◇少年、大いなる決意と旅立ちの時の段◇
元宵節まであと二日。明日にはさっそく出立するという晩だ。
炭治郎は、これでもかというほどの料理を卓に乗せるつもりだったが、残念ながら自力では果たせそうになかった。理由は至極単純である。料理をしている途中で、とうとう立っていられなくなったからだ。
「よくまぁ、こんな傷で食材まで探しに行けたねぇ。もっと早くに言えばいいのに」
呆れ声で言われ、炭治郎はいたたまれずに首をすくめた。
「ごめん……。でも、最初はともかく、いつのまにか痛いって感じなくなってたんだ」
だから自分でも、怪我をしたことすら忘れていた。痛みを感じなくなっていて幸いだ。もしも義勇と打ち合っている最中に激痛が襲ってきたのなら、試験に合格するどころではない。下手をすれば、さらなる大怪我を負っていた可能性もある。
「うん、呼吸がきちんとできてた証拠だよ。あのね、極限まで神経を研ぎ澄ませて集中しているときの呼吸は、それなりにいろんなことができるようになるんだぁ。たとえば、血が流れすぎないように体が血の道を塞いだり、痛みを感じづらくなるようにしたり」
「あぁ……それでかぁ。義勇さんと戦ってるとき、今まで感じたことがないぐらい集中してた気がするから」
「そう。その状態を、私達は全集中の呼吸って呼んでるの。錆兎や義勇は、その呼吸を寝ているときも続けてるよ。全集中常中っていうの。全集中の呼吸ができれば、身体能力を鬼と同じぐらいにあげることができるんだぁ。でも一瞬だけじゃ困るでしょ? だから、常中を続けて基本的な身体能力を活性化する。それができてはじめて、呼吸を極めることができるようになるの。炭治郎も常中できるようにならないとね」
料理の続きを請け負ってくれた真菰が、鍋をかきまぜながら振り返り、クフンと笑った。
真菰の声音は実にこともなげで、いともたやすく習得できそうに思えてしまうぐらいだ。だが、炭治郎はちゃんと知っている。真菰の言う全集中常中が、どんなに困難なのかを。
「寝てるときも呼吸を続けろとは言われたけど……あんな苦しい呼吸を、どうやったら寝ていても続けられるのかなぁ」
仙人式の呼吸でさえ、まったく意識のない睡眠中に呼吸を意識しろなんて、無茶苦茶だと思ったものだ。全集中も、戦っている最中にはそれどころじゃなかったけれど、思い返せば相当つらかった。
なにせ、五感すべてを研ぎ澄まし、体中の筋肉という筋肉、骨という骨がきしみをあげるほどに、極限まで力をみなぎらせるのである。
試験に合格し、ようやく旅立てることに浮かれているうちは意識しなかった呼吸も、料理に精を出しているうちに限界がきた。突然カハッと咳き込むなり、炭治郎の太ももには激痛が走り、立っていることすらままならなくなったのだ。
全集中は、体の機動力をあげもするが、意識せぬまま抜き差しならぬところまで体を酷使してしまいもする。体のほうが呼吸についていけず、結果として炭治郎のように限界がくるようだ。
六太に刺された傷は深かった。それでも、今はさして痛みはない。鱗滝が調合する仙薬は、本当によく効く。念のためおとなしくしてなさいと、真菰が調理を買ってでなければ、炭治郎はすぐにも竈の前に復帰したことだろう。
「んー、やっぱり慣れじゃない? あとは、呼吸に耐えられるだけの基礎体力。たくさんの水を入れようとしても、小さな器じゃあふれちゃうでしょ? 器をまずは大きくしなくちゃね。炭治郎はもう、かなりいいところまでできてるから、大丈夫だよ。だって私が教えてきたんだもん」
「うん、ありがとう。真菰が丁寧に教えてくれなかったら、呼吸もできないままだったかも。でも、慣れるのはむずかしそうだなぁ。がんばるけど、寝てるうちにやめちゃっても自分じゃわからないから」
意欲は炭治郎だってあるのだ。これができなければ鬼の始祖、鬼舞辻無惨どころか、強い鬼にはとうてい敵わないと言われれば、必ずできるようにならねばと奮い立ちもする。
