寒い。
ふと聞こえた小さな呟きに、炭治郎はぼんやりと目を開けた。肩に感じた冷気に肌が粟立ち、ふるりと身を震わせる。
あぁ、布団がずれたのか。今の声は無意識に漏れた自分の声だったらしい。はっきりしない思考の片隅で思って、炭治郎はいつものように布団を引き上げようとした。が、腕が上がらない。なにかが自分の腕の上に乗っている。おまけに、はだけた肩はともかく、やけに背中が温かい。
そこで炭治郎は、ようやく自分の体を包む温もりと重みに気づいた。
抱きつかれて眠ることには慣れている。まだ幼い六太は一人寝を寂しがって、しょっちゅう炭治郎のベッドに潜り込んでくるからだ。寝ぼけた茂や竹雄が入ってくることもあるし、ときどきは花子や禰豆子もやらかす。それはかまわないけれど、起きたときに悲鳴をあげるのはやめてほしいところ。兄ちゃん傷つくぞ?
けれど、今炭治郎を抱き込んでいるのは小さな子供ではないし、腰や足に感じる重みも女の子のものじゃない。そういえば枕もなんだかいつもと違って固いような……。
気づいた瞬間、炭治郎の意識が眠りの底から急激に浮上した。
六太たちなわけがなかった。腰を回って腹に緩く当てられた大きな掌も、自分の脚を巻き込んでいる長い脚も、全部体格の良い大人の男性のもの。それが誰かなんて、考えるまでもなく昨夜共寝したあの人に違いなく。
脳裏に思い浮かんだ麗しい顔に、炭治郎は一人あわあわと狼狽えた。
振り返ればきっと、義勇の綺麗な顔がそこにある。確かめたいけれど、身動きすれば起こしてしまうかもしれない。
健やかに眠っているだろう義勇を起こすのは申し訳なく、ただじっと身を固くして、炭治郎は、熱くなる頬や速まってしかたのない鼓動を持て余すことになった。
うっかりと昨夜のアレコレを思い出さないように──思い出してしまえば叫んで飛び起き、逃げ出しそうになる自覚はある──炭治郎は、夕方からの記憶を辿った。
初めて訪れた義勇の部屋。日付は三月三十一日。炭治郎の数少ない肩書に『高校生』の三文字をつけていられた最後の日だ。
義勇が正式にお付き合いをと定めたのは四月の一日。そこから大学に入学するまでのほんの短い間、炭治郎の肩書は『竈門家長男』だけになる。
約束よりも一日早く義勇の家を訪れたのは、恋人になれたと思ったのに待たされたことへの、ほんのちょっとの意趣返しだった。
訪れるのが夕方過ぎになったのは、それでも少し怖かったから。卒業式からの半月ほどで、義勇の心が変わっていたらどうしようかと、日を追うごとになんだか怖くなった。ついでに準備に少しばかり手間取ったというのもある。ドキドキと心臓がせわしなかったのは、怖さを凌駕する期待と歓喜ゆえだ。だって、久しぶりに義勇に逢える。それに、一緒に住むということはきっと、今夜は……。
義勇のアパートのドアの前で、炭治郎がガチガチに緊張していたのは、しょうがないことだったろう。
告白が受け入れられた卒業式から、昨日までの約半月間、炭治郎は一度も義勇とは逢わなかった。
推薦入試に合格していた炭治郎はそれなりに時間の余裕があったけれど、後期試験を控えた生徒は大勢いて、教師の義勇は忙しいことこの上ないようだった。炭治郎にしたところで、余裕があるとは言うものの、暇を持て余していたわけでもない。
四月から始まる新生活のために済ませなければいけないアレコレは多く、引っ越しの手配もしなくてはならなかったし、調べ物をする必要にも迫られていた。
互いにした連絡は、メッセージアプリで言葉をちょっと交わすぐらい。それも炭治郎から送るメッセージは事務的なものが多かった。炭治郎が用意すべき家具はあるかだとか、なにか買っていくものはあるかだとか、恋人に送るには素っ気ないような連絡ばかりだ。
本当は、早く逢いたいですだとか、一緒に暮らせるなんて幸せすぎて死にそうだとか、そんな言葉を綴っては、忙しい義勇さんを困らせるような文言は送れないよなと消していたなんてこと、義勇は想像もしていないだろう。
通話はしなかった。メッセージでさえ遠慮しながらだったのだ。電話などかけて、煩わしいと迷惑がられたら立ち直れない。
いつでも前向きで明るいと評判の炭治郎だが、義勇への恋に対してだけは、どうにも臆病になる。炭治郎が不安だけに囚われずに済んだのは、義勇からの返信がいつでも温かく優しかったからだ。
