水天の如し 四 ◇少年、旅立つを目指し鍛錬に励むの段◇

 抜けるような高い青空に、白い雲が流れていく。雲の流れは早い。
 それにふと視線を奪われた炭治郎は、木剣を振る手を止めると、額を伝った汗をグイッと手の甲で拭いた。乱れかけていた呼吸に気づき、深く息を吐く。

『すべての基本は調息(呼吸)だ。息は吸うのではなく飲み込め』

 鍛錬を開始したその日に、しかつめらしく指南されたのは、剣の扱いではなく呼吸についてである。「わかりました! こうですかっ」と勢い込んで返事したものの、どうすればいいのか皆目わからず、はくはくと不格好に空気を食んだのも、もはや懐かしい。

臍下丹田せいかたんでんに、息を落とし込む……」
 呟いて、炭治郎は口をキュッと閉じた。舌先を尖らせて上歯茎にそっと当てると、肛門を絞るようにして、ゆっくりと静かに鼻から深く息を吸い込む。肝心なのは、腹ではなく胸で呼吸すること。大きく胸をふくらませるように息を飲みこんでいく。
 一風変わったこの呼吸にももう慣れた。だが、まだまだ未熟だ。走ったり木剣を振ったりといった行動が伴うと、いまだについ調息がおろそかになることがある。気をつけないと、またぞろどこかからか鉄拳が飛んでくる。ゴツンと脳天に落とされる拳骨を思い出し、ヒヤリと背が震えた。師や錆兎の拳骨はやたらと痛いのだ。自他ともに認める石頭の炭治郎でさえ、思わず頭を抑えてしゃがみこんでしまうほどに。

 深く吸い込んだら、数秒間はそのまま。すぐに息を吐いてはいけない。吐くときは口からだ。舌先を歯茎から離して喉の奥へと巻き込んだら、肛門を一気にゆるめて、ゆっくりと静かに口から息を吐き出す。吐いたあとにも数秒はそのまま静止する。
 仙人が行うこの呼吸法を、炭治郎はここ、狭霧山についたときから、事あるごとに叩き込まれている。呼吸が大事、集中力を養えとの言葉は理解できるが、寝ているときでも調息を止めるなとは、まったくもって無理なことを言う。最初は目を白黒させたものだ。けれどもこれができないことには話にならないと言われれば、素直に従うよりほかに道はない。
 ゆっくりと呼吸を続けていると、臍下丹田――へそから三寸(約九センチ)ほど下のあたりが、じわりと燃えるように熱くなってくるのを感じる。命の火が燃える場所。自分の体に仙境の清浄な空気が吹き込まれ、四肢に力がみなぎるような心地がする。感じ取れるようになっただけでも、少しは成長した証だろうか。
 仙人はすべて調息を身につけているとは、錆兎の談だ。呼吸法にも種類があり、流派によって異なるらしい。炭治郎が師事している鱗滝老師ラオシーの流派は水の呼吸と呼ばれている。ほかにも炎やら風やらといった呼吸があるそうだが、炭治郎はまだそれらの呼吸法を使う者に逢ったことがない。
 仙人になりたいなど思ったことは一度もないのに、人の踏み込まぬ仙境で修業に明け暮れる日々。ときに気がはやるが、近道などどこにもないのだ。禰豆子を人に戻すためならば、修業に励むしかない。

 チチチとどこかで小鳥が鳴いた。蒼穹はどこまでも高く広く、澄みわたっている。下界では冬が訪れているはずだ。新年の支度をそろそろ始めようかという頃合いであろう。だが、この狭霧山では季節の訪れなどろくに感じることがない。
 炭治郎が生まれ育った雲取山よりもさらに峻険な、緑深い高山である。

 仙境、狭霧山。

 ただの焼き物職人であったのなら、人生において一度として訪れることなどなかったであろう場所だ。だが今炭治郎は、そんな下界から遠く離れた山奥で起居し、鍛錬に励んでいる。
 前回、義勇と錆兎に逢ってから、いったい何日が経っただろう。そろそろまた二人が狭霧山を訪れる頃合いだ。
 整っていく息を意識しつつ、炭治郎は流れる雲へと瞳を向けた。
「義勇さん、一つぐらいは感情取り戻せたかな」
 つぶやき見上げる空は、義勇の瞳のように青く澄みわたっている。

