炭治郎が一緒に住むのがうれしくてたまらないのだろう、禰豆子はずいぶんとはしゃいでいる。居間に荷物を置くなり炭治郎の手を引き、こっちはお風呂、こっちは禰豆子のお部屋と、家中炭治郎を連れまわした。ふたりの少し後ろを歩きながら、義勇は小さく苦笑した。
いつもよりも遅い帰宅となったから、早く食事をさせて風呂に入れなければと思いはするのだが、禰豆子があんまり楽しそうで止めるのも気がとがめる。とはいえ、いつまでもあの調子で連れまわされては、炭治郎も落ち着かないだろう。
義勇の目がなくとも、家のなかだ。奥の部屋に入られさえしなければ困ることもないし、そもそも禰豆子は、あの部屋には決して近づかないから、自分までついて回る必要はない。
明日も義勇は仕事があるし、禰豆子を寝かしつけたあとで炭治郎と今後のことを話しあうには、時間を無駄にするわけにはいかないだろう。
就寝するまでの時間配分を考え、義勇は足を止めるとふたりに声をかけることなく踵を返した。
居間に戻り、ソファにスーツの上着とネクタイを放り投げる。客間を炭治郎には使ってもらうことにして、荷物はあとで運べばいいだろう。とにかく食事の準備をしてしまおうと、義勇は腕まくりしながら台所に向かった。
どことなし自分もウキウキとしているのを、心の隅で面映ゆく感じつつ、さて三人分の材料などあるだろうかと、冷蔵庫を開ける。
「……しまった」
思わずつぶやき、義勇はがっくりと肩を落とした。夕飯を調達しにスーパーに行ったのに、結局買い物はせずに帰ってきてしまったから、夕食になりそうなものがなにもない。
冷蔵庫に入っているのはドレッシングやバター、粉チーズといった調味料ぐらいしかなかった。ただでさえ多忙な時期で、連日食事はレトルトだったから、野菜はジャガイモがひとつ残っているきりで、肉類などはまったくない。禰豆子のご所望だったハンバーグなど望むべくもなかった。まぁ、禰豆子が文句を言うことなどないのだが。
米やスパゲッティはあるが、まさか塩だけで食べるわけにもいくまい。あまりにも腐らせてしまう率が高いものだから、その日その日の分しか食材を買わなくなったのが、こういう時には悔やまれる。確かに、保育園帰りの買い物がろくにかまってやれない穴埋めにもなっているから、毎日スーパーに寄るのは丁度良かった。だから買い置きする習慣もない。けれども、これでは万が一のときが思いやられる。
寝込むようなことはなかったから、気にしたことはなかったけれど、非常時に備えてすぐに食べられるものを常備する必要があるなと思いながら、戸棚を漁るが、見つかったのはツナ缶やふりかけが精々だ。主菜になりそうなものもレトルトのソースも見当たらない。冷凍庫にも禰豆子の弁当に入れる冷凍食品の残りがあるぐらいで、三人分の食事には到底足りそうになかった。
出前を頼むにはもう時刻的に遅い。炭治郎には申し訳ないが、初めての食事はコンビニ弁当で我慢してもらうしかなさそうだ。
しかたなく脱いだばかりの上着を手に取り、義勇が廊下に出ると、タイミングよく廊下の端からふたりが姿をあらわした。
「パパ、どこか行くの?」
「……コンビニに行ってくる」
義勇が手にした上着に気づいたのか、少し不安そうな顔をする禰豆子に、義勇は努めて優しく答えた。置いていかれることにおびえる禰豆子だが、今日は炭治郎がいる。留守番させても心配はいらないだろう。
そう考えた義勇だったが、炭治郎からすれば言語道断だったようだ。
「買い物だったら俺が行きます! 義勇さんはお仕事帰りで疲れてるんですから、ゆっくり休んでいてください!」
泡を食った様子で言う炭治郎に、義勇のほうこそ面食らうしかない。すっかり買い物に出る気でいる炭治郎は、勢い込んだ声で「なにを買ってくればいいですか?」と聞いてくるが、義勇にしてみれば、それじゃあと頼むわけにもいかなかった。
