◇少年、運命を切り裂く決意をすの段◇
さて、衝撃から覚めてしまえば、炭治郎の脳裏にはまた、悩みが湧いて出た。今度の悩みは我ながらささやかで、常識的なものだ。
食事の支度をしている二人に、なんと声をかければいいんだろう。
たかがそれしきのことだが、炭治郎としては、少々ためらいを覚える問題である。手伝うこともなくなってしまえば、己が立場を否が応でも考えざるを得ないのだ。
錆兎たちからしてみれば、自分はきっと、招かれざる客だ。なんの目的があって、二人がこんな峻険な雪山を登ってきたのかはわからないが、炭治郎たちの窮地を救うためでないことは明白である。なにせ初対面なのだ。あんな怪物が現れたのも初めてのことである。もしも二人の目的が怪物――義勇曰く、鬼を退治するためだとしても、炭治郎の家は貧乏だ。謝礼などとうてい払えるものではない。
山賊や猛獣から身を守る代わりに金銭を要求する、剣客という職業が存在することは、炭治郎とて知っている。義勇の剣技からしても、二人は相当な手練なのだろう。あんな恐ろしい鬼を一瞬で斬り捨てられるのだから、もしも剣客ならば謝礼はかなりの高額に違いない。
もちろん、要求されれば借金してでも支払う心づもりではある。けれども二人は、そんなことを口にする気配がちっともなかった。しかも、救っておいて禰豆子を殺すなどと、剣呑な言葉を口にもする。
そんなありさまであっても深い警戒心が湧かないのは、二人の様子に、禰豆子や炭治郎を積極的に害そうとする気配がみじんも見られないからだろう。おまけに、義勇は禰豆子を自分の外套でくるみさえしてくれている。
殺すつもりならば、放っておけばよいのだ。この寒さのなかでは、怪我がなくとも放置されればたちまち凍死する。真冬では家のなかでさえ凍え死ぬ者は少なくないのだから。
殺すのか助けるのか、はっきりしてほしいと、少々場違いな不満も生まれようものだ。
錆兎の命令でついてきたとはいえ、自分は歓迎される客ではない。謝礼を要求されるでもない。禰豆子の安否は二人の手にある。さてさて、自分が選ぶべき行動は、果たしてなにが最善だろう。
悩み天幕の入り口で立ちすくんでいた炭治郎は、だからまさか
「おい、そんなとこに突っ立っていないで、さっさとおまえも飯を食え。話は飯を食いながらと言っただろう」
などと錆兎が言い出すとは、思いもよらなかった。
「えっと……いいんですか?」
「当たり前だろう? 指くわえて腹を鳴らされながらじゃ、こっちが食うのに気が引ける」
あんまりな物言いに、反感が頭をもたげた。まさかそんな不調法な真似はしない。いくら貧乏な窯場の小倅だろうと、それぐらいの躾はちゃんとされている。けれども反論するより先に、グゥゥと腹が鳴ってしまえば、炭治郎は顔を朱に染め黙り込むよりなかった。
無言で義勇が差し出してきた椀を受け取る。自分でも思っていた以上に腹は減っていたらしい。思わずごくりと喉が鳴った。
便利なひょうたんがあるとはいえ、旅路の最中であるのに変わりはないからか、食事は存外質素だった。とはいえ、脯(塩漬けして乾燥させた肉)を削り入れた羹と焼餅のみという食事だろうと、炭治郎からすればじゅうぶんに贅沢だ。
異国から伝わった焼餅は、都ではすでに馴染み深いが、貧しい炭治郎の家ではそうそう口に入るものではない。
寒さの厳しいこのあたりでは、麦は高価だ。病で亡くなった父も、きっと母も、一度も食べたことはなかっただろう。
焼きたての焼餅を手に、炭治郎は少しだけ泣きたくなった。香ばしい香りは食欲を刺激するが、もう家族はなにも食べられないのだと思うと、自分一人が食事することに罪悪感も湧いた。
「食え。食わなければ動けない」
かけられた声に、グッと息が詰まった。義勇の声は抑揚がなく、顔つきも相変わらずなにを考えているのかさっぱり読めない。元気づけようとしてくれているのだろうか。思いはするが、そんな気配もとくには感じられない。
だが、言葉は正論だ。炭治郎が食べずにいたところで、死者が生き返るわけではない。それに炭治郎にはまだ禰豆子がいる。禰豆子を守るためにも、生きていかねばならないのだ。いざというときに腹が減って動けなければ、むざむざ禰豆子までも失うことにもなる。
意を決して口をつけた羹は、じわりと身に染み込むように熱かった。腹のうちが温まると、不思議と心も落ち着く。知らず深い吐息がこぼれた。
ひとたび食べ物を口にしてしまえば、ますます空腹を感じた。みっともない真似はすまいと思ってみても、どうしても炭治郎は、がっついてしまう。なにせ、昨日の昼に禰豆子が用意してくれた弁当を食べたきり、今の今までなにも食べていなかったのだ。塩だけで味付けされた羹は、空腹という最高の調味料も相まって、やけに美味しく感じられた。
