◇少年、天秤秤に己が命を乗せる一歩を踏み出すの段◇
「とらえたっ!」
気合一閃、炭治郎が振りかぶった木剣は、だが、カァンと高い音を立ててあっけなく弾き飛ばされた。
「甘い! 剣は決して手放すな! 呼吸が乱れているぞ!」
たちまち飛んでくる叱責は、腹への鋭い一撃とともにだった。避ける間などまるでない。
「ぅぐっ!」
「んー、まだ半拍遅れるねぇ。思考と動きは一緒じゃなきゃ駄目だよ。見えた、こう動こう、動くじゃ駄目なの。見えたと同時に動いてる。それが大事。相手が攻撃に転じる一瞬だとかに、隙が生まれることはあるけど、見えたと思ったときにはもう動いてなきゃ、手練な相手ほど隙を消し去るのは早いから間に合わないよ。炭治郎はまだまだ考えてから動いてるね。あ、それから、隙ができるのは自分もだからね? 気をつけないとこうなるよ」
思わず膝をつき腹を抑えてうめいた炭治郎に、真菰があどけない声で言う。炭治郎を打ち据えた木剣をトンッと肩に乗せ、錆兎はしかめっ面だ。
余裕綽々、面憎いほどに。いや、憎いどころかありがたい話だけれども、と、炭治郎は痛みに呻きながらも思う。
錆兎と義勇の来訪から早七日。いつもは三日と経たずに出立する二人は、いまだ鱗滝老師の居にとどまってくれている。言うまでもなく、炭治郎に修業をつけるためだ。主に錆兎が、だけれども。というよりも、錆兎しかというべきか。
義勇がなにもしてくれないことは、もう納得している。ズキズキする腹を押さえつつ、炭治郎は落ちた木剣へとにじりよった。
炭治郎が二人とともに旅に出るためには、鱗滝の試験に合格しなければならない。でなければ、とうてい二人について行くなど無理難題が過ぎる。いくら義勇の感情の破片を探すには炭治郎の鼻だけが頼りではあっても、自分の身ぐらいは守れなければ、二人にとっては足手まといにしかならないのだ。
「す、すみません! 続きお願いしますっ!」
よろめきつつも立ち上がり、拾い上げた木剣を構えた炭治郎に、錆兎がニッと笑った。
「根性だけはついたじゃないか、小朋友。だが、まだまだ男の面構えにはほど遠いな」
言うなり消えた錆兎の姿を、視線だけで探す。錆兎は神出鬼没だ。仙術など使えないはずなのに、その素早さは仙女である真菰に引けを取らない。
右、いや、左――。
「上!」
頭上から襲いかかる木剣を、間一髪、受け止める。錆兎の剣は鋭く重い。沈み込みそうになる体を、グッと足を踏ん張りこらえ、炭治郎は、地を蹴り跳び上がる反動を活かし錆兎の剣を押しやった。錆兎はすでに飛び退り、打ちかかる炭治郎の剣をなんなく跳ね返してくる。まただ。どうしても炭治郎の剣は錆兎に止められる。届かない。
「遅い! そんなことでは鬼の速さにはついていけないぞ! 一瞬で肉塊になることうけあいだ、禰豆子を人に戻すんじゃないのかっ?」
「ぐっ、戻して、みせるっ! やぁぁっ!!」
気合は十分。けれども、気合いと根性だけでは、果たせぬものがある。弾かれた木剣を手放さずに済んだだけでも上々のありさまだ。猛攻に転じた錆兎の剣を、受け止めるだけで炭治郎は精一杯である。
なにか、反撃の手は。目まぐるしく手立てが浮かんで消えるが、決め手にかける。それ以上に、反撃に移るきっかけが見つからない。こめかみを汗が伝った。打ち合いだしてまだ幾ばくもないのに、剣戟の重い連打に早くも手がしびれてきていた。
カンカンと激しくひびく打撃音が、穏やかな仙境にこだまする。この七日間、毎日錆兎は手合わせしてくれているが、炭治郎はまだ錆兎に一撃すら与えられずにいた。
「呼吸を乱すな! 苦しくとも耐えろ! 男ならば!」
「はいっ!」
返事ばかりは勇ましく、けれども、どうにも反撃の狼煙を上げられない。防戦一方の炭治郎の耳に、パンッと鋭い音が届いた。
ピタリと錆兎の剣が止まる。
「なんだ? 義勇」