だが、意気込みだけではどうにもならないことだってある。これまでは定住しての鍛錬だったが、明日からは旅の空の下での寝起きとなる。鍛錬は続けるが、今までのように鍛錬だけに集中することはむずかしそうだ。
「安心しろ。常中がとけたら、俺がみぞおちに一発くれてやる」
剣呑な一言が聞こえ、炭治郎はとっさに亀の子のように首をすくめた。
「錆兎、おかえりぃ。どうだった?」
「それなら絶対にわかるだろうけど、次の日動けなくなりそう……。あ、鱗滝老師はまだ洞窟ですか?」
真菰とそろって炭治郎が顔を向けた先で、錆兎が小さく肯首した。端正な顔に疲れは見えないが、それでもわずかに寄った眉は苦々しげである。かすかに憂いをたたえているようでもあった。
「あぁ。結界に、ほんの少しだがほころびがあってな。塞ぐついでに結界を強化しておくそうだ。ほかの鬼が入り込んだ痕跡はないが、万が一があるからな」
言いながら房に入るなり、錆兎はドカリと椅子に腰を下ろした。長く吐き出された息に、炭治郎の眉尻がちょっぴり下がる。
見た目よりもずっと、錆兎も疲れているのかもしれない。洞窟がはたしてどれだけ広いのかはわからないけれど、きっと見回るだけでも一苦労だっただろう。残りの料理は真菰に任せると了承させられたが、茶を淹れるぐらいはいいよなと立ち上がり、炭治郎は炉炭に向かった。足の痛みは先よりもずっと薄れていた。
「義勇は? 真菰、一緒に帰ったんだろ?」
「禰豆子ちゃんの子守してるよぉ。昨日義勇が作ってあげた|空竹≪コンジュー≫(中国コマ)、すっごく気に入ったみたい。義勇に回してってせがんでたから、まだ遊んでるんじゃないかなぁ」
「あぁ、義勇は手先だけは器用だからな」
また鍋に向かい振り返ることなく言う真菰に、気にした様子もなく錆兎は卓に頬杖をつくと、フッと顔をほころばせた。
「そうなんですか? っていうか、手先だけって……義勇さん、なんでもできそうなのになぁ」
淹れた薄緑色の|餅茶≪へいちゃ≫を差し出しながら、炭治郎がなにげなく言うと、錆兎の顔に少しだけ愉快げな苦笑が浮かんだ。
「たしかに。でも、とんでもなく口下手だし、なによりも生き方が不器用だ……義勇は人におもねることができないからな。嘘もつけないし、星見を継いでも国司になっても、それなりに苦労続きだっただろうさ」
だから、自由に過ごせる今がいい――とは、かけらも思ってはいない口調と顔つきだったが、錆兎の灰藤色の瞳を見るに、いくらかは本心であるのが窺えた。
感情を失い、喜びも悲しみも感じられなくなった義勇の現状を、口先だけの戯言であれ、よかったなどとはけっして錆兎は口にしやしないだろう。義勇の身に降りかかった災厄を誰よりも憂い、そんな境遇に貶めた無惨への憤怒を誰よりも抱えているのは、錆兎だ。
それでも、子供のころと同じく傍らに立ち同じ道を進める今への愛おしさもまた、錆兎の心のほんの片隅には息づいているのだろう。義勇が星見を継いでいたとしたら、錆兎とは立場を違え、進む道は分かたれていたはずだ。今のように星月夜の下、同じ天幕で眠り、ともに背を合わせて戦うなど、けっしてありえなかったに違いない。
炭治郎だって、同じことだ。義勇の不遇を喜ぶ気はみじんもないが、出逢えたのは義勇が感情を失ったからこそだ。国の星見さまやら国司さまに出逢う機会など、窯場の倅でしかない炭治郎には、きっと一度もない。よしんば出逢えても、今のように手料理を振る舞うことはもとより、言葉をかわすことすらできやしなかったはずだ。
失った感情の破片を探し求める旅を義勇がしてきたから、炭治郎は、義勇という宿縁の相手と巡り会えた。それはどうしたって覆せぬ事実だ。
たとえ縁の糸がつながっていようとも、かけ離れた立場では、距離を縮めることは果たせない。
