5:義勇
ゴールデンウィークに宇髄が泊まりに来ると義勇が聞いたのは、連休の三日前のこと。炭治郎と禰豆子も、宇髄とともに鱗滝家に泊まるという。そこまではよかった。宇髄はともかく、炭治郎たちが遊びに来るのはうれしい。ちょっとそわそわしてしまうぐらいには、義勇も楽しみだった。
けれど、錆兎たちが続けて言うには、煉獄も一緒らしい。義勇が最初に浮かべた言葉は「なんで!?」の一言だ。まさしく青天の霹靂としか言いようがない。
義勇に対して一歩引いて見える宇髄はまだしも、煉獄はなぜだか義勇をやたらとかまいたがるから、正直ちょっと苦手なのだ。錆兎たちだってそれはわかっているだろうに、なんで許可したんだろう。
日頃から察しがよく、義勇のほんのわずかな心の機微を汲みとってくれる、賢い幼子たちだ。義勇が少しでも嫌がれば、決してそれを許すことなどない子供たちでもある。
そんな錆兎と真菰が、義勇が苦手とするタイプの煉獄までも泊まることを許可するなんて、一体どうなっているんだろう。しかも、すべてが決定するまで義勇には一言の説明も相談もなかった。
戸惑いと少しだけ反発を示した義勇の瞳に気づいたんだろう。鱗滝が苦笑しつつも少しだけ厳しい声で「学校に慣れるためにも友達は大切にしろ」と言ったことで、義勇はコレは決定事項なのだとうなずかずにははいられなくなった。けれども友達と言う言葉には、首をかしげずにはいられない。だって煉獄や宇髄が、自分のことを友達だなんて思うわけがないではないか。
中二の終わりに転校して、中三に上がってから早一カ月。義勇は基本的にまだ保健室登校だが、毎日一、二時間ほどは教室にも顔を出す。けれどもいまだにクラスの誰にも関心など持てず、クラスメートの顔も朧気だ。名前などほとんど知らない。
だが、教室に行くたびに声をかけてくる者がいることぐらいは、ぼんやりとした認識でも覚えていた。
その一人が、煉獄だ。
クラス委員長の胡蝶カナエという女子が、義勇に必ず声をかけてくるのはわからないでもない。
責任感のあるタイプなのだろう。本心はどうあれ、事情のある級友に声をかけ、クラスに馴染めるようにしようとするのは、委員長としての責任感ゆえなのだろうと思う。
だが煉獄が義勇に声をかける理由は、さっぱりわからなかった。義侠心に富む男なのだろうとは思うが、話しかけてもなんの反応も示さず挨拶すらしない義勇に、なぜ毎日笑って声などかけられるのか。
とくに先日の一件以来、煉獄は今まで以上に義勇をしきりとかまいたがる。まるで友達のようにだ。
義勇が今のような状態になって以来、接してきた人はみんな、義勇にすぐに見切りをつけた。薄気味悪い、馬鹿にしていると、誰も彼も義勇を嫌悪し離れていく。もしくはあからさまに蔑み、頭のおかしい義勇にならなにをしてもかまわないとばかりに、侮蔑的な言葉を投げつけ嘲笑う。
そんなふうに手のひらを返されても、義勇はなにも感じない。傷つく権利など自分にはない。嫌わないでほしいなど言える立場だとは思っていない。感じる心など、失ってしまった。
自分は人殺しだ。誰よりも大切な姉とやさしかった義兄を、死に追いやった罪人だ。
だから、楽しいだとかうれしいだとか幸せだとか、そんなやさしく温かいものは、自分が手にしてはいけないと思っていた。
こんな自分を思い遣ってくれる鱗滝や錆兎と真菰に、心配をかけぬよう、これ以上悲しませないよう、ただ生きる。なにも考えずふわふわと漂うように、ただ息をして過ごす。それだけが義勇が望むものだった。
黒い靄に閉ざされ、迷子になる心。その心に、小さな光が灯されたのは突然だった。
義勇さんが迷子になったら、俺が絶対に迎えに行きます。そう言って笑った小さな子供。義勇をヒーローと呼び、曇りのない瞳に尊敬と憧憬を浮かべて見つめてくる、炭治郎。
炭治郎の明るく元気な笑顔を思い浮かべると、義勇の昏く閉ざされていた心は、ほわりと温かくなる。
それから義勇の毎日は、少しずつ変わっていった。大きな変化はない。けれど、炭治郎のためになにかしてやりたいと思うようになった。炭治郎が笑うと、少しだけ楽しいと自分も思うようになった。
炭治郎がほかの誰かに笑いかけて、自分に向けるのと同じようにはにかむと、もやもやと小さなやきもちが心に生まれる。炭治郎が義勇のことをヒーローだと言うのなら、精一杯ヒーローらしくあろうと思ったりもする。ほかの誰でもなく、自分こそが炭治郎のヒーローでありたいと思う。
そんな義勇の変化を、錆兎や真菰、鱗滝も喜んでくれているようで、今までの自分の望みこそが三人を悲しませていたことを義勇は知った。