乱れかけていた呼吸を整えながら、錆兎の声に炭治郎が振り返れば、義勇が静かに歩み寄ってきていた。先ほどの音は、義勇が手を打ったものらしい。
滞在中、義勇が手ほどきしてくれたことは、一度もない。無言のまま錆兎との手合わせを見ているか、鱗滝の仙洞で書を読んでいるかだ。たまに禰豆子がじゃれついて、無表情のまま相手をしてやっているらしいけれども、残念ながら修業に明け暮れ疲労困憊で戻る炭治郎は、その癒やしの光景を目にすることはほぼない。
試験が近いということで、真菰も毎日修業に付き合い、助言してくれているというのに、義勇だけは炭治郎の合格になどなんの興味もないようだった。
感情を持たない義勇に、励ましや労りを求めてもしかたのないことだ。理解はしている。だが、切なさはいかんともし難かった。
だというのに、今日はどうしたことだろう。錆兎や真菰も、めずらしいこともあるものだと言いたげな目で義勇の出方を窺っていた。
「あの……」
「目で足りないのなら、鼻を使え」
パチクリとまばたく炭治郎に、用は済んだとばかりに背を向ける義勇からは、なんの感情の匂いもしない。そのまま元いた場所に戻ると、義勇はまた無言でじっと炭治郎を見据えていた。
「鼻……匂いをたどれってことか?」
つぶやき、炭治郎は、決意を込めて強くうなずいた。
「錆兎、もう一度お願いします!」
フッと笑った錆兎が、トンッと後ろに跳んで間合いをとった。
「行くぞっ!」
「来いっ! 今度こそ一撃入れる!」
視覚だけでは、錆兎の動きにはついていけない。五感を研ぎ澄ませ。俺は鼻が利く。錆兎の動きを鼻でも見るんだ。
シュンッと消えた錆兎の匂いを見失わぬよう、炭治郎は極限まで神経を張り詰める。呼吸は鼻から吸い、口から吐く。丹田が熱い。手足をめぐる血の流れ、気の流れを感じた。
錆兎の残像を目で追うのではなく、すべてに意識を向けなければ、錆兎に追いつくことすら不可能だ。木立の合間を飛ぶ錆兎に合わせ、葉が落ちる。風が生まれる。鳥のさえずりのなか、かすかにタンッと音がした。錆兎が木の幹を蹴りつけた音。驚いた鳥が飛び立った。その羽ばたきも、見逃すな。聞きもらすな。身の回りの些細な情報すべてが、戦いにおいて味方になり、敵にもなる。
そして、匂い。風が運ぶ木々や花々の匂いに混じり、闘気をまとった錆兎の匂いが炭治郎の鼻に届いた。
来る。
鋭い木剣の軌跡が生む空気の流れを、わずかに頬に感じた。カァンと、打撃音を高く響かせた炭治郎の剣は、そのまま返す手首で上へと振り抜かれた。後方への宙返りで避けられはしたが、剣先は錆兎の顎先を髪一筋ほどの差で掠めた。
トンと地についた錆兎の足が、一瞬の間すら置かず地を蹴り、剣が振りかぶられる。
見えた。
炭治郎は迷わず踏み込んだ。
匂いが教えてくれる。義勇の言葉どおりに。目ではわからない、あるかなしかの隙。それを匂いは示していた。まるで細い細い蜘蛛の糸のような、隙の糸が、見える。その瞬間までは、なにもかもがゆっくりとして見えた。
そして。
「……とうとう、一撃入れられたな。男の顔になった。だが」
険しかった錆兎の顔に、慈しむようなやんわりとした笑みが浮かんだ。首筋寸前でピタリと止められた木剣を、軽く押しやり、錆兎は浮かんだ笑みはそのままに、炭治郎の頭にコツンと拳を落としてきた。
「寸止めなんぞ百年早い。おまえの一撃ぐらい、蚊が止まったぐらいのもんだ」
「だって、錆兎さんを打つなんてできませんよ。それに、蚊よりはマシだと思うんだけどなぁ」
言い草はなんだが、お褒めの言葉には違いない。ふつふつと炭治郎の胸に喜悦がこみ上げてくる。
まだ試験に合格したわけではない。そもそも、試験の内容すらまだ教えられていないのだ。けれども、この二年近くの修業の成果は着実に身についているという実感が、やっとわいてきた。
「義勇さんっ!」
