台所に立つ義勇の背を頬杖をついて眺めながら、錆兎は少し呆れて言った。
「差が激しい……」
「なにが?」
なにがもなにも……いよいよ呆れて、錆兎は自分の前に置かれたインスタントコーヒーの瓶とマグカップに、疲れたように溜息をついた。
ご丁寧に電気ポットまでテーブルにドンと置いて、義勇は「今忙しい」と言ったきりすぐに流しに立ってココアを練っている。
思い立って連絡も入れずに遊びに来たのは自分だけれど、せめてコーヒーぐらい淹れたものを出してくれても罰は当たらないと思う。粉を入れてお湯を注ぐだけなんだし。
「べつにそのココアでもいいんだぞ? 絶対にコーヒーがいいってわけじゃない」
「これは駄目だ」
即座に断る義勇の声は断固として揺るがない。うん、知ってた。
「炭治郎が来るのか?」
それならしかたがない。来てから淹れればいいのにとは思うが。
義勇お気に入りのベーカリーの、看板息子である竈門炭治郎くん七歳は、もしかしてもしなくても、ベーカリーのパンよりも義勇のお気に入りだ。親友としてはちょっとばかり心配になってしまうぐらいには、たいそう可愛がっている。
炭治郎も義勇のことが大好きで、錆兎や今日はいない真菰にも懐いてくれているけれど、義勇への懐き具合とは比べ物にならない。
三歳のころから義勇のことを、可愛がってくれるお兄ちゃんとして慕っているようなので、付き合いの長さの差はもちろんあるだろう。けれど、それだけでなく炭治郎にとって義勇は、誰よりも特別らしい。
それはべつにかまわないのだが、なんとはなし炭治郎の義勇を見る瞳には、憧憬や親愛だけでは説明しきれないときめきが見えるような……。
いやまぁ、それも問題ないと言えなくはない。口にするのはマズイだろうとは思うけれども。
「来ない」
端的すぎる義勇の言葉はいつものことではあるけれども、その内容に錆兎は目を丸くして、ついでにぽかんと口も開いた。
「は? お前、来ない炭治郎のためにココア作ってるのか?」
「練習だ」
いつでも炭治郎に飲ませてやれるように、完璧なココアを淹れられるようにならないと。そんな言葉がきっとその一言には含まれている。
これだ。これが問題。そして心配。
高二の男子が七歳の男の子のために、真剣にココアを淹れる練習をする。なんだそれ。
俺の親友が小さな男の子を好きすぎる。心配しないでどうする。いや、相手は限定されているけれど。義勇がこんなにも関心や好意を寄せるのは、もしかしなくても世界中でたった一人、炭治郎だけであるだろうけれども。
あれ? それならいいのか? いやいやいや、惑わされるな俺。年齢だとか性別だとか、問題はあるし、心配なのに変わりはないだろうが。
できあがったココアを味見して小さく首を捻っている義勇の背を、まじまじと眺めた錆兎が、思わず落とした溜息は、心底深かった。
思えば炭治郎のこととなると義勇は最初からこうだ。
義勇が三歳の炭治郎と出逢ったのは、中一の秋あたりだったという。錆兎が真菰と共に炭治郎に紹介してもらったのは、中三になったばかりの春。およそ一年半もの間、義勇は炭治郎の存在をひた隠しにしてきたというわけだ。親友と幼馴染だっていうのに、秘密主義にもほどがある。
義勇が時折弁当として持ってくるパンがやたらと美味くて──強請ればお裾分けしてもらえるものの、一瞬躊躇ったあとでちょっとだけだったけれども──どこで買ったと聞いてもだんまりを決め込むものだから、真菰と二人で相談して義勇を尾行したのは記憶に新しい。