自分が笑えなければ、自分を思い遣ってくれる人たちも、心から笑ってはくれない。義勇が幸せだと思えなければ、誰も幸せになれないのだと、思い出させてくれたのは炭治郎だ。
だからこそ、炭治郎にだけでなく、教室で顔を合わせる煉獄や宇髄に対しても、義勇は義勇なりに友好的な態度を取ろうと努力している。炭治郎だけでなく錆兎たちも宇髄らと仲良くなったらしいので、自分も仲良くしなければきっと悲しませてしまう。
とはいえ、もともと人見知りで引っ込み思案な質の義勇が、いきなり明るく話などできるわけもなく。おまけに、まだ気が付けばぼんやりとしてしまうものだから、せいぜい挨拶を返せるようになったぐらいなのだけれど。
それでも煉獄は義勇がちょっと怯えるぐらいに喜びをあらわにしたし、宇髄も、まぁ少しずつがんばれやと笑っていた。
義勇は知らなかったのだが、煉獄と宇髄に初めて挨拶を返したその日、義勇が保健室に帰った後の教室は大騒ぎだったそうだ。初めて義勇の声を聞いた、一体どんな魔法を使ったんだと、宇髄と煉獄は級友たちから質問攻めにされたらしい。錆兎と真菰が笑いながら教えてくれた。
それを聞いて義勇は、一体いつの間に宇髄達と連絡を取り合うほど仲良くなったのかと驚いたし、ちょっぴり寂しい気持ちにもなったものだ。
こんな罪人の自分にも、みんなやさしい。それだけで満足すべきなのに。
罪悪感と喪失感は、義勇の心の一番奥に深く根を張り、今も消えそうにない。どうしたって消えない。
それでも少しずつ、少しずつ、心を満たしていた哀しみが薄れていくのを感じている。悲しみが薄れた場所に、そっと入り込んでは心を揺らすのは、楽しいだとかうれしいだとか、幸せだとか、義勇が求めてはいけないと思っていた感情たちだ。
それを咎める自分は今もいて、お前にそんな資格はないだろうと義勇を責める。
こんな自分にまでも笑って話しかけてくれるだけでなく、窮地に颯爽と現れて助けてくれた、威風堂々とした煉獄。きっとヒーローと呼ばれるのにふさわしいのはああいう男だと、お前なんかおよびじゃないと、心のなかでもう一人の義勇はせせら笑う。
そんな煉獄が自分と友達になるなど、あるわけがないと義勇は思う。けれどきっと、それではいけないのだ。
錆兎たちに笑っていてほしいのなら、炭治郎のヒーローでありたいのなら、煉獄はきっとそのお手本だろう。いきなり撫でられたりするのは困るけれども、少しずつでいいから仲良くできたらいいと、少しでも好かれたらいいなと義勇は思う。
もしも煉獄や錆兎たちが聞いたなら、呆れるか怒るかしそうな義勇の小さな決意ではあるが、義勇にその自覚はない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
さて、そんな決意をした義勇ではあるが、早速その決意が揺らぎそうになっていた。いや、がんばってはいるのだ。本当に。
犬を苛めていた輩の一件を、錆兎と真菰が鱗滝に話していたときのことだ。
煉獄の名に鱗滝が少し驚きを見せた。どうやら義勇が市の大会に参加していたころ、義勇と並び称されていた優勝常連の少年が煉獄だったらしい。偶然とはいえクラスメートになったのは天の采配というやつだろうと、鱗滝は感慨深げに言っていた。鱗滝が褒めるぐらいなのだから、煉獄は相当な剣士に違いないと、錆兎や真菰も感心しきっていたものだ。
義勇自身は勝敗にはあまりこだわりがなく、己を高め自分自身が強さを身につけられればそれでいいと思っている。ところが、鱗滝に言わせると実力伯仲するライバルの存在は、とても大切なのだそうだ。このゴールデンウィーク中に煉獄も一緒に稽古するのは、きっと義勇にとってもいい刺激になるだろうと笑っていた。
とはいえ、すっかりスタミナも筋力も落ちた自分では、とてもじゃないが煉獄の相手など務まるはずがない。誰の目にもわかりきった話だというのに、どうやら煉獄は、義勇と手合わせしたくてたまらないらしい。
掛かり稽古は断ったものの、炭治郎にまでおねだりされては、断るのは気が引ける。煉獄の前で技を見せるのは、義勇にとってはどうにも居心地悪さを否めなかった。
もちろん、竹刀をかまえればそんな戸惑いや困惑は消える。とくに打ち込み人形であるムザンくんと対峙すると、必ず打ち負かすという闘志が湧きもする。だから竹刀を振るっているあいだはよかったのだ。ギャラリーがいるのはなんだが、やることはいつもと変わらない。ところが素人である炭治郎だけでなく、煉獄までも義勇の剣を誉めそやすものだから、義勇はすっかりうろたえてしまった。
炭治郎のきらきらした目で褒められるのは、照れくさいけれどうれしい。でも、煉獄に同じように褒められるのは、なんだか申し訳ないような気持になってしまう。
