◇少年、宿縁の強きを願うの段◇
炭治郎が師事している鱗滝老師の仙洞は、狭霧山の頂上付近にある。地上からはるかに遠い仙洞付近の空気は薄く、ときおり雲がかかり、伸ばした手の先が見えないほど白く霞みがかることもあるぐらいだ。
初めて来たときに、ひょうたんに入れられたのも道理である。炭治郎が自分の足でこの山に登るなど、あのころには無謀の一言だっただろう。しかも修業の地でもあるここ狭霧山には、いたるところに罠が張り巡らされているのだ。うかつに足を踏み入れれば、たちまち刃や丸太が襲いかかり、竹槍が仕込まれた落とし穴にかかることもある。修業どころか殺しにかかってるんじゃないのかと疑うほどだ。
狭霧山に来てから、炭治郎は、罠を潜り抜け地上までおりては頂上に戻るのを、毎日欠かさず繰り返している。初めのころは一日がかりでも戻ることができず、体はいたるところ傷だらけ、青息吐息のありさまになったものだ。
だが炭治郎も今では、頂上から地上まで、半日とかからずに行き来ができる。もはや狭霧山は炭治郎にとって庭と言っていい。
修業に慣れてきたころから、食材の調達や炊事も炭治郎の仕事となった。修業をこなしつつ家事にも手抜きはできない。というよりも、家事も修業の一環なのだ。
日ごろも張り切って食材集めに精を出す炭治郎だが、今日は特別だ。なにせ義勇たちが来ている。精一杯おもてなしせねばと、山中を駆けまわり、霊芝や朝鮮人参、胡桃に棗、ゆりの根と、せっせと集めてまわる炭治郎の顔は、ずっと笑んでいた。自分が作った食事を義勇が食べるさまを思い浮かべるだけで、炭治郎は笑み崩れそうになる。
四季を感じさせぬ仙境は、食材探しも旬を考えずにすむ。いつでも四季折々の野草や花々が手に入るのだ。それでも苦労がないわけではない。いったいどういう仕組みになっているものか、胡桃の木やら霊芝の生えている場所を見つけても、翌日には移動している。楽して手に入るものなど、この山には一つもないのだ。
それでも、義勇を待たせてはならぬと張り切ったおかげで、ほどなく目当ての食材は集まった。意気揚々と霊芝や朝鮮人参、ついでに川でとった鮭なども両手いっぱいに抱えて、炭治郎は足取り軽く頂上に向かった。
仙洞に戻ると、義勇と錆兎は鱗滝と話し合っている最中だった。三人とも顔つきに険しさはない。義勇は相変わらず無表情ではあるけれど。
「戻りましたっ」
「おお、帰ったか。なんだ、ずいぶん採ってきたな」
炭治郎の声かけに、まっさきに答えてくれたのは鱗滝老師だ。不思議な面を被ったこの老人の素顔を、炭治郎は見たことがない。だが、初めて逢ったときには盛大に面食らった面にも、もうすっかり慣れた。
「義勇さんたちのぶんも作らないといけませんから。真菰も来てますしね……って、あれ? 真菰と禰豆子は?」
「遊びに行ってるらしいぞ。俺らが来たときにはもういなかった」
錆兎の声がどこかしらつまらなげに聞こえるのは、気のせいとも言えないだろう。少しだけ炭治郎は可笑しくなる。
いつでも飄々としている錆兎だが、真菰が関わるとやけにつっけんどんになったり、妙にすまし込んだりするのだ。兄貴然として男らしい錆兎も、恋しい乙女の前では少々勝手が違うらしい。年上の尊敬する兄弟子に対して言う言葉ではないが、炭治郎の目には、なんとも初々しく見えたりもする。
「そっか。禰豆子のこと可愛がってくれて、本当にありがたいや」
「仙女のなかでも真菰はとくにやさしいからな」
そっけない声でも、なんとはなし自慢げなのが伝わって、思わず炭治郎はクスクスと笑った。