満面に笑みをたたえ振り返った先で、義勇はいつもの人形のような無機質な顔で佇んでいる。疲れもなんのその。弾む足で駆け寄った炭治郎に、義勇は声をかけてくれるでもない。それでも炭治郎の喜びは消えやしなかった。
「義勇さんの助言で、やっと錆兎に一撃入れられました! ありがとうございます!」
コクリとうなずいただけで、義勇は無言のままだ。このうなずきも、おそらくは反射でしかないのだろう。助言だってきっと、なにかを思ってのことではないに違いない。困っているものがいれば手を差し伸べる。そんな義勇本来の気質が、行動に出ただけのことだろう。炭治郎がどれだけ笑いかけ礼を述べても、義勇の顔にはなんの感情も浮かんではいない。
けれども、ごく淡い匂いがする。炭治郎を惹きつけてやまぬ、優しさの破片が醸し出す義勇の匂いだ。
自分と義勇を繋ぐ宿縁を感じる。義勇の静かな瑠璃の瞳を見ているだけで、炭治郎の胸は喜びに弾みもすれば、切なさに引き絞られもする。
宿縁。その摩訶不思議な縁。なぜ自分と義勇にそんなものが課せられたのかなど、炭治郎には預かり知らぬことだ。義勇が背負った悲運や、自分を襲った絶望を、喜ぶわけにはいかないが、出逢えた喜悦は計り知れない。
「どうにか元宵節に間に合いそうだね。よく頑張ったね、炭治郎」
よしよしと幼子を褒めるように頭を撫でてくれる真菰の幼い手に、炭治郎は照れ笑いを浮かべた。
「うん! ありがとう、真菰。いっぱい助言してくれたのに、なかなか活かせなくてごめん」
「いいよぉ。だってちゃんとできるようになったじゃない。炭治郎はいい子だねぇ」
ウフフと笑う真菰につられ、炭治郎の笑みも深まる。コホンと空咳が聞こえた。
「どうにか形にはなったが、まだ試験に合格したわけじゃない。努力はどれだけしたって足りないんだ。気を抜くなよ、炭治郎」
いかにも厳しい大哥然として言う錆兎に、炭治郎も表情を引きしめうなずいた。だが、言葉の裏にほんのわずかな悋気がある気がしてしまえば、なんだか少し可笑しくもなる。
「……おい、男がニヤつくんじゃない」
「ごめんなさいっ。あっ、そろそろ夕飯の材料を調達してこなきゃ! 今日は十全大補湯(当帰や人参、肉桂など十種の生薬を用いて鶏肉や豚肉を長時間に込んだスープ)を作りますからねっ。期待しててください!」
言うなりポンと地を蹴った炭治郎の背から、アハハと明るい真菰の笑い声が聞こえてくる。
「元気いっぱいだぁ」
「本当に、仔猿みたいだな。ま、体力があるのはいいことだ」
うぅん、勝手なことを言われてるなぁとチラリ思いつつ、炭治郎は梢を渡り跳んでいった。錆兎に言われるまでもなく、浮かれすぎるのは良くないだろう。けれどもうれしくてたまらないのだ。これで試験が受けられる。合格すれば、晴れて義勇たちと一緒に旅に出られる。
義勇の感情を取り戻し、禰豆子を人に戻すのだ。
固い決意に怯えはない。旅はけだし艱難辛苦を極めるだろう。不安がないとは言いがたい。錆兎や義勇にくらべれば、炭治郎の剣術や体術など、まさに猿並みでしかないのだ。
けれども炭治郎の胸は、先の不安よりも遥かに大きな喜びに満ちていた。義勇とずっと一緒にいられる。喜ぶのは不謹慎だろうか。だが幸福感は抑えがたい。
宿縁の相手。そばにいられると思うだけで、こんなにも胸弾み幸せに包まれるのは、今は炭治郎だけだ。義勇はきっと、なにも思うことはない。
「義勇さんの感情を、絶対に取り戻すんだ」
そのとき、義勇はどんな顔で炭治郎を見てくれるだろう。飛び跳ねまわる炭治郎の胸は、甘くうずいていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
仙になる前、鱗滝老師は武人だったという。国軍で大将軍を担っていたと聞き、炭治郎は仰天した。なんと剣聖とも称されていたらしい。
思うところあって剣を置き、世を捨て地仙となった鱗滝は、ほかの仙たちからするとかなりの変わり者なのだそうだ。以前に真菰が笑って教えてくれた。
