。
母の目当ては、屋上遊園地でおこなわれるイベントだったらしい。観覧料は無料。実弥たちがデパートに着いたとき、大道芸人のパフォーマンスはもう終盤近かった。
いい場所はすでに観客たちに埋められて、人波の合間から垣間見るよりほかない。父親に抱きあげられたり肩車されたりしている子どもたちと違って、実弥にはそんなことをしてくれる父はいない。実弥が父と呼ぶ人は、酒に酔っては暴れて母を殴り、ろくに仕事もしないろくでなしだけだ。
精一杯つま先立ちしてステージを見ようとする実弥に、母はやっぱり悲しげな顔をしている。それに気づいた実弥は、また「ごめんね」と言われる前にぺたんと踵をおろし、周囲をきょろきょろと見まわした。
「母ちゃん、こっちだァ」
手を引きステージの真横近くまで行くと、人波が途切れる。正面から見られるわけじゃないけれども、母が申しわけなさげな顔をせずに済むのならそれでいい。スタッフがちょっとだけ顔をしかめたけれども、実弥たちを一瞥しただけでなにも言わなかった。
憐れみの視線は、まだ小学生だろうと、理解できる。一瞬カッと羞恥と怒りが身を焼いたけれど、
「あぁ、よかった。ここなら見られるね。実弥、すごいね」
母はホッとしたように笑うから、実弥も「うん、母ちゃん連れてきてくれてありがとう」と笑ってみせた。
ステージ横から見る大道芸人は、銀色の輪っかを生き物のように操り、観客の歓声を浴びている。いくつもの銀の輪が作り出す模様は、横からじゃわからない。けれども、そんなことは問題じゃない。母が楽しいねと笑ってくれるなら、実弥にとってはなによりのプレゼントだ。
ステージ上よりも、正面のパイプ椅子に陣取る観客の顔のほうが、よっぽどよく見える場所ではある。それでも母は、やっと実弥の誕生日を祝ってやれたと安堵しているらしい。うれしそうに笑う顔を見れば、実弥も、よくわからない芸にさえワクワクとした。
大技が出たようだ。ひときわ大きな歓声があがる。横から見ても驚くぐらい、とんでもない高さまでずらっと重なり伸びた輪っかに、思わず実弥もスゲェと目を見開いた。
その目が正面席を映したのは、偶然だ。明るい笑顔のなかで、たったひとり、うつむき気味にぽつねんと座る女の子がいた。
白いワンピースの胸元には、ピンクのリボン。白いタイツの先には、やっぱりピンクのつやつやした靴を履いている。フワフワとした短い丈の上着も白。長い髪は後ろでひとつに結ばれているようだ。実弥と同い年くらいの女の子。隣に座るきれいな女の人は母親だろうか。すごいねぇと笑う顔は楽しげだが、うなずく女の子はステージなんて見ちゃいない。じっと自分のつま先ばかり見ているようだ。
女の人の膝に置かれたバッグはピカピカしてる。母の持つ貰いものの布バッグとは全然違う、高そうなバッグ。着ているものも、きっとほつれや継ぎあてなんてひとつもないに違いない。身形一つとっても実弥の家とはまるで違う家庭だとわかる、親子連れ。
つまんなそうにしやがって。なにが不満なんだよ。嫌ならこなきゃいいのに。
母がどうにか実弥を祝おうとしてくれた気持ちまで、関心なさげな暗い顔に台無しにされた気がして、実弥はイライラと女の子を睨みつけた。うつむく女の子は、実弥の視線になんてまったく気がつかなかったけれども。
もう終わり近かったステージは、ものの十分と経たずに芸人の一礼で終了した。来るまでにかかった時間は一時間あまり。目的の芸を見られたのは、ほんの十分足らず。人垣がばらけていき、吹きつけた風が冷たくて、首をすくめる。
「終わっちゃったね……帰ろうか」
金のない身では目の毒にしかならない遊具やおもちゃ売り場は、あまり実弥の目に入れたくないのかもしれない。実弥は気にしないが、母の罪悪感が掻きたてられるというのなら、否やもなかった。
素直にうんとうなずいた実弥の視線が、ふと止まったのは、キャッキャと笑う子どもの声がする方角だ。
色とりどりの風船が見えた。サービスで子どもたちに風船を配っているらしい。赤に青、黄色や緑にピンクと、秋の澄んだ青空に映えるいろんな色の風船が、木枯らしに吹かれながらゆらゆらと揺れている。
傍らを通りすぎた子どもが「もらってきたよ」と笑いながら母親に駆け寄っていく。
