「あ、白髪」
ぽつりと言った炭治郎に、義勇はなにを突然とまばたきした。
「義勇さん、白髪生えてますよ」
ニヒヒと揶揄うような笑みを浮かべて、炭治郎が顔を上げる。言葉の意味を一瞬掴みかね、わずかに眉根を寄せた義勇は、すぐに憮然とした顔になった。
「義勇さんも、もう三十八ですもんね。そっかぁ、白髪が生える年になったんですねぇ。髪はまだまだ真っ黒だし、禿げそうにないけど」
「……禿げる家系じゃない。引っ張るな」
ツンツンと、短く白い縮れ毛を引っ張る炭治郎は、なんだかとても楽しげだ。ほんのニ、三分前までの、艶のある顔つきなどどこへやら。悪戯っ子のように笑っている。
「うーん、こっちはまだ元気いっぱいだけど、義勇さんもちゃんと年取ってきてるんですねぇ」
しみじみと言うな。元気いっぱいだとわかっているなら、お前の目の前の、いい子で待ってるそれをどうにかしてくれ。
義勇の口から、はぁと疲れた溜息が零れた。
二人とも素っ裸でベッドの上にいるというのに、会話の内容に色気がなさすぎる。十年も経てばこんなものかと、少しだけ諦観の念も浮かぶが、こんな空気が嫌なわけではない。TPOは大事にしてくれと思うけれど。
もういい。炭治郎が言い張るから好きなようにさせてやっていたが、する気が逸れたのなら、こっちが好きにするまでだ。
「うわっ! ちょ、ちょっと義勇さん! 俺がするって言ったでしょ、待て、おあずけ!」
「待てるか」
喚く口をキスで塞いで押し倒せば、ギシッとベッドが軋む音が響いた。
そろそろこのベッドも買い替えだろうか。スプリングが固くなってきたような気もするし、マットレスの染みが落ちないと炭治郎もぼやいていたはずだ。それなりにいいものを買ったとはいえ、十年も大の男二人分の重みやら激しい運動に耐えてきたのだ。ここらでお役御免にしてやるべきかもしれない。
そんなことを考えつつも、義勇の不埒に動く手は止まらない。くぅっと鼻にかかった子犬のような声を洩らした炭治郎も、不満顔で唇を尖らせはするけれど逃げようとはしないから、義勇の唇にも笑みがのぼる。多少不穏に見える笑みかもしれないが。
「……明日は朝一で会議だから、口でするって言ったのに」
「竈門先生の負担になるような真似はしませんから、安心してください?」
往生際悪く言う炭治郎にわざと職場のような口調で返してやると、パチリと大きな目がまばたいた。
炭治郎ももう二十八だ。背もだいぶ伸び、爪先立たずとも義勇の肩に顎を乗せられるぐらいになっている。顔立ちもかなり大人びた。もう立派に青年。人によっては、なんなら中年の域に入りつつあるとさえ言えるだろう。
けれど、この大きな赫灼の瞳は、小さな子供のころとなにも変わらない。義勇にとっては可愛いばかりだ。
「セクハラですよ……? 冨岡先生?」
「同意のうえならセクハラにはならないと思いますが?」
「またそういう減らず口を言う。下の毛に白髪が生えてるとは思えないほど元気ですよね、義勇さん」
「……お前、もういいから黙れ」
十年後にはお前も生えるんだぞ、そのときは覚えてろよと、義勇は思わず眉間に皺を寄せた。炭治郎はクスクスと笑っている。
昔の炭治郎は、義勇に嫌われたくないと、絶えず思っているように見えた。怯えを露わに、必死に義勇の要求に応えようとしていた臆病さは、思い出すと少し胸が痛い。けれどそんな炭治郎も、十年の月日で、こんな憎まれ口も言うようになった。可愛げのない言葉だって、過ごした年月の成果と思えば、嬉しくないはずがない。
顔を寄せれば、するりと首に回されてくる腕。うっすらと開かれた唇から、赤い舌先が覗いていた。
誘われるままに唇を合わせながら、義勇は頭の片隅で、さて節約家の炭治郎に、いつベッドの買い替えを申し出ようかと考えていた。
義勇と炭治郎が暮らす2DKのアパートに、セミダブルのベッドが運び込まれたのは、同棲を始めた翌日のことだった。
厳密には、炭治郎がやって来たのは三月三十一日の夕方過ぎなので、その日が同棲初日になるのだろう。だが、二人の意識の上では、四月一日が二人暮らしの始まりだ。
炭治郎の食器や調理器具を揃えるために出掛けた商店街での、店主たちのビックリ顔と、次いで浮かんだ笑顔は、炭治郎にとって新しい生活の門出を祝うもののように見えただろう。
六年という時間をかけて勝ち得た信頼の効果に、義勇は満足したものだ。