文字だけになった義勇の言葉は、声に出す言葉よりもよっぽど饒舌だった。教師という職業がらだろうか、ときおりやけに丁寧な言葉遣いになったりするのが、ちょっとおかしかったりもした。
葵枝から同居──同棲とは書けなかった。恥ずかしすぎて──の許可を貰えたとの報告も。メッセージアプリでだ。
『母さんから同居の許可を貰えました』との簡潔な文字列に、返事はすぐにきた。おそらくは、前日に『明日母さんに話します』と伝えていたからだろう。炭治郎からの報告を待っていてくれたのだとわかって、それだけで泣きそうになった。
良かった。待ってます。お前が来る日が待ち遠しい。楽しみにしております。……好きだ。時を置かずにポンポンと現れたメッセージ。声と違って消えない文字列を、繰り返し炭治郎が読んだ時間は、きっと何時間にもおよぶ。
そして昨日。来ました、今日からお世話になります!と、緊張にカチコチになりつつ勢い良く頭を下げた炭治郎に、義勇は驚いた顔をしてた。
ビックリ顔可愛い、なんて。悠長なことを考えられたのはそこまで。
次いで義勇の顔に浮かんだ微笑みに見惚れる間もなく、腕を引き寄せられ狭い玄関で抱き締められたら、頭のなかまで沸騰しそうなほど全身が熱くなって、なにも考えられなくなった。
「いらっしゃい」
耳元で聞こえた笑みを含んだ声に、お邪魔しますと、ようよう答えた自分の声はきっと震えていただろう。持っていたスクールバッグを落とさなかっただけでも上出来だ。
けれどそのバッグのせいで、抱き締め返すことができないのは少々いただけなかった。いや、もしも荷物を手にしていなかったところで、義勇の背に腕を回すなんてこと、できなかったかもしれないけれど。
あぁ、そうだ。小学校に上がった辺りから、義勇と手を繋ぐことはぐんと減って、三年生になったころにはめったになくなったんだっけ。
さらに遠い記憶を思い返して、炭治郎は、零れそうになった溜息を噛み殺した。
店が忙しい両親に代わり、高校生になった義勇が炭治郎たちを連れて、遊園地などへ連れて行ってくれることは多かった。そういうとき、炭治郎の手は弟妹の小さな手と繋がれていた。
義勇は義勇で、茂や花子と手を繋いでくれたり抱き上げてくれていたから、炭治郎の手が義勇の手と繋がれることはほぼなくなっていたのだ。
義勇の友達である錆兎や真菰が一緒のときだって、長男である炭治郎の手は義勇と繋がれることはほとんどない。
だって炭治郎はもう手を引かれなくても迷子になんてならなかったし、たとえ高校生の義勇たちが一緒だとしても、弟妹の世話は長男の炭治郎が率先してすべきだと思ったのだ。
決して義勇に迷惑を掛けちゃいけない。
義勇に嫌われたくなければ迷惑をかけることだけは避けねばと、炭治郎はみんなでのお出かけにはかなり気を張っていたものだ。
はしゃぐ弟妹を注意しつつ、義勇が迷惑がっていないかとハラハラと気配を窺っては、ほのかに笑う義勇にホッとする。いつだってそんな具合ではあったけれど、義勇と一緒に過ごせる休日が嬉しくなかったわけがない。はしゃぐ竹雄たち以上に内心喜んでいたのは、きっと炭治郎のほうだっただろう。
竈門家の子供たちの休日の思い出には、たいてい義勇が登場する。
義勇が中学生のころにはまだ炭治郎も小さかったので、さらに小さな禰豆子たちの世話までさせるのは申し訳ないと母の葵枝が止めたから、炭治郎と二人だろうとあまり遠くに出かけたことはない。せいぜい近所の公園へ行くぐらいのものだ。そのころにはまだ義勇の手は炭治郎だけのものだった。
義勇が高校に上がるころには錆兎や真菰も一緒に来ることが増えたので、信頼できる高校生が三人もついているのならと、映画やら遊園地やらへも連れて行ってもらえるようにはなった。
しかしながら、竈門家には炭治郎を含めて子供が六人もいる。全員でお出かけなどそうそうできるものではない。そうなれば家で過ごすのを選ぶのは、躾の行き届いた竈門家の子供たちにとって当然のことだった。だから余計に、義勇と一緒のお出かけの記憶は鮮やかだ。
炭治郎だって義勇と二人だけでお出かけしたいと、本当は何度だって思った。実際、炭治郎一人なら、なんの問題もなく義勇と一緒に色々なところへ行けただろう。けれども禰豆子たちを置いて一人で楽しむなど、長男の炭治郎にできるわけがない。