それをじっと見た母が、少しむずがる背中の玄弥をゆすりあげながら、実弥に笑いかけた。
「風船、もらおうか」
「うんっ!」
ゆらゆら揺れる、色鮮やかな風船。誕生日に貰ったと、胸を張れるようなものではないかもしれないが、実弥はまったくかまわなかった。
「実弥は何色だったらうれしい?」
「青! 女色はヤダ。男色がいい」
「女色? なぁに、それ」
「ピンクとかそういうの。女の着る色だろォ」
そんなのみっともない。恥ずかしい。唇をとがらせる実弥に、母はそうなの? じゃあ青がもらえるといいねぇと笑っている。
出遅れたせいか風船は残り少ないようだ。急がないとと早足になった実弥は、目にした光景にパチリとまばたいた。
アイツだ。
だいぶ人のはけた配布場所で、白いワンピースの女の子が風船を受けとっていた。ピンク色の風船だ。
「かわいい風船もらえてよかったわね」
笑う母親に、こっくりとうなずく顔は、やっぱりちっともうれしそうじゃない。実弥の胸に苛立ちがまたわき上がる。
チェッ、ふてくされるぐらいならくんなよ。
これだから女は嫌なのだ。クラスの女の子も、すぐにぴぃぴぃ泣いたりキィキィ怒り出す。面倒くさくてかなわない。
せっかくの楽しい気分が台無しだと、実弥は女の子から視線をそらせて、母の手を引き風船を配る人に近づいた。
「はい、これでラスト! 間にあってよかったね」
「青だ! ありがと」
バイバイと笑って手を振ってくれるお兄さんに手を振りかえし、青い風船を片手に出口に向かった実弥は、観たくもない姿をまた目に映すことになった。
ピンクの風船を持った女の子が、片手を母親と繋いで前を歩いている。
「レストランでお子様ランチでも食べましょうか。それともパフェのほうがいいかしらね。新しいお洋服も見ていきたいわね」
話しかける母親の楽しげな声にも、女の子は、うんと小さく答えるだけだ。長い黒髪は、風船よりも淡いピンクのリボンで結ばれていた。
のろい奴らだな。とっとと行けばいいのに。
イラっとしつつ追い抜こうと母の手を引いた実弥の目の前で、女の子の手からするりと風船の紐が抜け出た。
「あっ」
思わず声を出した実弥の目が、空に吸い込まれていくピンクの風船を追い、ついで、声に振り返った女の子の顔を映した。
今までずっとうつむいていてよく見えなかった女の子の顔は、白く整っていた。ふんわり広がる沁みひとつない真っ白なワンピース。胸元のリボンと靴は、明るいピンク。まるで花みたいだとなぜだか思う。長いまつ毛に縁どられた目は、深い深い青だ。海みたいな色をした目が、実弥を映して、小さく揺れた。
「あらっ、せっかく貰ったのに。新しいの貰えるかしら」
母親が言うのに、女の子は少しあわてたように首を振った。
「いいの」
「でも、ピンクの風船かわいかったのに……本当にいいの?」
ちらりと実弥を見た女の子は、どこかつらそうにまたうつむいた。
実弥は手にした風船を見る。男色の青い風船は、風に吹かれてゆらゆら揺れている。
「母ちゃん、これ、あの子にやっていいかァ」
母を見上げて小さく言った実弥に、母は少し驚いた顔をしたが、すぐに笑ってうなずいてくれた。
母の手を離し、女の子に近づく。
「やる」
グイっと風船を握った手を突きつけた実弥に、顔を上げた女の子は、パチリとまばたいた。ぽかんとして見えるその顔を、なんだか見ていられずに、実弥は「ほらっ、さっさと持てよ!」とさらに手を前に出した。
「あら、いいの? もう風船はないみたいなのに」
「べつにいい」
ぶっきらぼうに答えた実弥の手に握られた風船の紐に、そろりと女の子の手が触れた。
「青……男の子色だ」
「なんだよっ、嫌ならいいんだぞ!」
ムッと言って手を引っこめようとすると、紐をつかんだ女の子の手に力がこもったのがわかった。
フルフルと首を振って、まっすぐ実弥を見返した海の青が、やわらかく微笑む。
「青、うれしい。ありがと」
小さな声は、少し弾んで聞えた。
「ん、ならいいけどよ」
手を離す自分の上着の、ちょっとほつれた袖口が、無性に恥ずかしい気がした。けれども女の子は、そんなことを気にした様子はまるでない。風船の紐を胸元でキュッと握りしめ、青い風船を見上げてうれしそうにはにかんでいる。