「あんまり急いで食うと喉につまらせるぞ」
「らいひょうふれす」
呆れた様子で言う錆兎に、口いっぱいに焼餅をほおばったまま答えれば、返ってきたのはいかにも楽しげな笑い声だ。
「腹が減っては戦はできぬというからな。ま、せいぜいたんと食え。子供は大食いぐらいなほうがいい」
言いながら自分も焼餅にかじりつく錆兎の大人びた風情にくらべ、たしかに自分は子供じみている。だが、甚九郎が寛三郎にかけた言葉と、錆兎の言葉は、立場は真逆でも内容はまったく同じではないか。老人や幼児でもないのに食事一つを心配されるとは、どうにも立つ瀬がない。
恥ずかしくなって、炭治郎は、ごまかすように口をつけた椀の影から、ちらりと義勇に眼差しを向けた。
十三歳の炭治郎からすれば、義勇と錆兎はずいぶんと大人に見える。けれども年はそう離れてはいないだろう。成人はしていそうだが、いったいいくつなのだろうか。
「さて、おまえの妹が目を覚ます前に、状況を説明しておくぞ」
「あ、はい!」
グイッと口元をぬぐって錆兎が言うのに、あわてて炭治郎は居住まいを正した。錆兎はたくさん食えと言ってくれたが、呑気に食事している場合ではなかった。
緊張にピシリと背筋を伸ばし、固い面持ちで二人を見つめた炭治郎に、錆兎の顔つきも改まったように見えた。義勇はといえば……まぁ、なんの反応もないのには、そろそろ慣れた。なんとはなし寂しい気はするけれど。
「まず、おまえたちを襲っていた奴についてだが、この国を侵略しようとしている異民族の話を、聞いたことがあるか?」
錆兎の声はどこか固い。言われ思い出したのは、都へ行く前に家族と交わした会話である。
異民族は、人を喰う。剣呑なその噂を、炭治郎は信じてはいなかった。伝奇物でおなじみの人肉饅頭でもあるまいし、人が人を食うなどありえないことだ。
三国志演義にも出てくるぐらいなのだから、実際、そういうことはあるのだろう。それでも、軍靴のひびきも遠くなったこの時代に、そんなことがまかり通るわけもない。異民族の侵略などという事態すら、現実味が薄いぐらいなのだ。
現在の王朝となって以来、国は年ごとに領土を広めてきたのだと炭治郎は教えられている。長い治世のすえに、今では大陸一の大国となっているとは、誰もが知る事実だ。とくに、現大王の治世は大人たちがつとに褒め称えるところである。いくらかある自治領の領主たちも、大王さまをたいそう敬愛しているそうで、内乱が起きる可能性はないと聞く。外交にも問題なく、他国との関係は良好らしい。
戦火など知らぬまま、炭治郎は日々暮らし、やがて定められた人生を終えるだろう。兵役に取られても、国境の見回りをして任期は過ぎる。居丈高に守ってやっていると偉ぶる軍人だって、実際に戦を知る者はそう多くはないはずだ。幸いなことだ。偉大な大王さまに炭治郎は感謝していた。
たとえ敵国の軍人だろうと、炭治郎は、自分が人を殺すことなど考えたくもない。剣など握らず生きられれば、それに越したことはなかった。
もしも自分が次男に生まれていたのなら、栄達を望むには軍に入るよりなかったろう。けれどもたとえ長男でなかったとしても、炭治郎は自分が軍人となる図など想像もできなかった。人を傷つけるなど、自分に耐えられるとはとうてい思えない。
侵略など、噂の域を越えねばいい。人に向かって剣や槍を振るうことなど、一度もなく人生を過ごしたい。きっと偉大な大王さまは、こんな辺境の村まで戦火に焼かれる事態にならぬよう、心砕いてくださるだろう。そう思っていた。
「噂は聞きました。でも、それが今回のこととなんの関わりがあるんですか? あれは……人じゃないんでしょう?」
よしんば異民族の侵略が事実だとしても、あくまでも襲ってくるのは人だ。敵国の民だろうとも、炭治郎と同じように飯を食い、働き、家族と笑いあって暮らす、人なのだ。だが。
炭治郎は我知らずグッと眉間にシワを刻み、唇を噛んだ。
あの怪物は、違う。あれは人ではなかった。そんな話は都でさえも聞いていない。
あんな化け物が襲ってくるのであれば、人々が黙っていられるはずがない。侵略してくる、人を喰う民族。噂はそこまでだ。噂の異民族があの化け物なのであれば、恐ろしい外見についてもみな膾炙しているだろう。たとえ箝口令がしかれているのだとしても、人の口に戸は立てられない。
「あぁ。あれは鬼だ。もう人じゃない」