それに、義勇もせっかくの休日なんだしみんなで遊びに行こうかと、いつだって言ってくれていた。もしも義勇が炭治郎だけを贔屓して、炭治郎だけをかまおうとしていたのなら、きっと炭治郎は断っていただろう。どんなに心の奥では、心弾ませ頷きたくてもだ。だから義勇がどこかに行こうかと言ってくれるときには、いつもみんな一緒が当然だったのだ。
地方の大学に進学したあとも、帰省するたび義勇は竈門家を訪れて、炭治郎たちをかまいつけてくれた。友人たちと遊びたいと思うことも多かっただろうに、義勇はいつだって炭治郎たちを優先してくれていた。揃って遊びになどめったに行けない竈門家の幼い子供たちは、みんな義勇の帰省を待ち侘びていたものだ。
義勇さんはみんなのお兄ちゃん。それはもはや竈門家にとっての不文律だ。
禰豆子も竹雄も、花子たちだってみんな、義勇さんが大好きだ。そして義勇もみんなを可愛がってくれている。その事実は炭治郎にとっても喜ばしいことで、哀しむ要素などなにひとつないはずだった。
感情が表に出にくいうえに無口な義勇は、なまじ整った顔だからいっそ怖いくらいに思われがちだけれど、いつだって炭治郎たちに優しい。
とても綺麗で格好良くて、小さいころからやっている剣道では、インターハイに出るほど強い義勇。茂や六太がせがめば肩車だってしてくれる。店が忙しくてなかなか子供たちと遊ぶ機会を持てなかった父親の代わりに、キャッチボールだってなんだって、義勇が全部してくれた。父が病床に臥し、亡くなったあとならなおさらに。
そのとき義勇は四回生で、就活や卒論で目の回るような忙しさだったろうに、週末のたびに帰省しては、炭治郎たちをかまってくれた。
教職に就いてからも変わりはない。回数こそ減ったが疲れた顔など露と見せず、まだ幼い花子より下の子供たちが纏わりつくのにさえ、嫌な素振り一つなく面倒をみてくれたのだ。
そんな義勇に竹雄たちが憧れないわけがないだろう。竈門家に遊びに来てくれるたび、みんなで義勇の取り合いになることもしばしばあった。
義勇の友達の錆兎や真菰だって、竈門家の子供たちにとっては馴染み深い存在ではあるけれども、義勇は特別だ。炭治郎にとってだけでなく。
それが少し寂しいなんて、決して口には出せないけれど。
ともあれ、ずっとそんなふうに過ごしてきたから、義勇の背に腕を回すなんてこと、炭治郎にはまだハードルが高かった。幼いころは抱き着き、抱き上げられるのが、あんなにも好きだったのにだ。
好きだと言われた。キスもされた。一緒に住もうと言ってもくれた。
だけどまだ信じきれなかった。今も本当は信じきれずにいる。
だって炭治郎に与えられる義勇の優しさは、弟に向けるようなものだと、ずっと思ってきたのだ。
だから炭治郎は諦めていた。諦めようと努力してきた。想いが報われる日を願うことを。この恋が叶いますようにと祈ることを。諦めもうやめようと努力してきたのだ。
義勇への恋心は、どうしたって捨てられない。炭治郎の骨に、肉に、細胞の一つ一つにまでも、義勇への恋心は刻み込まれている。義勇への想いを捨てるのは、自分を捨てるのと同じことだ。炭治郎はそれを疑わない。でなければ何故こんなにも狂おしいぐらいに好きなのか、説明ができないじゃないか。
義勇の名が刻み込まれた体と心を持つ炭治郎としては、一生涯独り身で過ごすのはもはや決定事項である。義勇の幸せを、節度を保った距離で見つめつつ、今までと変わらぬ優しさを貰えるのなら、それだけで満足する心積もりだったのだ。
誰かの隣で幸せそうに笑う義勇なんて、想像するだけで叫びだしたくなったし、涙があふれて止まらなくもなる。それでも、我慢しなきゃ、だって俺は長男なんだからと、自分を抑えつけることもできたのだ。昨日までは。
胸の奥を冷たい手で撫でられたような心地がして、炭治郎はぶるりと体を震わせた。
「……どうした? 眠れないか?」
不意に聞こえた少し不明瞭な声に、炭治郎の心臓がドキリと跳ねた。
「あ、あの、ごめんなさいっ。起こしちゃいましたか?」
慌てて言えば、腰に回った手に力が込められた。さらに抱き寄せられて義勇の胸に密着した背が熱い。感触からして自分と同じく義勇も衣服を着ていない。直接肌に伝わる温もりは心地好いのに、緊張と羞恥が身を焼いて、叫びだしたくなってしまう。
