王様の耳はロバの耳

 座敷にきちんと正座し、ゆっくりと頭を下げる禰豆子を、義勇は感慨深く見つめていた。
 自分が作ってやった口枷はもうない。髪もきちんと結い上げ、どこに出しても恥ずかしくない可愛らしい娘ぶりだ。
 義勇自身が禰豆子にしてやったことなど特にないと思うが、兄の炭治郎同様、律儀な性分なのだろう。自ら礼をとわざわざ足を運んできた禰豆子は、明日には炭治郎と共に雲取山に帰ると伝え聞いた。荷造りや挨拶回りなどで忙しかろうに、本当に兄妹よく似た性分だ。
 なにか餞別をやるべきだろうかと、義勇は脳裏に自分が知る日持ちしそうな菓子をいくつか思い浮かべた。
 幾らか包んでやった方が今後の為には良さそうだが、この兄妹は金子の類は決して受け取るまい。炭焼きに戻ると炭治郎は言うが、二年以上も家を空けていたのだから、すぐには糊口を凌ぐには至らぬだろうに。
 鬼殺隊の給金は安くはないが、禰豆子の嫁入りに備え蓄えているであろうことは、容易に想像がつく。当座の暮らしの足しにすればよいと、餞別だと言って金を渡すことは容易いが、あのあらゆる意味で石頭な少年は、きっとあのまろい眼を怒らせ「そういうわけにはいきません」と、義勇が与えようとする金を固辞するに違いない。
 それぐらいしか義勇にしてやれることはないのに、それを拒まれれば、もうあの子供に与えてやれるものなど義勇には思いつかない。
「本当に、冨岡さんには感謝してもしきれません。私たち兄妹を気遣ってくださった御恩は決して忘れません」
「……礼を言われるようなことはしていない」
 胡蝶しのぶが聞いていたのなら、これだから冨岡さんは嫌われるんですよとでも揶揄するかもしれないが、あの軽やかな声を聞くことはもう二度とない。
 失ったものは多く、義勇の手に残ったものは、殆どない。
 鬼は滅した。鬼殺隊は解散した。もう、鬼によって平穏や幸せを奪われる人々は現れない。
 ただそれだけの為に刃を振るってきた。それ以外に求めるものなどなかった。
 もう二度と鬼は現れず、明日、炭治郎と禰豆子は元の暮らしに帰ってゆく。
 必死に追い求めた平穏を手に入れた筈なのに、目出度いことである筈なのに、義勇の心には寂寥だけがあった。
 竹林を渡る風が葉擦れを響かせる。穏やかな日だと、ふと義勇は思った。
 こんな穏やかさが、この兄妹には似合う。傷だらけになり刃を振るい続けるより、よっぽど似合う。
「明日、出立すると聞いた。今使いをやらせるから菓子でも持っていくがいい。道中の腹塞ぎぐらいにはなるだろう」
 言って対話は終わりだと告げるように立ち上がりかけた義勇を、禰豆子の明るい声が止めた。
「いえ、私は今日このまま一人で駅に参ります。雲取山には帰りません」
 事も無げに笑って言う禰豆子に、義勇は思わず目を見開いた。
「……炭治郎は」
「兄には了承を得てます。私の思うようにすればいいと言ってくれました」
 愕然とする義勇をよそに、禰豆子は屈託がない。
「冨岡さん、兄は一人で雲取山に帰ります。あの家で、一人で暮らすことになるんです」
 あなたはそれでいいんですか、と、言外に尋ねる禰豆子の真意は分からないが、異を唱える権利など自分にはないと義勇は思う。
 自分になにを言えというのか。炭治郎が決めたことに、自分が何某かの影響を与えられるとでも?
