炭治郎が初めてバレンタインデーという日を知ったのは、保育園に通っているころだった。
その日のおやつは、お徳用大袋に入っていたチョコレートが二つ。先生たちが今日はバレンタインデーだから、大好きな皆にチョコをあげますと笑いながらくれたのが、初めてのバレンタインチョコだ。そうして炭治郎はとっても凄いことを知ったわけである。
バレンタインは、大好きな人にチョコをあげる日。
それはまだ三歳の炭治郎にとって、おおいに衝撃的だったし、たいそう悩ましい難問となった。
炭治郎にはとびきり大好きな人がいる。大好きな人にチョコをあげる日ならば、ぜひとも自分だってあの人にチョコをあげたい。いや、あげねばならない。だって大好きなんだもの。
目の前にはちっちゃなチョコが二つ。炭治郎はまだお小遣いを貰っていないので、炭治郎が用意できるチョコレートは、目の前にあるこのおやつしかない。
けれども、真っ先に頭に浮かんだとびきり大好きな近所のお兄ちゃんである義勇さんのほかにも、大好きな人はいっぱいいるのだ。お父さんにお母さん、お婆ちゃんのことも大好きだ。妹の禰豆子や弟の竹雄だって、義勇の姉で炭治郎にも優しい蔦子お姉ちゃんだって、炭治郎は大好きだった。
だというのに、何度見たってチョコレートは二つしかない。一つは真っ先に思い浮かんだ義勇さんにあげたいけれど、もう一つは誰にあげたらいいんだろう。
禰豆子や竹雄はまだチョコは食べられないけれど、ほかの皆はちゃんとチョコレートだって食べられるはず。でも自分があげられるチョコは、どんなに眺めていたって二つだけ。増えることなんてない。
自分のおやつだというのに、炭治郎は自分が食べるという選択肢なんて浮かばないまま、しばらくおやつのチョコを見つめて、うんうんと悩んでしまったものだ。
それから実に十六年の月日が経った今日も、炭治郎は、朝からうんうんと悩んでいた。
あのころから大好きだった近所のお兄ちゃんである義勇は、いつのまにか初恋の人になり、今では炭治郎の同棲中の恋人だ。そして今日は、同棲してから初めてのバレンタインデーである。しかも金曜日。さぁ盛り上がれと言わんばかりのお膳立てではないか。
とはいえ、十歳年上の義勇の職業は高校教師で、しかも三年生の担当だから、金曜だからといっても夜更かしなんてできるわけもない。翌土曜日も、なんなら日曜日も、実は休日出勤だったりもする。
それでも張り切らざるを得ないのは、なんとなれば義勇の誕生日はバレンタインに先立つ二月八日で、盛大にお祝いする予定だった炭治郎は準備中に風邪を引き、炭治郎の考えたお祝いフルコースはなに一つ成功しなかったからである。
そう、なに一つだ。
義勇の好きな物ばかりを並べるはずの夕飯は、いっさい作れなかったばかりか、義勇に粥を作らせる始末。プレゼントはあげられたけれども、箱を踏みつぶしてしまった。
挙句の果てには、本日の主役と上げ膳据え膳されるはずの義勇に看病までさせて、時節がら教師の義勇が風邪を引くなどもってのほかだというのに、予防してもらうどころかいつも通りに腕枕で添い寝までさせてしまった。
そして、初めてチャレンジしたケーキはといえば……特訓の甲斐なく失敗していた。
たしかに、熱で朦朧としていたのは事実だ。でも毎日実家に寄って特訓したっていうのに、あそこまで失敗することないじゃないかと、思い返すといまだに炭治郎は落ち込む。
あの日義勇のために作ったスフレチーズケーキは、まったくふくらんでいなかったうえに、ひび割れていた。しかも生地の裏ごしを忘れたせいか小麦粉がダマになって残っていたし、ラムレーズンは熱湯につけるのもラムを振りかけたあとでレンジにかけるのも忘れていて、まったくラム酒の風味なんてありゃしなかった。
一晩眠って少し良くなったからと、渋る義勇を説き伏せて起き上がり、せめてケーキだけでも食べてもらおうと思ったのに。オーブンレンジを開いたときのあのショックは、いまだに立ち直りきれずにいるほど大きかった。
大失敗のケーキを、炭治郎が止めるのも聞かずに平然と食べた義勇は、美味いぞと言ってくれたけれど。炭治郎が作ったものはなんだって美味いと、本心から言ってくれたのだって、嬉しかったけれども。炭治郎としては、最高の状態のケーキを食べてほしかったのだ。そのために猛特訓だってしたんだから。
しかし、時を巻いて戻す術はない。ならば、せめてバレンタインに賭けよう。残念ながら誕生日と違って翌日に義勇が休めるわけではないから、一晩中、恋人同士の甘い時間を堪能することは無理そうだが、誕生日にできなかった分もお祝いするのだ。
前向きに努力するほうが、落ち込み続けているより精神衛生的にも、たいへんよろしかろう。それでなくてもこの時期は、毎年炭治郎の精神状態は浮き沈みが激しくて、どうにも落ち込みがちなのだ。失敗を引きずっていては、憂鬱に拍車がかかりそうだ。
この時期。二月の中旬と言えばおわかりだろう。バレンタインデー時期である。
義勇の誕生日はバレンタインの少し前なので、それまでは誕生日のことばかり気にかかっているのだが、過ぎてしまえば頭をもたげるのはバレンタインに義勇が貰うチョコ事情だ。
なにしろ、義勇はモテる。これでもかっていうほどに、モテる。
校内バレンタインチョコ獲得数に至っては、毎年トップ3入りだ。
さてここで思い出すのは、近年──正しくは義勇の着任以来──キメツ学園に在学する女子生徒の間で、まことしやかに伝えられる噂話だ。
曰く、冨岡先生にチョコを渡す方法、である。
キメツ学園の校則では、基本的に菓子の持ち込みは禁止だ。たいへん校則に厳しい生徒指導の冨岡先生は、まともにチョコを渡したところで「没収」といって取り上げるだけで、放課後にはきっちりと返してくる。冨岡先生にと言ったところで、受け取ってはくれない。
だから冨岡先生宛のチョコは、先生に見つからないように職員室の先生の机の上に置くことが望ましい。生徒指導室を兼ねる体育準備室の机は却下。そもそも基本的に鍵がかかっていて入れない。