仙人というのは、市井の人々とは関わらぬものだ。けれども鱗滝は、たびたび下界へ降り立ち、子らに武術やら学問やらを教えていたと、錆兎や真菰は声をそろえて言う。義勇と錆兎が鱗滝と知り合ったのはそのころだ。まだ十になるかならぬかという年頃だったらしい。ふたりの技量はほかの子らとは一線を画していたようで、鱗滝はずいぶんと熱心に教えてくれたと錆兎は笑った。
「あぁ、それで錆兎さんや義勇さんはあんなに強いんですね。鱗滝さんがそんなにすごい人だなんて知りませんでした」
明日はいよいよ試験に挑むという夜のことである。真菰は帰り、禰豆子はすやすやと眠っている。夜だというのに、どこかで倉庚が春来たらんと時の音を立てていた。下界では新年を迎え、炭治郎が暮らしていた雲取山のあたりは雪に埋もれているだろう。窓の外では、こればかりは下界と変わらぬ、真円にはわずかばかり足りぬ月が輝いていた。
狭霧山に季節はない。冬の夜であっても寒さは感じることがなかった。春を告げる鳥だって鳴く。据えられた炉炭は暖を取るよりもむしろ、茶などを淹れるのに使っている。パチパチと炉のなかで爆ぜる木炭に、なんとはなし炭治郎は故郷を思い起こした。
緊張し落ち着かぬ炭治郎に苦笑し、茶でも飲んで少し話をするかと錆兎が声をかけてくれたのは、半刻ほど前のこと。
以前の暮らしではとうてい望めぬ高価な餅茶を淹れることにも、もう慣れた。仙らしく鱗滝の暮らしは質素だが、茶だけはどうにも清貧にとはいかぬらしい。それだけが道楽とばかりに、茶器も炭治郎が焼いていたものとはくらべられぬほどに華奢で繊細な作りだった。
温かな湯気とともに薄荷の匂いが鼻をくすぐる。静かな夜だ。
「まぁ、義勇は、剣術を習うのはあまり乗り気じゃなかったけどな」
錆兎は肩をすくめてそんなことを言い、苦笑した。
最初のうちは炭治郎の緊張をほぐすためにか、旅の話などしてくれていた錆兎だが、いつしか会話は昔話となっていた。
炭治郎は盛大に驚いたのだが、義勇の生家である冨岡家というのは、国家の方針を占う最高位の星見の家であるらしい。家を継ぎ、星見を継ぐのは男女の区別なく長子だ。本来であれば義勇の姉がその役目につくはずだったと、錆兎は少し寂しそうに言った。
そんな錆兎はといえば、これまた驚いたことに、冨岡家の家生だという。
義勇の母は、産後の肥立ちが悪く、義勇が生まれてひと月ほどで亡くなった。そこで、白羽の矢が立ったのが、ちょうど錆兎を生んだばかりの家生である錆兎の母だ。錆兎と義勇は、親友であるだけでなく、乳兄弟でもあるわけだ。
もとより清廉、高潔を旨とする星見の家である。家長である義勇の父や星見である祖母は、家生につらく当たることは一度もなかったと錆兎は言う。それでも錆兎はただの下男だ。将来など夢見ることさえありえなかった。義勇と一緒に高名な鱗滝のもとへ通い、教育を受けるなどとんでもない話だ。いかにやさしい主人であろうと、ただの使用人にそんなことを許す者などいない。
なのになぜ錆兎が鱗滝のもとで指南を受けられたかといえば、それは義勇のおかげだと、錆兎は懐かしげに笑った。
なぜ錆兎と一緒ではいけないのか。錆兎にも自分と同じ教育が与えられぬのであれば、自分も行かない。父親や先代星見であった祖母に、そう義勇が物申したのがきっかけだと、錆兎は笑う。
「本当なら、家生の両親のもとに生まれた時点で、俺の将来も決まっていた。だが、義勇は俺に未来をくれたんだ。あと、蔦子さまな。とてもやさしくて美しい方だったよ。俺のことも義勇同様に弟として接してくれるほどにな。だから俺は義勇とともに、未来を夢見ることができた。俺は軍に入り出世して将軍に、義勇は国子監(最高学府)に進んで国司を目指す。国の未来を二人で背負うんだって、夜通し話したこともあったな」