 あるわけがない。あってはならないと、義勇は目を伏せた。
「そうか」
 にべもない義勇の声に禰豆子は呆れたとでも言いたげに嘆息した。思わず眉を顰める義勇に臆することなく、禰豆子はずいっと膝を進めてくる。
「冨岡さん、兄にも言っていないことがあるんですけど……私、鬼だった時のこと、覚えているんです」
 それが一体どうしたのかと問う前に、禰豆子が口にした言葉が、義勇の思考を止めた。
「炭治郎がいつか嫁を迎える時に、俺は心から祝福してやれるだろうか。それまでに想いを消すことは出来るんだろうか」
「それは……」
「覚えてますよね? 冨岡さんも。ご自分が言った言葉ですもの」
 常になく狼狽えた義勇に、禰豆子は揶揄うでもなく静かに微笑んでいる。
「冨岡さんは伊曾保物語(イソップ物語)をご存じですか?」
 唐突に問われ虚を突かれた義勇は、言葉の意味を掴みかね首を傾げた。
「……子供の頃に姉が持っていた本で読んだ記憶があるが」
「王様の耳はロバの耳という御伽噺はお読みになりました?」
 その題名には覚えがあったので、小さく頷いて見せる。
「鬼だった私は、髪結いが王様の耳はロバの耳と叫んだ井戸なんです」
 誰も聞いていないと、鬼で幼女でしかなかった私にならなにを言っても誰にも知られないだろうと、皆、私に向かって心に隠した秘密を打ち明けていたんですよ、と。禰豆子は静かに笑う。
「だから私は知ってるんです。兄の秘密も、冨岡さん、あなたの秘密も。それから、優しくて臆病な、あの人の秘密も……」
 少し寂しげに目を伏せた禰豆子の言う『あの人』が誰を指し示すのか。義勇の脳裏に浮かんだのは、炭治郎の同期だという金色の髪の少年だ。
 炭治郎やあの騒がしい少年の秘密とやらは見当もつかないが、義勇自身の秘密は既に暴かれた。もはや誤魔化しようもない。
 だが禰豆子に悪意がないことは明白で、それを知ったからといって忌避の色がないことが救いといえば救いであろう。
 狼狽を押し殺し、義勇は一つ息を吐いた。
 炭治郎に知られなければ、それでいい。想いを消すことはもう諦めた。消すことが出来ないのであれば、抱え続けて生きるしかない。秘密は秘密のまま。義勇の胸の裡にひっそりと仕舞い込まれたまま。やがて義勇が生を終えるその日まで、ただ密やかに息づいていてくれるだけでいい。
 それ以上は望まない。それ以上を望んではいけない。
 黙り込んだ義勇になにを思うのか、禰豆子は困ったように苦笑しながら、そっと言葉を続けた。
「兄は言葉を返すでもない私に、いつでも人だった時と同じようにたくさん話しかけてくれてました。いつからだったのかは定かではないですけど、兄の話によく出てくるようになった人がいます。その人のことを話す時、兄はいつでも幸せそうでした。時折哀しげに話すこともありましたけど、その人を案じての言葉はいつだって優しかった」
 禰豆子の言葉に思わず息を飲む。
 そんな相手がいたのか。自分の知らぬ間に、炭治郎を幸せにする者は既にいたのか。
 もしかしたら、その相手があの金色の髪をした少年なのだろうか。
 聞きたくない。そう思った。強く願った。まだ心揺らぐのだ。まだその日を迎える覚悟はできていない。
 義勇の焦燥に気づいているものか、禰豆子はますます苦笑を深めた。
「今日は義勇さんと蕎麦を食べに行った、義勇さんと一緒だといつもより美味しい。義勇さんに稽古をつけてもらえた、やっぱり義勇さんは凄い。今日の義勇さんはちょっと疲れてるみたいだったけれど大丈夫だろうか、無理しないでくれるといいな。今頃義勇さんはどこら辺にいるのかな、怪我しないといいけれど。義勇さんは今なにしてるのかな、笑っていてくれたら嬉しい」