馬鹿だ。自分でも思う。でもそのときはかなりノリノリだった。義勇がパンを持ってくるのは月曜であることが多いから、きっと買ってくるのは日曜日だ。剣道の練習が終わってから買いに行くのだろうと踏んで、練習後に帰る義勇のあとを真菰と二人、隠れて追った。
義勇に見つからないようにとコソコソとあとをつけながら、なんか楽しいねと笑った真菰にちょっぴりドキドキしたのは内緒だ。その甘い胸の鼓動が、今も時折錆兎の胸で繰り返されることも含めて。
……少しだけ嘘をついた。時折じゃない、わりとしょっちゅう。あと、ちょっぴりじゃなくて、かなり。
まぁ、それはいい。自分の恋心は今は関係ない。問題は義勇だ。
辿り着いたベーカリーで、小さな男の子の前にしゃがみ込んだ義勇は、ニコニコとお日様のような笑顔で嬉しそうに義勇に話しかける幼児を相手に、ずいぶんと幸せそうだった。顔はいつもの無表情だったけれど。
それでも、六歳のころから共に同じ道場に通う親友で幼馴染の錆兎たちには、義勇がとんでもなくご機嫌であることはしっかりとわかった。
たいそう珍しいものを見たと驚きつつ、美味しそうなパンの香りにも惹きこまれ、興奮を隠してベーカリーに足を踏み入れてみれば、錆兎と真菰の姿を見た瞬間の義勇の顔は、いっそ見物だった。
仰天顔の義勇なら、何度か見たことはある。けれど、そこにバツの悪さや、ちょっとした疚しさというか不本意さを滲ませた顔なんて、いまだにあのときしか見たことはない。
それがわかるぐらいには親しい仲である自分たちにすら、義勇が隠しておきたかった炭治郎という小さな男の子。
諦めをたたえて錆兎と真菰を紹介してくれた義勇に、きょとんとしたあとで
「ぎゆしゃんのおともらち? たんじろもおともらち?」
と舌っ足らずに言って笑った炭治郎の可愛さは、たしかに錆兎や真菰の胸をも撃ち抜く威力はあった。
けれどもだ、帰り道でなんで黙ってたんだよと問い詰めた二人に、返ってきた義勇の答えが
「とられると思ったから」
なのは、いただけない。
子供の扱いが上手い錆兎と真菰に逢わせたら、炭治郎は俺よりも二人と仲良くなってしまうと思った。炭治郎は俺の弟なのにと、無表情のままがっくりとした雰囲気を漂わせる義勇に呆れ返り、ついでにちょっと憤慨し、だいぶ苦笑した。
しょんぼりと肩を落とす可愛げのある義勇なんて、多分、錆兎たちや師の鱗滝、姉の蔦子といったごく親しい者だけが見られる特権だ。そして義勇はそれら周囲の人々のなかでは末っ子扱いで、甘やかされて過ごしている。もちろん、躾や諭しといった厳しさも与えられてはいるが。錆兎だって義勇と立場は対等であるけれど、叱るときにはきっちり叱る。
そんな義勇にしてみれば、自分が兄として甘やかせる炭治郎は、特別に可愛い相手なのだろう。独占欲を抱いてしまうぐらいには。
だからまぁ、隠しておきたかったという義勇の心情は、わからなくもない。
しかし、その独占欲が年々増して、強固に大きく育っているのはなにごとか。
料理なんてまったくしたこともない義勇が率先して台所に立ち、訪れた親友すらほっぽって、今はここにいない小さな男の子のために、ココアを淹れる練習なんかしてる。
炭治郎が義勇を見る瞳に、恋心が満ち満ちて光っているように、義勇が炭治郎を見つめる瞳にも、同じ光がきらきらと宿っている気がするのは、おそらくは錆兎の気のせいなんかじゃない。
いいのか、これ? 親友として止めるべきじゃないのか? 思ったことは何度かあるけれども、結局、錆兎はそんなことは一度として口に出していない。
むしろ義勇に彼女ができたときのほうが、苦々しく思ったし、親友として忠告したぐらいだ。
それまでまったくその子に関心を向けたことなどなかったくせに、告白されたから受け入れたと、なんでもないことのように言った義勇に、思わず真菰と顔を見合わせ揃って眉を寄せた。