実弥は女が苦手だ。クラスの女の子をかわいいと思ったことなど、一度もない。けれども、ほのかに微笑むその女の子は、まるで野辺の小さな花のようで、知らずかわいいなんて言葉が浮かんできた。
礼を言う女の子の母親の言葉や、よければ代わりにと母に差し出された高そうな菓子の包みも、実弥の頭に入ってはこなかった。
男色した青い風船をうれしそうに見上げる女の子の、風船よりも、その上に広がる空よりも、ずっときれいな瞳の青ばかりが目に焼きついて、なぜだか胸がドキドキとする。
ぺこりと頭を下げて立ち去る親子を見送って、母がまた実弥の手を取った。
「風船あげちゃったけど、お菓子になったね。わらしべ長者みたいだねぇ」
フフッと少しおかしそうに笑う母が、お家帰って食べようかと言うのに、こくりとうなずく。
帰りもまた、半分は歩く。夕飯はきっと、いつものようにモヤシ炒めやふりかけご飯だ。バースデーケーキなんて、絶対に卓袱台に乗ることはない。
だけど今日は、食べたこともない菓子を食べる。青い風船の代わりに貰った、ちょっとお高そうな焼き菓子を、母と玄弥と三人でこっそりと。
誕生日プレゼントは、菓子と花のような女の子の小さい笑み。
また逢えるかな。そんなことを思う自分が不思議で、われ知らず頬が熱くなった誕生日だった。
「……がわ、不死川、時間だ」
肩をゆすぶられて目を覚ました実弥は、寝起きの視界に映った男の顔に、小さく目をすがめた。
「あー、もう休憩終わりかァ」
「あと五分だ」
んー、と伸びをすれば、午後の勤務開始五分前のメロディが流れ出す。空いた会議室には、居眠りしていた実弥のほかには、呼びに来た不愛想な同期の男しかいない。
立ち上がる実弥を待っているのか、ぼうっと佇む男の目は、深い青。
「機嫌がいい」
「あぁ? 俺がかァ?」
こっくりとうなずく同期――冨岡に、はてと実弥は首をかしげた。なにやら懐かしい夢を見ていたような気もするが、思い出せない。けれども確かになんとなく、胸のなかがほわりと温かい気もする。
「誕生日だからか」
言われて実弥は、出がけに玄弥たちが「誕生日おめでとう」と笑ってくれた顔を思い浮かべた。
朝祝われるまで、自分の誕生日などてんで忘れていたぐらいだ。まさかこの鉄面皮がそんなものを覚えているとは思いもよらず、唖然と見つめれば、キョトンとした視線が返ってくる。
思わず無言で見つめあってしまったが、すぐに冨岡は、合点がいったと言うようにパチリとまばたきし、素っ気ない声で言った。
「誕生日おめでとう」
なんなんだ、そのガキみてぇなムフフ笑いはよォ。
どうだ、覚えていたぞと言わんばかりの子どもじみた笑みに、なんだか胸の奥がこそばゆくなる。
「……あんがとよ。てか、テメェ祝うならプレゼントぐらいねぇのかよ」
照れくさいのをごまかしたくて言っただけなのに、冨岡は真に受けたようだ。目を見開くとパタパタとスーツを叩きだし、取り出したのは眠気覚ましのガムだった。
「これぐらいしかなかった」
「冗談に決まってんだろうがァ。でもま、貰っといてやらァ」
ニヤリと笑って、差し出された開封済みのガムを一枚抜き取る。
「んじゃ、午後も頑張ろうかねェ」
ドアに向かう実弥の傍らを通り際、冨岡の手が実弥のスーツに伸びた。ポケットにひょいと突っ込まれたのは、たぶん残りのガムだろう。
「全部やる」
「……どうも」
どこか満足げに見えなくもない無表情をながめつつ、肩をすくめて苦笑する。
同期入社の愛想のない男。新人研修で一緒のチームになって、不愛想さやムカつく言動に嫌っていたのは、束の間。気がつけば、なんだか放っておけない存在になっている。
だけれども、それだけだ。べつにどうこうなりたいわけでもないし、このままで一向にかまわない。
もう一度伸びをして、ふと振り返った窓の外、秋の空は青く澄んでいる。秋晴れの空は、冨岡の瞳よりも淡い青。
愛娘の禰豆子がえらんだのだろう、ピンクのストライプが入ったネクタイを締めた冨岡が「遅れるぞ?」と振り返り言う。
ピンクもこいつなら似合うよなと、実弥はうっすら思う。
朝から家族に祝われて、きっと帰ればホットケーキミックスで作ったバースデーケーキが待っている。ポケットには封が開いた眠気覚ましのガム。
そんなありふれてささやかな、小さな幸せに満ちた日常のなかの、誕生日。