 炭治郎が禰豆子に話しかけていた声音の優しさを、そのまま伝えようとするかのように、禰豆子は優しく語る。
「他の人の話をしていても、二言目には義勇さん義勇さんって。どんな些細なことでも兄が思い浮かべるのはただ一人。冨岡義勇さん、兄が幸せそうに語るのは、いつだってあなたのことばかりだったんですよ」
 茫然と目を見開いた義勇に、禰豆子はコロコロと笑った。
「冨岡さんのそんなお顔初めて見ました。兄はきっと何度か見ているんでしょうけど」
「馬鹿な……」
 我知らず呟いた義勇の声は、悄然としていた。ありえない。あってはならない、そんなことは。
 炭治郎が義勇を見つめる瞳に、自分と同じ想いを感じ取った瞬間は、確かにあった。だが、義勇はいつだってそれを打ち消してきた。勘違いするなと。そんなことはありえない、あってはならないのだと、自身を戒めてきたというのに。
 炭治郎に与えてやれるものを、義勇は持たない。よしんば義勇が炭治郎を想うのと同じように、炭治郎もまた義勇を想ってくれているとしても、義勇にはどうすれば炭治郎を幸せにしてやれるのかが分からない。
 胡蝶にはいつだって、それだから冨岡さんは嫌われると揶揄われた。自分ではそんなつもりはなくとも、気が付けば不死川や伊黒を怒らせてばかりいた。姉も、錆兎も、守ることが出来なかった。哀しみに囚われ、失うことに怯え、人の輪に入ることすら出来なかった。頑なに殻に閉じこもり、後進を育てることを怠ってもいた。
 どうしようもなく不甲斐ない、いつまで経っても未熟な男だ。こんな男に、炭治郎の心を得る資格などあるものか。
「兄は……きっといつまでも一人であの家で暮らしていくんだと思います。頑固者ですから、ただ一人と想い定めた人がいる限り、ずっと一人を貫くでしょう」
 びくりと、知らず義勇の肩が揺れた。
 雲取山で見た炭治郎の家族の亡骸を思い出す。切り裂かれ血に塗れた躯は冷たく凍っていた。
 温かな思い出の詰まった家は、同時に、その日の絶望を炭治郎の胸に思い起こさせはしまいか。
 禰豆子が共にあるならばまだいい。辛い時でも寄り添い慰め合って暮らしてゆけるだろう。
 いずれは禰豆子を嫁に出す日が来るだろうが、その頃には炭治郎にもきっと心寄せる誰かが隣にいる筈だと思っていた。そうでなければならないと。炭治郎は幸せにならなければならないと、必ず幸せになると、思っていた。それだけを願っていた。
 自分の想いなど、炭治郎には重荷にしかならない。炭治郎の幸せを奪うものにしかならない。
「……お前がいてやればいい。何故炭治郎と一緒に帰らない?」
 義勇が絞り出すように漸く口にした問いに、禰豆子はすっと居住まいを正した。
「私も頑固者ですから。ただ一人と想い定めた人が、幸せから逃げようとするのを黙って見逃すなんて出来ません」
 強く言い切り、クスリと笑う。
「兄と私は気性が似ているとよく言われましたけど、想う相手も似ているみたいです。幸せに憶病な人を、いつの間にか好きになってました」
「……あの雷の呼吸の隊士、我妻とか言ったか。あれが、お前の想い定めたという男か?」
 義勇の知る限り、我妻善逸という少年はいつだって明け透けに禰豆子に求愛していたように思うが、どこが幸せに憶病だというのだろう。自分もまた臆病者と言われたわけだが、それに関しては返す言葉が見つからず、義勇は、疑問だけを口の端に掛けた。