「まぁ、星見ならまだマシかな。大王さまは意に染まない結果にだろうと、言をひるがえせとはおっしゃらないだろうが、国司はなぁ。民を虐げることになると知っていて、上司に従うことなんて義勇にできるわけないし」
「それは……なんとなく、想像つきます」
苦笑したまま語り茶をすする錆兎へ、小さく笑い返し、炭治郎は自分も茶器を手に取ると、そっと言った。
炭治郎は以前の義勇を知らない。感情豊かに笑ったり怒ったりする義勇など、鉄仮面の如き無表情を見慣れた炭治郎には、想像することすらうまくできなかった。だけど、義勇から香る心の残滓が、無感情のまま見せる仕草が、教えてくれるのだ。義勇のやさしさや生真面目さを。
水清ければ魚棲まずというが、感情を失う前の義勇はたぶん、そんな格言がしっくりと馴染む御仁だったに違いない。同様に清廉で正義感にあふれる錆兎だからこそ、|刎頸≪ふんけい≫の交わりをも持てたのだろうが、才ある者を妬む輩はどこにでもいるものだ。義勇が口下手だったというのなら、誤解ややっかみを一身に受けもしただろう。
それでも頑として悪には染まらぬ、そんな義勇ならば、容易に思い描ける。
クスッと笑った炭治郎に呼応するように、料理の手はとめぬまま、真菰も軽やかな笑い声を立てた。
「嫌味言われても、義勇は、怒るどころか悲しいってしょんぼりするだけだもんねぇ。そのくせ、誰かが被害を被るなら、上の人にも平然と反論しちゃうだろうし。出世して国司になるのはむずかしいんじゃないかなぁ。この国は大王さまの威光が行き届いてるから、三省六部も逸材揃いで役人の腐敗は目立たないけど、それでもやっぱり正一品(官僚の官位の最上位)にだって悪辣な奴はいるもの。そんなところで苦労するよりも、義勇は鱗滝さんみたいに自由に生きるのが似合うよ」
真菰が湯気を立てる椀をトンッと錆兎の前に置いたと同時に、トトトッと軽い足音が近づいてきた。
「むぅっ!」
くぐもった幼子の声がして、禰豆子が姿を現した。間を置かず義勇も房へと入ってくる。
ニコニコと上機嫌な笑みを浮かべて走り寄ってきた禰豆子を、炭治郎は両手を広げ抱きとめた。
「禰豆子、義勇さんと遊んでもらえてよかったなぁ。いい子にできたか?」
「むぅむぅっ!」
うれしげにコクンとうなずく禰豆子と同時に、コクリとうなずいてくれた義勇が、炭治郎の顔をほころばせる。見れば義勇の手には、お手製の空竹があった。
「あ、それ。禰豆子に作ってくれたコマですか?」
禰豆子を抱き上げて立とうとした炭治郎に、すぐさま真菰のコラッというお叱りがとんできた。
両手を腰に当て小さく眉を怒らせる仙女の顔は、怒ってみせても愛らしい。けれども、ツンと額を突かれ「おとなしくしてなさいって言ったでしょっ」と言われてしまえば、笑って返すわけにもいかなかった。
「左の太もも」
静かな声に驚いて、パッと振り向いてみても、やっぱり義勇の顔にはなんの感情も見られない。
「あぁ、さっき茶を淹れてくれたときに少し引きずってるなと思ったが、やっぱり怪我してたか」
「えっ! わかっちゃいますか!? もうあんまり痛くないから、自分では普通に動いてたつもりなんですけど」
もう薬も効いて、血も止まっているし痛みもほとんどない。錆兎の前では普通に動いていたので、錆兎が気づくとは思ってもみなかった。
だが、義勇は違う。義勇と対峙したときにはまだ、炭治郎は全集中の呼吸すらできていなかったから、気づかれるのも当然かもしれない。けれども、剣を交えているとき、義勇はいっさい怪我した場所を狙ったりしなかった。
鬼は人が弱っていればそこを付け狙う。卑怯とは言いがたい。人であってもそれは同じなのだ。戦場では双方、己の命がかかっている。人同士であっても、弱点となる場所を狙うのは当然だ。自分の命だけではなく、国を、家族や大事な人を守るため、弱点と見れば即座にそこをつく。責められることではない。