煉獄は義勇の目から見ても堂々とした体躯をしているし、立ち居振る舞いからしてもそうとう強いことがわかる。今の義勇ではとても敵うはずがない。なのに、なんでそんなにも褒めるのか。義勇には、わからない。
以前の義勇ならば少しは自信も持てた。だが、こんなにやせ細った体と普通とはとても言えない精神状態の自分では、どうしたって自信なんて持ちようがない。
なのに煉獄は義勇の技を褒めながら、炭治郎と一緒に楽しげに盛り上がったりして。ちょっと妬いたのはしっかりバレた。炭治郎がうれしそうに照れるから、義勇も面映ゆさのほうが勝ったけれど、本当は少し不安にもなった。
もしも煉獄の稽古の様子を見たら、炭治郎のこの憧れの眼差しは、義勇ではなく煉獄に向けられてしまうのではないだろうか。そんな不安を抱くこと自体、罪悪感をおぼえもするが、怯えが止められなかった。
錆兎たちが布団を抱えて帰ってきてくれたときには、正直、やっと解放されると安堵したのと同時に、とうとう一緒に稽古する時間が来てしまったと、不安が増したぐらいだ。
想像はあくまでも想像でしかなく、炭治郎は相変わらず義勇のことを凄い、格好いいと、笑ってくれた。安心はしたが、義勇が心穏やかでいられたのはそこまでだ。
いきなり宇髄にガシッと両脇を掴まれたかと思えば、ヒョイといとも軽々と持ち上げられた挙句、身体中を触られまくるという、とんでもない事態に硬直したのは十五分ほど前のこと。
まるで小さい子供のように扱われて、恥ずかしいと思ったのも束の間だ。義勇の背は百七十五センチぐらいにはなるだろうとの宇髄の言葉に、すっかり義勇がそれくらい大きくなると信じた炭治郎に大はしゃぎされて。義勇は、少なくとも今の煉獄よりも大きくならなければならないことを、余儀なくされた。
「おまえもしっかり食わねぇと、炭治郎に追い越されるかもしれねぇぞ。見たところ百六十ぐらいだろ? ガキの成長なんてあっという間だぜ」
そんなことを言われたら、どうあっても大きくなるよう努力するしかないではないか。
きゅっと唇を噛んで、がんばらないとと思ったのだ。本当に。心の底から。十五分前までは。
でも。
「なんだぁ? おまえこんなちっこいクロワッサン二つで地味にギブかよ」
「うーむ、冨岡は本当に少食なのだな。千寿郎でも、竈門ベーカリーのパンなら三つはぺろりとたいらげたものだが……」
呆れたような宇髄の言葉にも、どこか心配げな煉獄の言葉にも、まったくもって返す言葉がない。
昼飯にするぞと鱗滝に呼ばれてぞろぞろと茶の間に向かったら、卓袱台の上には、三つの皿に高く積まれたパンの数々。炭治郎の手土産のパンが今日の昼食だった。一緒に出された牛乳は、グラスが足りずに鱗滝や錆兎と義勇の分は湯飲みだったのが、ご愛嬌というところ。
みんなが歓声をあげてうまいうまいとたいらげていくのにまじって、義勇も黙々と食べたのだが、みんなと違って二つ目で胃が悲鳴を上げた。
たしかに義勇だって、うまいとは思うのだ。少し前までのなにを食べても味がしなかった食事とは違って、ちゃんと鼻に抜けるバターの香りも、ほろりと口のなかでほどける舌触りも、ちゃんとおいしいと感じられるようになってきている。おいしいと喜ぶことを、心が思い出してきてはいる。
それでも、胃が受けつけてくれない。体が心に追いつかない。二つ目の最後の一口は牛乳で無理矢理流し込んだ。
いくらおいしいと思っても、日頃の食事は茶碗に半分がせいぜいだ。以前の義勇なら稽古の後ともなれば、姉がちょっと呆れ顔をするぐらい、食べても食べても足りないぐらいだったのに。
『こんなに食べるんだもの義勇の服はすぐに小さくなっちゃうわね。もうすぐ私の背を追い越されそう』
笑いながらおかわりをよそってくれていた姉の顔を思い出す。少し恥ずかしくて、でも誇らしかった、あの笑顔。おかわりと言う自分の声はきっとうれしげだった。
炭治郎にも笑ってほしいのに。うまいと笑ってやりたいのに。
錆兎たちだって心配そうだ。もう少し食べられないかと言われて無理をしたときに、体調を崩して寝込みかけたのを思い出しているのだろう。
不甲斐ないと思う。どうして自分はこうなんだろうと、悔しくもなる。
そして、不安にも。まともに食事もできないなんてヒーローじゃないだろう、と。
せめてもう一つと、残るパンに手を伸ばそうと思うのだが、ためらいがぬぐえない。そんな義勇に、もういいよと、真菰が言い出しそうな気配を感じたそのとき。
「義勇さん、はい、アーンしてください!」
明るい声に、一同の動きがピタリと止まった。もちろん、義勇も。