2:杏寿郎
義勇が竹刀の点検をする様をじっと見つめる炭治郎の大きな目は、いかにも興味津々だ。邪魔をしてはいけないと思っているんだろう。口をしっかりつぐんでいるが、好奇心は抑え切れないらしい。気がつくと身を乗り出している炭治郎に微笑ましさをおぼえながら、煉獄も、真剣な目で自身の竹刀を点検する。
ほんの些細なささくれでも相手に怪我をさせる可能性があるし、先革に緩みや破損があれば、竹が飛び出す恐れもある。とくに先革は注意が必要だ。万が一にも破れでもしたら、飛び出した竹で相手に大怪我を負わせかねない。たとえ素振りしかしないときであっても、その心構えこそが大事だと煉獄は思っている。
「竹刀ってバラバラにできるんですね。俺、竹は全部くっついてると思ってました」
「……組んであると見えない場所にも、ささくれや亀裂があるかもしれないから」
竹刀削りで竹を削りながら答える義勇の手付きは丁寧だ。淀みなく動く義勇の手を、美しいと煉獄は思う。
もちろん、女性のように嫋やかな手なわけではなく、竹刀を丁寧に扱うその動きこそが美しい。竹刀とは、読んで字のごとく竹で作られた刀だ。あくまでも剣なのだ。相手に向け、また己にも向ける剣。徒や疎かに扱っていいものではない。
気剣体の一致こそが剣の道の真髄だ。剣と己が一体となることを目指して、剣士は竹刀を振るう。竹刀を丁寧に扱うことは、そのまま相手への敬意の表れであり、剣への敬意でもある。
義勇が竹刀を扱う手付きは、煉獄と変わらない。竹刀を神聖なものとして大切にしているのがよくわかる手付きだ。
大会などで対戦する相手のなかには、残念ながら竹刀を乱雑に扱う輩もいる。そういう者はやはり力量が劣る。剣への感謝と敬意を持てぬ者を、煉獄は剣士とは認めない。
自分の愛用の竹刀に異常はないようだ。煉獄はうむと一つうなずいた。義勇もサンドペーパーをかけ終わり、仕上げの竹刀油を布に含ませているところだった。
「……やってみるか?」
「お手伝いしていいんですか? やりたいです!」
うれしげに弾む元気な声に、煉獄の頬もゆるむ。炭治郎は本当に素直でまっすぐないい子だ。逢うのはまだ二度目だが、煉獄や宇髄にも物怖じせず、すぐに懐いてくれた。
とはいえ、やはり炭治郎が一番懐いているのは義勇だ。炭治郎の大きな赫い目は、義勇を見るときには煉獄たちに向ける以上にきらきらと輝く。
尊敬や憧憬のこもった瞳に曇りはなく、まっすぐ義勇に向けられている。そんな炭治郎へと向ける義勇の瞳はといえば、感情の色はあまりあらわれない。
錆兎と真菰発宇髄経由で知らされた義勇の現状を思えば、それも致し方ないことなのだろう。けれど、それでも炭治郎を見る義勇の瞳もまた、澄んで美しいと煉獄は思う。
小さな手で義勇がやってみせたとおりに丁寧に竹を拭く炭治郎の顔は、真剣そのものだ。これは義勇さんの大事な物、大切にしなきゃいけない物と、声にはせずともそんなふうに思っていることが真剣な顔つきにあらわれている。
そんな炭治郎を、義勇はじっと見守っていた。言葉はなく無表情ではあるが、炭治郎を見つめる瑠璃の瞳には、温かい光がある。
二人の周りにきらきらとやさしい光が満ちているようで、煉獄はやはり、美しいなと微笑んだ。慈しむという言葉は、きっとこんな光景にこそふさわしい。穏やかな温かさに満ちた光景だ。
ただ今の時刻は午前十時半。道場で寝泊まりすることになる煉獄と宇髄、そして竈門兄妹のために、貸し布団を調達しに行った鱗滝たちも、そろそろ帰宅する頃合いだろう。
居残り組の三人で掃除した道場の床は、光を弾いて艶やかだ。神棚に供えた榊の緑が目に映える。注連縄に下がる紙垂は、あくまでも真白い。おもてからは鳥の声に交じって幼児がはしゃぐ声がしていた。