咄嗟に手で口を塞いだ炭治郎の肩に唇を寄せて、義勇は喉の奥で忍び笑ったようだ。吐息が素肌をくすぐる感触に、ぞくぞくとした痺れが肩口から全身に広がっていく。
「口を塞いでばかりだな」
楽しげに笑っているが、その響きとふわりと鼻先をかすめた匂いにわずかな不満を感じ取り、炭治郎はびくりと背を揺らせた。
そう言えば昨夜も義勇は言っていた。口を塞ぐな、声が聞きたいと。
義勇が望むなら応えなければと思いながらも、どうしても口から手を離せなくて。必死に首を振って懇願する炭治郎に、義勇は決して怒りはしなかったけれど、本心ではどうだったのだろう。ヒヤリと背筋をなでたのは、忍び込んだ冷気なのか、それとも言いしれぬ不安だったのか。炭治郎にはわからなかった。
本当は、夕べ炭治郎は口だけでなく、耳だって塞ぎたかった。だって炭治郎は知らなかったのだ。みっともない声を聞かれぬようにと口を塞いでも、耳に入る厭らしい音はいくらでもあるなんてこと。
しきりに響く淫猥に湿った水音や、肉をぶつけ合う音、ベッドの軋み。外し忘れたピアスがチャリチャリと動きに合わせ鳴るのにさえ、炭治郎の耳は犯され続けた。
なによりも耐え難かったのは、義勇の荒い息遣いやときおり洩らす小さな喘ぎだとか、押し殺した呻きなど、今自分を翻弄しているのはほかでもない義勇なのだと知らしめる音の数々だ。
ベッドが軋む音のほうがよっぽど大きく室内に響いているのに、義勇のかすかな喘ぎ声こそが、炭治郎の聴覚をはるかに強く刺激した。まるでグラグラと煮え立つ脳髄をさらに沸騰させるようで、もういっそこの耳を切り落としてくれと叫びたくなるぐらいに。
目を閉じても、義勇の『音』が存在を知らしめる。自慢の鼻が嗅ぎ取る義勇の匂いすら、炭治郎の知る義勇の水の匂いとは違う。甘く優しく触れられているはずだ。幼いころから知る、優しくて頼りがいのある、大好きなお兄ちゃんの手だ。だというのに、炭治郎の足や腰を掴む手の、熱さや力強さ──獰猛と言い換えてもいい──それらすべてが、炭治郎が幼いころに触れてくれた義勇のものとは、まるで違う。
こんな義勇は知らない。こんなにも熱くて、これほどまでに餓えている義勇なんて、炭治郎は知らなかった。
けれど同時にこれは確かに義勇だと、好きで好きで大好きで、愛してやまない義勇が自分を求めているのだと、義勇のすべてが炭治郎に伝えていた。
喜びが胸に満ちて、あふれて、炭治郎は泣いた。
昨夜、炭治郎は、生まれてから十八年半ほどの間に流した涙よりも、よっぽど多くの涙を流したに違いなかった。零れ落ちる涙を拭ってくれるときの義勇の手だけは、炭治郎の知る優しさでもって触れるから、炭治郎はますます涙を止められなくなった。
炭治郎、と。荒ぐ息の交じる声で名前を呼ばれた。何度も。可愛いと笑われた。何度も、何度も。好きだと言われた。繰り返し。
ずっと好きだったと名前と共に綴られる義勇の言葉は、スマホで見た文字と同じ意味を伝えるのに、感じる甘さは全然違う。文字が伝える好きはただただ甘いだけだったのに、当の義勇の口から零れる好きは、荒々しくてどこか切羽詰まった響きをしていた。
優しいのに凶暴な、義勇の声。蕩けるように甘い。けれども怖い。怖さと甘さが同時に存在する響きがあることを、炭治郎は初めて知った。
気持ちいい。嬉しい。幸せだ。蕩ける。溶けちゃう。次第に脳裏に浮かぶ言葉は切れ切れな単語ばかりになり、やがて言語化することなどかなわなくなった。
脳髄まで義勇の獰猛な優しさに溶かされ、熱に浮かされるように、頭のなかでだけ義勇の名を繰り返し呼んだ。
きっと義勇は優しかったのだろう。痛みはなかった。義勇のこういった場における手管のレベルは、すべてが初めての炭治郎には判断がつかない。
避妊具をつける様はスムーズで、慣れているようにも見えた。瞬間、炭治郎の胸をキリッと刺した痛みに、義勇は気づいたのだろうか。義勇の顔にわずかに浮かんだ苦笑は、余計なことは考えなくていいと言っているようで、落とされたキスはひたすらに甘かった。
