幸食健美

「それじゃ、明日からよろしくお願いします!」
 ぴょこんと頭を下げる炭治郎に、義勇は小さくうなずいた。えへへとはにかみ笑う炭治郎は、いかにもうれしげだ。その笑みを見ていると、義勇の胸の奥にもほわりとした温かさが宿る。
 付きまとわれるのには閉口したし、突然の早食い競争だって、まったく意味がわからず混乱したけれども、炭治郎を厭う気持ちは元よりない。自分にかまわずいてくれるなら、兄弟子として、炭治郎を鬼狩りという修羅の道へ引き込んだ張本人としても、責任を果たすべきだとも思っている。
 とはいえそれは、もしも炭治郎が道を踏み誤ったり、禰豆子が人を食うようなことがあれば、己も腹を切る覚悟でしかなかったけれど。

 弾むように駆けていく炭治郎の背を見るともなし眺め、義勇は、ふと眉をひそめた。
 柱稽古をつける予定はなかったから、いったいどんな指導をすべきかなど、一度も考えたことがなかった。そもそも基本的な体力やら技術については、ほかの柱たちによって叩き込まれているだろう。自分だけが教えられるものなんてあるだろうか。
 考えてみると、これはなかなかに難しい。痣の発現が最重要ではあるが、炭治郎にはもう痣が出ている。自分には到底望めぬ境地に到達しているのだ。果たして自分の教えなど炭治郎には必要だろうか。義勇は無表情のまま小さくうなった。
 もちろん、技術や戦闘において必要な判断力など、足りないものはまだまだあろう。しかし、ほかの柱と同じことをするのでは芸がないし、炭治郎だってガッカリするかもしれない。

 ふむ。と、少しうつむき考え込みながら、義勇は歩き出した。

 柱合会議で聞く報告では、煉獄や宇髄とともにおもむいた任務や、先頃の刀鍛冶の里での一件など、炭治郎の判断力や胆力には問題がない。呼吸が変化した以上、水の型をさらに練り上げるというのは却下だ。
 水の呼吸はほかのどの呼吸にっとっても基礎のようなものでもあるので、突きつめて洗練させていくのは悪いことではない。はじまりの呼吸と呼ばれる日の呼吸の使い手となった炭治郎にとっても、身になるものは多かろう。しかし、それだけでいいのだろうか。
 凪を伝授するにはおそらくは時間が足りない。それに技の伝授はやはり同じ水の呼吸の使い手にすべきだと思いもする。果たして使いこなせる者が現れるかは別として。
 今までは、自分などがしゃしゃり出ては迷惑だろうと思っていたが、ほかの柱たちがどのような稽古をしているのかも、知る必要があるなと、義勇は胸中でしきりにうなずく。
 柱としては古参であるが、ちゃんと選別試験を己の力で突破した面々とは違い、自分は未熟だ。錆兎の意思を繋ぐ役目を果たさねばとの思いは、炭治郎が思い出させてくれたが、自分の力量や指導力がいきなり上がるわけもない。ほかの柱たちに教えを乞うべきだろう。
 思いつつ、義勇はどことなく心が弾んでいるのに気づいた。
 自分も柱稽古をつけることにしたと告げ、ついてはどのような指導をすればよいだろうかと聞いたのなら、みなは快く教えてくれるだろうか。思い浮かぶ柱たちの顔に、やっぱり義勇の胸はほわりと温かくなる。けれどもその奥には消えぬ寂寥もあり、少し胸が痛くもなった。
 柱としても隊士としても不出来だ、そんな資格などないと、己を卑下していたうちは、自分が話しかけなどすれば迷惑に違いないと思っていた。だから人の輪には入らぬよう、邪魔にならぬようと努めていたけれども、これからはそれではいけない。

 こんな自分にも、いつも明るく話しかけてくれた煉獄を思い出す。もはや礼を述べることもかなわないが、煉獄ならばもしかしたら、仲間としてだけでなく錆兎のように親しい友人にだってなってくれたかもしれないのに、返す返すも無念なことだ。

 しかし嘆いてばかりもいられない。煉獄の意思もまた、繋いでゆかねばならないのだ。煉獄の最期は、柱として恥じぬ堂々としたものだったと聞いた。自分もまた、煉獄につづかねば。そう墓前で告げたのなら煉獄はきっと、任せたと、精進してくれと、笑ってくれるだろう。