ああ、いい日だな。世界のすべてに感謝したいような日だと、煉獄は、この静謐でやさしい光景を愛おしむ。
あの日、ロケハンとやらに誘ってくれた宇髄には感謝しなければならないなと、煉獄は我知らずうなずいた。四月のあの晴れた日に、炭治郎たちと出逢った公園に行かなければ、こんな光景を見ることはできなかった。義勇が、煉獄が探し求めていたまだ見ぬライバルだということにも、気づかずにいただろう。
この四日間でどうにか義勇と手合わせしたいものだと思うが、義勇はまだ素振りや打ち込み台への打ち込み稽古しかしないのだと、錆兎たちは言う。どうにか普通の暮らしができるようにはなった。ふたたび竹刀を手に取りもした。それでも、義勇のすっかり落ちた筋力や体力が、元に戻ったわけではないらしい。
以前にくらべればかなり食が細く、もともとどちらかといえば細身だった体は、痛々しいほどに細く薄くなってしまったと、真菰が少ししょんぼりした声で言っていた。
そんな状態でありながらも、犬を苛めていた不埒な輩を捕獲した一幕は、見事としか言いようがない。
錆兎たちが布団を持ち帰ったら、煉獄も交えて稽古することにはなっているが、義勇との手合わせはやはり難しいだろうか。たいへん残念ではあるが、鱗滝に稽古をつけてもらうだけでも収穫であることに違いはないと、煉獄は気を持ち直す。
炭治郎たちと出逢った日の夕食どきの会話を思い出す。興奮しきりに義勇のことを父に話したところ、やはり驚いた父は、義勇の保護者である鱗滝の名にそれなら納得がいくとうなずいたのだ。
父によると、鱗滝は今でこそ大会などに参加することはないが、剣術界ではかなりの剣豪として知られている人物とのことだった。笑顔魔神という二つ名に、千寿郎が味噌汁を噴き出しかけてむせていたが、それはともかく。
煉獄の父だって、子の贔屓目を抜きにしても並々ならぬ腕前を誇る剣豪だ。そんな父が尊敬に値すると言うほどの鱗滝から、じかに稽古を受けられるのだ。自分は果報者と喜ばねばなるまい。父も、ぜひとも稽古をつけてもらえと、今回の泊りを快く許してくれた。
煉獄の流派は炎のような剛剣で知られるが、鱗滝の流派は水のように柔軟に、相手によって形を変える、いわば柔の剣。タイプの違う剣だからこそ、得られるものも多いだろう。
「これでおしまいですか?」
物思いに耽っているうちに、どうやら義勇は竹刀を組み終えたようだ。炭治郎の問いかけにこくりとうなずいている。
「おお、終わったか! そろそろ鱗滝殿たちも帰られるだろう。冨岡、今日の稽古ではぜひ俺と手合わせ願いたい!」
物は試しと言ってみたが、義勇の答えはといえば、想像通りふるふると首を振っておしまいだ。
「むぅ、残念だ! やはり素振りと打ち込み稽古だけなのか?」
こくりとうなずき、スッと視線を流す義勇につられて、煉獄と炭治郎も視線をそちらに向ける。視線の先には防具をつけた打ち込み人形が置いてあった。
「こちらでは人形式の打ち込み台なのだな。俺の家の道場ではタイヤ式だ! あれは既製品ではないようだが、鱗滝殿の手製かな?」
またこくりとうなずいた義勇に、炭治郎が興味津々な様子でたずねる。
「あれで稽古するんですか?」
「……動くから」
「えっ!? あの人形動くんですか?」
ビックリ顔の炭治郎に義勇はうなずいているが、おそらく竈門少年が想像しているものと冨岡が言いたいことには、かなり差があるだろうなと、煉獄は思わず笑った。
「実際にやってみせたほうがわかりやすいだろう!」
言いながら煉獄は立ち上がった。