炭治郎なら、きっとすぐにこの町に馴染む。そうしてあの小さなパン屋で大勢の人に愛されてきたように、ここでも愛されて過ごすことだろう。義勇の大切なパートナーという、共通認識のもとに。
義勇にとってはなによりもそこが重要だ。炭治郎がつらい想いをすることなく過ごせるのはもちろんのこと、不埒な輩がちょっかいを出すことも、阻止せねばならない。
中学高校と、炭治郎は大っぴらにモテるわけではなかった。それでも、こっそりと想いを寄せている女生徒だってそれなりにいたのを、義勇は知っている。
幸い、告白するような女子はいなかったようだが、今後は牽制も必要だろう。
炭治郎自身はまったく気づいていなかったようだが、炭治郎の想い人は、実のところ多くの生徒に筒抜けだった。キメツ学園在学中、義勇に追いかけられつつも幸せそうだったり、グラウンドにいる義勇を熱い瞳で見つめている炭治郎の様子は、多くの生徒に認識されていたのだ。
竈門炭治郎は冨岡先生に恋してる。
さすがに男同士ということで、表立って口にする者はいなかったと思う。けれども、それは中高通じての、暗黙の了解となっていたはずだ。
おかげで、義勇は子供相手に大人げない牽制をする必要がなかった。だがしかし、大学ではそうもいかない。炭治郎がこれから出逢う者たちは、義勇のことを知らないのだ。義勇を見つめる炭治郎の、恋する瞳を目にすることもない。
となれば、可愛らしい顔立ちや明るく素直な気性に惹かれ、炭治郎に恋する者だってきっと現れるに違いない。それはマズい。負ける気は一片たりとありはしないが、炭治郎に想いを寄せ、あまつさえ受け入れられると思い込まれるだけでも業腹だ。
幸いなことに、炭治郎のホームタウンとなるこの町では、そんな輩は現れないだろう。なにしろ最初から炭治郎は、義勇の最愛の嫁として、商店街の店主たちを中心としたこの町の住人には受け入れられている。義勇を愛し、義勇に愛される存在。この町の人々からすれば、それが初対面時からの炭治郎に対する共通認識だ。そしてそれは、紛うことなき事実でもある。
だから問題は、義勇の目の届かない大学内での交流関係だけだ。
分かりやすい牽制方法として、指輪というのも考えないではない。とはいえ、時期尚早の感がある。今はまだ、炭治郎に指輪やらペアウォッチなどという、わかりやすい愛の証明を渡す気にはなれなかった。
当たり前だが、いずれは渡す予定でいる。今は機が熟すのを待っているといったところだ。
炭治郎は恋に臆病だ。義勇の愛情を心底信じているとは、まだまだ到底言えないだろう。
そんな炭治郎に指輪を渡したところで、それを永遠の愛の証と信じることは難しいだろうし、義勇本人にではなく、指輪に縋られるのも気に入らない。
現状、不安に陥った場合に、炭治郎が義勇の愛を信じるよすがとするものが、指輪になってしまうのは想像に難くない。これがあるから大丈夫、なんて。馬鹿らしい。そんな輪っかに縋るくらいなら、義勇自身に縋ればよいのだ。
義勇が炭治郎に指輪を渡すのは、炭治郎が義勇の愛情を欠片も疑わなくなってからだ。
ゆっくりじっくり愛を注いで、注いで、注ぎ尽くして、炭治郎が義勇の愛で満たされるまで。渡された指輪をなんの不安も惑いもなく受け取って、嬉しいと心の底から笑ってくれるようになるまで、義勇はいくらでも待つ予定である。努力だって、怠るつもりはいっさいない。
欲しいものは炭治郎のすべてだ。身も、心も、これから先の一生も。そして炭治郎自身ですら知らない、心の奥底に隠された我儘な欲や嫉妬、劣情も、余さず義勇は手に入れたい。
当然、義勇のすべても炭治郎のものだ。
今はまだ、炭治郎にそれを受け取る余裕はないだろう。けれど、いずれはいささかの懐疑も抱かぬくらいに、義勇の愛を信じるようにしてみせる。
ペアウォッチも指輪も、そうなってからの話だ。そのころには法律も改正している可能性だって捨てきれないじゃないか。その日が来てからでも遅くはない。なにしろ一生一緒にいるのだから。
さて、そんな展望を抱いている義勇ではあるが、雑貨屋で食器を選ぶ際に、ついつい揃いのものを買い求めたのは、多少は義勇も浮かれていたからだというのは否めない。
ペアのカップだの箸だのに興味なぞなかったはずだが、気分的には新婚なのだ。指輪を渡すのはまだ先の話だが、法律上で許可されていないだけで、義勇の気持ちのうえでは、もはや炭治郎は嫁である。
