十二時を告げるチャイムがオフィスに鳴り響いた。
周囲のデスクの同僚たちが、三々五々立ち上がる。義勇も手を止めると、座ったままコキリと首を鳴らした。慣れた作業とはいえ、長時間パソコンに向かっているとどうにも肩がこる。
今しがたまで開いていたファイルを保存し、義勇は、通勤カバンと一緒にデスクの下に置いてある紙袋へと、ちらりと視線を向けた。紙袋には、弁当の包みが入っている。仕事中は気にしないようにしていたけれど、入社以来初めての弁当持参に、なんとはなしソワソワとしてしまう。
手作り弁当など高校の時以来だ。保育園に向かう途中、グラタングラタン今日のお弁当はグラタンと、即興で歌うぐらいご機嫌だった禰豆子ほどではないが、どうやら自分も思う以上に浮かれているらしい。
中学までは給食だったから、義勇が弁当を持っていってたのは、高校の三年間だけだ。正直言えばいい思い出はひとつもない。
当時は持ってきた弁当を誰にも見られたくなくて、昼休みのたびに教室を抜け出し、屋上につづく階段にひとり腰かけ食べていた。思い返せば苦いばかりの記憶だ。けれど、今日の弁当は炭治郎の手作りである。母の作った弁当には、素直に感謝することはできなかったが、炭治郎が作ったものならば、なにも心配する要因はないだろう。
紙袋から取り出した包みに、知らず期待に胸を騒がせている自分が少しおかしい。弁当を楽しみにするなんて、まるで子どものようだ。
「あれ? 冨岡さん食堂行かないの?」
感慨深く包みを見つめていた義勇は、不意にかけられた声に、ワクワクとした自分を見透かされたような気がして、少し気まずく声の主を仰ぎ見た。
「……あぁ。今日は弁当がある」
「なんだ、おまえが弁当などめずらしいな。初めてじゃないのか? ちゃんと食えるものを作ったんだろうな?」
「あら、冨岡さんは毎日禰豆子ちゃんのご飯を作ってるんでしょう? きっとおいしいと思うわ。私もたまにはお弁当作ろうと思うんだけど、荷物になっちゃうから、どうしても食堂にしちゃうのよね~。毎日作ってる冨岡さんは偉いわ」
小馬鹿にしたように言いながら近づいてきた男に、反論したのは義勇ではなく先の声の主だ。
「甘露寺は電車通勤だからな。せっかく作った弁当がくずれてはもったいない。そうだ、弁当を作った日は俺に連絡をくれれば迎えに行こう。車なら多くても荷物にもならない」
「それじゃ伊黒さんが遠回りになっちゃうじゃない。社員食堂もおいしいし、量も多いから大丈夫よ」
「遠回りと言っても、十分かそこらだ。気にしなくてもいい」
……どうでもいいが、ここで会話するのはやめてくれないだろうか。
二人を無視して弁当を食べだすのはためらわれるのだが、盛り上がってしまった二人は、一向に立ち去る気配がない。弁当の包みをほどくこともできず、さりとて楽しそうな二人の邪魔をするのも申し訳なく、義勇の眉尻が思わず下がる。
義勇の所属する財務部と同じオフィスにある経理部の甘露寺はともかく、伊黒の部署は開発部で、フロアさえ別だ。だというのに毎日せっせと甘露寺を迎えにくる伊黒のマメさは感心するが、貴重な昼休みを無駄にしてもいいのだろうか。
甘露寺だって、社員食堂のおいしさが入社の決め手と言っていたほどなのだから、義勇の弁当にかかずらっている暇があるとは思えない。経理部だって月初めの今は大忙しで、一分一秒でも惜しいはずだろうに、食いはぐれてもいいのだろうか。
第一、もはや二人の会話の内容は、義勇の弁当からかけ離れている。なにもこの場で会話せずとも、食堂で話せばいいのにと、義勇は小さくため息をついた。
「なんだ貴様、甘露寺が褒めてやったというのにため息をつくとは、無礼にもほどがあるぞ」
「……今日の弁当は、俺が作ったわけじゃない」
一事が万事、甘露寺優先の伊黒の言には、もう義勇も慣れっこである。それぐらいにはつきあいも長くなった。