「おぉ! キャスターもついているのか。これならぶつかり稽古もできそうだな! いい出来だ、鱗滝殿は器用だな!」
歩み寄ってまじまじと検分した人形を、カラカラと音立てて炭治郎たちの元へと運ぶ。ストッパーがしっかりかかったのを確かめ、煉獄は、炭治郎たちへと向き直った。
「竈門少年、今、人形の腕は上を向いているだろう? これが上段の構えだ。冨岡、まずは胴からでいいだろう?」
わずかに眉を寄せている義勇に笑いかけ、煉獄は、ほら、とうなずいてみせた。
炭治郎にきらきらと期待のこもった眼差しで見られては、断りづらかったのだろう。義勇が少しばかり戸惑いを見せつつも、打ち込み台に向かって立った。人形に向かい礼をすると、ゆっくりと中段の構えを取る。
息を吸い、深く静かに吐く。ぶれぬ剣先。晴眼の構えに力みはない。凛と伸びた背中。その佇まいは凪いだ水面のように静かで、けれど、細い体躯からじわりと立ち上ってくる闘気が見えるようだ。
そんな義勇の姿を、煉獄は惚れぼれと見つめる。竹刀を構える義勇は、どれだけ細く頼りない肢体であっても、勇ましく凛として、美しい。
不意に、大音声が静寂を切り裂いた。刹那、義勇の体がかすかに沈み、竹刀が素早く振りかぶられる。同時に、義勇が跳ぶように大きく踏み込んだ。
パァンッと、道場を震わせるようにひびいた踏み込みの足音。気勢のこもった「胴!」の声は同時。振りかぶられていた竹刀は、流れる水のようになめらかに素早く斜めの軌道を描き、疾風迅雷の鋭さで打ち込み人形の胴をとらえた。
瞬間、道場にひびき渡った高く乾いた打突音とともに、義勇の体躯が人形の右脇をすり抜け、静かに止まる。
それはまばたきする間も惜しい素早さでの一撃。空気を震わせた音たちの余韻が消え、静寂が満ちた。
ああ、なんて流麗な飛び込み胴だろう。剣撃は鋭く苛烈でありながら、剣の軌道と体捌きのなめらかさは優美とすら思える。
同年代の少年の剣を、美しいと思ったのは初めてだ。
「……美しいな。そう思わないか? 竈門少年」
義勇は人形の背面で向き直り、構えを取っている。残心の姿にも隙がなく、みなぎる覇気が目に見えるようだ。
炭治郎は声もなく、うんうんと強くうなずいている。大きく見開かれた赫い瞳は、輝きながら一心に義勇を見つめていた。まろい頬が興奮に赤く染まっているのが愛らしい。
「剣道は音も大事だ。発声と踏み込んだときの足音。これらは試合や昇段試験では大事な武器になる。今の冨岡のように、両方そろって大きな音を出せる者は、俺たちぐらいの歳ではあまりいない」
「そうなんですか?」
うなずきで答え、煉獄は、炭治郎の腹に手を当てた。
「臍下丹田、ここに力を入れて腹の底から声を出す。気合のこもった掛け声で相手を威圧する。打突の際に打突部位を呼称するが、その声も、先ほどの冨岡のように気勢が充実していなければならない。踏み込みで大きな音が出るのは、腰の入った打突だからだ。剣道の基本だが、修練が足りない者はどうしても腕の力だけで振りがちになるから、ああはいかない。飛び込み胴は有効打突になりにくいから、試合では滅多に見かけない技だが……冨岡の飛び込み胴はまるでお手本のようだった。いいものを見せてもらったな!」
あの鋭さなら確実に一本だと教えてやれば、炭治郎の瞳が、ますます義勇への尊敬と憧憬に輝いた。それを微笑み見ていた煉獄が視線を感じて顔を上げると、構えを解いた義勇がじっとこちらを見つめている。
思わず煉獄はくくっと喉の奥で笑った。
「義勇さん格好良かったです! すっごくすっごくきれいで格好いいです!」
視線に気づいた炭治郎がはしゃぐ声で告げた、嘘偽りのない素直な称賛に、義勇がほんの少し顔を逸らせた。顔こそ無表情のままだが、きっと照れているのだろう。煉獄はそれを感慨深く見つめた。