 よし、やるぞと、己を奮い立たせた義勇の顔は、やっぱり愛想のかけらもない能面っぷりだ。なにか怒ってますか? と聞きたくなるよな無表情で、てちてちと歩く。
 ふと、かぐわしい匂いが義勇の鼻をくすぐった。なにげなく視線を向けると焼き鳥屋の暖簾が目に入った。
 先ほど炭治郎と蕎麦を食べたばかりで、腹が空いているわけではない。けれども香ばしい匂いには食指を動かされる。無意識にスンッと鼻をうごめかせた義勇は、ハタと思いついたそれに目を見開いた。

 飯は、どうすればいいんだ?

 柱稽古は一日中行われる。いくらなんでも休憩なしというわけにもいくまい。狭霧山でだって、体が動かなくなる前に食えと教えられた。
 しかし、義勇は炊事などほぼしたことがない。狭霧山にいるころには、先生が用意してくれたし、それ以前は当然姉がいつだって温かな食事を出してくれていた。隊士となってからは、基本的に外食だ。面倒なときには買い求めた野菜を丸かじりするだけですませたりしていた。

 それじゃ、駄目だろう。

 明日から稽古をつけるのは炭治郎だけとはいえ、大根やら瓜をそのまま渡して「食え」というわけにはいかない。多分。
 通りには焼き鳥のうまそうな匂いが漂っている。雀かツグミだろうか。鳩かもしれない。安いし滋養がつく焼き鳥ならば、稽古中の食事にもいいような気がする。だが、毎日買い求めにくるのは時間の無駄だ。
 ならば鍛錬を兼ねて鳥をつかまえさせてみようか。いや、待て。つかまえさせたあと、それをどうやって調理しろと。
 絞めるぐらいなら自分にもできるが、調理は無理だ。素焼きぐらいしかできそうにない。それじゃ野菜の丸かじりと変わらないではないか。
 ならば魚ならどうだろう。塩を振って焼くだけでも十分だし。とはいえ、やっぱり毎日となるといかがなものか。
 ほかの柱たちは、いったいなにを食べさせていたんだろう。炭治郎ひとりでさえこんなにも頭を悩ませる難問だ。何十人と一気にうけおっていた柱たちは、本当にすごい。尊敬に値する。
 義勇は往来に立ち止まり、うんうんと深くうなずいた。
 ジロジロと訝しむ視線が周囲からそそがれても、一向に気づくこともなく、義勇は無表情のまま往来に立ちつくしつづける。柱という重役を任されて以来、これほどその役目を真剣に考えたことはない。たとえまだまだ未熟であろうとも、責務をすべて果たすのだと決めた以上、手抜きは駄目だ。
 炭治郎はまだ十五歳、育ち盛りだ。体力向上や体を作るという面においては、しかるべき食事をとることだって立派に鬼狩りの一環と言えよう。柱である自分が、損なわせるようなことをするわけにはいかない。
 水屋敷がもっと人出の多い場所にあれば、棒手振りなどから豆腐や蕎麦を買い求めることもできただろうが、あいにくと水屋敷の周辺は広大な竹林があるばかりで、めったに商人はやってこない。

 にっちもさっちもいかぬとはこのことか。スンッとうつろな目を虚空に向けて、義勇は錆兎や煉獄の明るい笑みを思い出す。彼らの意思を、託されたものを、繋いでゆかねばならないというのに、なんと自分は不甲斐ない。

 いっそ、煉獄ではなく俺が汽車に乗っていれば……。

 一瞬浮かんだ言葉を、即座に首を打ち振り義勇は捨て去った。突然に激しく首を振る義勇に、道行く人々がギョッと身をすくめたが、苦悩しきりな義勇の目には入ってはいない。夜のとばりが落ちだしているならばともかく、今は昼日中である。鬼は出ない。周囲に気を配る必要はなかった。思い悩めるのも燦燦と降りそそぐ陽射しがあってこそである。

 こんな後ろ向きな言葉をまたもや思い浮かべてしまうとは、錆兎だけでなく煉獄にも叩かれてしまうな。

 知らずそっと左頬に触れた義勇は、ふと脳裏に閃いたそれに、パチリとまばたいた。
 そうだ。汽車といえば、駅弁というものがあるではないか。汽車での移動の際に、義勇だって食したことがある。もしかしたら炭治郎も任務の際に煉獄と食べたりしたかもしれない。
 そういえば、炭治郎が宇髄とともに臨んだ任務先は、遊郭だったか。遊郭といえばこれまた仕出しがつきものである。