名のある武将同士ならば、卑怯者めとの誹りも受けよう。だが、歴戦の勇士である義勇から見れば、炭治郎は尻に殻をつけたひよっこ同然だ。ましてや手負いともなれば、負傷した箇所を狙えば決着などすぐさまつく。獅子搏兎とも言うではないか。格下の相手にも全力で向かう勇猛かつ非情な決断は、戦士には必要であるともいえるのだ。太ももの傷に気づいていたのなら、そこを狙えばよかったはずだ。
もちろん、炭治郎に義勇の真意はわからない。けれども、けっして炭治郎の弱みを狙わず、同格の戦士として正々堂々と義勇が戦ってくれたような気がして、炭治郎の胸が詰まる。
いや、もしかしたらそれだけではないかもしれない。
自分よりはるかに弱く傷まで負った相手と対峙したときに、自分ならばどうするだろう。考えるまでもないと、炭治郎はかすかな自嘲と深い悲しさに切なく微笑んだ。
そんなとき自分ならきっと、せめて弱みは狙うまいとするだろう。炭治郎に対して義勇がそうしてくれたように。
勝敗が見えた相手であろうと、正々堂々と全力で戦う。どんなに弱い相手だろうと、敬意を払うべきだ。手加減などしない。けれど弱みをことさら狙うことだってできやしないだろう。お互い背負っているものが同じくらい重いのならば、きっと、しない。自分が持てる全力でもって、正々堂々と立ち向かうに違いなかった。
けれどもしも……もしもあの日、鬼が現れずそれまでどおりの暮らしが続いていたら。
そのときには、戦場で剣を取らねばならない日を、炭治郎も迎えていたかもしれない。もしもそのときに戦火が上がれば、炭治郎も敵と剣を交えざるを得なくなっていたのは、想像に難くなかった。
たぶん、そうなれば自分は、ろくな戦果も立てられずに戦場の土に還っていたことだろうと、炭治郎は小さく唇を噛む。
よしんば生き残り、兵役を終えて家族と笑って今までと同じように暮らしても、自分はきっと一生、人の命を奪った悔恨を抱えて、眠れぬ夜を過ごすことになる。剣を手にし、戦うとは、そういうことだ。
戦果を上げ、何人敵を殺したと自慢気に語り周りに褒め称えられる。そんな自分を想像することすら、炭治郎にはできなかった。
だからきっと、あの日の出逢いなく戦場に赴いたのなら、自分はあえなく命を散らしていたはずだ。炭治郎はそれを疑わない。
生き残れずとも、人を殺さなかったのならそれでいい。良心を誇って死ねるのなら、それはそれで、自分は満足して死んでいけると思う。けれども残された者はどうすればいい。
戦争だからしかたがない。そんな諦めとともに、炭治郎の「殺さない」という決意を誇り笑ってくれるならいいけれど、誰をも恨まずいられるか……炭治郎を手に掛けた相手に、しょうがないと笑えるのか。もしも竹雄が、茂や六太が、同じ目に遭ったとしたら、自分は笑えるのか。
命がけの戦いが生むものは、勝利と敗北だけではない。どちらにも死者はあり、どちらにも恨みが生まれる。悲しみが人の心を占める。無邪気に喜べる自分で在りたくないと、炭治郎は苦く笑った。
義勇も、同じなんじゃないだろうか。
せめて、正々堂々と。恥じるものは少なく、一生後悔を抱えるのならばせめて、どんな命も軽んじることないように。せめて、残された者の恨まずにいられぬ心が、少しでも軽くいられるように。不甲斐なく怪我を負いあっけなく殺されたなど、誰にも言わせぬ戦死の報が、遺族に届くようにと、心のどこかで願って剣を振るう。そんな気がした。
そんな感情は、もちろん、今の義勇にはありえない。それでもきっと、心に残る感情の残滓が、義勇に命じたのだと炭治郎は思った。正々堂々、自分も相手もけっして恥じぬ戦いをと。高潔で情深い義勇の本質は、たとえ心のほとんどを失おうとも、戦いの手を緩めることも炭治郎の傷を執拗に狙うこともさせなかったに違いない。
こんなにも、やさしく思いやり深い人なのに。剣を握ることすら厭うていたという、戦いを嫌っていただろう人なのに。