「来たばかりで、まだ荷ほどきもしてないだろう。禰豆子をみていてくれればいい。それより、食べられないものはあるか? 弁当を買ってくる」
「お弁当?」
たずね返してきたのは禰豆子だった。聞かれた当の本人はと言えば、ますますびっくりまなこになっている。
なにをそんなに驚くことがあるのだろう。不思議に思った義勇だったが、思えばあれだけ強引に家に呼んでおいて、夕飯がコンビニ弁当ではあきれられてもしかたない。少しいたたまれない気持ちで、義勇は禰豆子の前にしゃがみ込んだ。
「夕飯を買ってくるのを忘れただろう? 禰豆子はなにがいい? ハンバーグか?」
「俺が作ります!」
うん、と禰豆子がうなずくより早く、炭治郎の大きな声が廊下にひびいた。
「お兄ちゃんがご飯作ってくれるの? 禰豆子、お兄ちゃんのご飯食べたい!」
「いいよ! 禰豆子はなにが食べたい?」
「い、いや、ちょっと待てっ。その……」
盛り上がっているふたりには悪いが、それなら頼むとは言えない事情がある。作ってもらおうにも、材料がなければどうしようもないだろう。
「食べられそうなものがなにもない。作るにしても買い物には行かないとどうしようもない」
「なんにもないと思っても、意外と材料はあるもんですよ。ちょっと見てもいいですか?」
恥を忍んで言ったというのに、炭治郎はあきれるどころかニコニコと笑っている。いいよ、こっちと言う禰豆子に手を引かれて台所に向かいだす炭治郎に、義勇のほうがあわてるよりほかない。
「禰豆子、炭治郎は来たばかりだ。疲れているのに料理させるのは悪いだろう。弁当で我慢してくれ」
「全然大丈夫です! それに、家政夫さんとして雇ってもらったんです。ご飯を作るのも俺の仕事じゃないですか。俺、料理は得意なんです、まかせてください!」
顔をくもらせた禰豆子を気遣う意味もあるのだろうか。炭治郎はことさら明るく笑って言う。
「ハンバーグは作れないかもしれないけど、いいかな?」
「いいよ! あ……今の間違い! パパ、禰豆子わがまま言わないよ? いい子にするから……だから、嫌いにならないで……」
桃色の愛らしい瞳を潤ませて、おびえたように見つめてくる禰豆子に、義勇の息がつまる。
あぁ、まただ。また悲しませた。苦しませてしまった。
どうしてこうなるのだろう。『普通』じゃないから。『普通』を知らないから。答えがわからない。どうしたら禰豆子に『普通』の幸せを与えてやれるのか。義勇には、わからない。
なのに炭治郎は言うのだ。
「嫌いになるわけないだろ!? だって義勇さんは禰豆子のこと、大好きじゃないか! それに禰豆子はこんなにいい子なんだもの。禰豆子はわがままなんか言ってないぞ? 嫌われるわけがないだろ?」
明るく、優しく、炭治郎は笑う。
こんなふうに子どもにおびえられる父親なぞ、疑いを持ってもおかしくないと思うのに、炭治郎はいいパパだとこともなげに言うのだ。ビクビクと父親の顔色をうかがう禰豆子に、いい子だと優しく言って、愛おしげに頭をなでる。
疑問に思うのはしかたがない。疑われても弁明などできようもない。聞きたいことは山ほどあるだろう。けれども炭治郎は、なにも聞かずに笑うのだ。
もちろん、禰豆子の目の前だからというのはあるだろう。しかし、ひとかけらの逡巡や嫌悪も見せないのは、なぜなのか。
出逢ってからまだ二月ほど。話すのは精々五分程度の、顔見知りとしか言いようのない仲だ。だというのに、雇用関係を結んだとはいえ、炭治郎の表情にも声音にも、雇用主に対する媚めいたものはなにもない。心の底から義勇と禰豆子を信頼し、いい親子だと感じているとしか思えなかった。
義勇自身の認識との差異は、どうにも違和感をぬぐえず、座りが悪いことこの上ない。なぜそんなにも無条件に自分なぞを信じられるのかと、かすかにとはいえ、身勝手な苛立ちも義勇の胸には生まれた。