「それだっ!」

 唐突に叫び、満足げにうなずくとてちてちと早足で歩み去った義勇に、往来の者どもがドキドキと怯え早まる胸を抑えていたが、義勇にはあずかり知らぬところである。ようやく解決の糸口を見出した義勇の脳裏には、晴れやかさと明日から始まる柱稽古への決意しかなかった。

 さて、今日から義勇さんに稽古をつけてもらえるぞと、意気軒昂に水屋敷を訪れた炭治郎が、呆気にとられ、ついで尊敬する兄弟子を正座させて懇々と教え諭したのは、もしかしたら至極当然の成り行きだったかもしれない。
 竹林での過酷な鬼ごっこで、走り回り打ち据えられまくり、ようやく休憩になったと思えば、待っていたのはとんでもない量のお座敷料理だ。
 遊郭で炭治郎も目にしたことがある料理の数々は、食べることよりも目を楽しませることを目的としたものばかり。とにかく金が張るものだと炭治郎はもう知っている。
 それが、炭治郎ひとりのためだけに用意されていたわけである。フンスッと、無表情ながらどこか満足げな顔で炭治郎を手招き「食え」と宣った義勇を、ついまじまじと見つめてしまったのもむべなるかな。いくらなんでも、これはない。

 いいですか、義勇さん? 食事というのはお金をかければいいってもんじゃないんです。お金をかければそれだけおいしい物が食べられるでしょうし、義勇さんの俸給は俺なんかよりずっと多いんでしょうけど、これは無駄遣いとしか言いようがないです。遊郭への仕出しなんていったら、とにかく豪華に見えればいいってもんじゃないですか。あんまりおいしくないって、遊郭の子たちも言ってました。おまけにこの量! 俺と義勇さんだけで、こんなにいっぱい食べきれるわけないじゃないですか、もったいない! ご飯を用意して下さったのはうれしいですけど、握り飯だけだって十分です。 え? 作ったことがない? なんだ、そんなの俺に言えばよかったのに。俺が義勇さんのぶんも作ります! 任せてください、料理は得意なんです!

 胸を叩いて笑った炭治郎の、頼もしかったのなんのって。思わず義勇が見惚れたほどだ。
 そして。翌日、ふたりで食べても残ってしまったあまりうまくもない料理を、改善し新たな料理に作り直した炭治郎の腕前は、豪語するだけあって見事の一言だった。口にしたとたんに義勇はジンッと感涙を浮かべてしまったほどである。
 義勇のために作られた、温かな手料理。しかもすこぶる美味ときている。これほどうまい料理は、義勇は隊士となって以来食べたことなどなかった。
 しかも炭治郎は、一心に食べる義勇をニコニコと見やりながら、義勇さんの好物はなんですか? と聞いてきた。
 次の日には、ホカホカと湯気を立てるとびきり極上な味わいの鮭大根が、膳に乗ったのは言うまでもなく。

 そうして過ぎた月日の末に、やっぱり炭治郎の作った心尽くしの手料理をふたりで食べる日々を、義勇は送っている。炭治郎は、三日に一度は鮭大根だって作ってくれるし、それだけでなく掃除や洗濯だってしてくれている。
 もちろん、炭治郎ひとりに任せてなどいない。今では義勇も炭治郎と一緒に竈の前に立つ。掃除も、洗濯も、買い出しも、みんな、みんな、ふたりでするのだ。互いにひとつきりとなった腕を補い合って、助けあって、日々を過ごしている。
 炭治郎とひとつの褥で寝起きする毎日は、至極穏やかで幸せに満ちていて、義勇は幸せを噛みしめる。
 男心をつかむには、まず胃袋をつかめと言うらしいが、なるほど、確かに真理であると実感とともにうなずく日々だ。

 もちろん、もし炭治郎が今後一度も料理をしてくれなくなったとしても、手放す気などかけらもない。きっかけはなんであれ、なによりうまいのは恋しい人とともに笑いながら囲む食事だと、義勇はもう知っているのだから。