以前一度だけ、侵入に成功しチョコを置いてきた猛者がいたのだが、体育準備室への不法侵入者がいたと全校朝礼でお叱りを受けるという、なんとも哀しい結末となった。当時中等部だった炭治郎も、複雑な思いでそれを聞いたものだ。
そんなわけで職員室一択ではあるのだが、首尾よく机に置いてこれたとしても、それでもその後三日間は落とし物として、職員室の入り口にある落とし物入れに放置される覚悟は必要だ。ラッピングに凝って中身がチョコだとわからない場合は、ほかの落とし物同様に一ヶ月は放置である。惨い話だ。
チョコだと判別できるなら、衛生上の問題もあるので三日で冨岡先生へと書かれたチョコレートは、眉間の皺と溜息つきではあるが持ち帰ってもらえる。だから冨岡先生に渡すチョコは、バレンタインの三日前に先生の目を盗み机に忍び寄り、中身はチョコだとはっきりわかる状態で、なおかつ、これは冨岡先生宛てですと大きく宛名書きしなければならないのだ。
激しく面倒くさいうえ、乙女心を粉砕すること請け合いの厄介さである。
ついでに自分の名前を書いてしまうと、開封後だろうと持ち主扱いで返却されるから、匿名でしか渡せないというおまけ付き。手作り? 三日放置されることを思えば諦めるしかない。
そこまでしなければ渡せないというのに、それでも獲得数二位。炭治郎としては、さすがは義勇さん!と誇らしい気持ちにもなるけれども、それ以上に、心の奥がモヤモヤとするのも認めざるを得ない。
獲得数トップの宇髄先生や三位の煉獄先生ならば、そこまで厳しいことは言わない。コラッと軽くお叱りはあっても、ありがとうと笑って受け取ってもらえるのだから、ミーハー気分で顔の良い教師にチョコをあげたいだけの女子ならば、そんな二人や実はこっそりとマニア人気の高い不死川先生や伊黒先生、または悲鳴嶼先生なんかにあげるのが常だ。
数年はチャレンジ精神旺盛な女子が肝試し感覚で「トミセンにチョコをあげよう!」と盛り上がる向きもあったらしいが、今ではそれもすっかり下火となっている。なにせ見返りが少なすぎるのだ。
だから冨岡先生が持ち帰るチョコといえば、本命も本命、本気で先生が好きという思いつめた女子からのものばかりだったりする。
名乗ることもできないチョコだがせめて受け取って欲しいと願う、涙ぐましい乙女の努力には、頭が下がる。と同時に、すんなり受け取ってはもらえなくとも、恋する気持ちを込めたチョコレートを渡すことを許された女の子たちが、羨ましくてしかたがなかったし、渡すことのできない自分に泣きたくなるから、去年までの炭治郎はバレンタインが好きではなかった。
自分が貰う友チョコや義理チョコへの感謝はともかくとして、切なく報われない片想い中の身には、バレンタインなんてイベントは、ただもう早く終われと願ってしまうしかなかったのだ。
そんな炭治郎の苦悩をよそに、一途な乙女心を一向に意に介さない朴念仁の冨岡先生はといえば、チョコを持ち帰る日には、必ず竈門ベーカリーに寄って買い物をしていく。そうして店の常連で炭治郎が昔から知るお兄ちゃんな義勇さんの顔で、甘い物はそんなに食べられないからと竈門兄妹に紙袋に入ったチョコを渡して帰っていくのだ。
なぜだか、チョコベーグルだのパンオショコラだのといったチョコ系のパンを一つ買い、俺はこれだけでいいと薄く笑って。
義勇は高校生のころからそうだった。
甘い物は嫌いじゃないがこんなにあっても食べきれないと、チョコの入った紙袋を竈門兄妹のおやつへと提供しておいて、義勇自身はチョコレートのパンを一つ買っていくのだ。中学時分のように貰ったものを少し選んで取っておけばいいのに、炭治郎からパンの入った袋を受け取り、これだけでいいと笑う。
女の子の想いのこもったチョコレートをなんだと思っているのかと、一部の過激なフェミ団体が知ったら髪を振り乱して詰め寄ってきそうな所業だし、炭治郎としては、義勇を想う女の子たちからのチョコというのはいささか複雑だ。
禰豆子や花子も、当時は紙袋いっぱいのチョコレートに目を輝かせていたけれど、小学校も中学年程度になったころには困り顔をしていた。それはそうだろう。禰豆子たちとて恋を夢見る女の子だ。義勇の所業は正直惨いと思ってもしょうがない。
炭治郎だって女の子たちに対して可哀想にと同情する気持ちはあるが、それと同時に喜びと安堵もあった。義勇が女の子たちの想いの表れであるそれを、食べることはないのだから。
義勇は誰のものにもならない。少なくとも今年はまだ、誰の気持ちも受け取るつもりがない。
それを義勇から横流しされるチョコレートで確認しては、炭治郎はどうにか自分を慰めていた。まだ自分の気持ちが恋だと気づく前から、そんな具合だったのだ。自分でもいっそ呆れるよりほかない。
中学生のころにはまだ義勇も、無表情のまま少し困った様子で二つほどチョコを取り出すと残りを炭治郎に渡し、これ以上は食べられないから食べてくれないかと、炭治郎に聞いてきたものだった。せっかくの心遣いだからと自分でも食べる努力をしていたのだ。
それじゃあ自分があげるチョコは食べられないかと炭治郎がしょんぼりとすると、炭治郎のを絶対に食べたいからこれだけで十分なんだと笑ってくれた。
だから炭治郎は、保育園に通っていたときにはバレンタインには必ず、小さなチョコを義勇に渡していた。
最初は保育園のおやつのお徳用チョコ。次の年にはコンビニで買った一粒ずつ売ってる小さなチョコレート。その次の年は板チョコ一枚。少しずつグレードアップしていったチョコは、そこで終わった。
炭治郎が義勇にバレンタインのチョコを渡したのは、保育園に通っている間だけだ。小学校に上がってからは、クラスの皆が言う「男がチョコを渡すのはおかしい」という言葉にショックを受けて、渡せなくなってしまったから。
自分が変だと言われるだけなら、俺は義勇さんが大好きだからいいんだと笑えただろう。けれど、受け取る義勇までもが変だと言われ、きっと本当は嫌がってるはずだと言われてしまえば、炭治郎にはチョコを渡すことなんて、できるはずがなかった。