「……なんだよ」
「いやぁ、それ、ちゃんと真菰に言ってあげればいいのになぁって」
「……生意気な口を利くようになったじゃないか、小朋友」
「そりゃすみませんね、兄貴分の影響かもしれません。帅哥」
やり取りに呵呵と鱗滝が笑った。
「錆兎の負けだな。炭治郎もなかなか洒落た言い返しができるようになったもんだ」
憮然とする錆兎には悪いが、炭治郎は思わず照れ笑いし頬をかいた。
あの雪の日には、こんな気のおけない会話を錆兎とできるようになるとは、思いもしなかった。錆兎はあの日、そうとう警戒していたのだろう。事情をしればそれもやむなしと今は思える。慣れてみれば、頼りがいがあり侠気にあふれるいい大哥だ。
義勇とも、仲睦まじく会話できるようになれたらいいのだけれど。
チラリと視線を向けるが、義勇はいつもと同じく茫漠とした目をしているばかりだ。そこにはいまだ感情の色はみじんもない。炭治郎のことになど、いっさい関心はないと言わんばかりの義勇の態度には、今もって慣れなかった。いや、無表情であることには慣れたのだが、どうしてもチクリと胸が痛むのだ。切ない。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
それは、狭霧山についてすぐに聞かされた、義勇との縁がもたらす感情なのか……炭治郎にも、よくわからない。
「食事の支度してきます」
悲しむ顔を見られたくなくて、炭治郎は逃げるように厨房へと向かった。炭治郎がどんな顔をしようと、義勇にはなにも感ずるところはない。それがわかっているから、炭治郎は逃げるより手立てがないのだ。義勇の顔を見ていれば、より悲しくなるだけだから。
「錆兎や鱗滝さんに心配されちゃうかな」
二人はなにも言わないとわかっているが、眼差しに労りが交じることには気づいている。それもまた、しょうがない。禰豆子を人に戻すだけでも炭治郎一人の手に余る大仕事だ。その道のりは途方もない。それに加えて、炭治郎には重大な任務が与えられた。
義勇の感情の破片の在り処を探る。
これは、炭治郎にしかできないのだと、鱗滝は言った。義勇と宿縁で結ばれた、炭治郎だけがなし得るだろうと。
だからこそ二人は、義勇の態度のつれなさに炭治郎が悲しむのを、つい案じてしまうのだろう。禰豆子のことはともあれ、義勇の感情を取り戻そうと炭治郎がいくらがんばっても、肝心の義勇から労り一つ与えられぬのでは、炭治郎の心が擦り切れてしまわないかと。
そんなこと、ないのに。そう言い切れないのは、どうしても切なく思えてしまう自分を知っているからだ。それでも諦める気など毛頭ない。
「がんばらなきゃ……」
つぶやいて、炭治郎は、うん、と強く一つうなずいた。
悲しんでばかりなどいられない。一刻も早く錆兎たちの足手まといにならぬ力を身に着けて、一緒に旅立つのだ。義勇の感情を取り戻す旅に。その道の果てに、禰豆子を救う術もあるだろう。
ともかく今は食事の支度だと、腕まくりして調理に精を出す炭治郎の背は、二年前よりも広く逞しくなっていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
異民族侵略の噂の正体を、炭治郎が知ったのは、狭霧山についたその日だ。
「異民族とはいうものの、実際には、人じゃない。鬼さ。だが鬼の国や部族があるわけじゃない。鬼は出産によって増えることもない。鬼とはたった一人の始祖によって増やされている。始祖の手下となって人を襲い、食う。義勇の心も……そいつに奪われた」