「はい。自分では幸せにできないなんて言って……幸せになることから逃げだしてしまう、臆病な人ですけど」
 それでも、そんな善逸さんが好きなんです、と。禰豆子は慈母のように微笑んだ。
「鬼だった頃に、一度だけ、善逸さんが私に言ったんです。いつもは私を想う言葉ばかり言ってくれてたのに、たった一度だけ……でも本当は分かってるんだよ、俺じゃ禰豆子ちゃんを幸せになんてできないんだろうなってことぐらい、って。
 自分は弱くて泣き虫で、禰豆子ちゃんみたいに可愛くて優しい子には相応しくないことぐらい、分かってるんだって、善逸さん泣きそうな顔で笑ってました。
 あの人、今日北海道に向かうらしいんです。兄の見送りすらせずに、おいそれと私が追いかけられない場所まで逃げるつもりなんですよ。お館様にだけご挨拶して行ったって、お館様の鎹烏が教えてくれました。臆病なあの人らしいですけど、腹も立ちます。
 ねぇ、冨岡さん、私の幸せってなんですか? 善逸さんが思い描く私の幸せしか、私は幸せだと思っちゃいけませんか?」
 禰豆子の問いに、義勇は答える言葉を見つけられなかった。
 それは、義勇が思い描く幸せしか炭治郎には許されないのかと、そう問われているも同然だったから。
「私の幸せは私が決めます。善逸さんがどんなに逃げようとしたって、逃がしてなんてあげません。私の幸せを願ってくれるなら、まず善逸さんが幸せになってくれなくちゃ。善逸さんが幸せだって笑ってくれることが、私の幸せですから」
「……お前はそれでいい。我妻と幸せに暮らすというなら俺も祝福する。だが炭治郎はお前とは違う」
「違いません。兄が私という井戸に向かって打ち明けた秘密はね……」

 義勇さんが幸せになってくれたら、それだけでいいんだって思ってるのに。それだけで俺も幸せな筈なのに。どうしよう、禰豆子。義勇さんを幸せにするのが俺じゃないことが哀しい。すごく、すごく、哀しい。こんなこと義勇さんには絶対に言えない。知られたらきっと困らせる。

「そう言って、泣いたんです。冨岡さんが可愛らしい女性と買い物をしているのを見かけたと言って。最初は笑ってたのに、とてもお似合いだった義勇さんすごく優しい顔をしてたと話しているうちに、ぽろぽろと涙を零しだして……」
 禰豆子の眼が僅かに責める色を帯びた。
 義勇の想いを知る禰豆子にしてみれば、不義と捉えても仕方ないかもしれないが、義勇には心当たりがない。
 炭治郎が自分を幸せにしたいと願ってくれたことに対しての戸惑いや、抑えようとしても湧き上がる歓喜も、謂われない疑いをかけられた上でのことと思えば、焦りのほうが勝る。
「……それはいつの話だ?」
「たしか……冨岡さんが任務で珍しく腕に怪我をしたと聞いた時だったと思いますけど。兄が慌てて薬を手に蝶屋敷を飛び出していったかと思ったら、茫然自失って顔で帰ってきたことがありました。その夜に聞いた話だったと思います」
 少々つっけんどんな声であるのは義勇の想い過ごしではなさそうだが、それに構う余裕などなく。必死に記憶を思い起こして、疑われた場面に思い至った義勇はおもむろに立ち上がった。
 文机に置かれた小さな包みを手に戻り、そのまま包みを禰豆子に差し出す。
「お前にだ」
「え? あの、兄にではなくて私ですか?」
 きょとんと首を傾げる禰豆子に頷いて、義勇は少々居心地悪さを感じながらも口を開いた。
「本当は……炭治郎になにか買ってやろうかと思ったのだが、あれの喜ぶものなど思いつかなかった。それに、炭治郎は自分へのものよりも、お前への贈り物のほうが喜ぶだろうと思った」