好きでもない相手と付き合うなんて、義勇らしくない。そんな言葉と同時に、炭治郎はどうするんだ、なんて。そんな言葉がすんなりと脳裏に浮かんだくらいには、義勇と炭治郎は想い合っている。傍目にも疑いようなくわかるほどに。
小さい炭治郎と無表情な義勇では、それがわかるのは錆兎たちのように極々親しい者にかぎられるだろうけれども、たしかに二人が恋しあっていることは伝わっているのだ。
おおっぴらに応援できる恋じゃない。問題だと思うし心配にもなる。けれども、反対しようなんて思わない。引き裂けるような想いじゃないと、錆兎にだって理解できるから。
だというのに、なんの関心もない女子の告白を受け入れお付き合いを開始したばかりか、義勇はさっさとその子相手に童貞を捨てたらしい。いや、義勇からはっきり聞いたわけではないのだが。
というか、聞きたくもないのにその子が友達相手に自慢げに、微に入り細を穿つ詳細さで語る現場を、うっかり通りかかってしまった我が身の不運を錆兎は嘆いている。
女子のエロ話、エグイ……怖い。親友の息子の膨張率だとか達するまでの時間なんて、知りたくなかった、本当に。
真菰はきっとそんな話を友達にしたりしない。二人だけの秘密と照れ笑いしてくれるに決まっている。いつそんな日が来るのかは、いまだに告白すらできずにいる錆兎にはわからないけれども。
我知らずほのかに熱を帯びた頬をごまかすように、錆兎は意味なく咳払いした。義勇は振り向かない。ココアを練るのに一心に集中している。
ともあれ、錆兎からすれば明け透けすぎて恥知らずにすら思えるその女子は、義勇の隣に立つにはふさわしくないと思ったし、義勇が意中にない女子と付き合うこと自体、心の底から心配ではあった。
義勇が自分の想いを持て余し、悩んでいることはわかっていた。きっとその当時、義勇自身は自分が炭治郎に恋していることすら自覚がなかったのだろう。
問い質したことはないが、義勇が女子と付き合った真意は、炭治郎への想いを可愛い弟に対するものへと引き戻すための悪あがきのように、錆兎には見えた。
馬鹿な奴だと錆兎は苦笑する。そんなことをしたって、傍目には二人が心底想い合っているのはバレバレで、逃れようとしたって無駄なことぐらい、錆兎にすらわかるっていうのに。
その女子とはやはり長続きはせず、義勇の気持ちはちらりとも揺らがぬままに、終わりを迎えたようだった。当然だろう。義勇のことなどその子はちっともわかっちゃいなかった。
クールなのが格好いい? 誰だそれ。
義勇がクールだなんて言われても、錆兎や真菰にしてみれば、へそで笑うってなものだ。
感情表現に乏しいだけで、義勇はむしろ情熱家だ。感情の読めない表情の裏には、熱く激しい想いがある。情も厚い。心底優しい男だし、多少突拍子もないが気遣いだって怠らない男なのだ。
関心を抱けないものには徹頭徹尾無関心であるだけのこと。それすら理解できずに、見た目だけで格好いいだのなんだのとはしゃぐ女子になど、錆兎は義勇を任せたくはない。
ついでに言えば、自分らから見れば義勇は、クールどころか末っ子気質の甘えん坊だし。こと炭治郎の前では気合が入りまくっているのか、やたらと頼りがいのあるお兄ちゃんぶって見せているが、気を抜ける相手である錆兎たちの前では、ポヤポヤとしているのが常だ。末っ子らしくゴーイングマイウェイで、だからこそこうして錆兎をほっぽっておいて、炭治郎のためにココアを淹れる練習なんてしてたりするのである。錆兎には甘えても大丈夫と、無意識に理解しているからこその、遠慮のなさ。なんともはやと、呆れてもしょうがないだろう。