けれども、今大事なのは、禰豆子の不安を晴らすことだけだ。義勇にとって、それ以上に大切なことなどない。
大丈夫と言いはしても、目まぐるしい境遇の変化に炭治郎だって精神的な疲労は感じているだろう。睡眠不足だとも言っていた。そんな炭治郎には悪いが、この場は禰豆子の気持ちを優先させてもらうしかない。当然のこと、自分のことなど二の次だ。
「パパ……」
「……炭治郎の言うとおりだ。禰豆子はわがままじゃない。いい子だ。禰豆子……」
腕を広げ、禰豆子を待つ。今この場で、一番おびえているのは自分だろうなと、心の片隅で自虐的な嘲笑が浮かんだ。
言葉選びの下手な義勇が、禰豆子を安心させるには抱きしめるのが一番だった。禰豆子を安心させてやりたいのが大きな理由ではあるが、言葉よりも抱擁を選んでしまうのは、義勇自身の臆病さも少なからずある。
腕のなかにおさまる小さな体を、優しく抱きしめれば、禰豆子はいつでもホッとした顔で笑ってくれる。その笑顔にこそ、義勇は安堵する。
おずおずと細い腕を伸ばして、しがみついてくる禰豆子が愛おしい。この柔らかく温かい存在が、自分の腕のなかにいてくれるのなら、羞恥心などいくらでも抑えつけよう。
「炭治郎……すまないが、禰豆子に食事を用意してやってくれ」
「はい! ていうか、それが俺の仕事ですよ。悪いなんて思わないでください」
朗らかに言い、炭治郎は張り切った顔で腕まくりした。
禰豆子を抱いたまま廊下を進む義勇の隣を歩きながら、炭治郎は禰豆子は嫌いなものあるか? と、いかにもうれしげに聞いてくる。
不安をあらわにしていた禰豆子も、炭治郎の笑みにつられたか、なんでも食べられると良い子のお返事でニコニコとしだした。
それにホッとしながらも、胸の奥が傷むのは、自分の傲慢さなのだろうと義勇は自嘲する。
親子だと言っても、昔はまともな会話などなかった。禰豆子のことはかわいくてしかたがなかったが、苦労をさせないことぐらいしかしてやれることなど思いつかず、ろくにかまってやらなかったのは自分だ。たった三歳の幼児が暗く沈んだ顔をしているというのに、妻の言うイヤイヤ期だの人見知りだのという言葉を鵜呑みにして、禰豆子の話を聞いてやらなかった自分に、傷つく権利などあるはずもない。
それなのに、禰豆子の笑みをたやすく引き出せる炭治郎に、恥知らずにも嫉妬している。浅ましくうらやんでいる。傲慢と言わずしてなんと言おう。
鬱屈していく義勇の心情など気づかぬまま、禰豆子はすっかりご機嫌だ。対する炭治郎はといえば、禰豆子に笑いかける笑みは温かくなんの含みもないようなのに、義勇に差し向けるまなざしには、なぜだか気遣わしげな色が浮かんでいる気がした。
誰からも感情が読めないと言われる鉄面皮だ。よもや自分の懊悩を感じとったわけでもあるまい。きっと自分の卑屈さがそう見せているだけだと、義勇はあえて炭治郎の物言いたげな視線を無視した。
「ろくなものがないから、すまないが握り飯でも握ってやってくれ」
台所に着くなり、よしやるぞ! と冷蔵庫や戸棚を探りだした炭治郎に、義勇は禰豆子を椅子に腰かけさせながら声をかけた。
そこはかとなく申し訳なさがにじむ声になったのは、いたしかたない。
雇用上は雇い主と家政夫という立場にはなるが、本音を言えば炭治郎を支援してやりたかっただけだ。だというのに、初めての家で休む間もなく働かせるうえ、まともな食事もさせてやれないなんて、自分の不甲斐なさが恨めしい。
だが、炭治郎はそんな義勇の罪悪感を吹き飛ばすように、上機嫌な笑顔を見せた。
「大丈夫です、これだけあればなんとかなりますよ! あ、なにか使ったらまずいものはありますか? 冷凍庫の食品は使っても大丈夫ですか?」