もう一人、法務部の不死川もまじえた義勇たち四人は、入社が一緒の同期だ。短大卒の甘露寺だけがいくぶん年下だが、新人研修のグループが同じだった縁もあり、人との交流が苦手な義勇も、甘露寺や伊黒とは比較的よく話をする。というよりも、愛想の欠片もない義勇に臆さず話しかけてくるのは、同期の三人ぐらいなものだ。離婚騒ぎの際に、世話になった恩もある。
だから話しかけられれば、義勇とて会話に参加するのはやぶさかではない。まぁ、伊黒は、入社時に甘露寺と同じ経理部に配属されたばかりか、移動した財務部でもオフィスは同じという義勇への当りが、少々強いきらいはあるが。
ともあれ、義勇としては、褒められるのはお門違いだと告げたいだけだったのだが、なぜだか二人は、義勇の言葉を聞いたとたん、目を大きく見開き唖然とした顔をした。
いったいなんなんだと、わずかに眉を寄せて義勇が二人を見上げたとき。
「はぁ!? 冨岡、テメェ再婚でもすんのかァ!?」
大きな声が響き、周囲がどよめいた。声の大きさもさることながら、その突拍子もない内容に驚いて、声のしたほうへと顔を向けた義勇は、周囲の視線に気づき、ビクリと肩を震わせた。オフィスに残っていた社員たちが、息をつめてこちらを凝視している気がする。特に女子社員の視線は痛いほどだ。
しかし、そんな周囲の変化が気になったのは、義勇一人だったらしい。甘露寺は目をキラキラさせているし、伊黒は苦虫を噛み潰したような顔で、義勇を睨み据えている。そして、とんでもない発言をした当の本人である不死川はと言えば、険しい顔で大股に近づいてきた。
「え? え? そうなのっ!? 素敵! ねっ、冨岡さん、どんな人!?」
「おい、禰豆子はちゃんと懐いてるんだろうなァ。また変な女に騙されてんじゃねぇのかァ?」
「というか、不死川、いきなり来てなんなんだ。そんなわけないだろう。こいつにそんな甲斐性があると思ってるのか?」
伊黒の言い草はアレだが、内容は、反論のしようもないほどにその通りである。
あわてて義勇は、こくこくとうなずいた。再婚など考えたこともないし、今後もあり得ないと断言できるというのに、変に誤解されてはかなわない。
「昨夜、こいつが相談があるって連絡してきやがったから、わざわざ来てやったんだ。うちも今忙しいからなァ。飯食いながら聞けばいいと思ってよ」
「あぁ……忘れてた。そういうことだ、伊黒」
不死川の言葉にぱちりとまばたいた義勇は、伊黒に向かってこっくりとうなずいた。
「なぁにがそういうことだ、だっ。テメェ、自分から相談もちかけといて、忘れてたとはどういう了見だァ? あぁん?」
強面の不死川がすごむと、迫力があるなとぼんやり思っていれば、甘露寺の心配げな声がつづいた。
「あの……相談って、禰豆子ちゃんのことかしら。冨岡さん、禰豆子ちゃんになにかあったの?」
「そうなのか? 冨岡」
伊黒も、甘露寺に追従するばかりでもなく、声に憂慮と緊張がにじんでいる。
「違う。いや、違うとも言い切れないが……」
心配させるのは申し訳なく、即座に否定はしたものの、禰豆子にかかわる相談でもあるのは確かだ。どう説明したものかと思っていると、軽いため息とともに不死川が言った。
「あー、もういい。社員食堂行くぞ。話は飯食いながらだァ。おら、冨岡。行くぞ」
「弁当があるが?」
「持ってきゃいいだろうがァ! 本当にテメェは融通利かねぇなァ!」
あぁ、また不死川を怒らせてしまった。
しょんぼりと肩を落とした義勇だったが、おそらく三人はそんな些細な義勇の変化には、まったく気がついていないだろう。表情に乏しいのは義勇も自覚している。そして、それは自分自身が望んでのことなのだ。
浮かび上がりかけたほんのわずかな鬱屈をぐっと抑え込むと、義勇は、うながされるままに弁当を紙袋に戻して立ち上がった。社員食堂で持参した弁当を食べている社員は、それなりにいるから、気にすることはないだろうし、確かに時間を無駄にしないためには、食事しながら相談するほうがいいかもしれない。
炭治郎の言が確かなら、弁当を見られたところで、昔のように羞恥に身を縮こまらせる羽目にもならないはずだ。