ともあれそんな具合で、まったくもって世話が焼けるったらないと、義勇をよく知る者なら一度は絶対に口にしている。
そんなことも知らないままだったのだから、結局のところ、あの女子も義勇の外見にしか関心などなかったということだろう。
もちろん、義勇が本心からその子を好きだと言うのなら、心配はすれども応援する。だが、義勇が一筋に想いを寄せているのは、まったくの別人なのだ。
わずか七歳の男の子。義勇の見た目だけでなく、伝わりにくい優しさや思い遣りもきちんと全部受け止めて、義勇さんが優しくて嬉しい、義勇さん大好きと笑う子供。義勇が落ち込んでいればすぐに気づいて、一所懸命癒そうとする炭治郎。
正直に言おう。錆兎としては、義勇の隣で微笑み合うのを見るなら、炭治郎がいい。炭治郎こそが義勇に似合うと、本当は思っている。
とはいえ、今はまだ二人の恋に問題があるのは確かだし、時期尚早に燃え上がってしまえばどんな事態に陥るかなど、火を見るよりも明らかだ。
だから、親友としては一言ぐらいは言っておきたい。
「……理性は保てよ?」
「当然だ」
うん、まぁ、いいや。
節度と理性を持ち続けられるなら。義勇のことだから、炭治郎と引き離されるような事態にはなるまい。それはきっと義勇にとっては身を引き裂かれるのに等しいのだろうから、そんな事態は全力で避けるだろう。止められない恋心を胸に秘めて。
いや、止められないから恋なのだ。錆兎だって知っている。だからまぁ、精々頑張ればいい。炭治郎が大きくなって、堂々と──は、性別的にちょっと難しいかもしれないが──これは恋ですと笑って言えるようになるまで。
自分でコーヒーを淹れながら、明日辺り真菰と一緒に竈門ベーカリーに行こうかなと、錆兎は考える。親友の恋と自分の恋。ココアとコーヒー。どちらも美味しく飲めるのなら、なにも問題はない。
恋の味なんて、きっと人それぞれなんだから。
◇ ◇ ◇
ひとしきり他愛ない話に興じて帰っていった錆兎を見送り、台所へと戻った義勇は、洗い物をしながら小さく苦笑した。
心配させてるのは事実だろうが、それでも義勇の恋に気づきながらも咎めない錆兎は、本当にいい奴だ。
けれど、義勇が女子と付き合いだしたときは、あんなふうに優しく苦笑なんかしなかった。
苦々しく眉間に皺を刻み、そういうのは良くないと思うと忠告してきた錆兎は、恋に対して真剣だ。好きでもない相手と付き合い、あまつさえ性交渉を持つなどと、男らしく正義感に溢れた錆兎にしてみれば、言語道断だっただろう。
義勇が悩んでいることを悟っていたから、そんな一言に留め、けれども忠告だけはきっちりする。そういう錆兎だからこそ、人付き合いの苦手な義勇も親友として心開けるのだ。
とはいえ、錆兎にも気づかれない本心も、義勇の胸のなかにはある。義勇の長期計画は、錆兎にも明かすのはためらわれる。それはまさに虎視眈々としか言いようがないので。
義勇にとって最も大切な炭治郎を、大事に大事に囲い込むためには、時間が必要だ。そしてなによりも努力が。
炭治郎の年齢もある。まさか七歳の幼子に、世間一般的な恋愛のアレコレなど求められるわけがない。そんなことをすれば即刻義勇は炭治郎と引き離され、下手をすれば二度と逢うことはできなくなるだろう。
だから、自分の劣情を抑え込むことなど努力でもなんでもなく、当然のことだ。もともと、炭治郎への想いの深さに対する葛藤や苦悩がなければ、性欲なんてさほど覚えることもなかったのだから、発散の術を求める必要もなかった。
結局のところ、炭治郎にしか向かわないのだ。義勇の「欲」のすべては。