「冷凍食品は禰豆子の弁当用だが、すべて使いきるのでなければかまわない」
「あ、そうか。禰豆子の弁当もあるんですね。じゃあ、明日の分を残してっと……うん、できそうです! スパゲッティでいいですか?」
「スパベピイ?」
「スパゲッティ。パスタだ」
きょとんとする禰豆子に教えてやりつつも、義勇も心情的には首をかしげたいところだ。ソースはなにも常備していないのに、いったいどうするつもりなのだろう。ナポリタンならケチャップがあるけれど、具材になりそうなのはウインナーぐらいだ。それでも義勇は文句など言うつもりはないし、禰豆子も同様だろうが、炭治郎は楽しげに冷凍庫から食材を出している。
「そっか、スパゲッティって今はあんまり聞かないかもな。お店のメニューもパスタって書いてあるし。禰豆子ぐらいの子だったら、スパゲッティとは言わないかぁ。俺は、施設の先生たちがそう言ってたから、パスタよりもスパゲッティのほうがなじみがあるんですよね。年配の先生が多かったもんですから」
「……俺もそうだ」
義勇がスパゲッティと口にすると、顔をしかめてパスタと言い直していた妻の顔を思い出そうとしたが、うまくいかなかった。もちろん、顔かたちを忘れたわけじゃない。ただ、関心がなかった。
思い出す元妻の顔は、いつでも醜悪な嘲笑を浮かべている。離婚届に判を押し、せいせいしたと嗤った顔だ。
禰豆子と血がつながっているのだと示す桃色の瞳が、侮蔑をあらわにせせら笑うのを、義勇は冷めきった目で見ていただけだった。むしろ安堵していたとも言える。
「じゃあ禰豆子もスパベピイって言うね!」
愛らしい声に思考の底から引き上げられ、禰豆子を見やると、禰豆子は桃色の丸い瞳をきらきらと輝かせてうれしそうに笑っていた。
似ているようでまったく違う、禰豆子の桃色の瞳に、義勇の口元に笑みが浮かんだ。
「スパゲッティ」
「シュパベッピー!」
あれ? とまばたきして、シュパ、んと、スパベティ、あれれ? と繰り返す禰豆子に、炭治郎も楽しそうに笑う。
「言いにくいよな。パスタでいいぞ、禰豆子」
「いやっ、禰豆子もパパとお兄ちゃんと一緒がいい!」
絶対に言えるようになるもんと、小さな拳をにぎりしめて、フンスッと意気込む禰豆子が、義勇の胸にほわりと温かな灯をともす。
「そっかぁ、それじゃ頑張れ! 俺と練習しような、禰豆子!」
「うん!」
明るく笑いあう炭治郎と禰豆子に、泣きたいぐらいふわふわとした温もりを感じる。それはやっぱりどこか遠いのに、それでも確かに義勇の心を優しく癒すものだった。
ぼんやりとふたりのやり取りを見ているあいだにも、炭治郎は手際よく動いている。
いつのまにやら鍋に湯がわかされ、レンジに入れられた冷凍食品のミニハンバーグやブロッコリーは取り出されて、まな板の上でテキパキと切り刻まれていた。
「調理器具や食器も高そうなのばかりですね……割ったり壊したりしないようにしなきゃ」
「……値段は知らん。とくにこだわりも思い出もないから、割ろうが壊そうが気にしなくていい」
「そういうわけにはいきませんよっ。台所だってすごくお金かかってそうだし、食器も揃いのが多いから、こだわって集めたんじゃないかなぁ」
古臭くて使いづらいと妻があんまり文句を言うから、台所や浴室などの水回りはリフォームしたが、いくらかかったのかなんて義勇は知らない。家電やらなんやらも、アレは嫌だコレは駄目だと勝手に買い替えていたのは知っているが、義勇は一切興味がなかった。
だから、炭治郎にそんなことを言われても、答える言葉は浮かばなかった。ブランド品など義勇はまったくわからないし、興味もない。妻の提案に義勇がかたくなに拒んだのは、この家を売りマンションに引っ越すことだけだ。
そんな話をしているうちに、キッチンタイマーのピピピという軽い電子音が聞えた。