ほんの少し前までの義勇は感情を失っていたらしいと宇髄から聞いたのは、義勇の剣を初めて見た翌日のこと。たしかに、それまで教室で見てきた義勇と目の前の義勇では、まるで違う。
初めて教室で逢った義勇は、まるで秀麗な姿をした動く人形のようだった。血も肉もない、きれいなだけの人形だ。
だが今の義勇はどうだ。その顔には、かすかにではあってもちゃんと感情が見える。まぁ、かすかすぎてわかりにくいことに変わりはないが、それでも、人形ではなく血の通った人の姿をしているではないか。
そして、そんな義勇の変化は、炭治郎との出逢いがもたらしたものなのだ。
「冨岡、やきもちを妬く必要はないぞ! ご覧の通り、竈門少年は君しか目に入っていないようだからな!」
からかうように言えば、炭治郎がぱちくりと目をしばたたかせた。煉獄の言葉の意味を悟ったか、照れて淡く染まった顔をしてもじもじと、でもうれしそうに義勇を見た。
やきもちは、好きだから。独り占めしたくてやきもちを妬く。
そう炭治郎に教えたのは義勇だ。義勇が煉獄にやきもちを妬いたのなら、それはつまり義勇が炭治郎のことを好きだから。炭治郎を独り占めしたいから。
互いの好意に照れ合っている姿は、言葉はなくとも、大好き、うれしいと、言い合っているように見える。
よもや恋愛感情というわけではないのだろうが、なんともこそばゆい二人だな、と、煉獄はつい苦笑してしまった。
不快感はまるでない。この二人は見ているだけで微笑ましく、煉獄の心を浮きだたせる。
照れ合う二人に苦笑したまま、煉獄はふたたび打ち込み人形に近づくと、背面のストッパーを動かし人形の腕を中段に据えた。
「竈門少年、この打ち込み人形はこんなふうに腕を動かして使うんだ。相手の構えに合わせて打ち込む稽古をするために、腕を動かせるようになっている。人形自体が動き出すわけじゃないぞ!」
煉獄が言えば、炭治郎はきょとんとしたあとで、あははと笑って頭を掻いた。
「その人形が勝手に動いて練習相手をしてくれるのかと思っちゃいました」
炭治郎の言葉に義勇が小首をかしげている。さっきそう言っただろうと言いたげなその様子に、煉獄は思わず噴き出した。
「冨岡は言葉が足りんな!」
大きな声で笑う煉獄に、義勇が心外と言わんばかりの顔をしたのを見て、炭治郎も笑った。義勇が感情を表すのがうれしくてたまらないのだろう。煉獄もうれしくなるが、機嫌を損ねてこれで終わられても困る。炭治郎も義勇の剣をもっと見たいだろう。煉獄だって見たい。
「さて竈門少年、剣道の有効打突は、胴だけではない。面、小手、突きもある。中学生の試合では突きは禁止なのだが、先日の冨岡の突きをまた見たくはないか? 面や小手もしっかりと決まった一本は美しいぞ! 冨岡ならどれもお手本になると思うが……どうだ、見たくはないか?」
「見たいです! 義勇さん、俺、突きも見てみたいです!! えっと、面と小手も!」
「だ、そうだぞ? 冨岡」
笑って促せば義勇は少しだけ不満そうに見えたが、すぐに打ち込み人形に向かい構えを取った。
竈門少年のおねだりの威力は凄いな。おこぼれに与れてありがたいかぎりだ。
内心にんまりと笑う煉獄が乗せるままに、炭治郎はおねだりを繰り返し、きらきらの瞳に断れぬ義勇が面、小手、突きと打ち込んでいるうち、宇髄たちが帰ってきた。義勇の剣技のお披露目は一旦中止だ。
義勇の技を見る機会はまだまだあるだろう。炭治郎にはがんばっておねだりしてもらうことにしようか。興奮冷めやらぬ炭治郎の頭を撫でながら、煉獄は朗らかに笑った。