 あの惨劇の雪の日から、はや二年が経とうとしていた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 炭治郎の決断は、錆兎には快く受け入れられたらしい。ニッと笑んだ唇は満足げだった。義勇はどうだろう? がんばれと励ましてくれるだろうか。思い、炭治郎がチラリと視線をやれば、義勇の顔にはなんの感慨も見られなかった。無意識にがっかりしている自分に気づき、炭治郎は、内心少々うろたえた。
 なんでさっきからこんなにも義勇のことが気になるのだろう。恩人なのだから当たり前だと思わぬでもないが、それにしては、これほど他人の目が気になるなど初めてのことだ。ましてや今は、禰豆子のことがなによりも気がかりだというのに。
 こんなにも感情が読めぬ人と出逢うのも、初めてだ。だからなのだろうか。なにを考えているかさっぱりわからないというのは、どことなし居心地が悪い。けれども不快かと問われれば、そんなことは決してないと炭治郎は答えるだろう。

 義勇のそばにいるのは、なぜだか心地よい。

 もしも義勇さんに嫌われたら、泣いちゃうかも。不意に思って、炭治郎はさらにうろたえた。
 人に嫌われるのは悲しい。けれども人の心は他人にどうこうできるものでもない。しかたのないことだと諦めるなり、好かれるよう努力しようと笑うなりするだけだ。
 だというのに、泣きたくなるなんて、自分はいったいどうしたというのだろう。
 困惑で乱れる炭治郎の胸中に気づいたというわけでもないだろうが、義勇の瑠璃の瞳がふと炭治郎に向けられた。
 澄んだ深い青の瞳が、自分を映している。気づいた瞬間、炭治郎の鼓動がドキリと跳ねた。勝手に頬が熱くなる。本当に、こんなことは初めてだ。誰かに見つめられただけでドキドキと胸が甘く高鳴るなど、なにかの術にでもかかっているんだろうか。
 戸惑いつつも義勇の瞳から視線が外せず、思いがけず見つめ合うこと暫し。不意に義勇の眉がピクリと震えた。
 サッと立ち上がる義勇に、え? と思う間もなく、錆兎もまた立ち上がっていた。錆兎の顔はふたたび険しく引き締まり、ふたりの視線が同じ場所にそそがれる。
「目覚めるぞ」

 緊迫した一言の意味など、問うまでもない。

「禰豆子っ」
 慌てて炭治郎も腰を浮かせ、禰豆子へと視線を馳せる。こんもりとふくらんだ義勇の外套が、錆兎の言を裏付けるようにかすかに動いた。
「炭治郎、おまえの決意には敬意を払うが、場合によっては俺らはあれを斬ることになる。覚悟しておけ」
「え!? 待って!」
 剣呑な言葉に炭治郎の顔から血の気が引いた。本心からの言葉なのだろう。錆兎の手は腰に帯びた刀に触れている。義勇もすぐにも抜刀できる構えだ。
 やめてくれと炭治郎は禰豆子に駆け寄ろうとしたが、果たせなかった。慌てすぎてもつれる足にまろびかけた炭治郎の腕は、いつのまにやら義勇にしっかりと掴み止められていた。振りほどこうとしても義勇の力は強く、禰豆子に近づくことができない。
「うかつに近づけば食われる」
「禰豆子は人を食ったりしません!」
「食うさ。鬼はそういう生き物だ」
 そんな、と音にならぬまま呟いた炭治郎の眼前で、ゆらりと先より大きく床の外套がうごめいた。
「禰豆子!」
「くるぞ」
 鋭い錆兎の声とともに、外套がむくりと持ち上がり、床に落ちた。
「禰豆子……?」
 立っているのは、たしかに禰豆子だ。慣れ親しんだ炭治郎の妹の姿である。けれどもいつもの禰豆子ではなかった。姿形は変わりないように見えるのに、違うと、わかる。
 鬼だ。わかってしまった。理解したくもないのに、わかってしまった。これは、鬼だ。
 爛と燃える瞳。グルッと唸り声があがった。獣のように鼻にしわを寄せ、こめかみには血管が浮き出している。こんな形相の禰豆子など一度として見たことがない。ひどい臭いがした。
 ……異形の女と、同じような臭い。血の臭いだけがしない。まだ……食っていないから。

 あぁ、本当に、禰豆子は鬼になったのだ。

「嘘だ……」
 何度も胸の内で繰り返した言葉が、とうとう炭治郎の口をついた。知らず浮かび上がった大粒の涙が、まだまろい炭治郎の頬を伝い落ちる。
 ガァッ! と獣のような声を上げ、禰豆子が牙をむいた。牙なんて、なかったのに。振り上げられた手には、鋭い爪。家事のじゃまになるからと、禰豆子は爪など伸ばしたことがないのに。
 突如体が飛んだ。義勇に投げ飛ばされたのだと理解したときには、義勇と錆兎の剣は抜かれていた。
「やめろっ! 禰豆子を殺すな!!」
 地面に叩きつけられたと同時に、炭治郎は弾けるように立ち上がっていた。一瞬だってボヤボヤとしている間なんてない。動け。自分に念じて、炭治郎は、飛びかかる禰豆子を阻むように立ちはだかる二人へと、必死に腕を伸ばした。
 天幕のなかは、さほど広くはない。なのに、二人への……禰豆子への距離が、遠い。