作り出してからものの二十分もかかっていないというのに、そろそろ料理はできあがるようだ。手際の良さをみるに、料理が得意だという炭治郎の言はたしからしい。
「よし、できあがり! お口に合うといいんですけど」
テーブルに置かれたスパゲッティはチーズの香りがする。おまけに副菜の小鉢までコトリと置かれ、思わず義勇はまじまじと炭治郎の顔を見た。
「こんなに材料があったか?」
「スパゲッティは弁当用の冷凍ミニハンバーグとブロッコリーを具にして、イタリアンドレッシングと粉チーズで味付けしてみたんです。小鉢はジャガイモとツナ缶。禰豆子の分は黒コショウ少な目にしておきました」
「おいしそう! ねっ、パパ、お兄ちゃんすごいね!」
「あぁ……うまそうだ」
たったそれだけの食材で、こんな短時間で二品も作れるというのは、義勇からすれば魔法じみている。
「ドレッシングやマヨネーズで味付けただけですから、あんまり褒められたもんじゃないですけど」
感心する義勇や禰豆子とは裏腹に、自分も席に着いた炭治郎はどこか申し訳なさげだ。その様子に義勇は小さく眉を寄せた。
「限られた材料でちゃんとした食事が作れるんだ。褒められて当然だろう。もっと胸を張っていい」
「……ありがとうございます」
面映ゆそうに言って少しうつむいた炭治郎の頬が、淡く染まっている。なぜだかもじもじと照れているようで、ずいぶんとつつましやかなんだなと義勇はぼんやりと思った。
「パパ、もう食べていい?」
「あぁ、いただきますしなさい」
うれしげに手をあわせ、いただきますと元気に言った禰豆子につづき、義勇が小さくいただきますと言うと、炭治郎の顔が上がった。
義勇と禰豆子の口に合うか心配なのだろう。先程までの照れくささげな笑みが消え、なんとも真剣な表情だ。
あまり凝視されると食べにくいなとちょっぴり思いつつ、スパゲッティを口に入れた義勇は、思わずパチリとまばたきした。イタリアンドレッシングと粉チーズが混ざりあったソースは、適度に酸味が飛んで、チーズとハーブの風味が絶妙だ。禰豆子にも食べやすいようにだろう、細かく刻まれたハンバーグとブロッコリーのおかげで食べ応えもある。
ついで手を伸ばしたジャガイモとツナのサラダも、粗く潰されたジャガイモとツナにマヨネーズがよく絡んでいて、黒コショウがアクセントになりいくらでも食べられそうだった。
「お兄ちゃん、すっごくおいしい!」
「そうか!? よかったぁ」
禰豆子の歓声にホッとした声で答えた炭治郎は、それでもまだフォークを手にしない。どうやら義勇からの感想を聞きたいようだ。
「……うまい」
「っ、ありがとうございます!」
「冷める前におまえも食え」
「はい、いただきます!」
ニコニコと笑って大きく口を開け、スパゲッティを頬張る炭治郎に、禰豆子も笑いながらサラダを口いっぱいに頬張っている。
こんな明るく楽しい食事風景は、何年ぶりだろう。
幼いころのおぼろげな思い出が、義勇の脳裏をかすめたが、いつものような息苦しさは感じなかった。思い返せば苦しく、やるせない後悔や自責の念ばかりに支配されるのが常だというのに、なぜだろう。
思った瞬間に、向かいに座る炭治郎のうれしそうな顔が目に入り、あぁそうか、炭治郎がいるからかと、義勇はわずかに苦笑した。
いつまで炭治郎がこの家にいてくれるのかはわからない。高校を卒業するまでは衣食住の面倒を見るつもりでいるが、その先はこのままというわけにもいくまい。家政夫としてずっと働き続けてくれなど、炭治郎の将来のことを考えれば言えるわけがなかった。
それでも。三人での生活は始まったばかりだ。今はまだ、別れを憂うよりも、禰豆子と炭治郎の幸せそうな笑顔だけを見ていたい。
温かな食卓を囲む笑い声は、遠い昔の思い出をにじませて、義勇の耳に優しく響いた。