バレンタインは、大好きな人にチョコレートをあげる日。なのに大好きな義勇に、炭治郎がチョコレートを渡すことは許されない。
それが哀しくて、恋心を自覚してからはなおのこと、切なくて苦しくて。親友の善逸とは違う意味合いとはいえ「くたばれバレンタイン」と喚きたくもなった。
けれども、今年は違う。だって恋人なのだ。男だけれど炭治郎は義勇の恋人。堂々と義勇に自分の恋心のこもったチョコレートを渡せる日になった。
実に十三年ぶりになるチョコレート。しかも今度は、恋人として。
となれば、悩むのも道理だろう。
ようやく渡せる恋人としてのバレンタインチョコだ。誕生日に失敗した分も、ここで張り切らずしてどうするってなものである。
誕生日のケーキのリベンジに、チョコレートケーキというのも考えなくはないのだが、正直自信はない。あれだけ特訓したのにスフレチーズケーキは失敗したのだ。にわか仕込みのケーキは誕生日の二の舞を演じる可能性が高い。
既成のチョコレートを買うよりほかないが……正直に言おう。予算がない。
誕生日プレゼントやらなんやらで、炭治郎の貯金はかなり目減りしている。からっけつとは言わないが、義勇が貰う女子たちからの本命チョコよりも特別感のあるチョコを用意するには、少々心許ないのは事実だ。
禰豆子や花子にリサーチした結果、本命チョコの相場は二千円から三千円程度らしい。それぐらいなら炭治郎だってなんとかなる。
だけれども、初めて恋人として祝うバレンタインであるうえに、誕生日のリベンジを兼ねるとなれば、やはりもうちょっと張り込まなければ炭治郎の気が済まない。
禰豆子たちに言わせると、恋人になってからのバレンタインならチョコは千円程度で代わりにプレゼントを渡す人も多いらしいが、そうなると、チョコはともかくプレゼントにまた悩む。
当初の予定では、義勇に炭治郎の財布事情を心配させないようプレゼントは諦めて、二千円ぐらいのチョコを準備するつもりだった。それぐらいなら義勇を心配させることなく喜んでもらえるだろう。
バイトを始めたとはいえ炭治郎はまだ学生で、生活費のほとんどは義勇が負担してくれている。
炭治郎がどうしてもと言い募って出している家賃は、義勇との交渉の結果、月に一万五千円。家賃の半分にも満たない。それに加えて食費や光熱費、生活に必要な諸々の諸経費は、主に義勇の財布から出ているのだ。
実際に財布のひもを握っているのは、義勇から丸投げされた炭治郎だけれども、義勇へのプレゼントや祝いの料理の費用までそこから捻出するなど、炭治郎の性格上、できようはずがなかった。
先日の誕生日に、プレゼントや料理の材料費、そして特訓用を含めてのケーキの材料費を炭治郎の貯金から出した結果、バレンタイン用の予算はかなり絞られている。当然、バレンタインも料理はいつもよりちょっと特別にするつもりだったから、チョコレートはコンビニで買えるうちのちょっといいものを。
それぐらいなら、義勇も気兼ねなく喜んでくれるはず。そう思っていたのにこのザマだ。
しかも風邪を引いた炭治郎を、義勇が自由に出歩かせてくれるわけもなく、過保護っぷりをいかんなく発揮した義勇によって、炭治郎は実に三日間もベッドに留め置かれた。
予算も日程も、あまりにも少なかったのだ。
そんなわけで、炭治郎は朝からうんうんと悩んでいる。リベンジの意気込みとは裏腹に、打つ手はあまりにも少ない。病み上がりに、バレンタインチョコを買い求める女性で賑わうデパートへなど行ったことがバレようものなら、義勇の眉間にきつい皺が寄るのは間違いなしだ。それぐらいはいい加減炭治郎も学習している。
どうやら炭治郎が思い描いていたよりも、義勇が炭治郎を想う気持ちは存外深いらしい。近ごろになって、炭治郎はようやくそれを理解しつつあった。
いつかは厭われる、飽きられる、捨てられる。そんな不安はまだまだ消えないけれども、今のところ、義勇の愛情は一心に炭治郎に向けられているようだ。
それについては疑いようがないのだと、先日の義勇の誕生日でようやく思えるようになってきた。
義勇が望むのは、炭治郎が我儘も不安も義勇の前では曝け出して、義勇にすべてを見せ委ねること。炭治郎自身が捨て去りたいと厭う嫉妬や独占欲も、義勇は受け止め、それこそが望むものだと言わんばかりに炭治郎を甘やかす。
全面的にそれに乗っかる度胸はまだないが、じわじわと義勇の愛情は炭治郎に染み込んで行き渡り、いずれ炭治郎の全身は指先や爪先までどころか、髪の一筋一筋に至るまで、義勇の愛で染め上げられるのではないかと予感している。望むところだ。そんなもの喜ばしい以外の何物でもない。
もとより炭治郎の体も心も、義勇への愛に染められているのだ。互いの愛が混ざりあい染め抜かれる日なんて、待ち遠しいし嬉しい以外、言うべき言葉などあるはずもなかった。
とはいえ。
義勇の心配性なまでの過保護っぷりは、こういうときには少々厄介だ。もうすっかり元気なのだから、多少の人混みに赴いたところで、ぶり返すわけがないと思うのに、義勇はきっとへそを曲げるだろう。
炭治郎が渡すチョコを喜んではくれるだろうが、そのあとできっと、無理をするなと言っただろうと眉間に皺を寄せて、もしかしたら炭治郎を再びベッドの住人にしかねない。
べつの意味でそうされるのは、気恥ずかしくも嬉しいけれども。
いや、もしかしたら、どちらの意味合いも同時に果たされる可能性はあるか。
そんなことを考え炭治郎は、我知らず熱くなった顔を覆って、テーブルに突っ伏した。
想像してしまったそれに一人身悶える。だって誕生日は結局なにもできなかったのだ。いつも通りに腕枕で添い寝してもらって終り。愛しくて愛しくてたまらない温もりに、寄り添い抱き締められていたというのに、なにもなし。
義勇の誕生日という、炭治郎にとって一番特別な日だったっていうのに! いや、熱だって出てたし、ムニャムニャな場面に突入するわけには体調的にも無理だったけれども!