「禰豆子ぉ――っ!!」

 叫んだ刹那、喉の奥にかすかに血の味がした。力の限りの絶叫に、喉が切れたのだと知る。涙はとめどなく流れ、視界がぼやけていた。それでも。
「……止まっ、た……?」
 かすれた錆兎の声が聞こえた。禰豆子の鋭い爪が、義勇の眼前にある。けれど動かない。手はブルブルと震えていた。義勇も動かない。禰豆子を切り払おうとしたのか、振り上げられた刀剣は、それでもその場に留まっていた。
「兄の声が届いたか。初めて見る」
 変わらず抑揚のない声は、一触即発の危機であるはずなのに、妙に呑気にすら聞こえる。
「あぁ。めずらしいこともあるもんだ。腕の一つも斬り落とさなきゃならないかと思っていたけどな」
 では、殺そうとしたのではないのか。思わずへたり込みそうになったが、安心している場合ではなかった。腕を斬り落とされるのだって冗談ではない。
「禰豆子っ、兄ちゃんがわかるか!? どこも痛くないかっ?」
 必死に声をかけたが禰豆子は答えない。動きは止めたものの、獣のような唸り声を上げつづけている。額に汗の粒が浮いていた。
 汗はいくつも浮かんでは落ちる。苦しそうだ。グルルと獣の唸り声を上げる禰豆子の息は、いかにも荒い。ブルブルと痙攣する腕や体が、額に浮かんでは落ちる大粒の汗が、禰豆子が懸命に衝動を押さえつけている証左に思えた。

 禰豆子は、人を食わない。食わないよう、必死に堪えている。鬼になっても。

「禰豆子……」
 泣きながら、震える足で禰豆子に歩み寄っていくと、忽然と天幕のなかに大きな声がひびいた。

六根清浄ろっこんしょうじょう急急如律令きゅうきゅうにょりつれい!」

 錆兎の声とともに、義勇が動いた。それは一瞬の出来事である。振り上げた右手の刀はそのままに、義勇の左手が目にも留まらぬ素早さで禰豆子の首筋を打った。
「あぁ! 禰豆子!」
 とたんに昏倒した禰豆子に、炭治郎は走り寄った。
「義勇さん、なにをっ」
「封印する」
 倒れた禰豆子をかき抱いた炭治郎が問うても、義勇はいっさいの感情を見せぬまま、錆兎へと顔を向けた。
 視線を受けた錆兎が腰のひょうたんを手に取り振ると、コロリと転がりでたのは一本の竹筒だ。
「まさかこれが必要になる日がくるとはな」
 言いながら禰豆子に手を伸ばすから、炭治郎は慌てふためき、禰豆子をいっそう強く抱え込んだ。
「な、なにをするつもりですか!」
「封印すると義勇が言っただろう? 人を食わないようにするための呪具だ。孫悟空の緊箍児きんこじみたいなもんだ。老師のお手製だから効果は保証する」
 使うのは初めてだけどなと、錆兎はどこか苦笑めいた笑みを浮かべている。
「それって……」
「人を食おうとすればたちまち狭まり、激痛がこの娘を襲う。最悪、すっぱり顔が両断される」
 ヒエッ! と肩を跳ねさせて、炭治郎はますます禰豆子を抱く腕に力を込めた。
「やめてください! 禰豆子にそんなものをつけるなんて!」
 叫ぶ炭治郎になどおかまいなしに、錆兎の手が禰豆子の腕をとらえた。
「やめろって言ってるだろ!」
「食われたいのか?」
「禰豆子は人なんか食わない! 今だって我慢してた!」