洗い終えたばかりのカップに改めてコーヒーを淹れ、義勇は、口に残るココアの甘さをコーヒーで流した。
甘い物は嫌いではないが、好んでもいない。どちらかというと苦手なほうだ。
義勇が絶対に食べたいと思う甘味なんて、バレンタインに炭治郎から渡されるチョコだけだった。
だというのに、炭治郎が保育園に通っている内には必ず貰えていたバレンタインチョコは、炭治郎が小学生になった年に終わってしまった。
口にするわけにもいかず胸に秘めてはいるが、たいそうショックだったのだ。なにせ、自分の恋を認めて、炭治郎を必ず手に入れると心に誓ってから迎える、初めてのバレンタインだったので。
炭治郎から最初に貰ったチョコは、お徳用大袋に入った小さなミルクチョコ一粒だった。
義勇の見た目に群がる女子から渡されたチョコの数々に、毎度のことながら辟易しつつ──ちなみに錆兎も義勇と同じくらいチョコを渡されている──炭治郎なら喜ぶだろうかと、紙袋に詰めたそれを竈門ベーカリーへと持っていったときだ。中一だったと覚えている。炭治郎と出逢ったのは秋だったから、出逢ってから初めて迎えたバレンタインだった。
店のドアを開けた義勇に気づいた瞬間に、パッと顔を輝かせてパタパタと走り寄ってきた炭治郎は、義勇が店内で走っちゃ駄目だと言うより早く、義勇の手を掴み「こっち、ぎゆしゃん、こっちきて!」と、必死な顔で言った。
どこへと思えば店の隅で、レジに立つ葵枝からは丸見えだ。それでも炭治郎はここなら大丈夫と思ったのだろう。しゃがみ込んだ義勇の耳に顔を寄せ、「ないしょらからね」と言うと、ポケットから取り出した小さなチョコを渡してくれた。
チョコは炭治郎のぬくい体温で少し溶けていた。保育園で貰ったのだと言う。今日はバレンタインで大好きな人にチョコをあげる日だから、大好きな義勇さんにあげると、照れながら笑って。
チョコは二つあるけれど、一つは義勇さんにあげるから、もう一つは誰にあげればいいのか決められないと、しょんぼり俯く様がどうしようもなく可愛かった。
自分が貰ったたった二つしかないチョコを、迷いなく一つは義勇にと思う炭治郎に、自分でも信じられないほど歓喜して、炭治郎の小さくて柔らかい体をぎゅっと抱き締めたくてたまらなくなった。
抱き締めるのは我慢して──あのころは気づかなかったけれど、きっと抱き締めてしまえばキスぐらいしてしまいそうな自分を、無意識に留めたのだろう──ありがとうと笑った義勇は、それじゃあ丁度いいと炭治郎に紙袋を差し出した。
「炭治郎が貰ったチョコは炭治郎が食べて、代わりにこれを皆にあげればいい」
「ぎゆしゃんのチョコ? たんじろがもらっていいの?」
「うん。俺は食べきれないし、捨てるのはもったいないだろ? 俺は炭治郎がくれたチョコだけでいいよ」
うーんと悩みだしてしまった炭治郎の生真面目さに、義勇は思わず苦笑した。
「お揃いのチョコ食べようか」
お揃いと言う言葉に再び顔を輝かせて、抗いがたい誘惑に負けて元気に頷く炭治郎は、たとえようもなく可愛かった。
店の隅で揃って小さなチョコの包みを開けて
「はい、炭治郎。アーン」
と、自分のチョコを炭治郎の口元に寄せてやれば、炭治郎は大きな目をぱちくりさせたあと、嬉しそうに口を開いた。
口に入れてやった際に指先が触れた炭治郎の唇。その瞬間にドキリと胸が大きな音を立てた理由は、まだそのときは知らなかったけれど。
炭治郎のふくふくとした指が摘まんだチョコを、「ぎゆしゃんも、アーン」と差し出され、小さな指ごと口に招き入れた。