いずれにせよ、義勇は、炭治郎に悦楽を与えることだけを重視していたに違いない。それぐらいは、なにも知らなかった炭治郎にもわかる。けれども、それでは義勇自身はどうだったのか。気持ち良かったのか、それとも自分のことはすべて二の次だったのか。
獰猛なくせに優しく触れる手。唇。舌。ためらいがちに、けれど次第に大胆になっていく、体の奥深く、心のなかにまで穿たれるような、灼熱。すべてが炭治郎を溶かす。響く水音と荒いだ息遣いに、鼓膜までもが犯されている。五感のすべてが、義勇に支配される。我をなくしたのはきっと炭治郎だけだ。義勇は大胆に動いているときでさえ、ひたすらに優しかった。
その優しさは義勇でしかなく、好きという言葉ばかりに埋め尽くされていたはずの、甘いひとときだった。
義勇だった。昨夜、炭治郎を翻弄し食らいつくしたのは、全部義勇だった。
けれど、昨夜の義勇は炭治郎の知る義勇とは違っていて……怖いと思った。
「まだ早いな……」
ぽつりと言われて、炭治郎はようやく辺りがまだ暗いのに気づいた。今は何時だろう。思っていれば炭治郎を抱き締めていた義勇の腕が持ち上げられ、布団から引き抜かれた。
入り込む冷気に無意識に身を竦める。少し離れただけなのに、義勇が触れていた肌がひどく寒い気がした。
義勇はベッドヘッドに置かれていたスマホを確認したようだ。スマホの灯りがぼんやりと二人を照らす。
狭いシングルベッドでは、身動きするのも一苦労だ。油断するとすぐにベッドから落ちそうになる。昨夜も何度か壁に足を打ち付ける羽目になった。角部屋でなによりだ。男二人で寝るサイズではないなと、炭治郎はおぼろげに思う。
まだ少年と呼ぶのがふさわしいだろう炭治郎に比べ、義勇はずっと体格がいい。日本人の成人男性の平均からすれば長身であるのは間違いなく、一見すると細身だがしっかりと筋肉もついている。シングルベッドで誰かと眠るなら、抱き締める以外の選択肢などないのだろう。
このベッドで、いったい何人が義勇に抱き締められて眠ったのだろう。
脳裏をかすめた疑問は、義勇の忍び笑いにすぐ消えた。
「寝相が悪いの変わらないな」
「えっ!? あのっ、蹴っちゃったりしました?」
「いや。でも落ちそうになってた」
クスクスと笑う声を聞くのはずいぶんと久し振りだ。冨岡先生と呼ぶようになってからは、学校ではもちろんのこと、炭治郎の家でも義勇は声を出して笑ってくれたりはしなかった。
うっすらと口角を上げ、怜悧な印象の目を柔くたわませて笑う義勇は、綺麗だ。そんな微笑み一つでさえにも、炭治郎は舞い上がるほどにときめいていたから、なんにも不満なんてなかったけれど、こんなふうに楽しげに笑う義勇は格別に嬉しい。
中学生だったころの義勇を思い出す、優しくて楽しげな義勇の笑い声。
そういえば、義勇に抱き締められて夜を過ごすのは、これが初めてではなかった。少しの間だけ、炭治郎は義勇の家に泊まっていたことがある。竹雄と花子がインフルエンザに罹ったときだ。移るといけないからと、禰豆子と一緒に義勇の家に泊めてもらったことがあった。
炭治郎が五歳のころだ。竹雄と花子が心配でしょんぼりする炭治郎と禰豆子を、義勇と蔦子はとても優しくもてなしてくれた。
あのころ義勇は中三で、受験を控えて大変だったはずだ。それなのに、とても嬉しそうに炭治郎たちを家に招き入れてくれた。昨日の義勇のように優しく、いらっしゃいと言って笑ってくれたのを覚えている。
お邪魔しますと禰豆子と一緒に大きな声で言った炭治郎に、インフルエンザも逃げ出しそうなほど元気ねと、笑った蔦子の優しい顔や声も、全部炭治郎は覚えていた。
ニ週間だけの同居中、炭治郎は義勇と、禰豆子は蔦子と一緒に寝ることになった。そのときも、義勇は炭治郎を抱きしめて眠った。義勇の温もりと匂いに包まれて眠った夜。まだなにも知らなかった自分。小さな胸には余計なものがなにひとつない、義勇への『大好き』が詰まっていた。
懐かしいと感慨を覚える現在の炭治郎の胸には、わずかに軋むような痛みがあった。小さな痛みに罪悪感との名が付くより早く、炭治郎の脚を巻き込んでいた悪戯な脚が動いて、脛を爪先でくすぐってくる。
「ぎ、義勇さんっ? ちょっと、それくすぐったいですってばっ」
「んー? お前が落ちないようにしてやってるだけだが?」
「嘘だぁ! 絶対に嘘っ!」