 そうだ。禰豆子は懸命に耐えていた。きっとこれからだって。

 炭治郎が真剣な瞳で錆兎を睨みつけ、きつく禰豆子を抱きしめても、錆兎は意に介せず口枷を禰豆子につけようとする。やめろとその手を打ち払おうとした炭治郎の手は、ふたたび義勇に止められた。
「おまえはなにも食わずに生きられるのか?」
「それは……で、でもっ、人を食べなくたってほかになにか」
「ない。人を食うのは鬼の本能だ」
「そんな……」
 涙がまた炭治郎の頬を伝った。自分が苦しむのはかまわない。鬼とはいえど他者の命を奪うことになろうとも、禰豆子を救えるのなら自分はこの手に刀剣を握りもするだろう。だが、禰豆子はなにも悪くないのだ。鬼になったのは禰豆子の意思ではない。だというのに、こんな目にあった上に禰豆子はまだ、苦しまねばならないのか。
 落とした眼差しの先で、禰豆子はまた眠っている。こうしていると鬼だなどとは思えない。愛らしくやさしい、自慢の妹だ。
「それじゃ、禰豆子はどうすればいいんですか……。人を食べさせるわけにはいかない。でもほかになにも食べられないんじゃ、結局生きてはいけないってことですか!?」
「だから封印し、老師のもとへ行く」
 義勇の声はあくまでも淡々としている。炭治郎を気遣うわけでもなく、鬼である禰豆子に対しての嫌悪を示すでもない。口にするのは事実の伝達のみ。そこにはなんの感情も見られない。表情も露と動かず、冷淡と言ってもよかった。
 けれど。
「封印……」
「この娘が人に戻るすべなど本当にあるのか、俺は知らない。だが、このままでは可能性すら得られない。鬼の始祖ならば知っているかもしれないが、今のおまえにそれを問い質す力はない。殺されるのが嫌なら、おまえが妹を守り、もとに戻すための力を持て。妹には封印に耐えてもらう」
 義勇の声には温かみなどかけらもない。それでも、義勇の言葉は炭治郎にとっては道標だ。絶望のなかでたった一つ輝く、指標の星。真北に輝く北極星のように、炭治郎の進むべき道を指し示す。
「わかりました……あ、あのっ、禰豆子の顔は大丈夫ですよねっ? 切れたりしませんよね!?」
「口枷が縮み切る前に食うのをやめればな。そうとう痛いらしいから多分大丈夫だろ」
「多分じゃ困るんですけど?! ……うぅっ、禰豆子ぉ、絶対に人を食べようとしちゃ駄目だぞ? 兄ちゃんが絶対にもとに戻してやるから、禰豆子もがんばれ!」
 眠る禰豆子へと言い聞かせ、炭治郎は一度ゴクリと喉を鳴らすと、錆兎にうなずいてみせた。
 竹筒を口に当てられても、禰豆子が目覚める気配はない。寝顔が穏やかなのだけが救いだった。
「禰豆子は俺が守ります。俺も、鬼を倒せるぐらい強くなります! お二人の老師のところへ連れて行ってください」
 禰豆子を腕に抱いたまま、炭治郎は神妙に頭を下げた。なにがあってもくじけるものかと、胸が燃える。あげられた炭治郎の顔は決意に満ちていた。
「鍛錬は厳しいぞ。だが、男なら耐えろよ?」
「はい!」
 強く答えたのはそこまでだ。
 フッと笑った錆兎が不思議なひょうたんを禰豆子に向けるのに、炭治郎はギョッと目を見開いた。まさかと思う間もない。
「禰豆子、入れ」
「あぁぁっ!」
 錆兎の命令が聞こえたとたんに、禰豆子はヒュルンとひょうたんに吸い込まれてしまった。炭治郎が止める余裕すらないままに、禰豆子の姿は見えなくなっている。
「ちょっ! これ本当に大丈夫ですか!? 禰豆子を溶かして食べたりしませんよねっ?」
「溶けない。俺らは鬼ではない。禰豆子を食うわけがない」
「男がいちいちわめくな。安心しろ。明日の朝にはおまえも入れてやるから」
「なにをどう安心しろと!?」
 アワアワと慌てる炭治郎の耳に、天幕の外から「飯はまだかのぅ」と寛三郎の声が聞こえてきた。おっとりとしたその声に「じいさん、さっき食べただろう?」と答える甚九郎の声もまた、この場に似合わぬ太平楽なひびきがしていた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「ひょうたんのなか、もうちょっとどうにかなんないのかなぁ。荷物詰め込みすぎだったもんなぁ」
 思い出した光景に、炭治郎は思わず呟いた。乾いた笑いさえこぼれてくる。
 朝になり出立するぞと声をかけてきた錆兎は、二言なしと言わんばかりにひょうたんを向けてきたものだ。錆兎の入れとの命が聞こえたとたん、待ってとの言葉すら言い終える前に、炭治郎の体は禰豆子同様にシュルンとひょうたんに吸い込まれてしまった。ひょうたんに吸われるなんて経験は、当然のごとく初めてだ。できれば二度とごめんこうむりたい。少なくとも錆兎のひょうたんは勘弁だ。
 ひょうたんは、無限に吸い込めるというわけではないらしい。薄暗いなかには、大小様々な荷物がギチギチに詰め込まれていた。手足を伸ばす余裕すらなかったのだから呆れてしまう。先に吸い込まれていた禰豆子が、膝を抱えるようにして荷の隙間で眠っているのを見つけたとき、炭治郎はなんとも申し訳ない気分になった。炭治郎とて、上下もわからぬ薄暗闇のなかで、禰豆子と同じように膝を抱えて出られるのを、情けない心持ちで待つよりなかったのだけれど。揺れを感じなかったのだけが救いといえる。
 せめて、吸われてもいいか意思確認ぐらいしてもらいたいところだったと、思い出すといまだに炭治郎はちょっと遠い目をしたくなる。