けれども風邪も治った。今日はバレンタイン。甘い甘い恋の日だ。それなら展開的にそちらの意味でもリベンジは当然あるんじゃないのか? 明日も義勇は休日出勤だから、一晩中というのは無理だとしても、ちょっとぐらいは……。
うわぁっと叫びだしたくなって、炭治郎はジタバタと足を揺らした。まだ午前中だというのにこんな想像が頭を巡るなんて、自分で自分に呆れてしまうけれど、赤くなる頬を止められない。
「いやっ、こんなことしてる場合じゃないんだった!」
うっかりと義勇の汗の味やら、そのときの匂いやらまで思い出してしまっていたけれども、そんな場合じゃなかった。時間がないのだ。義勇は今日も帰りが遅いだろうけれど、まだなんのプランも定まっていない状況では、このままなにもできずに終わりかねない。
そうしてまた、どうしようとうんうんと悩みだしたところで、ピンポンと玄関のチャイムが鳴った。
来客の予定はないが誰だろう。思いながらドアのスコープを覗けば、禰豆子が立っていた。
「禰豆子っ、どうしたんだ? こんな早くに」
慌ててドアを開けると、禰豆子は呆れたように苦笑した。
「十一時は早いとは言わないよ、お兄ちゃん」
「えっ、もう十一時!?」
驚く炭治郎に禰豆子はいよいよ呆れた顔をして、大きな紙袋を差し出してきた。
「義勇さんの誕生日に風邪ひいたって聞いたから、はい、これ」
お兄ちゃんのことだから、きっとどうしようって悩んでると思ってと渡された紙袋のなかには、陶器の鍋やピックなどが入っているようだ。
「鍋ならうちにもあるぞ?」
「それね、フォンデュ鍋なの。お兄ちゃん、義勇さんへのバレンタインチョコ、まだ用意できてないんじゃないかと思って。チョレートフォンデュにすれば、商店街でチョコと果物とか買うだけで、ちょっとオシャレなバレンタインチョコになるでしょ?」
花子と私から、お兄ちゃんと義勇さんへのバレンタインチョコの代わりにプレゼントと、笑って言う禰豆子に、炭治郎はぽかんと口を開いた。
我が妹ながら推察力と気遣いが凄い。そしてありがたい。
「うわぁ、ありがとう禰豆子! 花子にもお礼を言わなくちゃっ。ホワイトデーには三倍返しにするからな! あ、ごめん! 寒いだろ、入ってくれ」
「いいよ。これから待ち合わせなの」
笑いながらもう一つ持っていた小さな紙袋を掲げてみせる禰豆子は、寒さのせいばかりでなく少し頬が赤い。
「あぁ、善逸かぁ」
「うん。善逸さん手作りチョコ欲しがってたから、フォンダンショコラ」
頑張っちゃったと言って、くふんと笑う禰豆子の顔は嬉しそうだ。見慣れた顔なのに、炭治郎が知る妹の顔ではなく、恋をしている少女の顔で禰豆子は笑う。
ほんのちょっと浮かんだ寂しい気持ちを飲み込んで、炭治郎も笑った。
「そうか、きっと善逸も喜ぶよ! あ、ちょっと待っててくれ。俺も買い物に行くから商店街まで一緒に行こう」
急いで紙袋を台所に置いてくると、炭治郎はコートを着こんで玄関を出た。マフラーもしっかり巻いておく。また風邪を引くなんて冗談じゃない。
「お待たせ、禰豆子。行こうか」
商店街へと続く道を禰豆子とのんびり歩く。禰豆子が話すのは家の様子や善逸のこと、春から通う専門学校への期待と不安。それに答えてやりながら、炭治郎も大学のことや家のこと……つまりは義勇のことなどを、あれこれ話す。
俺もチョコを手作りできたら良かったけどとちょっぴり愚痴を洩らせば、それならパンは自分で焼いたらどう?とアドバイスをくれたりもしたので、フルーツのほかに具材としてクロワッサンを焼くことに決めた。
意外なところでポテトチップも合うよなんて言葉に、ジャガイモも少しばかり購入。聞いていた八百屋のおじさんまで、チョコにポテトチップ!?と炭治郎と一緒に驚いていたのがおかしい。
イチゴやバナナ、キウイや林檎にマシュマロと、禰豆子お薦めの具材を買って、忘れることなくチョコと牛乳も買えば買い物は終了。
これなら義勇にもきっと喜んでもらえるだろうし、ちょっとしたサプライズの雰囲気も楽しめそうだ。すっかり安心して、エコバッグを手に結局駅まで禰豆子を送った炭治郎を、不意に禰豆子はしみじみと見つめてきた。
「お兄ちゃん……もうすっかり義勇さんちの人だね」
「え?」
「気づいてた? お兄ちゃん、義勇さんちのことを話すときに『うち』って言ってるんだよ? お兄ちゃんがうちって言うのは、もう義勇さんと一緒に暮らすあのアパートなんだね。あのアパートは、義勇さんの家じゃなくてお兄ちゃんの家でもあるんだなぁって……」
わかってたはずなのに、ちょっと寂しいなって思っちゃったと、禰豆子は言葉とは裏腹に嬉しげに笑う。
「私も結婚したらそうなるのかなぁ」
「禰豆子結婚するのか!? ま、まだ早いぞっ、せめて善逸が就職してしっかり生活が安定してからじゃないと、兄ちゃんは許しません!」
思わず喚いた炭治郎に、禰豆子はいよいよ楽しそうな笑い声を立て、手を振った。
「まだ結婚なんてしないよ、お兄ちゃん気が早すぎ。それにね、お兄ちゃんは私にそんなこと言えないと思うんだけど? 高校を卒業したとたんに同棲してるのは、どこのどなたでしょうね~」
それを言われると、と言葉に詰まり真っ赤になった炭治郎に、禰豆子はなおも笑って
「じゃあ、バレンタイン頑張ってね!」