たとえばそれが親友の錆兎だとしても、他人の指を口に入れても気にならないなんて、ましてや嬉しいなんて思うわけがない。炭治郎だから気にならないし、いっそそのまま甘く食んで、味わいつくしてしまいたいと思うのだ。
あれ以来、炭治郎は卒園するまでは毎年チョコをくれた。義勇が女子から貰ったチョコを横流しするのも変わらない。
炭治郎には食べるのを手伝ってほしいと言ってはいたが、実のところ義勇がバレンタインに口にするチョコは、炭治郎から貰ったもののほかには、蔦子と真菰のものだけだ。さすがにあの二人からのものまで、捨ててしまうわけにはいかない。
だから義勇は、こっそりと交ぜた二人のチョコだけ紙袋から取り出して、残りは炭治郎たちで食べてと渡していた。
貰った経緯はどうあれ、チョコに罪はない。ひとかけらの関心すら持てない女子からの、想いのこもったチョコなどとやらを口にする気は義勇には一切なく、炭治郎と禰豆子たちを喜ばせる以外に役立つ用途などないのだから、美味しく食べてもらえるだけ喜んでほしいくらいだと思う。
炭治郎がもじもじと哀しげにしながらも、チョコはもうあげないと義勇に言ったその日まで繰り返されたそれは、今では形を変えて実は継続中である。
立っているのも難しいほどのショックを受けつつも、大きな瞳を涙で潤ませる炭治郎を問い詰めるなんてことはできなくて、そうかと受け入れたふりをした。あの年に蔦子と真菰がくれたチョコを、義勇は知らない。あんまりにもショックで、いつものように取り出すことすら忘れていた。
それでも、どうしても炭治郎からのチョコが欲しかった。だから無表情の裏側で、必死に考えたのだ。そして手にしたのは、竈門ベーカリー自慢の逸品であるパンオショコラだった。
当時から、炭治郎が店にいるときに竈門ベーカリーを訪れた客は、買い上げた商品を炭治郎の小さな手で渡されるのを楽しみにしていた。当然だ。舌っ足らずな声で明るく元気に「おかいあげありあとごじゃいまちた!」なんて可愛い笑顔で言われてみろ。誰だってメロメロになる。自分ほどじゃないだろうが。
炭治郎の活舌はぐんぐん達者になったけれども、可愛い笑顔も明るく元気な声も健在なまま、迎えた小学一年生のバレンタインデー。チョコはないのとしょんぼりと肩を落として俯いた炭治郎は、それでも義勇が買ったパンオショコラを、いつもの笑顔で渡してくれた。
炭治郎から手渡されたチョコ。欺瞞だと自分でも思わないでもない。かなり自分をごまかしてはいたが、チョコを渡された事実に変わりはないだろう。そう思いでもしなければ、頼りになるお兄ちゃんの顔をかなぐり捨てて、義勇は泣きわめきたくなったに違いない。
だから買ったチョコ系のパンを手渡してもらうだけで、義勇は我慢してきたのだ。いつかまた炭治郎が頬を染め、大好きだから義勇さんにあげるとチョコを手渡してくれる日まで、我慢し続ける。
チョコだけでなく、炭治郎の諸々も、いつか必ず貰い受ける気満々である。大好きだからあげると、炭治郎が頬を染め言ってくれる日が楽しみだ。それを思えば我慢することなどなんでもない。理性を保つ? 当然だろう。衝動的な欲望に負けて、一生の宝物をみすみす逃すなど、愚の骨頂以外の何物でもない。
義勇は炭治郎のすべてが欲しいのだ。それには炭治郎の将来も含まれている。歳を取って、いつか共に総白髪になったそのときにも、隣で微笑み合うのは炭治郎しかいない。そう義勇は決めている。
そのための努力の一つが、ココアだった。
炭治郎へ向かう自分の想いが恋だと、義勇が認めた日のことだ。