語る錆兎の顔には笑みがあったが、その目はどこか切なく遠くを見ていた。錆兎の声を聞きながら、炭治郎が思わず視線を向けた先で義勇は、なんの感慨も浮かんでいない顔でただ静かに座っている。愛していた姉の名にすら、義勇が反応を示すことはない。秀麗な、けれども人間味を削ぎ落としたような顔に、炭治郎の胸がまたツキリと痛んだ。
「義勇の父親と祖母がそろって流行病で亡くなったのは、俺たちが十二のときだ。その時点で蔦子さまが星見を継ぐはずだったが、蔦子さまも病に倒れてな。寝たきり状態が長く続いたんで、星見不在にならざるを得なかった」
「義勇さんには、ほかにご家族はいないんですか? 星見ってかなり重要なお役目なんでしょう? 継ぐ人はいなかったんですか?」
「いないな。これ幸いと家を乗っ取ろうとした親族ならいるが」
「はぁ!? なんなんですか、それ!」
あまりにも非道な話ではないか。思わずいきり立った炭治郎に、錆兎は軽く肩をすくめ、どこか冷たい笑みを見せた。
「直系でなければ、力は受け継がれないんだ。我こそが次期星見と勝手に名乗りを上げたところで、力のない口先だけの輩を庇護するほど国も馬鹿じゃない」
「あぁ……それじゃ」
「すぐに却下されて、すごすご退散したさ。ただ……蔦子さまの体調が戻らず、星見を継げないとなったとき、誰が跡を継ぐのかという問題は残る。国と蔦子さまが望んだのは、義勇だ」
「えっ!?」
とっさに炭治郎は義勇を仰ぎ見たが、自分のことを話されていても、義勇はやはりなんの反応も見せない。
錆兎の口から、深い溜め息が落ちた。
「星見の力だけで言うなら、義勇のほうが蔦子さまよりも優れていると思われていたんだ。冨岡の星見は、水を用いる。水盆に映る行く末を見るんだ。力が強いほど、見えた未来は現実に起こる。実際、義勇は幼いころから急な雨を言い当てたり、水が湧く場所がわかったりした。この子は水に愛されていると、先代さまはおっしゃっていたな。だが、冨岡の跡継ぎは長子と決まっている。それまでは、長子の力が一番優れていたから、例外が生まれるとは思っていなかったんだろう。誤解するなよ? 蔦子さまだって歴代の星見に引けを取らなかった。義勇の力が格別だったんだ。歴代最高の星見になり得る力だと、先代さまもおっしゃってた。跡継ぎを蔦子さまにと決められたときにも、かなり悩んでおられたぐらいだ」
錆兎の声が、ふと剣を帯びた。灰色がかった紫色の瞳が、ふいと窓の外に向けられる。
「義勇は星見となることなんて、一度も望んじゃいなかったさ。蔦子さまよりも水に愛されていることを悩んでもいた。だからこそ、先代さまもけっきょくは蔦子さまを跡継ぎにと定められたんだ。俺も、義勇に力がなければと、いまだに思うことがある。……力があったばかりに、あいつに目をつけられたんだからな」
ギリッと、歯を食いしばる音がした。錆兎の横顔は険しい。月を見上げる瞳に、怒りの焔が見えるようだ。
「あいつ……?」
「鬼の始祖……鬼舞辻無惨」
つぶやきに返された声は、絞り出すようだった。息を呑み、炭治郎の背が我知らずブルリと震える。その禁忌の名は、国の命運をも握るものだと、もう炭治郎は知っている。禰豆子を鬼に変えた元凶であり、義勇の感情を奪った、怨敵。無惨の名に、炭治郎の顔も勢い厳しくなった。
「……あぁ、かなり遅くなったな。寝不足で試験に失敗したんじゃなんにもならないぞ。そろそろ床に入れ。義勇、俺らも寝よう」
コクリとうなずき立ち上がる義勇を、炭治郎の視線が追う。餅茶の清涼な香りに紛れ、義勇の淡すぎる匂いは感じられない。
じっと見つめていても、錆兎と連れ立ち房を出ていく義勇は、振り返ってくれることはなかった。小さく溜息をつき、炭治郎も、炉炭の火を落とすと茶器を手に立ち上がった。
錆兎の言うとおりだ。万全を期して挑まねば、なにも始めることはできない。禰豆子を人へと戻すことも、義勇の感情を取り戻すことも、すべては明日の試験の結果次第なのだ。