そう言い残し改札へと入っていった。ホームへと消えていく禰豆子を見送り、炭治郎は小さく苦笑する。
たしかにどの口が言うってものだ。でも善逸と俺の義勇さんじゃ、甲斐性は全然違うぞと、内心思ったことは禰豆子には内緒にしておこう。
ともあれ、これで誕生日のリベンジはできそうだ。
さぁ、うちに帰ろうと、歩きだした炭治郎の足取りは軽かった。
悩んでいる内にすっかり忘れかけていた家事を済ませたら、クロワッサンづくりに取り掛かる。
義勇が買ったオーブンレンジに発酵モードが付いていたのは助かった。
まぁ、自炊などほぼしなかった一人暮らしの義勇が購入するには、あまりにも無用の長物な機能ではあるけれども。
図々しいと思いつつも、二人で暮らすことは運命だったのだという天の思し召し……なんて、そんな感慨が胸に落ちて一人でついつい照れ笑いなんかしてしまう。
そうこうするうちクロワッサンの下拵えも済んで、あとは焼くだけとなったとき、再び玄関でチャイムが鳴った。
まだ義勇が帰宅するには早すぎるし、宅配便だろうか。思った瞬間にちょっと赤くなってしまったのは、届く宅配便の多くは義勇がネット購入するものだからだ。主にゴム製品だとか、それとともに必要な潤滑剤だとか……。
お陰で宅配便が届くたびに夜の営みに必要なアレコレが、頭のなかにポンッと浮かんで恥ずかしくなってしまうという、変な癖が炭治郎にはついた。
いやいや、蔦子さんからかもしれないし、母さんがなにか送ってくれたってこともある。
ふるりと頭を振って玄関に向かった炭治郎は、想像通りドアスコープの向こうに見える宅配便のドライバーの姿に、また少し頬が熱くなるのを感じながらドアを開けた。
小さな小包に貼られた伝票には、見知らぬ依頼主の名前。
ドクンと嫌な音を立てた胸がざわつく。受け取った荷物をテーブルへと運ぶ手は、少し震えていた。
どう見ても女性でしかない名前。品名は、チョコレート。
バレンタインデーに届くよう日付指定で、自宅に届く、チョコ。なんだそれ。
崩れるように腰を下ろしたら、椅子がガタンと音を立てた。
教職に就いて以来、義勇はチョコを家には持ち帰らなかったはずだ。少なくとも、生徒から貰うチョコは。
高校生のときと同じように、義勇が貰ったチョコは全部、竈門家のおやつになっているのだと思っていた。
でも、学校で貰うものがすべてとはかぎらない。もしかしたら、受け取りたいチョコは、こんなふうに自宅に送られたり、相手と逢って手づから貰っていたんだろうか。
嫌な想像ばかりがふくらむけれど、義勇は今、炭治郎の恋人だ。ここは義勇と炭治郎の家で、今まで一度だって女性が訪ねてきたことなんてない。
義勇はいつだって炭治郎を甘やかしに甘やかして、愛をこれでもかと注ぎ込んでくる。受け取るか否かの選択を炭治郎に迫るけれど、炭治郎が拒絶なんてしないことは、きっと承知の上だろう。
愛されている。疑いようのないそれを、疑う自分が嫌だ。
いつか迷惑がられて嫌われる日がくるんじゃないかと、いつだって不安で、嫌われたくなくて。そんなふうに義勇を疑う、自分が嫌いだ。
去年まで、バレンタインにはいつも不安だった。食べるのは一つだけでいいとチョコのパンを買っていく義勇が、パンを買うことなく貰ったチョコのなかのたった一つを、大事に食べるようになるんじゃないかと。いつだって、怖かった。
義勇がバレンタインに食べるチョコは毎年一つだけ。去年までは、これだけでいいと買っていった、竈門ベーカリーのチョコのパンを一つきり。今年からはパンではなく、ましてやきらきらとした可愛らしい女の子たちから貰うチョコでもなく、炭治郎があげたチョコだけ食べることになるはずだった。
今年から義勇はチョコのパンも買わなくて、紙袋に入ったチョコの山を困り顔の禰豆子や花子か、やったと喜ぶ竹雄や茂にでも手渡して、一つもチョコを持たずに帰るのだ。義勇と炭治郎が二人で暮らすこの家に。
けれど、本当は。もしかしたら、本当は。今までだってこんなふうに、家に届いたチョコレートを大事に食べていたのかもしれない。
いや、届くとはかぎらない。綺麗な女の人と待ち合わせなんかして、チョコを貰っていたのかも。そのあとはどこかで食事でもして、そして炭治郎にしてくれるようなキスをして……嫌だ、駄目だ、考えるな。
炭治郎は必死に頭を振って、嫌な想像を追い出そうとした。
そんなことをしたって、頭のなかに住み着いた不安は消えやしないのに。
小学生になってからずっと、炭治郎はバレンタインが苦手だった。楽しげな禰豆子や花子を見ているのはいいけれど、学校で女の子たちがキャッキャとはしゃいでいるのを見るのはつらかった。だって炭治郎は渡せない。恋心の詰まったチョコレートを、大好きな人にあげることすらできない。
義勇が大学に進学して遠くに行ってからは、今ごろ義勇は好きな人と二人きり過ごしているんだろうかと考えては、嫌だ駄目だ俺の知らない誰かからのチョコなんて食べないで、俺の家で買ったパンだけでいいでしょう? 他のチョコなんていらないって言ってと、喚いて泣いて闇雲に駆けだしたくなった。
義勇が当時住んでいた街に、小学生の炭治郎が一人で行けるわけもないのに、走って走って心臓が止まりそうになるぐらい走って、もっと小さいころのように義勇に飛びつきしがみついてしまいたくなった。