今ではもう名前もろくに覚えちゃいない女子と、義勇が歩いているのを見た炭治郎が、大泣きしたのがそのきっかけだった。抱き上げてやった義勇に泣きながらしがみつき、義勇への度し難いほどの独占欲と執着を瞳に浮かべた炭治郎に、義勇は歓喜し、自分の恋を認めたのだった。
そうして二人で行った公園で、炭治郎を泣きやませたくて買ってやったココアに、炭治郎は安堵を露わに笑った。その瞬間に、ふと頭をよぎった言葉がある。
プルースト効果というその言葉を、当時の義勇はさして気に留めてはいなかった。ココアの匂いを嗅いだら、今日のことを思い出すんだろうかと面映ゆく思っただけだ。
けれども、それ以来炭治郎は義勇への甘えを控えるようになった。悩んだ末に導き出した賭けのなかに、その言葉はまた立ち現れた。
義勇と逢えない時間が続いても、炭治郎が義勇への想いを抱き続けていたのなら、炭治郎がほかの誰にも決して見せない我欲を義勇にだけは見せるなら、炭治郎の一生ごとすべて手に入れてやろうと。愛して甘やかして、義勇の一生を炭治郎のために使おうと、心に誓った。
当然のごとく、ただ流されるままに炭治郎を見ているなんてこと、しやしない。炭治郎を手に入れるための努力を怠る気など、義勇にはないのだ。
炭治郎を手に入れた先の先まで周到に準備して、義勇と共にいることで炭治郎を不安にさせたり苦しめたりする事柄は、全力で回避する所存だ。
その一環が、進路だ。炭治郎が、義勇と一緒の学校に通ってみたかったとぽつりと零したから、進学先は教育学部に決めた。
受験で炭治郎と関わる時間を削られぬよう、今の学力でも十分合格可能のレベルの地方の大学を、進路希望の紙には書いて提出した。教師はもっと上を狙えるだろうと渋面を作ったが、姉の蔦子はなにも言わないので、変更するつもりはない。
炭治郎は、どうやら義勇が通うキメツ学園に自分も通いたいと願っているようだ。だから義勇が希望する就職先は、キメツ学園一択だ。それなら教師と生徒という立場の違いはあれど、少なくとも六年間は炭治郎の願いを叶えてやれる。
炭治郎の気持ちが、ちゃんと義勇に向かっているのだと確信したから、彼女とはさっさと別れた。未練など一ミクロンだってあるわけがない。義勇にしてみれば、当然すぎる帰結である。
別れを口にした途端に泣き縋られたのは面倒だったが、親しくない者たちからは無表情で冷たいと評判の義勇の目から発する拒絶に気圧されたのか、早々に諦めてくれたのはありがたい。裏で好き放題悪口ぐらいは言われてそうだが、別段義勇は気にしないのだから、なにも問題はなかった。
むしろ噂が広まって、告白なんてしてくる女子がいなくなるのなら、義勇にしてみれば一石二鳥である。
当然のことながら、今後も彼女など作る気はない。一晩かぎりの遊び相手だっていらない。
炭治郎と想い合っていることがわかっている以上、浮気などするものか。炭治郎しかいらないのに、関心もない者の相手などしてどうする。そんな無駄な時間は義勇にはない。時間は有限であり、炭治郎を愛し甘やかすのに必要な時間は、いくらあったって足りないのだ。
そして、ココアだ。
思い出したのはあの日に頭をよぎったプルースト効果。
フランス人作家であるマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』という作品のなかで、主人公が紅茶にマドレーヌを浸したときの香りで幼少時代の記憶を思い出すことから名付けられたというそれを、なぜ義勇が覚えていたのかは定かではない。いずれどこかで耳に入れたか目にしたかして、なんとなく意識に残っていただけだろう。
大事なのはその効果の内容だ。脳科学的にも匂いと記憶の関係は立証されているらしい。思い立って調べた結果に、義勇は満足した。