そんな義勇の思惑は、うっかり忘れていた自身の習性によって、想定とは異なる様相を見せた。
甘露寺の入社動機なだけあって、今日も社員食堂は盛況だ。九割がた埋まった座席では、談笑しながらグループで食べている者たちもいれば、一人黙々と食べている者もいる。テレビ取材がくることもあるほど充実した社員食堂だから、ほかの企業にくらべて食堂の利用率は高いだろう。
とはいえ、空いている会議室などで弁当を食べるグループや外に食べに行く者も多いのだろう、混み合っているとはいえ、食いはぐれるほどではない。
席を取っておいてくれと言い置いた不死川たちが、カウンターへと向かうのを見送り、義勇はきょろきょろと周囲を見まわした。幸いなことに、観葉植物が置かれた隅のほうの席が、ちょうど四人分空いたところだった。炭治郎のことを相談するには、都合がよさそうである。
給湯器でお茶を入れ、空いた席を確保した義勇は、いそいそと弁当の包みをほどいた。高校時代の弁当箱などとうに捨てたし、義勇用の弁当箱などどこにあったのだろうと思っていたが、現れたのは青い蓋のタッパーだ。添えられている箸は、ずいぶんと使うことがなかった客用のものだった。
昨夜は夕食を作るだけで炭治郎も手一杯だったはずだから、これらを探しだしたのは今朝だろう。自分の頬を張るほど睡眠不足だったというのに、炭治郎はいったい何時に起きたのかと、義勇は思わず眉をひそめた。
今日のところはしかたないが、勤務時間はきちんと設定して守らせなければと、心に刻む。通信制とはいえど、炭治郎が学生であることに変わりはない。十分な勉強時間を確保してやらなければ、強引に転職させた意味がないだろう。
大まかなラインはすでに頭のなかに出来上がってはいるが、不死川に確認を取って、不都合な部分があれば修正して……と、炭治郎との契約について思いを馳せているうちに、三人がトレイを手に戻ってきた。
義勇の向かいに不死川が、隣に伊黒、その向かいに甘露寺が座る。席に着くなりネクタイを外す不死川に、毎度のことながら伊黒は眉をひそめてあきれ顔だ。義勇も、いちいち結び直すのは面倒だろうにと思わなくはないが、口にはしない。
年の離れた弟妹が多いから給料の良いこの会社を選んだが、本当はネクタイなどしないで済む職に就きたかったと、研修終了の打ち上げで不死川がぼやいていたのを覚えている。毎朝ネクタイを結ぶのは確かに面倒だなと、義勇も思ったものだが、今ではすっかり慣れて気にしたことはない。男らしさの象徴のようで、今では安堵のほうが深いくらいだ。
テーブルに置かれたトレイの上の品数は様々だった。不死川のラーメンと半チャーハンはともかくとして、伊黒と甘露寺のトレイはいつ見ても対照的で、思わずまじまじと見比べてしまう。食べることが大好きだと公言してはばからない甘露寺が手にしたトレイには、今日の定食らしいアジフライ定食のほかにも、いくつもの小鉢がぎっちりと乗せられている。対して伊黒のトレイにはプリンと抹茶ケーキがあるだけだ。
伊黒のトレイがすぐに甘露寺の前に押し出され、本人はと言えば手に提げていたコンビニ袋からおにぎりを取り出した。どうやらそちらが伊黒の昼食のようだ。成人男性の昼食がおにぎりふたつきりというのは、他人事ながら心配になるが、伊黒には適量らしい。
もはや慣れっこの光景とはいえ、どちらの食事量も義勇には驚きでしかない。けれども、今日はそんな驚嘆にひたるどころではなかった。なにしろ、三人とも自分の食事よりも義勇の弁当が気になってしょうがないのか、甘露寺でさえ、箸を手に取ったものの食べだすことなく義勇のタッパーを見つめている。
好奇心を隠さない三人の視線のなか、義勇は少し落ち着かない気分でタッパーの蓋を開けた。
「うわぁ、おいしそう!」
きれいに並べられたおかずの数々に、甘露寺が歓声をあげる。皮肉な伊黒や口の悪い不死川でさえ、感心した声をもらしたほどに、炭治郎の弁当は見るからにおいしそうだった。