抱き上げてくれる義勇の首に腕を回して、義勇の肩に埋めた頭を嫌々と振れば、きっと義勇はわかったと言ってくれるから。わかったから泣くなと炭治郎の頬を濡らす涙を拭い、炭治郎にココアをくれるはずだから。それだけは、炭治郎は疑わない。だっていつだってそうだったから。
いつでも義勇は、炭治郎が堪えきれずに泣けば抱き上げて、泣くなと涙を拭ってココアをくれたのだ。
そして義勇は……今年の誕生日に義勇は、全部くれると言ってくれた。全部欲しいと我儘を言った炭治郎に、偉いと笑ってくれた。
あぁ、そうだ。義勇は我儘を言えと、我慢をするなと言ってくれたのだ。そうしたら、もっと愛してやるからと。熱に浮かされていたからって、聞き間違えたりしない。
愛して。愛して。もっともっと、俺を愛して。願う炭治郎に、炭治郎が望むなら、すべてを義勇に見せるなら、全部お前のものになってやると、義勇は言ってくれた。
そのためならば努力もしよう。容易いはずだ。義勇の愛がほかの誰かの手に渡るのを、指を銜えて見ていることなんて、もうできやしないんだから。
義勇がそれを望むなら、長男の顔を少しだけ隠して、慣れない我儘だって口にする。全部見せて嫌われたらと、不安になる心はまだ消えないけれど、義勇は炭治郎に嘘なんかつかない。信じているんじゃない。知っているのだ。炭治郎は、それこそが事実だと知っている。
だからきっと、こんなのは杞憂でしかない。この女の人が義勇のなんなのかはわからないけれど、時期的にチョコを選んだだけで、特別な意味なんてないのかもしれないし。
でも。
でももしも、この人が義勇のことを好きだったら。
義勇も住所を教えるぐらいには、この人を憎からず思っているのだとしたら。炭治郎のことを好きだと言うその心のなかに、この人への気持ちが少しでもあるのだとしたら。
ぐるぐると嫌な言葉ばかりが頭を巡って、体の芯が冷えていく。クロワッサン焼かなきゃと、頭の片隅で思うのに、手足が動いてくれない。
チョコ味ばかりじゃ甘党じゃない義勇にはつらいだろうから、口直し用にチーズやベーコンを入れたやつも一緒に焼くのだ。きっと義勇は喜んでくれる。
あぁ、夕飯代わりだから、栄養も考えて温野菜のサラダも作らなきゃ。サラダに入れるチキンは多めにしよう。ポテトチップも手作りするんだから、そろそろジャガイモを切らないと。
ねぇ、この人は誰ですか? 義勇さんのなんですか? 知らない、こんな人。俺は知らない。
頭に浮かんでくるそんな言葉を掻き消したくて、炭治郎は想像する。義勇が帰ってきたときのことを。
寒いのが苦手な義勇は、端麗な顔をほのかに赤く染めて、ちょっと眉間に皺なんか寄せて帰ってくる。出迎えた炭治郎を見た瞬間に、その皺はほどけて小さく微笑むのだ。いつものように。
おかえりなさいと笑う炭治郎に、ただいまって優しく言って、冷えた腕で炭治郎を抱き締めてくれる。
駅に向かう途中で禰豆子に教えてもらったフォンデュのルールを義勇に教えたら、義勇はきっとちょっとだけ意地悪っぽい笑みを浮かべて、炭治郎にちょっかいをかけてわざと具材をフォンデュ鍋に落とさせるだろう。そうして言うのだ。落としたらキスをふるまうんだろう?って。
炭治郎が真っ赤になって頬にキスしたら、自分は落としてないくせに、お返しって笑って唇にキスしてくれたりなんかして。きっとそう。そうなるはずで。
こんなチョコ、いっそ投げ捨ててしまいたい。俺の義勇さんにこんなもの送ってくるなと、ごみ箱にポイっと投げ入れて、生ごみと一緒に捨てちゃいたい。
そんなことができるわけもなくて、でも目に入るのはつらくてたまらない。
衝動的に掴み上げて、窓から放り投げそうになる自分を堪えるために、炭治郎はきつく目を閉じた。
ちゃんと。ちゃんと家のこともできるから。荷物が届いたならきちんと受け取って渡すし、隠したりなんかしない。いい子にできるから。いい子にするから。
あぁ、違う。我儘を言わなきゃ駄目なんだ。我慢しちゃ駄目なんだ。だってもっと愛してほしいから。義勇の愛が全部欲しいから。
でも。だけど。どこまでなら許される? どこまでだったら許してくれる? わからない。わからない。なんにも。
全部見せてしまうのは怖い。だって自分でも怖くなるぐらい義勇のことが好きなのだ。愛しているのだ。小さいころからずっと、ずっと。今ではあのころよりもっと、もっと、愛しているのだ。それはもう、果てがないぐらいに。
いっそこんな忌々しい荷物など、踏みつけて、踏みにじって、義勇の目に触れる前に捨ててしまえと、頭のなかで誰かがそそのかす。良い子の長男がそんなことしちゃ駄目だと叱る。自分で自分が信じられないほど、頭のなかはぐちゃぐちゃで、義勇の腕が恋しかった。
だから。
早く帰ってきて。こんなもので不安になるなんて馬鹿馬鹿しいと笑って、どうかお願い、抱き締めて。
どれぐらいそうしていただろう。三度目に鳴ったチャイムに、炭治郎はびくりと飛び上がった。とっさに確認した壁掛け時計の針は、八時半を指している。義勇が帰るのは遅いと思っていたけれど、もしかしたらバレンタインだから頑張って早く帰ってくれたのかも。そんな期待が込み上げて、炭治郎は慌てて玄関のドアを開けた。