嗅覚というのは、ほかの五感と違って記憶に直結しているという。とくに幼少期に顕著だ。
しかも、匂いから思い出される記憶は、概念的というより知覚的なものだという。特定の感覚を思い出すために有効なのが、匂いなのだと知ったときの義勇の高揚は、今も密やかに静かに続いている。
泣いている炭治郎を宥めようと、渡したココア。安堵に笑った炭治郎。使わない手はないじゃないか。
ココアなら健康にも良いようだし、なによりも特徴的な匂いであるのが好都合だ。
ココアの香りと共に炭治郎は思い出すのだ、無意識に。
自分のつらさや哀しさが拭われる瞬間は、いつでもココアの香りと義勇の温もりと共にある。そう炭治郎は記憶する。炭治郎の安堵も安らぎも幸せも、義勇が与えるココアと共にあるのだと。
だから義勇はいつでも炭治郎が哀しげに泣くと、ココアを渡す。抱き締め、涙を拭ってやり、優しく微笑みかけて。
覚えておいで。お前の安心は、幸せは、この匂いと共にあるのだと。俺の温もりは、掌は、笑顔は、お前にとって幸せに直結したものなのだと。
そんな願いを込めて、義勇はココアの香りに包まれて笑う炭治郎を撫でる。
今までは缶入りの市販のココアばかりだったけれど、それでは香りが薄い気がするし、義勇が手ずから淹れたほうが、炭治郎の喜びも増すのではないかと思ったので、義勇はココアの淹れ方も勉強中だ。
選びに選んだ結果、義勇が決めたココアはバンホーテンのピュアココア。蔦子に習って初めて淹れてみたココアは、練り方が足りなかったのかダマが残っていて、思わず顔を顰めた。
練習が必要だと思った。炭治郎の好みに完璧に合うココアでなければ、自分が納得できない。
常に台所に置かれるようになったココアと、冷蔵庫に完備されるようになった牛乳に、蔦子が時折虚無としか言いようのない顔になるのは少し気にならないではないが、なにも言ってこないのだからまぁいいだろう。いずれは蔦子にも許しを得るつもりなのだし、察してくれるのなら説明は省ける。
竈門家にもそのときにはきちんと挨拶に行かなければ。品行方正ないいお兄ちゃんとしてずっと竈門家と接してきた義勇だ。信頼はすでにガッチリと得ている。同性という一番の問題はあるにせよ、頭ごなしに反対されることはないだろうと義勇は踏んでいた。
偏見や差別といった言葉とは、無縁の家族だ。炭治郎の幸せを第一に考えるだろうことは承知している。
ならば、義勇こそが炭治郎を幸せにできる唯一の者だと、認めさせればいいだけのこと。
安定した生活の保障、家族全員が慣れ親しみ信用する人柄、そしてなにより炭治郎への最大級の好意。それらを与え満たせるのは自分だけだと、義勇は確信している。
そしてそのための努力を今日も怠らない。いや。炭治郎と暮らす未来の日々を想像すれば、それだけで努力は努力でなくなり、義勇にとっては息をするのと変わらぬほどに、当たり前の行為である。
いつかきっと、ココアの香りと共に義勇が炭治郎に与えるものは、抱き締める腕や微笑みだけでなく、優しいキスが加えられる日が来るだろう。
ココアを飲んで嬉しそうな笑みを取り戻した炭治郎の唇は、舌は、きっと甘くて少しほろ苦い。
それは義勇の唇に、舌に、容易く馴染んで溶け合って、ココアの味の残る津液は、義勇の愛と共に炭治郎に飲み込まれる。
あぁ、その日が来るのが楽しみだ。
クスリと小さく笑ってコーヒーを飲み干した義勇は、きっと明日もまた台所に立って、ココアを淹れる。炭治郎への愛をこめてココアを練る。
義勇の愛を炭治郎が余さず飲み込むその日のために、明日も、明後日も、その次の日も、義勇は準備を怠らないのだ。