「本当。まだ早朝なんだから静かにしなさい。ほら、暴れると落ちるぞ?」
ぐっと抱き寄せられて、ピタリと密着した体に炭治郎は息を飲んだ。
先ほどまでは気づかなかったけれど、この、腰に感じる熱はもしかして。
「あ、あの……義勇さん」
「ん……? なんだ、炭治郎?」
脛をくすぐり続ける爪先。もっとくっつけとばかりに腹を押す掌。肩に顎先を乗せ、耳元で直接囁くのはやめてほしい。
うわぁと叫びそうになる前に、ぐぅっと炭治郎の腹が鳴ったのは不可抗力だ。
沈黙が痛い。きっと自分の顔は真っ赤に染まているだろう。羞恥にますます炭治郎の頬は熱くなっていく。
ククッと笑いを噛み殺す声がして、ゆっくりと義勇の体が離れていった。
「出かけてくる。待ってろ」
「えっ!? ど、どこに!?」
起き上がる義勇に慌てて問えば、コンビニと答えが返ってきた。
「朝飯になるものがない」
「俺も行きます!」
思わず縋るように言うと、義勇は少しばかり眉根を寄せた。たしなめられているように見えて、炭治郎はつい肩を竦めそうになったが、ふわりと香ったのは心配の匂いだ。
「……大丈夫なのか?」
問う声もどことなく不安そうだった。なにがと首をかしげた炭治郎に、義勇の眉はいよいよ寄せられたが、やはり怒っているというよりも困っているという風情だ。
「体……大丈夫か?」
声も労わりの響きをしている。そこで初めて義勇の言葉の意味を悟り、また炭治郎の顔に朱が散った。
「は、はい、あの……俺、丈夫ですしっ。それに、や、優しかった、から……」
うろたえながらの言葉は、尻すぼみに小さくなった。
そうだ。優しかった。義勇は全部優しかった。間違いようなく。
けれどやっぱり、ざわり、ひやりと、胸の奥がざわめき冷えるのは、なぜなのだろうか。
離れたら、胸の奥に芽生えて消えない不安が育ちそうで、炭治郎は縋る目を義勇へと向けた。
ふっと小さく吐息を洩らし、義勇は炭治郎の頭を撫でてくれた。浮かんだかすかな笑みは優しい。
「手を、繋いで行こう」
はいと答えた炭治郎の声は、ささやかではあるが震えていただろう。
義勇に気づかれていないといい。思いながら、炭治郎は笑った。
二人手を繋いで、まだ暗い商店街を歩く。時刻は五時。シャッターが開くには早すぎ、朝日が昇るにもまだ時間を要するだろう。
最寄りの駅までは、のんびりと歩いて二十分ほど。商店街を抜ければすぐそこだ。
二人ともどちらかといえば和食党だが、ろくに調理器具のない義勇の部屋では、トーストぐらいが妥当だろう。それじゃあ買うのは食パンと、サラダも少し調達しましょうかなんて、他愛ない話をしながらゆっくりと歩く。
常ならば義勇の足取りは早い。炭治郎たちといるときにはいつも、子供らに合わせて歩いてくれていたけれど、一人で道を行く義勇は追いつくのがやっとなぐらいにさくさくと歩いて行く。
凛と背筋を伸ばして足早に歩く義勇の背を見かけるたびに、驚かせたいと炭治郎は声をかけずに追いかけたものだったけれど、成功したことは一度もなかった。
なぜなら義勇は、いつだって炭治郎が追いつけないと泣き出しそうになる前に、不意に振り向き「炭治郎」と名前を呼んで戻ってきてくれたから。
今、炭治郎の手を取り歩く義勇の歩みは、ゆっくりとしている。大丈夫と言ったところで、その足取りが早まることはない。そうかと小さく応えを返すだけで、義勇は労わる速度で炭治郎の手を引き歩く。
夜が明ける前に目が覚めて良かった。手を繋いでも許される。
指を絡めて繋がれた手に、炭治郎は思う。これは恋人繋ぎというんだったか。こんなふうな繋ぎ方は、ほんの幼いころに手を繋いでくれていたときにも、したことがない。
恋人、なんだろう。自分と義勇は。好きだと言って、好きだと言われた。キスもした。一つに繋がりあって、抱き締められて。互いに果てるまで熱を高め合った。
一緒に部屋を出て、一緒に同じ部屋に戻る。だから、恋人だと言ってもいいはずだ。一緒に暮らすのだ、これから。恋人として。義勇と。
幸せだと思う。嘘じゃない。嬉しくてたまらない。決して嘘なんかじゃないのだ。
なのになんで、こんなにも怖いんだろう。
ひたひたと、なにかが後ろから忍び寄ってくるような不安がある。ざわざわと胸が落ち着かない。ひやりと冷えていく心の底。どうして? わからない。けれど消えない。