あんまり勢いよくドアを開けたからか、義勇は少し驚いた顔をした。ビックリすると義勇の顔は幼くなる。それがなんだか可愛くて、いつもはきゅんとするのだけれど、今日はとにかく不安のほうが大きくて、おかえりなさいと笑うことができない。
義勇は紙袋を持っていない。きっと竈門ベーカリーに寄って渡してきたのだろう。良かったと少しだけ炭治郎はホッとした。それなら今日義勇が受け取るチョコは、炭治郎のチョコフォンデュ以外にはあの憎々しい小荷物のチョコだけだ。
思った瞬間に怒りと不安がまたふくれあがった。でも、まだそれを義勇に素直に見せられるほど、強くはなれない。義勇への恋はいつだって心に秘めるものだったから、見せるのが怖い。
だからちゃんとしなくちゃ。笑わなきゃ。おかえりなさいって言わなくちゃ。
思っていると手袋をしたままの義勇の手が、炭治郎の頬を包んだ。
「なにがあった? どうして泣いてる?」
「泣いて、る……? 俺、泣いてた?」
不安げに顰められる義勇の顔が、不意にぼやけた。本当だ。どうやら自分は泣いていたらしい。堰を切ったように溢れて止まらなくなった涙が邪魔をして、義勇の顔がよく見えない。
抱き締めて、ポンポンと背中を叩いてくれる手が優しい。部屋に入ろうと耳元で囁くように言う声が愛おしい。
だから大丈夫。テーブルの上のあれを見たって、義勇さんは大丈夫。俺のことをまた抱き締めてくれるはず。
自分に言い聞かせながら炭治郎は頷いた。でもやっぱり少し怖くて、離れるのが怖いと黙って腕にしがみついた炭治郎を、義勇はいきなり抱き上げた。小さいころと同じように。
「ぎ、義勇さんっ!?」
「離れるの嫌なんだろう? くっつかれたまま歩くより早い」
狭い玄関先で、炭治郎を抱き上げたまま器用に靴を脱ぎ──ブーツでなくて良かったと義勇は少し笑った──ほんの数歩のテーブルセットまで。炭治郎を下ろすことなく、テーブルに置かれた荷物を見た義勇は、とたんに腹立たしげに顔を顰めた。
「これか」
「……誰ですか?」
声は知らず咎める響きになった。それに気づいて炭治郎は、ヒヤリと走った不安に小さく震えた。
義勇の口からふぅと疲れたような溜息が一つ。喧嘩の原因と言い捨てて、そっと炭治郎を下ろした義勇は、いかにも嫌そうな顔で荷物を掴み上げると、そのままゴミ箱の蓋を開けた。
「だっ、駄目ですよ! 捨てるなんて!」
「お前を泣かせたものを捨てない理由なんてないだろう?」
嬉しい。けど、やっぱりそれはどうかと思うので。
「あの……分別、しないとっ、か、回収、してもらえない、から……」
食べ物を無駄にするなんてという感想よりも、まず浮かんだ言葉はそれだったあたり、やっぱり俺も腹が立ってるんだなぁと、炭治郎はまだ止まらない涙のせいでしゃくり上げながら言った。いつも言ってるのに、まだ覚えてないんですかと、泣きながらも小さく唇を尖らせてなんかみる。
そういうものか?と言いたげな義勇に、ちょっとだけ呆れる。一人暮らしのときだって、ゴミ出しのルールは今と変わらなかっただろうに。
けれど今は、その無頓着さに救われる。注意する人は、義勇の傍にはいなかったのだ。
炭治郎のように、まったくもうっ義勇さんたら駄目じゃないですかと、ちょっと怒ってみせる人は、誰も。
「これの始末はあとにしよう。座って待ってろ」
そう言って義勇は、炭治郎を椅子に腰かけさせると、流しに向かった。
食器棚から取り出したのは、炭治郎のマグカップだ。お揃いのカップは、炭治郎が赤、義勇が青を選んだ。
それは炭治郎がこのアパートに転がり込んだ翌日に、二人で商店街の雑貨屋で買ったもの。カップだけじゃない。箸や茶碗なんかもお揃いだ。歯ブラシだって、丁度いいから買い替えと義勇が言うから、お揃いで買った。全部、全部、義勇と炭治郎の分をお揃いで。
義勇の分は元々使っていたものでいいのにと言ったのに、いいからと言い切られて、全部お揃いで買ったあの日。今思えば、炭治郎を喜ばせるためだけでなく、義勇も浮かれていたんじゃないかと思う。
「これは?」
問う声に物思いから覚めて、振り返る義勇を見れば、義勇の手には真っ白なフォンデュ鍋。炭治郎は、義勇が手にしたそれに、またぽろりと涙を落とした。
「ね、禰豆子が……禰豆子と花子から、俺と、義勇さんへの、バレンタインプレゼントって。チョコレートフォンデュ、作ろうと思った、のにっ、俺、今度もなんにも、できてないっ」
「そうか……じゃあ、後で一緒に作ろう」
嗚咽を洩らした炭治郎に優しく言いながら、義勇が棚からミルクパンを取り出すのを、炭治郎は泣きながら見ていた。次に出すのはきっとココアパウダーの缶。それから牛乳。
ミルクパンに、ココアと砂糖を入れる義勇の手付きは、手慣れている。迷いないそれは、義勇が何度もココアを入れてきた証明だろう。
調味料も調理器具もろくにない義勇の部屋に、ココアとミルクパンは最初からあった。誰のために使ってきたのかを考えると、哀しくなるからやめておく。
初めて小さな喧嘩をした日も、こうだった。
言いたい言葉はいっぱいあるのに、全部我儘にしか思えなくて、迷惑だと思われたくない嫌われたくないと、ぐっと唇を噛んで黙り込んで俯いた炭治郎に、義勇は小さく溜息をついた。少し待ってろと言い置いて、あのときも義勇が淹れてくれたのはココア。