母や竹雄たちの命を奪い、禰豆子を鬼に変え……義勇の感情をも奪った、鬼という生き物。すべての元凶、鬼舞辻無惨。
許すものか。けっして。
誰も恨みたくなどない。そんな思いは変わらずとも、無惨だけは許せなかった。
六太を、茂や花子たちの頸を、己で刎ねた感触が、炭治郎の手に腕に全身に、よみがえる。その一瞬の感触と苦しみを、一生、炭治郎は忘れることはないだろう。たとえそれがみんなを救うことになろうとも。誰も炭治郎を恨まず、安堵してくれていてくれたとしても。
忘れぬまま、炭治郎は鬼を狩り続ける決意を、心に燃やす。人の命を、幸せを、軽んじ笑う者への刃を振るう日々への、覚悟を抱く。そしていつか、無惨の頸を。悲劇を生み出す元凶を、必ず討つのだ。
二度と誰も鬼のせいで泣かぬようにと。自分と同じ思いを、誰も抱かぬようにと。
そのための二年。それだけを願う、鍛錬の日々だった。そうして、明日の朝には旅立ちの時がくる。
知らず武者震いした炭治郎の腕のなかで、禰豆子が不意に身じろいだ。
「むぅ?」
スンッと鼻をうごめかせた禰豆子が、気遣わしげに眉を寄せたのに気づき、炭治郎はあわてて笑みを向けた。
「あぁ、うん。ちょっと油断しちゃってさ。でも心配しなくても大丈夫だぞ? 真菰にもらった薬で、怪我はもうなんともないから」
やさしく頭を撫でてやっても、やっぱり禰豆子は、むぅむぅと身をよじり、炭治郎の膝からポンッと降りてしまった。
「むー、むぅむぅっ」
小さな手のひらで、禰豆子は、炭治郎が負った傷をそろそろと撫でてくる。癒そうとするかのように。口枷のせいで言葉を交わすことはできずとも、禰豆子の思い遣りは幼い仕草や表情から如実に伝わり、じわりと炭治郎の目に涙が浮かんだ。
「……人食いの本能を封じられているとはいえ、本当にその子は鬼らしくないな。血の匂いなんぞ嗅げば、よだれを垂らしてたちまちかじりついてもおかしくないってのに」
錆兎の苦笑は、感慨深げだ。皮肉ではない素直な感嘆がそこにはあった。炭治郎が胸を張るより早く、フフンと自慢気に真菰が笑う。
「だから、禰豆子ちゃんは大丈夫って言ったでしょ。禰豆子ちゃんは鬼の血になんか負けない、強い子だよって」
「真菰が威張ることじゃないだろ。でも、そのとおりだな。これなら連れて行っても大丈夫そうだ。炭治郎も義勇に一撃入れられるぐらい強くなったし、最悪の場合でも自力で活路を見いだせるだけの力はついてるみたいだからな。万が一が起きても、なんとかなるだろ」
二人の会話に、炭治郎の目が見開く。キョトンと見上げてくる禰豆子に、とうとう涙がポロリとこぼれ落ちた。
「よかったなぁ、禰豆子! 一緒に行けるぞ!」
「むぅ?」
「うんっ、ずっと兄ちゃんと一緒だ。兄ちゃん、絶対におまえを守るからな。必ず人に戻してやるからっ」
かがみ込み夢中で抱きしめれば、禰豆子はわかっているのかいないのか、ニコニコと笑って細い腕で抱きしめ返してくれる。
鬼となった禰豆子をともに連れて行くことに、不安は少なからず炭治郎にもあった。そもそもそんなことを錆兎たちが許してくれるのか。そちらのほうが気がかりでもあった。
物見遊山の旅ではないのだ。戦いとなれば血が流れる。禰豆子の封印された鬼の本能が、炭治郎たちの血の匂いで目覚めないともかぎらない。
けれども、禰豆子は自分自身の行動で、いまだ警戒を解ききらない錆兎さえをも納得させたのだ。
人としての禰豆子は、炭治郎の自慢の妹だった。誰もがそれも当然と笑ってくれた。けれども鬼となってしまった今、人は禰豆子を恐れるだろう。誰もみな、禰豆子の持つ本来のやさしさや倫理観の強さなど、見てくれないに違いない。
見た目の愛らしさはともあれ、禰豆子は本当だったら、人を襲い食らうのだ。そうしなければ生きられないはずだった。だからまだ、不安は消えない。