新婚なら多少羽目を外して浮かれても多めに見てもらえるだろう。誰にともなく胸のうちで言い訳して、あれもこれもと買い求めてしまったのは、少々やりすぎだったかもしれない。義勇が気づいたときには、炭治郎の顔はすっかり渋くしかめられていた。
炭治郎は大家族育ちだけあって、結構なしまり屋だ。そうそう簡単には財布のひもを緩めない。そんな炭治郎にしてみれば、義勇の散財は目に余るものだったのだろう。
とはいえ、炭治郎も浮かれ加減では義勇とさほど変わらず、結局は義勇に押し切られるままにペアで買い物をしていくのを許していたのだから、どっちもどっちと言えなくもない。
互いに買い物袋を両手に下げつつ次に向かった駅前の家具店で、ベッドを選ぶ段になってようやく、炭治郎は、これはさすがにまずいのではと思い至ったようだ。
「べつに今あるベッドでも良くないですか? その、二人でも眠れるだろうし……」
「落ちそうになってたくせに、なにを言ってるんだか」
寝具売り場で義勇が吟味するベッドにつけられた値札を見た途端に、炭治郎の節約精神が目を覚ましたらしい。どうにか義勇を思いとどまらせようとしてくる。
「それに、眠るだけなら狭いのは歓迎だが、寝るには不便だろう?」
壁に足をぶつけるのはもう嫌だろう?と、内緒話のように耳元で囁いてやったのは、ちょっとばかりの悪戯心だ。案の定、炭治郎はたちまち真っ赤になって、あわあわと視線をさまよわせた。
炭治郎がうろたえているあいだに、義勇は目をつけたベッドの商品説明に目を通し、ふむと頷いた。
「これが良さそうだな」
シングルからセミダブルに替えるにあたって、義勇なりのプライオリティを低い順から述べるなら、まずは収納だ。
部屋の面積が多少なりと減る半面、炭治郎の衣服やらなんやらといった細々としたものは増える。となればベッド下を活用しない手はない。それなりに収納容量の大きいものを選びたいところだ。
続いて耐荷重や耐久性。なにせ男二人で使用するのだ。炭治郎は今のところ少年体型ではあるが、華奢というわけでもない。背だってまだ伸びるだろうし──炭治郎の父の炭十郎はわりと長身であったのを覚えているから、炭治郎もそれなりの身長にはなるだろうと義勇は踏んでいる──ベッドの上での激しい運動だって、わりと頻繁にする予定でいる。
当然のことながら、炭治郎の体の負担を第一に考えるけれども、炭治郎は若いし、本人の自己申告どおり健康で丈夫だ。体の相性だって最高に良いことは実証済みなことだし、それなりの頻度で汗を流すことになるのは、自明の理というものである。
それに、頻繁に肌に残る痕があれば、虫除けだってできるではないか。炭治郎自身には気づかれない位置を慎重に選ぶべきではあるけれども。
次にライト付きのベッドヘッド。小間物が入れられるタイプならなお良し。
朝の早い教職に、アラームは必須である。スマホを置いておけるベッドヘッドは必要なのだ。ついでに夜の生活に必要なアレコレも、すぐに手の届くところにあるほうが望ましい。
ライトも、主に必要とするのは、二人して汗にまみれる運動中だろう。昨夜も炭治郎は電気をつけての行為を嫌がっていたが、正直なところ、暗いとゴムを装着するにも手間取るし、なにより炭治郎の蕩けた顔や瑞々しい肌を、視覚でも堪能したい。部屋の照明は、炭治郎が慣れるまでは諦めるにしても、ベッドヘッドのライトぐらいなら、なんとでも言いくるめられるだろう。
そしてトッププライオリティはといえば、スプリングの効き具合。これに尽きる。なぜとは聞く必要などないだろう。今までの選択基準からも明白な理由しかない。
ほかの項目は商品説明だけで十分であるが、スプリングの効き具合については実際に体感してから決めたいところだ。
さっと店内を眺めまわした義勇は、いまだ照れて挙動不審になっている炭治郎をそのままに、近くにいた店員を呼びとめた。
「すみませんが、こちらの寝心地を試してみてもかまわないですか?」
「はい、ぜひお試しください」
にこやかな笑顔で勧めてくる店員に会釈して、義勇はセミダブルの右側に横たわった。
嫌な軋みをあげないのは合格だ。あまり軋むベッドでは、炭治郎が階下を気にしてしまうだろう。昨夜はそんな余裕もなかったようだが、気遣いを怠らない炭治郎のことだから、慣れてくればそういったことにも思い至るのは必然だ。
「炭治郎」
呼びかけて指でおいでと招く。
「へぁっ!! えっ、あのっ、義勇さん!? や、だってっ」