義勇は昔から、炭治郎が泣くとココアをくれる。始めのうちは自販機の缶ココア。高校生の終わりころには、泣く炭治郎をうちに来るかと誘ってくれて、自分の手でココアを作ってくれるようになった。
義勇の家の台所で、コトコトと温められるココアの香りに包まれて、小さな炭治郎は義勇の背を見ていた。甘い、美味しいと、笑った炭治郎の頭を撫でて、そうかと微笑む義勇の顔。なにもかも全部、覚えている。
ココアを淹れるのには少し時間がかかる。ココアを練る義勇の背を見ながら、炭治郎はゆっくりと泣き止んでいく。いつでもそうだった。だからココアの匂いがすると安心する。もう大丈夫、義勇は自分を抱き締めて、優しく笑ってくれると炭治郎は知っているから。
「……喧嘩の原因って?」
置かれたままの荷物を見ないようにして、ぽつりと呟いた炭治郎に、義勇は手を止めぬまま言った。
「喧嘩しただろう? 馬鹿女のせいで」
「口、悪い」
「事実だからしかたない」
振り返ることなく言い捨てる義勇に、ほんの少し笑う。
そういえば初めての喧嘩の原因は、研修後の飲み会の帰りに、酔ったふりをした女教師に義勇が迫られたことだっけ。ならこの荷物はその女教師からか。たしか、美人で、巨乳。
研修会は秋だったのに、まだ義勇のことを諦めてないなんて、本気で義勇のことが好きなのだろうか。義勇は本気になられるようなことをしたんだろうか。
ココアの香りに感じる安堵を潜り抜け、ぞわりと頭をもたげた嫉妬に、炭治郎はぐっと眉根を寄せた。
「住所……」
「教えてない。飲み会の幹事があの馬鹿女の同僚だったはずだ。写真を送るからと連絡先を聞かれた。多分そこら辺から漏れたんだろう」
拗ねた響きが滲んだ炭治郎の声を、義勇はしっかりと感じ取ったようだ。
あとで苦情を申し立てておくと言う義勇の声に、まるで嘘は感じられなかった。ココアの香りが漂いだした台所で、義勇の清流のような淡い匂いは紛れてしまうけれど、きっと嘘の匂いなんてしないだろう。
牛乳を注いで火をかけたミルクパンから、立ち上るココアの香りは甘くほろ苦い。まるで炭治郎の恋のように。
義勇への恋は、甘いばかりじゃない。
ずっと切なくて苦しくて、苦い想いを炭治郎は飲み込んできた。それでもやっぱり大好きで、逢えれば嬉しいし微笑まれたら舞い上がった。恋心が受け入れられてからは、甘く、甘く、どこまでも甘く、だけどやっぱり少しだけほろ苦さが奥底に。
コトリとテーブルに置かれた赤いマグカップのなかで、ココアが揺れる。飲み込むのは恋の味。甘くてちょっとほろ苦い。
「……美味しい」
「そうか」
微笑む義勇に炭治郎も小さく笑った。涙が残る頬を子供のように拭われるのも、昔と変わらない。
いつまでも、こんなふうに涙を拭ってくれたらいい。炭治郎が泣いたらココアを淹れて、涙を拭って、微笑んでほしい。何度でも、何年でも。繰り返し、いつまでも。
ココアを飲み終え泣きやんだ炭治郎に、義勇は手伝うと言って一緒に台所に立った。
結論から言えば、義勇の手伝いは子供のそれと変わらなく。炭治郎に作ってくれた粥も、実はレトルトだったと判明したわけだけれど、問題はない。
お前が俺に教えてくれるんだろう? なぁ、先生? なんて、少しだけ悪戯っぽく言われたら、炭治郎が舞い上がって良い子の返事をするのは当然だから。
フォンデュ用のチョコはビタースウィート。ココアと同じく甘くてほろ苦い、義勇好みのチョコレート。
食事の前に邪魔な荷物は片付けてしまえと、開けた忌々しい荷物の中身は本気の現れのようなゴディバだった。炭治郎には手が出ないお高いチョコは、明日には竈門家のおやつになる。一緒に入っていた手紙は、封筒から出すまでもなく義勇の手で丸められて、ゴミ箱に投げ入れられた。
チョコレートフォンデュを食べながら、義勇が具材を鍋に落としまくったのは、きっとわざと。そのたび頬に、額に、蟀谷にと、チュッと可愛らしいリップ音を立てて落とされるキス。
炭治郎も何度も落としてしまったので、キスの回数はもう数えきれないほど。
口直し用のクロワッサンの残りは、明日の朝食に。温野菜サラダも全部すっかり平らげたら、一緒に並んで片づけをしよう。そしてきっと、キスをする。抱き合って優しく唇を合わせて。
キスはきっと甘くて、ほんのちょっぴりほろ苦い。ビタースウィートなチョコの味。それがきっと自分と義勇の恋の味なんだろう。
炭治郎に恋の味を飲み込ませてくれるのは、いつだって義勇だ。そうしていつかきっと、炭治郎の心にも体にも、義勇の愛が染み渡る。
炭治郎の唇から、炭治郎の恋の味も義勇に飲み込まれていく。義勇が飲むのはそれだけでいい。義勇の心も体も、炭治郎の愛が染み渡って混ざりあって、全部全部炭治郎のものになる。
二人の恋の味はいつまでも同じ味。そのためだったら炭治郎はなんだってできる。義勇が望むように、我慢をしないなんていう炭治郎のアイデンティティを揺るがすことですら。まぁ、多少時間はかかるかもしれないが。
毎年、バレンタインの夕飯はチョコレートフォンデュにしよう。来年も、再来年も、その次もずっとと、義勇はなんでもないことのように言う。いつまでもと。
だからきっと、バレンタインにするキスは、いつまでだってビタースウィート。
恋の味をいつまでも、義勇と二人で味わうのだ。