 だが、義勇に年頃の娘が喜ぶものなど分かる筈もなく、鬼であった禰豆子に菓子を与えるわけにもいかず。どうしたものかと悩みつつ通りがかった小間物屋の店先で、店員から声をかけられたのをこれ幸いと、言われるままに髪飾りを選んだことがある。
 本来の禰豆子よりは幾分年上だったが、背格好や髪の長さが禰豆子に近しい娘だったので、禰豆子の代わりに髪に当ててもらい選んだのが、その包みの中身だ。
 思い付きで買ったはいいが贈る理由も見つからず、己の浅慮を後悔しつつ文机に置きっぱなしにしていたものだから、今更日の目を見るとは思いもしなかった。
「開けてもよろしいですか?」
「お前のものだ。好きにすればいい」
 まるで白州で沙汰を待つ罪人のような心持で、義勇は、禰豆子が丁寧な手つきで包み紙を開いてゆくのから視線を逸らした。
「……気に入らなければ捨てるなり誰かにやるなりしろ」
 言いながら、この娘はそんなこと決してしないだろうと思う自分に気づく。本当に自分は言葉が下手だ。思い遣り深い娘だ、人からの贈り物を無碍に扱うなどするわけもないことぐらい分かりきっているのに。
 密かに落ち込む義勇をよそに、禰豆子は取り上げた赤珊瑚の玉簪に顔を輝かせている。
「あまり、華美でないもののほうが良いかと思ったんだが……その、炭治郎が見たという店員には、年頃の娘なら華やかなものも良いのではないかと言われたが、禰豆子は働き者でいつもまめまめしく立ち働いていたと炭治郎が自慢していたから……あまり派手な簪は邪魔になるかと」
 言い訳めいて口数が多くなるのを自覚して、義勇は口を噤んだ。こんな時ばかり動く口に、我ながら女々しいと臍を噛む。錆兎が見ていたならきっと叱り飛ばされたのではないだろうか。
「……嬉しい。私のことをきちんと考えて、これを選んでくださったんですね。ありがとうございます、冨岡さん」
 胸元でぎゅっと簪を握り締めて嬉しげに笑う禰豆子に、義勇は内心で安堵の溜息を吐いた。自覚はないが人が言うには自分は朴念仁だそうなので、きっと禰豆子の眼には相も変らぬ不愛想極まりない無表情でしかないのだろうが、安堵の気配は伝わってしまったらしい。
「そんな心配そうなお顔をなさらなくても、すごく気に入りました。本当に嬉しいです。
 あの、失礼して今付けてみてもよろしいですか?」
「……好きにしろ」
 フフッと小さく笑って簪を髷に刺す禰豆子は、やけに大人びて眩しく見えて、義勇は我知らず微かに目を細めた。
「似合いますか?」
「ああ……よく似合う」
 頷いた義勇に禰豆子ははにかみ笑うと、再び居住まいを正し、義勇の顔をじっと見つめてくる。
「冨岡さん、この簪、私の嫁入り道具にさせていただきますね。この簪に誓って、絶対に善逸さんを幸せにしてみせます」
「……ああ」
「私の幸せは、善逸さんを幸せにすることですけど……兄の幸せはあなたを幸せにすることです。冨岡さんはどうすれば幸せになれますか?
 私も、兄が幸せになることを願っています。自分だけ幸せになろうとは思えません。兄には誰よりも幸せになってもらわなくては」
 その為には、義勇が幸せにならなければならないのだと、禰豆子の眼差しが語っている。
「俺には……」
「兄を幸せにすることなど出来ないとは言わないで下さいね。だって、冨岡さん私に言ってたでしょう? 井戸に向かって打ち明けたでしょう?」

 炭治郎が幸せになるのなら、俺が出来ることならなんだってしてやりたい。想いを遂げたいなんて大それたことは望まないが、それぐらいは許されるだろうか。禰豆子、お前は許してくれるか?