朝食と中身は大差ない。おかずの大半を占めるのはブロッコリーとウインナーの炒め物に、冷凍食品の唐揚げだ。だが、朝食と違って、唐揚げにはミックスベジタブル入りのあんがからめられている。
それだけでも手間がかかっていると思うのだが、朝食にはなかったきんぴらごぼうまで添えられていた。少しだけ残っていた冷凍のごぼうと人参のミックスで作ったのだろう。中途半端に余らせてしまったと思っていたが、弁当に入れるにはちょうどいい量だったようだ。
特に義勇の目を引いたのは、禰豆子が楽しみにしていたアルミカップに入れられた小さなグラタンだ。焼き目のついた粉チーズがいかにもおいしそうで、これがフライドポテトで作られているなんてと感嘆してしまう。タッパーの半分ほどに詰められたご飯には、ふりかけがかかっていた。
義勇でさえ蓋を開いた瞬間に微笑みそうになったのだ。きっと今ごろ禰豆子も、弁当を見て幸せそうに笑っていることだろう。
「色どりもいいし、野菜とお肉のバランスも考えてあるみたい。作ってくれた人はお料理上手なのね」
「ふん、レトルトばかりかと思いきや、存外まともな弁当だな」
「で? 誰が作ったんだァ?」
それぞれ定食やらラーメンやらに箸をつけつつ話しかけてくる三人に、義勇はといえば、さっそく口に入れたグラタンのために、答えることができなかった。
フライドポテトとはいえ、ジャガイモとツナをマヨネーズであえたのは昨夜と変わらないのに、粉チーズを振って焼いただけで立派にグラタンになっているのは驚きだ。しっかりと味わって食べたいところだが、さてどうしたものか。
べつに答えたくないわけじゃない。ものを食べている最中に話すことができない質だというのを、すっかり忘れていただけのことである。だが、これでは相談はおろか、事情を説明することもできやしない。
思い至った自分の失態に、義勇は少し情けない気分で眉根を寄せた。弁当はすこぶる美味だが、これでは十分に味わえず、なんだか炭治郎にも申し訳ない気持ちになってくる。
はぁ、と聞えたため息は伊黒のものだろうか。
「もういい、貴様は食べていろ。こっちで質問するから、うなずくか首を振って答えろ」
渡りに船と、こくこくうなずけば、あきれ顔の不死川がじっと見つめてきた。
「禰豆子のことで相談したいってわけじゃねぇんだな?」
真剣な瞳と声の不死川の問いかけに、伊黒と甘露寺も、すっと真顔になる。義勇が強くうなずくと、甘露寺があからさまな安堵のため息をついた。
「よかったぁ。禰豆子ちゃんになにかあったんだったらどうしようって、心配しちゃった。これで安心して食べられるわぁ」
「しかし、まったく関係がないわけではないのだろう? その弁当を作ったのは、本当に再婚相手じゃないのか?」
ふるりと首を振り、ようやく噛みおえた唐揚げを飲みこむと、義勇は「家政夫だ」と端的に言った。
「家政婦? 禰豆子はちゃんと懐いてんのかァ?」
三人は禰豆子が一番ひどい状態だったころを知っている。見知らぬ相手に怯える禰豆子を思えば、不死川の問いももっともだ。
義勇だって、あのころの悲惨な状況を思い返すと、身を引きちぎられるような苦しさに今も襲われる。それでも、不死川たちとの仲が深まったことだけは、義勇のどうしようもない人生のなかでは、得難い幸福だった。
ほんの幼いころならば、親友と呼べる友人もいたが、自ら遠ざけ孤立した道を選んで歩いてきた。結婚し、子どもに恵まれても、一人であることには変わらないと思っていたし、人づきあいの悪さは以前と大差ない。けれどそれでも、ほんの一時同じグループにいたというだけで、こんなにも親身になってくれる同期に恵まれた自分は、きっと幸運なのだろう。
禰豆子の幸せ以上に、義勇にとって望むものなどないが、そんな願いさえこの手からすり抜けてしまわずに済んだのは、三人の尽力あってこそだ。感謝はつきない。
今でも禰豆子のことを案じてくれる三人に、義勇は深い感謝と、消えようのない罪悪感を噛みしめた。
「大丈夫だ。禰豆子が懐いているから頼んだ」