錆兎の声は静かだったが、どことなし怒りがにじんでいた。言葉の意味を悟り、炭治郎の背がゾクリと震える。
「もう? じゃああれは……元は、人ですか? たしか道術にそんな術があるって……」
「僵尸か。別物だな。僵尸はあくまでも死者の肉体だけが動く。魂はあっても魄はすでに冥府だ。生きているわけじゃないし、そこに意思はない。だが鬼は違う。夜行性で日に当たると燃えたり、人を食ったりするのは同じだが、さらに厄介な奴らだ」
「日に当たれば……」
とっさに炭治郎が、寝かされたままの禰豆子へと視線をやったのは当然だろう。錆兎は言っていたではないか、禰豆子は日に当たれば、死ぬと。
では、禰豆子は。
ドクドクと心臓が騒がしい。火がたかれた天幕のなかは暖かいのに、体の震えが止まらなかった。
「鬼って……なんなんですか? 禰豆子はっ! 禰豆子はどうすれば助かるんですか!?」
聞くのは怖い。禰豆子があんな恐ろしい化け物になるなど、考えたくもない。けれど、知らなければなにもできないのだ。どんなに恐ろしい運命が待ち構えていようとも、禰豆子を救う以外、炭治郎が選ぶべき道はない。
「それは、俺らの師である鱗滝老師ですら、知らない。きっと大王や三省六部の諸官たちも知らないだろうな。玉皇上帝か釈迦尊、はたまた白澤神なら、もしかしたらご存知かもしれないが、さて、どこにおわすのかさえ俺は知らん」
「そんな……」
ただ神や仏に祈れと言うのか。なす術などないと、諦めろと言いたいのか。
血の気が失せた炭治郎の顔を見るともなしに眺めていた義勇が、口を開いた。
「始祖を問い質す」
「始祖?」
誰のことだ。その者ならばなにか手立てを知っているのだろうか。オウム返しに口にして、炭治郎は義勇に向かって身を乗り出したが、義勇はそれきりまた口をつぐんでしまった。おもむろに立ち上がり、椀を重ね持つと無言のまま天幕を出ようとさえする。
「ぎ、義勇さん?」
「あぁ、片付けさせて悪いな、義勇」
錆兎の礼にコクリと義勇がうなずくにいたって、炭治郎はようやく、義勇が椀を雪で清めようとしていることに気づいた。この場において一番の下っ端は自分だ。義勇にやらせるわけにはいかないと、炭治郎も慌てて立ち上がろうとした。
「俺がやりますからっ」
かけた声はあくまでも下手に出ているようにひびいたろう。けれども、炭治郎の胸のうちには、少しばかりの寂しさやら苛立ちやらがあった。
炭治郎の問いかけに、義勇は答えてくれない。炭治郎と会話するなど、時間の無駄だとでも思われているのかもしれなかった。無知で家族の仇を打つこともできぬ惨めな小倅。そんなふうに思われていたとしたら、腹も立つし、それ以上になぜだか悲しい。
だが、義勇はまた声をかけてくれた。
「おまえは錆兎の話を聞け」
「義勇の言うとおりだ。食器を片付けるより、おまえには大事なことがあるだろう? それに時間がない。じきに、夜が来る……鬼の時間だ」
言って、錆兎は視線を外套にくるまれた禰豆子へと、スッと移した。その視線に、続くはずの言葉を炭治郎は悟る。義勇の返答があったことを喜ぶ暇などわずかにもない。
「鬼の、時間」
「目覚めてからじゃ遅い。その前に進むべき道を決めろ」
禰豆子は、鬼になる。それはもはや覆せぬ事実なのだろう。夜は鬼の時間。ならば、夜の訪れとともに禰豆子は目覚めるのかもしれない。
鬼として。
「俺の進む道なんて、最初から決まってます」
炭治郎は、焼き物職人の家の、長男として生まれた。人生はその時点で定められていた。職人の家に生まれたからには、ほかの職は選べない。父の跡を継ぎ、土を捏ね陶磁器を焼く。嫁を得て子をなし、次に繋ぐ。ただそれだけの人生だ。それが自分の運命だと炭治郎は思っていた。
だが、もはやそんな貧しくとも穏やかな人生は、望めない。選びたくもない。
禰豆子を、救う。それ以外には、炭治郎に進むべき道はないのだ。
たとえそれが、困難を極め、涙と血に濡れる道であろうとも。
たとえ異形の怪物であろうと、元は人だという命を、自らの手で絶つことになろうとも。
それは、己の身こそを切り裂く如くに、つらいことだろうけれど。
決意を込めて言い切った炭治郎に、錆兎はわずかに片頬をゆがめて笑い、天幕の出口で、義勇は一度だけ振り返った。
その眼差しはやはりなにも伝えてはくれなかったが、その瞳が、宝玉よりも美しい瑠璃色をしていることに炭治郎は気づいた。一瞬だけ見惚れた炭治郎に、すぐに義勇は関心を失ったように天幕を出ていく。取り付く島もない。
けれどもただ一度、瑠璃の瞳にかすかに悼ましげな光が見て取れた気が、炭治郎にはした。