禰豆子を本心からかわいがってくれても、真菰や鱗滝は仙だ。人ではない。襲われ食われる可能性は、市井の人と変わらずとも、自衛の術を身に着けている。けれどもただの人ではそうはいかない。ひとたび禰豆子が本性のままに襲いかかれば、ひとたまりもないだろう。
万が一、炭治郎が禰豆子を抑えきれなければ、錆兎は躊躇なく禰豆子を斬る。たとえ禰豆子自身への愛着や親愛が生まれていようとも、人を襲う鬼を錆兎はけっして許さない。
それはきっと、義勇とて同じだ。感情のない義勇は、鬼を倒すことを優先させるだろう。そしていずれ苦しむのだ。いつか感情を取り戻したときに、きっと義勇は悔恨に打ちのめされる。理性ではしかたのないことと割り切れても、義勇が本来持つこまやかな慈愛の心は、自身を責めるに違いなかった。
だからこそ、炭治郎は悩んでいたのだ。はたして禰豆子を旅に連れていけるのかと。
当然のことながら、不安がすべて消えたわけではない。鱗滝の術を信じてはいるが、絶対ではないとも言われている。当たり前だ。それは生き物の本質を捻じ曲げることと同義なのだ。生半可な術ではない。
最悪の場合を常に考えておけと、鱗滝には言われている。となれば、錆兎が危惧し禰豆子を連れ歩くことに疑義を唱えるのも、しかたのないことだ。そして、錆兎が反対ならば、炭治郎には異を申し立てるだけの力もないし、安全を立証するすべもなかった。
けれど、錆兎も認めてくれたのだ。鬼になっても消えぬ禰豆子のやさしさを。炭治郎の決意と実力を。
「人を食べないだけじゃないもーん。ねぇ、禰豆子ちゃん? 私と一緒にがんばったもんねー」
「む? むぅっ!」
笑って禰豆子の顔を覗き込んできた真菰に、キョトッとまばたきした禰豆子が、勇ましく小さな拳を振り上げた。
「え? 禰豆子、なにかしてたのか?」
唐突な会話に、炭治郎の涙がピタリと止まる。いったいなんのことやら。わからずに、フンスと胸を張る禰豆子といたずらっ子のように笑う真菰を、交互に見やった炭治郎同様、錆兎も怪訝そうに首をひねっていた。まったく動じていないのは、空竹を手にぼんやり佇んでいる義勇だけだ。
「まぁ、いずれわかる」
笑みを含んだ答えは、空中から聞こえた。
卓の傍らにふわりと霞が湧き、不思議な赤い面をつけた老爺がこつ然と現れた。
「老師、お疲れさまでした。禰豆子になにか新たな術でも?」
スッと立ち上がり拱手礼をとった錆兎に、鱗滝は鷹揚に笑った。
「なに、儂はなにもしておらん。それよりも炭治郎。食事の前に渡すものがある。こちらへ」
さっさと房を出ていく鱗滝に手招きされ、炭治郎が思わず周囲を見回せば、錆兎はやはり首をかしげていたが、真菰はなにやら訳知り顔でニンマリと笑っている。義勇と禰豆子は……言うまでもないだろう。
「ホラ、行っておいでよ、炭治郎。禰豆子ちゃんは私のお手伝いしてね」
「むぅっ」
ぴょんと飛び跳ねるようにして真菰と一緒に竈に向かう禰豆子へ、心なし置いてけぼりの寂しさを覚えたけれど、それは微笑ましい光景でもある。
禰豆子は長女だけあって、炭治郎と同じく弱音を吐かない。誰かに甘えてみせたのも、今の見た目と変わらぬ年ごろまでだ。竹雄たちが生まれてからは、母と変わらずみなの面倒を見るのが当たり前で、あんなふうにうれしげに誰かになつく様など見たことはなかった。
真菰に実の姉妹であるかのごとくに甘え、手伝いを喜びいさむ禰豆子を見るのも、今夜をかぎりに、しばらくはおあずけだ。
このまま、ここに残していくほうがいいのかも。ちらりと思いもしたが、禰豆子を置いて旅立つなどできそうにない。
鱗滝と真菰への信頼は深くとも、離れたくないのだ。いつかの雪の日のように、自分の知らぬ間に大切な笑顔が消えるのは、二度とごめんだ。
万が一のときの、責めも悲しみも、自分で負いたい。誰にも背負わせたくなかった、なにもかも。
信じているからこそ、なおさらに。
「禰豆子、ちょっと行ってくるな。ちゃんと真菰のお手伝いするんだぞ」