心配させるのは本意ではない。炭治郎の笑顔を思い浮かべ、義勇は断言した。
離婚し禰豆子と二人暮らしを始めた当初から、家事代行サービスなどの利用は、義勇も考えたことがある。実際に、繁忙期に依頼をしたこともあった。
けれども、禰豆子が委縮してしまい夜半のうなされ具合が悪化したため、それ以上他人に禰豆子を任せることはできなくなった。
炭治郎が初めてなのだ。禰豆子が初対面から懐き、それどころか一緒にいたいと望んだ者など。
今までの搾取としか言いようがない炭治郎の境遇には、悲嘆と怒りしか覚えようもないが、そんな状況だったからこその同居であることを思えば、縁とは本当に異なものだという感慨が義勇の胸にわいた。
まだ高校生とはいえ、炭治郎にならば禰豆子を安心して任せられる。しかも、炭治郎が作ってくれた食事は、すべて美味だ。まったくもって幸運としか言いようがない。
できるかぎりの待遇を約束してやらなければと、甘酢あんのからんだ唐揚げを噛みしめながら、義勇は、喜ぶ禰豆子の顔を思い浮かべ、ほわりと微笑んだ。
「それならいいけどよ……本当に再婚相手じゃねぇのかよ。禰豆子が懐いてんなら、家政婦と言わず禰豆子の母親になってもらやぁいいんじゃねぇのかァ」
ガツガツとチャーハンをかき込みながら言う不死川に、義勇は思わず顔をしかめた。
禰豆子の母親に炭治郎が? いったいなんの冗談だ。
ふるふると首を振った義勇に、伊黒がフンと軽く鼻を鳴らし、甘露寺も残念そうにへにゃりと眉尻を下げた。それでも箸は止まらないが。
「懐いたのが先ということは、家事代行サービスなどで探したわけじゃないということだろう? それなのに家にあげられるぐらい信用しているなら、可能性はあるだろうが。貴様にそんな知り合いがいたということのほうが、俺は驚きだがな」
「そう言えばそうね。すごいわ、伊黒さん! 探偵さんみたい!」
興奮しきりな甘露寺ほどではないが、義勇も伊黒の推察力には内心感嘆した。とはいえ、再婚の可能性については、見当外れもいいところである。否定の意をあらわすために、再び義勇は首を振ったが、どうやら三人はすっかり義勇が再婚するかもしれないと思い込んでしまったようだ。
「家に上げるぐらい信用できて、飯もうまい。なにより禰豆子が懐いてるとくりゃあ、願ったりかなったりな女じゃねぇかァ。なにが不満なんだよ」
また義勇が首を横に振ったのは当然だろう。だって炭治郎は女性ではないのだ。れっきとした男性……というか、男の子である。不満もなにも、そもそも結婚などできるわけがない。
義勇としてはあまりにも当たり前すぎる帰結であるが、義勇の態度に三人はまったく違う感想を抱いたようだ。伊黒は疑い深く、甘露寺はいかにも不安そうに。そして不死川はといえば、盛大に顔をしかめて苛立ちをあらわにしている。
三人の反応の理由がわからず、もぐもぐときんぴらを噛みしめつつ義勇は、こてんと小首をかしげた。結婚などできるわけもないから否定しただけなのに、なんでまた不死川たちはこんな反応なのだろう。勿論、義勇だって同性愛に偏見や差別意識はないが、義勇が異性愛者であることに違いはないし、そもそも日本の法律はまだ同性婚を認めてはいない。
「……冨岡さん、前の奥さんは、そのぉ、確かにちょっと褒められた人じゃなかったけど、はなから恋愛を諦めるのはもったいないんじゃないかしら」
「甘露寺、すっぱりと最低最悪な女だと言ってもいいと思うぞ。それはともかく、この朴念仁に恋愛云々を説いても、犬に論語、猫に小判。兎に祭文だ。とはいえ、こいつが信用するだけの女なら、いずれ再婚を考える可能性は高いだろうな。
冨岡、貴様のような不愛想の権化とつきあってくれる女性との出会いは盲亀の浮木、優曇華の花というものだぞ。意固地にならずにきちんと考えてみたらどうだ。甘露寺を心配させるんじゃない」
「あ? なんだ、その、もうきのなんちゃらってのは」
「盲亀の浮木、優曇華の花だ。めったにない幸運という意味だ、これぐらい常識として覚えておけ」