「あれって整理整頓はできないのかなぁ。旅に連れて行ってもらえても、あのなかじゃ禰豆子がかわいそうだし……イテッ」
「そんなことを呑気に悩んでいるとは余裕だな」
 唐突な痛みと声に振り返れば、思い浮かべていた二人が立っていた。気配などまったく感じさせないのはさすがだ。
「錆兎さん痛いです……あっ、義勇さん!」
 脳天にゴツンと落とされた拳骨は、錆兎のものだったようだ。本人は軽く叩いたつもりだろうが、やっぱり無闇矢鱈と痛い。
 だが、一瞬涙目になった炭治郎の瞳は、すぐに明るく輝いた。
「おかえりなさい、義勇さん! 錆兎さんも」
「俺はついでか?」
「そんな滅相もない!」
 泡を食う炭治郎に、錆兎は気を悪くしたふうでもなく笑っていた。義勇はといえば、あいも変わらぬ鉄仮面っぷりである。気づき炭治郎の眉根が、わずかに切なく寄せられた。
「今度も見つかりませんでしたか……」
 義勇のまるで表情が変わらぬ顔は、ほの悲しくて胸が痛む。少しうつむき言った炭治郎に、答えはいつもどおり、錆兎から返ってきた。言葉も毎回同じこと。
「あぁ。だが諦めてたまるか。必ず義勇の心の破片かけらをすべて集めてみせるさ」
 決意みなぎる錆兎の言葉には、いつもながら、どこかしら自分に言い聞かせるようなひびきがある。

 義勇には、感情がない。

 冷淡だとか淡白だのといった話ではなかった。心そのものを奪われてしまったのだ。だから義勇は、うれしいと笑うこともなければ、悲しいと泣くこともない。
 もうずっと長いこと、義勇の笑顔を見ていないと錆兎は言う。涙も、憤怒も、義勇の顔にはいっさい浮かぶことがない。炭治郎にとっても苦しいほどにつらいが、錆兎の苦悩はなお深い。
 義勇とは幼馴染だという錆兎は、義勇が、己の心を魔道の徒である道士に受け渡そうとするのを止められなかった。二人が十三歳のときのことだ。齢二十一になった今でも、錆兎はそれを悔いている。
 炭治郎が二人と出逢ったのは、二年近く前のことである。十三から炭治郎と出逢った十九までも、さらに二年が経とうといういまになっても、義勇の心の破片は、一つも見つかってはいない。
 だが。

「一刻も早く一緒に旅に出られるよう、がんばります!」

 勢い込んで言った炭治郎に、険しかった錆兎の顔がふとゆるんだ。浮かんだ笑みはいつもの不敵さをたたえている。 
「……あぁ。今となってはおまえの鼻が頼りだからな。だが、それには老師の試験に合格しなけりゃならないぞ。足手まといを連れ歩くのは俺もごめんだ」
「絶対に元宵節げんしょうせつまでには師父のお墨付きをもらってみせます! あ、そうだっ。今夜は二人とも泊まっていくんですよね? 俺、薬膳の腕前あがったって、真菰にも褒められたんです! 期待してくださいねっ。霊芝れいしと人参採ってきます!」
 錆兎の返答を聞くより早く、炭治郎は木剣を腰に挿すと、トンッと地を蹴った。
 ポンポンと飛び跳ね高い梢をわたっていった炭治郎に、地上に残された錆兎の苦笑は見えない。まるでましらだななどという言葉も、炭治郎の耳には届かなかった。
 美味しいと喜んではくれずとも、義勇の体を健やかに保つ料理を自分が作れるのはうれしい。炭治郎の足取りは軽かった。