炭治郎はことさら明るく笑いながら歩いた。嬉しいです、幸せですと、それだけが義勇に伝わるようにと笑う。
他愛ないことばかりを口にして、義勇の眉が不機嫌に寄せられぬことを願う。
臆病者めと頭の片隅で誰かが嗤っている気がした。
駅前のガードレール沿いに植えられた桜が、ひらひらと花弁を降らせている。コンビニの灯りは商店街の街灯よりも煌々と明るく、平生ならばホッとするところだったろう。けれど、なぜだか炭治郎の不安はまた増した。
手を。手を離さなくちゃ。だって人がいる。コンビニには、人が。
「綺麗だな」
唐突な言葉に、慌てて炭治郎は義勇を見上げた。必死に浮かべていた笑みはもう消えている。頼りなく揺れる瞳は泣き出しそうになっているだろう。義勇にも気づかれてしまうかもしれない。
取り繕うようになにが?と炭治郎が問う前に、義勇は小さく笑い、視線で炭治郎を促した。
移した炭治郎の視線の先で、街路樹の桜の木が、ピンクに染められていた。
「……桜」
「排気ガスまみれのわりには綺麗なもんだ」
「そう、ですね」
ぎこちなく笑い返した炭治郎の手を、義勇の手が強く握った。
「行こうか」
「あ、あの義勇さんっ、手を……」
離さなくちゃと続ける言葉を遮るように、義勇は少し足を速めると手を繋いだまま自動ドアを潜った。続いた炭治郎の焦りを感じているくせにだ。
「これぐらい誰も気にしない」
「そう、ですか……?」
「あぁ」
強く頷いてくれるから、少しだけホッとして、炭治郎は肩の力を抜いた。
まだ陳列された商品も少ない棚を、手を繋いだまま眺めて歩く。少し顔を伏せた炭治郎とは違って、義勇は堂々と顔を上げていた。
食パンや牛乳を炭治郎が言うままにカゴに入れていく義勇を、ちらりと目線だけで窺う。義勇はいつもの無表情だ。けれど少しだけその表情は柔らかい気がした。
朝食用の食材を入れたカゴに、義勇が追加したのはホットの缶コーヒーとカフェオレ。
少しだけ花見していこうと、コンビニ前のガードレールに腰かけた義勇に促されて、炭治郎もおずおずと義勇の隣に腰を下ろす。
ひらり、ひらりと、舞い落ちてくる桜の花弁。朝日はまだ顔を出さない。
「帰ったらココアを淹れてやる」
だから今はこれで我慢してくれと、カフェオレを手渡してくれながら言う義勇に、炭治郎は、すっと体から力が抜けていくのを感じた。
ココアはいつも義勇がくれる。炭治郎が泣くといつだって、義勇は缶のココアを渡してくれた。そのうちに義勇が手ずから淹れたココアになったけれど、あれはいつごろからだったっけ。
「なん、で……?」
震える声で訊いた炭治郎の頭が、優しく義勇の肩に抱き寄せられた。
「我慢しなくていい。泣きたいなら泣け。ちゃんと俺はここにいるから」
違う。違うから。泣いたりなんかしない。だって嬉しいんだ。嬉しくて幸せで、怖いことなんて、泣きたいことなんて、なにもないはずで。
怯えて嫌々と言うように首を振る炭治郎に、義勇は小さく笑いながら頑固者と囁いた。笑む声は優しくて、触れている義勇の温もりも、どこまでも優しくて、愛おしくて……涙がとうとう零れた。
「こわ、怖く、てっ」
「うん」
「ぎゆ、さん、違う人、みたいで……」
「……悪かった」
「違うっ! 違うんです!」
咄嗟に顔を上げて、必死に首を振った炭治郎の頬に涙が散る。
「俺の知らない、義勇さんじゃ、どうしたら嫌われないか、わかんな、ぃからっ!」
義勇の好きなものも、嫌いなことも、知っていると思っていた。でも、昨夜の義勇は炭治郎が知るどの顔とも違う顔をしていて、声も、息も、熱も、炭治郎の知らない義勇ばかりで、蕩ける熱さから覚めたらどうしようもなく怖くなっていった。
興を削ぐような真似をしてはいなかったか。想像と違ったなと呆れてはいないか。もういいか、こんなものなら、もういらない。そんな酷いこと、義勇は決して言わないと知っていても、怖い。
だって炭治郎は男だ。義勇のことが死にそうなほどに好きだけれど、ゲイなわけじゃない。義勇以外の誰のこともそういう意味で好きになったことがないだけで、男の人が好きなわけじゃない。同世代の女の子に顔を寄せられてドキリとしたり、友達が持ってきたグラビアを見せられて、勝手に体が反応してしまったことだってそれなりにある。