「ごめんなさい、伊黒さん。私もそれ知らなかったわ……」
しょぼんと肩を落とした甘露寺に慌てて、いや俺も昨夜ことわざ辞典を読破して知っただけだのなんのとなだめだす伊黒をしり目に、不死川は、更に苛立った様子で義勇をにらみつけた。
「伊黒の言い草はなんだが、めったにない幸運ってなぁ確かだろうがァ。なのに、なんでまた頭っから否定してんだ? 人妻とか言い出すんじゃねぇだろうなァ」
これまた明らかに違うと言いきれる問だったから、義勇はまた首を振った。
「独身か。じゃあ、婆ちゃんだったりすんのかァ?」
「……高校生だ」
弁当を完食し、満足のため息とともに言った義勇に、他意はない。事実を述べただけである。けれども、三人の目はこれでもかというほどに見開かれ、口までぽかんと開けられていた。
ざわざわと騒がしい食堂も、義勇たちが座る一角だけ、シンと静まり返る始末だ。オフィスで浴びた視線同様に、痛いぐらいに近くの女性社員たちに凝視され、義勇はきまり悪くタッパーを手に立ち上がろうとした。が、それはガシリと不死川に腕をつかまれたことで果たせず、義勇はしぶしぶ席に座り直す。
「待て待て待てェ! おいっ、高校生たぁどういうこった!!」
「通信制高校だが、席を置いている以上は高校生であるのに変わりはないだろう?」
「そういうこっちゃねぇんだよっ! いや、通信制なら未成年じゃない可能性もあんのか……」
「今年で十六になると言っていた」
「ということは今十五かっ! き、貴様、犯罪じゃないのかそれはっ!」
不死川も伊黒も、いったいなにをそんなに泡を食っているのだろう。驚かれる意味がわからんと、義勇は思わず憮然としたが、そもそも炭治郎の年齢的なアレコレを相談したかったのだと思い直す。
「再婚を考えてねぇってことは、まだ手を出しちゃいねぇってことじゃねぇのか? なら、セーフだ、セーフ!」
「なにを言ってるのかさっぱりわからん。それより、不死川、年少者の住み込み勤務についてなんだが」
「住み込みぃっ!?」
ピタリと重なった三人の声は、ほとんど悲鳴に近かった。
至近距離での大声のユニゾンに、思わず義勇はビクンと飛びあがりかけた。おまけに、気がつけばあちらこちらでも「嘘っ!」だの「いやー!」だのと、悲鳴じみた声まであがっている。あまりにも予想外過ぎる反応に、ダラダラと冷や汗が流れるのを感じずにはいられない。
住み込みというのは、やはり法的に問題があるのだろうか。だが、住み込みでなければ意味がないのだ。そこのところの確認などを、法務部の不死川に相談したかったというのに、これでは相談どころではない。
「その、炭治郎は元々、俺が禰豆子とよく行くスーパーで勤務していたんだが、あまりにも劣悪な環境だったんだ。禰豆子も懐いているし、どうにかまともな生活を送らせてやりたいと……」
なんとか力を貸してもらえないかと義勇は焦るが、万が一、法に触れることになるのであれば、三人を巻き込むわけにもいかない。どうにもならないようなら、炭治郎には寮のあるまっとうな職場を斡旋してやらねばならないだろうが、そうなれば禰豆子がさぞや悲しむことだろうと思うと、義勇の周章がますます募った。
けれども、そんな義勇の焦燥感とは裏腹に、またもや三人は呆気にとられた顔をして、そろって「は?」と首をかしげている。
「だから、炭治郎に……」
「待てや、ゴルァ……おい、炭治郎ってなぁ、どこのどいつだァ?」
いっそ不安になるほどに静かな不死川の声に、義勇もまた、コテリと小首をかたむけた。
「炭治郎は炭治郎だろう。家政夫として雇うことにした高校生だ」
ずっと炭治郎の話をしているというのに、今更なんだというのだ。つい不満げな声になった義勇だが、「男じゃねぇかァ!!」と雄叫びをあげた不死川に、まずは驚き、ついでますますムスリと眉をひそめた。
「男に決まってる。家政夫だと言っただろう」
「紛らわしい言い方してねぇで、最初から男子高校生だって言えやァ!」