「むぅむぅ!」
「いつもお手伝いできてるもんねー、ねっ、禰豆子ちゃん」
「むぅっ」
楽しげな真菰と禰豆子に、ちょっとばかり呆れを含んだ苦笑を浮かべ、錆兎が炭治郎に向かいひらひらと手を振った。
「ホラ、さっさと行け。師を待たせるなど百年早いぞ」
「はいっ、すみません! 義勇さん、行ってきます!」
房の入り口に立ち尽くしたままの義勇に笑いかければ、義勇はなんの感慨も見られぬ顔で炭治郎を見下ろし、それでも小さくうなずいてくれた。
今はそれだけでもいい。いつか、笑い返してほしいけれど。その日を迎えるためにも、炭治郎は立ち止まるわけにはいかないのだ。
鱗滝の後を追って炭治郎は走る。面で見えない鱗滝の顔は、それでも笑んでいるように見えた。
鱗滝に付き従い炭治郎が向かったのは、鱗滝の自室だ。希少な薬草などがしまい込まれた房は、いつもながら不思議な匂いで満ちている。
「炭治郎、よく試験に合格した。思いがけず卑劣な鬼と対峙することになったのは、こちらの不備だ。すまなかった。判断を誤ることなく、よく切り抜けたものだ。義勇にも、相打ちとはいえ一矢報いるとは……正直、負けずに耐え抜ければ上々と思っていたんだが、おまえは儂が思うよりもずっと機転がきく。見誤っていたのは儂のほうかもしれんな」
「そんなっ、鱗滝老師が鍛錬してくれなければ、なにもできやしませんでした。全部、鱗滝老師や真菰、それに錆兎と……義勇さんのおかげです」
義勇の名だけは、無意識に頬を染め噛みしめるような声音になった炭治郎に、鱗滝は面の下で苦笑したようだ。
「さて、旅立つにしても、そのままというわけにはいかんだろう。儂と真菰からの餞だ」
ひらりと鱗滝が袖を振ると、炭治郎の目の前にドサリと布地の束が落ちてきた。あわてて受け止めたそれを広げてみれば。
「これ……あ、あのっ、こんな高そうな服もらえませんよ! このままで充分です!」
黒地に臙脂で青海波が描かれた|長衫≪ちょうさん≫、|襖≪おう≫は深い緑で、金銀の流水紋があしらわれていた。外套は襖より淡い緑だ。裾にいくにしたがい色味は濃くなり、地の色と黒の|方格花紋≪市松模様≫となっている。
貧しい暮らしのなかではとうてい手にすることもなかった、なめらかな絹の手触り。仕立ての良さが炭治郎にだってわかる。
今着ている短袍と|袴褶≪ズボン≫だって、以前の暮らしからすれば、充分に値の張る代物なのだと思う。動きやすさも丈夫さも、段違いだ。これまでも恐縮しきりだったというのに、もったいないにもほどがある。
あわてる炭治郎に、鱗滝はいかにも呆れたと言わんばかりのため息をついた。
「馬鹿者。値の高い安いなど関係あるか。おまえが相手にするのは鬼だぞ。巷間に出回る品で、とうてい体を守れるものか。それはな、義勇や錆兎のものと同じく、破邪の呪をほどこしてある。だいいち、今の服では二人の|家生≪下男≫に見られるのが落ちだろうが。場合によっては、他領の王宮へ赴くこともあるだろう。礼節を備えぬ服では、義勇の感情の破片を探すこともままならんぞ」
諭す口調に、思わず炭治郎は首をすくめた。まさか、衣服一つにそんな意味があろうとは。
「えっと……それじゃ、ありがたくいただきます。ありがとうございます! この服に恥じぬ働きをします!」
「うむ。それと」
うなずいた鱗滝が両手を炭治郎に向かって差し伸べ、パンッと柏手を打った。ビクンと肩を跳ねさせた炭治郎の前で、ゆっくりと鱗滝が両手を広げるに従い、手のあいだに現れいでたのは、一振りの刀である。
「炭治郎、この刀を受け取ったが最後、もう後戻りはできんぞ。義勇たちと同じく、おまえは茨の道を歩むこととなる。不退転の覚悟があるならば、受け取るがよい」
漆黒の鞘に収められた刀をグイッと差し出す鱗滝の視線は、面に隠されていても強い。嘘偽りなど許さぬ見極めの眼差しを、炭治郎は、まっすぐ受け止めしっかとうなずいた。