語る錆兎の顔も声も、冷静を装おうとして失敗していた。深い憎しみが顔にも声にも表れている。
ポンッと鱗滝に肩を叩かれ、わずかに眉を下げ、深い深い息を吐く。錆兎のそんな様子は、初対面時からのいっそ横柄とも思える態度からは遠くかけ離れていて、ずいぶんと頼りなかった。
「鬼の始祖……そいつが元凶なんですね」
重々しくうなずいた面の翁――鱗滝老師が、ひらりと空で手を振った。次の瞬間にはその手には一本の巻物が握られている。もはや驚くことでもない。不思議なことはお腹いっぱいというのが、炭治郎の本音ではあるけれど。
「さて……炭治郎、おまえは卦を知っておるか」
「へ? 卦ですか? えっと、占いですよね。村にも興行師たちと一緒に八卦見がくることがありましたから、知ってます」
ふたたびうなずいた鱗滝が、シュルリと巻物を解く。
「人の命数とは天によって定められておる。またそれは、人と人との縁にもおよぶ。人は誰もみな、その定めからは逃れられぬ。だが……はるか昔、ただ一人、天の理から外れた者がいた」
それが、鬼の始祖――鬼舞辻無惨。
「ここに一つの卦が残されている。おそらくはおまえも知っておるだろうが」
『その者、陰を凝結したが如き闇を身に宿す、陽を憎む魔道の徒なり。不老不死の術、身につけし其、とき来たれば、国を焦土とせんと動き出さん。地は異形の者ども跋扈し、人、苦鳴に沈む。されど天は其を阻止せんと、大王のもとに九柱遣わせたり。大王の命に従い九柱打ち揃いしとき、日輪降りて十聖となす。十聖、陰を晴らし魔を打ち砕く、破魔の剣とならん。陽の気満ち満ちて、日輪、地を照らし、陰の気ことごとく滅するものなり』
滔々とした声で巻物を読み上げた鱗滝に、炭治郎は、少しばかり戸惑いながらもうなずき返した。
「はい。この国に住んでたら、小さい子だって知ってますよ」
それははるか昔、興国から伝わる伝承だ。
群雄割拠した戦国の世に、一人の英傑があらわれた。それが諸国を併呑し民を導いた現王朝の祖、産屋敷家の始祖である。
泰平の世が訪れたと人民みな喜びにわいたが、王朝の始まりからまもなくして、その不穏な卦はもたらされたと民間にも伝わっている。
だがそれは、あくまでも言い伝えだ。恐ろしい異形の怪物が襲ってきても、天が偉大なる大王さまのもとにお味方を送り届けてくださる。だから安心していいんだよと、大王の威光を子に伝えるために口伝される、おとぎ話ではないのか。
「この卦に残された陰の者、それが鬼の始祖、鬼舞辻無惨だ。高祖たる産屋敷初代大王の兄であったと、秘匿された王家の書には書き記されておる」
「……初代大王の、兄? ま、待ってください! 二百年は前ですよ!? 不老不死って……仙人なんですかっ?」
「まさか。あんな輩に仙骨があるはずない。道士と呼ぶのもおこがましい。だから、天の理を外れた輩だと言ってるんだ」
錆兎の声は吐き捨てるようだった。
「鬼は、鬼の血に毒され増える。鬼舞辻の血によって鬼になるんだ。襲われた人の大半は、そのまま食われる。だが、ときに生き残るものがいる。鬼たちの血に含まれる鬼舞辻無惨の血の因子、それに対応できたものが鬼になる。おまえの妹のように……」
息を飲み、炭治郎はギュッと拳を握りしめた。
正直言えば、なにもかもが奇想天外すぎて、頭が理解を拒んでもいる。だが、錆兎の憎しみは本物だ。禰豆子が鬼と化したこともまた、どれだけ悲しくとも現実である。
信じられないと切り捨てることは簡単だ。だがそれではなにも救えるものはない。
小さく深呼吸し、炭治郎は強い眼差しをキッと鱗滝と錆兎に向けた。