義勇だってそうだろう。昔は彼女がいたこともあった。男の人が好きなら、炭治郎なんかよりよっぽど義勇に似合いな錆兎や煉獄先生、宇髄先生たちだっているのに、義勇は恋愛感情という意味合いでは、彼らのことなどまったく無関心そうだった。
なのに。
男が好きなわけでもない男同士で、好きだと心を通わせて、キスして、熱を分け合った。
ましてや相手はこれほどまでに美しく、強く、誰もが手を伸ばしたがるだろう義勇なのだ。
こんなことが本当に起こり得るんだろうか。分不相応な幸せは、帳尻合わせになにか悪いことが待ってるんじゃないのか。
「お前を嫌うなんて、天地がひっくり返っても有り得ない」
有無を言わせぬ響きが聞えた。顔を上げれば、怯えさせてごめんとの囁きは耳元で。
「ひっくり、返るかと、思ってた……」
ぽつりと泣きながら言った言葉に、義勇はわずかに首をかしげたようだった。
「世界、が、全部っ、変わっちゃうぐら、い……凄い、こと……した、から」
そう。凄いことだ。とんでもなく凄いことを自分はした。
義勇と、したのだ。好きで好きで狂おしいほど大好きで、本当は欲しくてたまらなかった義勇に、求められて、求めて、一つに繋がりあったのだ。
世界がそっくり入れ替わったっておかしくないぐらい、凄いことだ、これは。
なのに、なに一つ変わっていない。何事もなく時計の針は進み、なにもなかったかのようにもうじき日が昇る。桜は綺麗で、コンビニの灯りは煌々としているし、レジのやる気なさげな店員は二人のことなど興味ないとばかりに、気の抜けた声で会計を告げた。
なにも。なにも変わらない。変わったのは炭治郎と義勇だけ。昨日までとはもう違うと、知ってしまったのは、二人だけ。
きっと炭治郎だって、義勇の知らない顔を見せた。義勇の知らない顔で、知らない姿で、乱れた炭治郎を、義勇はどう思っただろう。炭治郎自身ですら知らない、この身の奥深くにこもる熱までも、義勇にだけは知られてしまった。
もう知らなかったころには戻れない。昨日までよりもいっそう深く、重く、熱く募る想いは、長男だからという言葉一つで抑え込めるものではなくなってしまった。
「変わらない」
「……うそ、だ。かわ、っちゃった! 全部!」
「嘘じゃない。お前は、なにも、変わっていない」
強く、一言ずつ言い聞かせるように、義勇は言う。見つめる瞳にも、炭治郎を射抜くような強い光があった。
「大丈夫。お前が知らなかっただけで、全部俺だし、俺が見たかったのも、お前自身も知らなかった隠れてたお前だ。全部、なにも変わってない。隠れていたものを引きずり出されて怖かったな。もっとゆっくりと引き出してやれば良かった。ごめん」
「……隠れて、たの、も……好き?」
「うん。好きだ。全部好きだよ、炭治郎」
たまらなくなって、夢中で義勇の胸にしがみついた。手にしたままのカフェオレの缶がちょっと邪魔だなと思う。
「飯を食べたらもう少し寝よう。起きたら買い物に行って、お前の食器やなんかを買おう」
「な、鍋とか、フライパン、も」
「あぁ、そうだな。お前は料理上手だから楽しみだ。ベッドもどうにかしなくちゃな。あれじゃお前を抱くには狭すぎる」
「ぎ、義勇さん、エッチ、だ」
「そうだよ。お前限定でな。知らなかっただろう? お前の枕も買わなきゃな」
「……いら、ない」
ぎゅっと義勇の左腕を掴んでそっと見上げたら、義勇はちゃんと意味を悟ってくれたようだ。嬉しげに笑って頷いた。
「そうだな、枕はいらないな。お前の枕はここにあるから」
こくりと炭治郎も頷いた。フフッと小さく笑い合う。まだ涙で濡れた頬を義勇の優しい指が拭ってくれた。
ブォォと音を立てて、新聞配達のバイクが通り過ぎていく。空が白々と明るくなっていく。
朝が来る。なにも変わらない朝が。
「帰ろうか」
密やかな慈しむ声に頷いて、炭治郎は少し震える唇で笑った。
家に着くまで、手を繋ごう。幼かったころとは違う、恋人同士の繋ぎ方で。
家に着いたら、義勇はきっと先に家に入る。そして言うのだ。炭治郎におかえりと。
そしたら笑って返すんだ。ただいまと。もう、いらっしゃいも、お邪魔しますも、言わない。
帰ったら。そうだ、これからはもう、帰る場所は貴方の腕のなか。
今日から、二人暮らし。変わらない世界で、二人で生きていく。