「私の答えはもうお分かりですよね? 兄の望みも……兄の秘密ももう御存知なんですから、後は冨岡さん次第です。兄を幸せにしたいと願うなら、冨岡さんが幸せになるよりほかにないんですよ」
さぁ、如何なさいますかと、禰豆子は笑う。
 覚悟を決めろと、決断を迫る。
 義勇は大きく深く息を吐きだした。

 鬼は滅した。鬼殺隊は解散した。もう、鬼によって平穏や幸せを奪われる人々は現れない。
 ただそれだけの為に刃を振るってきた。それ以外に求めるものなどなかった。
 もう二度と鬼は現れず、禰豆子は善逸を捉まえ必ず幸せになる。
 全てが終わった今、義勇の願うものは。たった一つ、全身全霊願うのは。
 炭治郎の幸せ。ただそれだけだ。

「……井戸に叫んだ秘密が国中に知られた後、王様が髪結いをどうしたか覚えているか?」
「えっと……たしか、王様は髪結いをお許しになって、その行為に免じて神様が王様の耳を元の耳に戻してやったと……」
「人間寛容が大事だという説話だ……俺は、自分が炭治郎に相応しいとは思わない。炭治郎は気立ての良い娘と結ばれて、子供に囲まれて笑って過ごすのが一番幸せだと思っている」
「そんなこと……っ!」
「だが、王様の耳はロバの耳と叫んだからには、寛容の精神で終わらなければ御伽噺としては片手落ちだろう」
 義勇が思い描く炭治郎の幸せと、炭治郎自身が望む幸せは、同じではない。しかし、義勇は既に決意しているのだ。炭治郎が幸せになる為ならば、己に出来ることならなんでもしようと。
 どうしようもなく不甲斐ない、いつまで経っても未熟で臆病な男ではあるが、それでも炭治郎が幸せだと笑うなら、覚悟を決めるよりほかないではないか。
「禰豆子」
 呆気にとられたようだった禰豆子の顔に見る間に歓喜の色が浮かんでいくのを、面映ゆく見つめながら、義勇はすっと背筋を伸ばし腹に力を入れた。
「不肖の身なれど、必ず炭治郎を幸せにすると誓おう」
 ゆっくりと頭を下げ、義勇は言った。
「お前の兄を貰い受ける」
「はい……っ! 兄を、よろしくお願いいたします」
 同様に頭を下げた禰豆子の声は、涙声だ。
「泣くな。我妻に泣き顔で逢うつもりか?」
「泣かせたのは冨岡さんじゃないですか」
 顔を見合わせれば、自然と浮かんだ笑み。微笑んだ義勇に禰豆子もまだ涙の滲んだ瞳で、嬉しそうに笑った。
「そうやって、笑ってあげてくださいね。いっぱい、いっぱい、笑顔を見せてあげてください。それだけで、きっと兄は誰よりも幸せになれますから」
「……努力はする」
 朴念仁の自分には難しい注文だと少々不安になった義勇に、禰豆子はコロコロと笑い声を立てた。

 禰豆子を見送り義勇は通い慣れた道を急ぐ。炭治郎はお館様へのご挨拶を済ませ、蝶屋敷に戻っている頃合いだと禰豆子が言うので。
 義勇の元へも挨拶に来るだろうが、それを待つ余裕は義勇にはない。途中かち合えたのなら僥倖だと、急く心のままに義勇は知らず駆け足になる。
 どのように炭治郎に自身の想いを伝えたものか、義勇にはさっぱり思いつかない。けれど、どんなに喋ることが苦手でも、こればかりはきちんと言葉にしなければならないのだろう。
 義勇にとっては鬼を狩るより難しい問題だが、今ここで頑張らずしてなんとする。
 そうだ、いっそ叫んでみようか。井戸に向かって大様の耳はロバの耳と叫んだ髪結いのように。
 国中が知ればいい。それでも構わない。
 冨岡義勇の幸せは、竈門炭治郎と共にあることだと。
 冨岡義勇は、竈門炭治郎に恋い焦がれていると。
 それでお前が笑ってくれるのなら、幸せだと笑ってくれるのなら。誰に知られようと恥じることはない。
 もはや鬼狩りに向かうのと変わらぬ速さで駆けながら、義勇はふと思った。
 だが、まずは訊いてみるのもいいかもしれない。王様の耳はロバの耳という御伽噺を知っているかと。
 そして。
 御伽噺の定石は、めでたしめでたしと相場が決まっているのを知っているか、と。