「……なるほど、漢字一文字で性別は真逆か……わかるわけないだろうがっ! 貴様は馬鹿か! 馬鹿なのかっ!」
「え? えっと、どういうこと?」
声を荒げてつめ寄る不死川や伊黒、混乱しきりらしい甘露寺に、義勇は思わず「すまん」と頭を下げた。なぜ三人が再婚相手だのなんだのと言い出したのか、ようやく理解してみればなんのことはない。義勇は『家政夫』と男性を示す言葉を思い浮かべていたが、音に聞けば即思いつくのは世間一般的には『家政婦』のほうだろう。
しかし、誤解が解けたのなら、まぁいい。周囲でちらほらと聞える「なんだぁ」やら「良かったぁ!」やらといった声は理解不能ではあるが、特に問題はなかろう。
「あー……まぁ、いい。テメェが天然ボケなのは今に始まったこっちゃねぇ。で? 相談ってのはなんなんだ?」
いかにも脱力しきった様子で言う不死川に、天然ボケ? と更に首をかしげたくなったが、問おうとした機先を制するように口を開いた伊黒から「事情説明をまずしろ。簡潔に!」とにらまれてしまえば、否やはない。貴重な昼休みだ。不死川の仕事も立て込んでいるのなら、時間を取らせるのは義勇とて本意ではなかった。
出逢いの一幕から説明しようとしたのを「簡潔にと言ってるだろうが」と伊黒と不死川にそろって止められつつ、どうにか現状を伝え終えたときには、休憩時間は残り十分もなくなっていた。タッパーを軽く洗っておきたかったのだが、そんな時間はなさそうだ。
こびりついてしまったら炭治郎に申し訳ないなと思いつつ、タッパーを包んでいる義勇に、不死川が軽いため息をついた。
「ま、事情はわかった。とりあえず、身元保証人への事情説明が先決だなァ。未成年なら本人の同意があっても、場合によっちゃ、未成年者誘拐罪になりかねねぇ」
「炭治郎が今日連絡すると言っていた。俺も近いうちに連絡を取る」
「おぅ、そうしとけ。で、契約内容だが、日曜は家にいるかァ? 面倒だが立ち会ってやらァ。それまではとりあえず正式な契約は保留にしとけ。本人の都合ともすりあわせなきゃなんねぇだろ」
言いながらトレイを手に立ち上がった不死川に、甘露寺の目がきらきらと輝きだした。
「私も行っていいかしら。私も禰豆子ちゃんに逢いたいわぁ!」
「確かに、話し合いの間、禰豆子の子守りは必要だな。よし、では俺も甘露寺と一緒に行こう」
いや、そこまで世話になるわけにはと断ろうとした義勇の声は、流れだしたメロディにせき止められた。昼休み終了五分前を告げる曲だ。急いでオフィスに戻らなければ、課長の機嫌が悪くなる。
いつのまにやら日曜の来訪は不死川たちのなかで決定となったらしく、急ぎ足でカウンターへ食器を戻しに行く三人に、義勇は止める言葉を持たなかった。
炭治郎の都合によっては、義勇が作成する契約書は修正を余儀なくされるだろうし、それならば法務に詳しい不死川の同席は確かにありがたいうえ、時間を無駄に浪費せずに済む。禰豆子を一人にさせておくわけにもいかないから、甘露寺がきてくれれば助かるのも確かだ。伊黒までついてくるのは……まぁ、甘露寺がくるなら伊黒が一緒なのは当然の流れだろう。気にするだけ無駄だし、きっと野暮というものだ。これでつきあっていないというのは、いかに朴念仁と言われる義勇にしても、不思議でならないところではあるけれど。
ともあれ、日曜日はにぎやかなことになりそうだ。休日出勤する羽目にならぬよう、午後の勤務も励まなければと今取り掛かっている要項の進め具合を算段しつつ、義勇は紙袋にしまったタッパーをちらりと見下ろした。
明日も炭治郎は弁当を作ってくれるのだろうか。汚れたままのタッパーに、だらしがないと思われないといいのだけれども。
思いつつも、きっと炭治郎は気にしないでいいと笑うのだろうなと、心のどこかで確信している自分が少し面映ゆかった。
盲亀の浮木、優曇華の花。確かに、炭治郎との出逢いはめったにない幸運以外のなにものでもないなと思いながら、義勇は戻ってきた三人とともに足早に食堂を後にした。