「教えてください……全部」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ご飯の支度できましたよぉ」
卓の上には、湯気を立てる粥や翡翠餃子、人参入りの湯円、ところ狭しと並べられた料理の数々。豪勢なごちそうはさすがに手に余るが、習った薬膳は家庭料理とそう変わらない。それならば母の手伝いもマメにしていた炭治郎にはお手の物だ。
スンッと鼻をうごめかせ、炭治郎はニンマリと笑った。
「うん、いい匂いだ」
満足げに独り言ちれば、返答はすぐ後ろから。
「本当、いい匂いだねぇ。禰豆子ちゃん、食べられないの残念だね」
ひゃあっ! と飛び上がり、慌てて振り向けばニコニコと笑っていたのは、予想通りの人物だ。
「真菰刘姐! いきなり現れるのやめてくださいよって、いつも言ってるのに」
「もぉ、炭治郎こそ、よそよそしい呼び方しないでっていつも言ってるでしょ?」
ちょんと鼻先を突かれ、思わず炭治郎の頬が紅潮する。
「ごめんなさい」
「わかればいいの」
クフンと笑う真菰の顔は、実に愛らしい。凄く年上の人だからとは口に出さなくて正解だ。頭をかく炭治郎の袴褶がクンッと引かれ、炭治郎は見上げてくる幼い顔に相好を崩した。
「禰豆子、真菰にいっぱい遊んでもらったか?」
頭をなでてやれば、うれしそうに目を細めうなずく禰豆子の姿は、とても幼い。見た目は幼女でしかなかった。鱗滝老師の手によって暗示と封印を施された禰豆子は、人を食わぬ代わりに眠ることで体力を補うようで、よく眠る。幼い姿も、体力の消耗を防ぐため、本能的にとっているものらしい。
「蹴鞠したんだよねぇ。禰豆子ちゃん、とっても上手だったよ」
口枷のためにまったく話せぬ禰豆子に代わり答えた真菰も、姿形ならば幼いと言えよう。狭霧山を訪れたころの炭治郎と、その姿はさして年の差を感じさせない。十三、四の少女の容姿である。錆兎と義勇が出逢ったころから、真菰の姿はなにひとつ変わっていないらしい。
錆兎にとっては同年代の初恋の少女が、いつのまにかずっと年下になったようなものだ。それでも恋心は変わらずに真菰へと向けられているというのだから、一途な人だなと微笑ましさは増すばかりである。
真菰は、旱の折に水神へと捧げられた、生贄だったそうだ。五穀五葷三厭を絶ち、一心に天に祈ること七日七晩。命脈尽きるそのときに、仙へと召しあげられたと真菰は言う。以来、真菰の姿は齢を重ねることがない。
幼い少女が村のため人のためと、命を捨てて身を捧げたのだ。語る真菰はあっけらかんとしていたが、禰豆子や花子の姿と重ね見て、炭治郎の目には思わず涙が光ったものである。
真菰のように徳により天仙の託宣をうけ入仙した者を、飛仙と呼ぶ。
一方、鱗滝は地仙だ。修業と徳を積み、己の力で仙人になった。それもまた、どれだけの苦労があったのか。自然、頭が下がる。
鱗滝と真菰の実年齢はさほど変わらぬようだが、思考は姿に寄り添うのか、真菰はまるで孫娘のように鱗滝を慕っていた。
いずれにせよ、ただの焼き物職人の子であった炭治郎にとっては、二人はまさしく雲上人である。だが鱗滝も真菰も、たいそう気安く炭治郎たちに接してくれた。もちろん、修業の厳しさは別として、だ。
とくに真菰は、炭治郎と禰豆子をまるで弟妹のように慈しんでくれている。禰豆子が鬼であることを、承知の上でだ。ありがたいことだと、炭治郎の感謝は尽きない。
「真菰、帰ってたのか」
食堂としている房の入り口から聞こえた声は、どこかしらつっけんどんに聞こえる。錆兎だ。