「……きっと、すごくやさしい子だったんだろうな。お姉さん思いで、正義感があって……いっぱい、笑ってたのかな」
思い浮かべる義勇の顔は、玲瓏でありながらもどこか冷たい。みじんも動かぬ表情を見慣れた炭治郎には、幼い義勇の姿はうまく想像できなかった。
「絶対に、合格しなきゃ。義勇さんに、笑ってもらえるように。義勇さんが笑えるように」
祈るように決意を口にする炭治郎を、仄白い月が照らしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「では、始めるとするか」
不思議な面をつけた老爺、鱗滝老師の声に、炭治郎はゴクリと喉を鳴らした。
「がんばってねっ、炭治郎」
「気を抜くなよ」
かけられた声に、炭治郎が振り向けば、錆兎に真菰、そして義勇が炭治郎を見守っていた。義勇はただたんに立っているだけだろうが、それでも、炭治郎にとっては心強い。
「うん! 絶対に合格してみせるから待ってて」
笑ってみせた炭治郎たち一行の目の前には、大きな洞窟がポッカリと口を開けている。朝になり、さて行くかと鱗滝に案内されてきた炭治郎は、思わずあんぐりと洞窟に負けず劣らず口を開け、こんな洞窟ありましたっけ!? と叫んだものだが、なにしろここは狭霧山。周囲に名の聞こえた仙境だ。不思議な事象には事欠かない。
ここが旅立ちのための試験会場となるのだろう。洞窟はたいそう深いように見えた。外からではなかの様子はまるでわからない。
「やることは単純明快。おまえを害そうとする敵をすべて倒せ。それだけだ」
ふたたび炭治郎の喉が鳴る。敵をすべて。一騎打ちとはかぎらないというわけだ。単身乗り込む炭治郎が、四面楚歌となる可能性は高い。おまけに洞窟を初めて訪れる炭治郎に、地の利はないに等しい。判断力が生死を分けることになるだろう。
生死。ふと浮かんだその文言に、炭治郎はさらに顔つきを引き締めた。修業の地、狭霧山に張り巡らされた罠は、それこそ生死を問わぬものがわんさとあった。飛んでくる刃、落とし穴に仕込まれた竹槍、ほんの少しでも気を抜けば大怪我をするだけでは済まされないものばかりだ。
敵は、確実に炭治郎の命を狙うだろう。ただの試験だなどという甘い考えが、通用するわけもない。試験を突破したあとに待ち構えているものは、物見遊山の楽しい旅ではないのだ。ここを突破できぬようでは、生き残れない。禰豆子を人に戻すことも、義勇の心を取り戻すことも、夢物語で終わり、炭治郎は若い命を散らすことになる。
「持っていけ」
鱗滝に手渡されたのは、一振りの剣。今までの木剣とは重みも違う。鞘から抜けば、真剣の輝きが目を焼いた。
命がけ。そんな言葉がまた浮かぶ。
そしてそれは、炭治郎にだけいえる言葉ではない。真剣を振るうその意味は、他者の命を絶つということでもある。
一瞬だけ湧き上がった怯えを、炭治郎は、静かに大きく呼吸し飲み込んだ。
鬼を、倒す。それは、鬼を殺すことと同義だ。
炭治郎は自分や家族の糧とする以外に、ほかの命を奪ったことなどない。だが、これからは違う。殺さなければ殺される。そういう旅に出るのだという実感が、炭治郎のまだ幼さを残す四肢を震わせた。
鬼だからなにも悩まず殺していい。そんな境地にはまだなれない。炭治郎が目にした鬼は、家族の仇と妹の禰豆子だけだ。鬼はかつては人であった。人を殺し、食う、異形の怪物であっても、望んでそんな境遇に落ちたわけではないのだ。
それでも。
「行け、炭治郎」
「はい!」
真剣を腰に携え足を踏み出した炭治郎の目の前に、暗闇が広がっている。試験が始まる。自分の命と他者の命をかけた、命がけの試験が。
深い暗闇を見据える炭治郎の瞳には、静かに燃える決意だけがある。迷いなく足を踏み出した炭治郎の体は、すぐに闇へと飲まれていった。