「はい。けっして、鬼の……鬼舞辻無惨の非道を俺は許しません。必ず禰豆子を人に戻し、義勇さんの感情を取り返して――鬼舞辻無惨を討ちます」
重々しくうなずき返した鱗滝の手から、刀を受け取る。それは、試験の前に渡された刀よりもずしりと重く感じた。
実際の重量は、おそらくは試験用の刀と大差はないだろう。感じるのはきっと、覚悟の重みだ。
「さぁ、着てみるがいい。みな、腹をすかせて待っているぞ」
「は、はい!」
先に行くと房を出た鱗滝を見送り、炭治郎は、ゴクリと喉を鳴らすと恐る恐る長衫に袖を通した。
未来永劫への願いを込めた青海波。繁栄を祈る方格花紋。鱗滝と真菰からの心づくしは、炭治郎の無事と願いの成就を祈ってくれている。
「がんばらなきゃ……絶対に無惨を討ち取るんだ」
義勇たちと同じ波濤ではないのは、以前に鱗滝から聞かされた、炭治郎の生まれと水の呼吸との相性ゆえだろう。
炭治郎は窯場の子、火の家の生まれだ。炭治郎に波濤は強すぎ、招福を打ち消すかもしれないと、苦笑いされたのを覚えている。
だからといって、鱗滝には水の呼吸以外は教えられず、真菰や錆兎だって同様だ。いずれほかの呼吸の使い手に出会い、自分なりの呼吸を身につけることになるかもしれないとは言われたが、炭治郎にはあまりピンとこない。
波濤よりはゆるやかな流水紋や青海波が、せめての祈りなのだろう。
知らず涙ぐみながら着込んだ服は、炭治郎の体にピタリと馴染んだ。
「行ってきます!」
餞の服を着、覚悟の刀をたずさえて、馬上の人となった炭治郎は鱗滝たちに向かい、大きく手を振った。
「オイッ、ワタシニ乗ッタカラニハ、不甲斐ナイ真似ヲスルンジャナイゾ! マッタク、コンナヒヨッコノ面倒ヲ見ロトハ、鱗滝殿モ困ッタモノデアール。馬鹿ナコトヲシデカシタラ振リ落トスゾ」
「えぇー、そんなこと言うなよ。これから一緒に旅をするんだからさ、仲良くやろうよ、松衛門」
ぶつくさと文句を言う今後の相棒たる愛馬に、炭治郎は思わず苦笑いだ。愛馬と言っても今のところそれは、炭治郎の言い分でしかなく、当の松衛門は炭治郎のことを不肖の弟子ぐらいにしか思っていないようだ。
そんな松衛門と炭治郎の会話を聞く錆兎と甚九郎は、これまた苦笑しきりだ。松衛門だって天馬としてはまだまだ位が低い。人語を解するのに不自由はないが、甚九郎や寛三郎とくらべれば、なんとはなしぎこちない口調だ。錆兎たちにしてみれば呆れるよりほかないと言ったところなのだろう。寛三郎は老齢ゆえ、聞き間違いや言い間違いが多く、ぎこちなさは松衛門と大差はないけれども。
「体に気をつけてねぇ」
「達者でな」
仙境、狭霧山の峻険な山道を人馬はゆく。しばらくは、この山道を登ることはあるまい。
炭治郎の腰には、もう一つの贈り物である朱塗りのひょうたん。真菰のお手製で禰豆子ちゃん専用というそれは、錆兎のひょうたんと違い快適なのかもしれない。キャッキャと禰豆子は出たり入ったりを繰り返したものだ。今も、ひょうたんのなかで健やかな寝息を立てていることだろう。
真菰と鱗滝は長くその場で手を振り続けてくれた。振り返るたび小さくなっていく姿に、炭治郎も何度も手を振り返す。
次に逢える日は、いつになるだろう。長い旅になる。もしかしたら、これが今生の別れとなる可能性もあった。
狭霧山の上に広がる蒼穹を見上げ、炭治郎は、もう見えなくなった二人の姿と、先をゆく錆兎と義勇の頼もしい背中に誓う。
いつかこの青空の下、みんなで笑いあうのだと。
決意は大いなる覚悟とともに、炭治郎の胸を熱く燃やしていた。
「ねぇねぇ、おいしい桃が手に入ったの。一緒に食べない?」
「どこから来ましたかっ!?」
禰豆子のひょうたんが、まさか狭霧山とつながっているなど思いもよらぬ炭治郎が、突然天幕に現れた真菰に叫ぶまで、あと半日ほど。旅は始まったばかりだ。