「錆兎、義勇も久しぶりだねぇ」
「まったくだ。しょっちゅう入り浸ってるくせに、俺らが来るときにはいないんだからな」
「そんなことないよぉ。たまたま重なっちゃっただけじゃない? それより……錆兎、ずいぶん背が伸びたねぇ。もうつま先立ちしても届かないや」
偉い偉いと幼い子を褒めるかの如くに、真菰が腕を伸ばして錆兎の頭を撫でようとした。
「やめろ。子供じゃないんだぞ。男にそう簡単に触れようとするなっ」
「錆兎なのに?」
あぁ、それを言っちゃあ……。炭治郎は思わず天を仰いだ。他人事ながらこれは男として立つ瀬がない。とはいえ、炭治郎にはまだまだ恋など想像するしかないのだけれど。
「……もういいっ。飯だろ。さっさと食うぞ」
「もぅっ、錆兎の怒りん坊。義勇。義勇も同じくらい大きくなったね。初めて逢ったときは私と同じくらいの背だったのに、男の子の成長は早いねぇ」
ニコニコと近づいていく真菰に、義勇はコックリとうなずいている。錆兎のように気を悪くするでもないのは、元来おおらかだからなのか、感情がないゆえか。おそらくは後者だと思うと、また炭治郎の胸がシクリと痛んだ。
真菰の手が伸ばされるのにあわせて義勇の頭が下げられ、癖の強い黒髪をたおやかな手が撫でるのを見てしまえば、ますます痛みは強くなる。真菰は炭治郎にも幼い子供に接するような態度を取ることが多い。だからこんなのは、とくに意味などないとわかっているのに、なぜだか胸が痛い。
ふと、炭治郎の袴褶から手を離し、禰豆子がトトトッと義勇に走り寄った。んっ、と両手を伸ばす禰豆子を、義勇は無言のまま受けとめ抱き上げる。炭治郎の胸を、先までとは違う痛みが襲った。
それはなんとも甘苦しい痛みだ。キュウッと胸が締めつけられるような、切なさに似た痛みである。
言葉にするなら、それはときめきと呼んでもいいかもしれない。
吸い寄せられるように炭治郎は、義勇に向かい足を踏み出した。義勇の腕に抱かれた禰豆子は、いたくご満悦だ。
「義勇さんに抱っこしてもらえてよかったなぁ、禰豆子」
笑って頭を撫でてやれば、むぅっと機嫌の良い声をあげ禰豆子は笑う。義勇の表情は変わらない。けれども。
スンッと炭治郎は鼻をうごめかせた。
あぁ。やさしい匂いがする。義勇さんの匂い……どうしようもなく、心が惹きつけられる、気持ちのいい匂い。
知らずうっとりと目を細めた炭治郎に、いつのまにやら来ていた鱗滝の声がかけられた。
「まだ義勇から匂いはしているか?」
「はい……いつもどおりに」
そうかとうなずく鱗滝も、じっとやり取りを見ていた錆兎からも、どことなく安堵の気配がした。
「わしでも嗅ぎ取れん義勇の心の残滓を、炭治郎だけは嗅ぎ取れるか……さすがは宿縁で結ばれているだけはあるというところかな」
感嘆ともからかいとも判断つき難い声音は、少し笑んでいた。炭治郎の頬がホワリと花の色に染まる。
「あ、あのっ、義勇さん。今日は鮭もとれたんです。大根と一緒に醤(味噌)で煮てみました。お口にあうといいんですけど」
照れくささをごまかすように言った炭治郎に、答えてくれたのはやはり義勇ではない。
「よかったね、義勇。鮭、好きだったもんね。炭治郎、よく覚えてたねぇ」
「錆兎が、前に教えてくれたから……次に義勇さんが来るときは絶対に鮭の料理にしようと思って」
「健気だねぇ。いいお嫁さんになれそう。義勇、可愛くて料理上手なお嫁さんでよかったね」
真菰の言葉に、炭治郎はギョッと目を見開いた。
「嫁!? いやっ、俺は男だから義勇さんのお嫁さんにはなれないけどっ!?」