先ほどまで以上に慌てふためいて、真っ赤な顔でしどろもどろになる炭治郎に、義勇は呆れた顔をしてみせた。傍目には無表情と変わりないかもしれないが。
「二人で使うんだから一緒に寝てみなきゃ具合がわからないだろう」
「はぁ、まぁ、それは……はい……」
それじゃお邪魔しますと消え入りそうな声で言い、のそのそとベッドに乗り上げた炭治郎は、伸ばした義勇の左腕に迷いなく頭を乗せた。義勇が心中で満足げに笑ったのは言うまでもない。
「わ、寝心地いいですね、このベッド!」
「そうだな」
応えを返しつつ、右手でぐっとマットレスを押してみる。眠るのにも寝るのにも好都合そうなほど良い弾力だ。
商品説明によると耐久性にも優れているらしい。LEDライトつきのベッドヘッドには、コンセントもついているから、眠っている間にスマホの充電もできそうだ。ベッド下には引き出しが二つ。マットレスのキルティングも肌触りがいい。抗菌仕様にもなっているようだ。ナチュラルな木目のシンプルなデザインも悪くない。
義勇の腹は決まった。
「すみません、これを買いたいんですが、配送は最短でいつになりますか?」
「ふ、ふぁい……今のお時間れしたら、明日の午後にはお届けれきましゅ」
傍らに控えていた店員が俯き小刻みに震えながら答えた声に、義勇と炭治郎は、思わず顔を見合わせた。
「あの、大丈夫ですか? 具合が悪そうですけど……」
心配そうに尋ねる炭治郎に、店員は「らいじょうぶれふ」と答えたが、いや、全然大丈夫じゃないだろうとしか思えない。
てんで呂律は回っていないし、ブルブル震えて俯いているのは、どうにも挙動不審なことこのうえない。
本当に大丈夫なのかと、思わず二人して起き上がったのと同時に、店員の頬がパンッと鳴って、義勇と炭治郎は揃ってびくりと肩を跳ね上げた。
自分の頬を両手で勢いよく叩いた店員はといえば、やっと上げた顔には満面の笑みがあった。実にいい顔をしている。まったくもって意味がわからない。
「失礼しました。お会計と配送のお手続きを致しますので、あちらのカウンターにお越し願えますでしょうか」
声もなにやら打って変わってイキイキとしていて、なんだか、ちょっと怖い。
だが、義勇にとっては少しばかり、店員の不審な態度に助けられた感はある。
なにしろ、店員を心配する炭治郎はまだ気づいていないようだが、このベッドの価格は十七万六千円也である。多分、いやきっと、気づいたのなら炭治郎は飛び上がり、こんな高いの駄目ですとクソデカボイスで叫んでいたことだろう。
会計さえ済ませてしまえば、あとはなんとでも煙に巻くことは可能だろうから、結果オーライということにしておこうか。まぁ、義勇とて店員の怪しげな態度は心配やら疑わしいやらで、少々気にはかかるけれども。
そんなこんなで購入したベッドも、もうかれこれ十年は、二人の愛の営みに耐えてくれた。今日も今日とて、ギシギシと軋みをあげるようになりつつも頑張ってくれたのだから、そろそろ買い替えても罰は当たるまい。
義勇の左腕に頭を乗せ、すよすよと幸せそうな寝息を立てている愛しい人──同僚ともなったれっきとした大人に、愛し子とはもう言えないだろう──の額に小さなリップ音を立てキスすると、義勇は柔らかく微笑んだ。
こまごまと日々変わりゆくものはあれど、この腕のなかの愛しい存在は、変わらずここにある。
十年間、ずっと二人で暮らしてきたなかで、炭治郎はすっかり義勇の愛を疑わなくなった。ベッドもだけれど、そろそろ指輪を渡すべきかなと、来たる日を思い浮かべれば、義勇の笑みはますます深くなる。
炭治郎を起こさぬように腕を伸ばし、ベッドヘッドのライトを消すと、義勇は深く穏やかな吐息を洩らした。
明日もきっと互いに忙しい一日になるだろう。教師という職業のせわしなさには、まったく変わりがない。難儀なことだ。
けれども朝になればまた炭治郎は元気に起き上がり、すっかり炭治郎に起こされるのが習慣化した義勇に、早く起きてと小言を言う。上手い朝食を用意して「もう起きないと遅刻しますよ、本当に寝穢いんだからもうっ」と、プンッと頬をふくらませて。
そうしてまた繰り返すのだ。十年間繰り返してきた愛しい日々を、変わらずに。
そのためにも、今日はおやすみ。また明日。
愛を確かめ合う行為もたいへん重要ではあるが、睡眠だって必要だ。愛しい人に優しい世界であるようにと、すべてをかけて守るためにも、英気を養う必要があるのだから。
二人揃って、髪もその他も総白髪になる日がきても、きっと変わらず愛してる。