慌てふためきながらも、勝手に熱くなっていく頬は何事か。炭治郎にはよくわからない。義勇のことになるといつもこうだ。これも宿縁ゆえなのか。
「そうかなぁ。重陽の寵とかあるでしょう? 周の穆王と菊慈童とか」
「菊慈童は流罪になってるだろ……縁起でもない。それより、炭治郎。おまえが出立できるだけの実力がついたか、元宵節の前に試験することになったぞ。合格すれば晴れて俺らと一緒に旅に出ることになるからな。がんばれよ」
重陽の寵とはなんのことだろうと首をひねっていた炭治郎は、錆兎の言葉にたちまち目を輝かせた。ブルリと武者震いすらしてしまう。
「はいっ! 絶対に合格してみせます!」
ニッと笑い返す錆兎にうなずき、義勇へと眼差しを向ける。
合格するんだ。絶対に。そして、この美しい人のきれいな匂いの源を、必ず取り戻してみせる。禰豆子だってきっと……。
義勇から香るかすかな匂い。緑濃い竹林や、清涼なせせらぎを思わせるそれは、義勇の心に存在する、砂礫のような感情の残滓だ。あまりにも淡くて、最初は気づかなかったその匂いは、いつしか炭治郎にとってなによりも心地よい匂いとなっていた。
感情を失っているとはいえ、義勇の生来のやさしさは消え去ってはいない。禰豆子を抱き上げてくれるのも、義勇の身に染み付いたやさしさゆえだ。それは記憶と言い換えてもいいだろう。
当たり前にしてきたことだから、感情がなくとも体が動く。転んだ人がいれば手を差し伸べ、幼子が近づけば撫でたり抱き上げたりしてくれるのは、以前の義勇が息を吸うようにそうしてきたからだ。
甘く爽やかで、澄んだきれいな匂い。それが、義勇の心。破片とも呼べぬようなかすかな残滓となってもなお消えぬ、その生来の温かく穏やかな心根が、炭治郎を惹きつけてやなまい。
義勇とは宿縁で結ばれているのだろうと、鱗滝は言った。義勇の匂いに気づいた折に、出逢いのときの義勇の様子を錆兎から改めて聞き、導き出した結論が「宿縁」だ。
あの日、義勇はなにかに呼ばれたのだと言う。頭のなかでひびいた声に体が勝手に動いた。助けてとの呼びかけに応えて。
誰の声かとの鱗滝の問に、じっと炭治郎を見つめ
「炭治郎」
と、いつもの抑揚のない声で義勇は言った。
初めて義勇に名を呼ばれた瞬間だった。
そのときの、胸の奥に湧き上がる歓喜を、炭治郎は忘れられずにいる。勝手に目は潤み、法悦に身が震えた。歓喜。幸福。愉悦。どれだけ言葉を尽くしても、その瞬間を言い表すには足りない。名を呼ばれた、ただそれだけのことなのに。
「義勇と炭治郎は強固な縁で結ばれておるのかもしれんな。前世の宿縁があるのだろう。出逢いは天の定め給うた理よ。逆らうことなどできるわけもないわ」
感慨深く言って鱗滝は、炭治郎ならば義勇の感情の在り処がわかるかもしれないと宣ったのだ。それは天啓にも似て、炭治郎には聞こえた。
出逢いという縁は定め。人の身には逆らえぬもの。けれどもその先は、卦でもわからぬ。指針とはなりえても、人の縁は己の心根、行動次第で、強く結ばれもすれば断ち切れもする。
義勇との縁を、切りたくはない。できることならば、強く、もっと強く。天の定め給うた縁よりもなお、なお強く。
願う心の所以はまだ知らぬ。それでも強く、炭治郎は願う。その先に、輝く明日はきっとある。禰豆子を人に戻し、笑う義勇に微笑み返すのだ。
冷める前に食べようよと真菰にうながされ、卓を囲む。傍らで鮭を食む義勇から、消え入りそうにほのかなうれしさを伝える匂いがしたことが、なによりも、幸せだと思った。