夜明け前になって帰ってきた義勇は、げっそりとした顔で文机に向かうなり、一度も立ちあがることなく筆を走らせている。
ときどき筆を止め、考え込むようにわずかに上向いたり、思わずといった具合に髪を掻きむしったりするが、それでも文机の前からまるで動かないままだ。
炭治郎がいることになど、まったく気がつく様子がない。
うーん、珍しい。
行灯の光に照らされる全然振り向かない背中を見つめながら、炭治郎は息をひそめて、胸中でしみじみとうなった。
いつもの義勇なら、炭治郎の気配ぐらいすぐに気がつく。だというのに、今日はまるで気づいた様子がない。
炭治郎が家にいるだなんて、まったく思ってもみないからだろうけれど、それにしたって珍しいこともあるものだ。こんなふうに無防備とも言える背中を炭治郎に晒す義勇など、炭治郎は一度も見たことがない。
炭治郎の視線に気づかない義勇は、書きあぐねているのか何枚も紙を反故にしている。くしゃくしゃと丸めた紙をポイっと放り投げるなんて無作法な真似を、あの義勇がしていると思うと、妙な感慨さえ炭治郎は覚えた。
盗み見しているとしか言いようのない状況に、ちょっと後ろめたさはあるのだけれど、それでも声をかけるのはためらわれる。だってこんな義勇を見る機会なんてもう二度とないかもしれないのだ。
留守宅に勝手に上がりこんで、うっかり眠っていた自分が悪いのだけれども、まったく気がつかれないというのも寂しいなと、ちょっとだけ思い始めたりもする。とはいえ、やっぱり見ていたい気持ちのほうが大きいのは否めない。
炭治郎に気づかないということは、義勇は完全に素だ。誰の目も気にしていない、柱でも鬼殺隊士でもない、ただの冨岡義勇がそこにいる。炭治郎が一度も目にしたことのない義勇だ。
いや、義勇がずっと書いているのは報告書なりなんなりで、きっと鬼殺隊士としての責務ではあるのだろうけれども。それにしてはまったく進まずにいるような辺りも、珍しいことこの上ない。
指一本ほどの襖の隙間から垣間見える義勇の背中は、疲れがにじんで見える。鬼の出現が途絶えている今、義勇ほどの人がはた目にも疲れ果てて見えるなんて、一体なにがあったのだろうか。
床に転がる反故は少しずつ数を増やしている。書いては止まり、くしゃくしゃと丸めた紙を放る。その繰り返し。ときどきため息までついている。
また書きそこねたらしい。ポイっと投げられた紙が、義勇の苛立ちを表すかのように勢いよく襖のほうまで転がってきた。
もうちょっと襖を開いて、手を伸ばせば届く。
そわりと好奇心がうずいたが、炭治郎は、ダメダメと首を振った。
いくらなんでもそれは駄目だろう。もしかしたら重大な機密事項だったりして、だからこそ義勇はあんなに苦心しているのかもしれないのだし。それに襖を開けばさすがに気づかれるに違いない。
思うけれども、義勇がとうとう筆を置き、頭を抱えて文机に突っ伏してしまえば、心配が背を押した。
音を立てぬようにそぅっと襖を開く。気づかれたら気づかれたで、謝り倒してお茶でも淹れて、少しでも気分転換の役に立てたらそれでよい。
だが、義勇は煩悶から抜け出せぬのか気づく様子がない。いよいよ炭治郎の心配はいや増した。
これはもうただ事じゃないと、そっと丸められた紙を取り、襖の影でこっそりと開く。音を立てぬよう恐る恐る開いた紙にわずかに覗いた文字が、炭治郎の息を止めた。なんなら時も止まった気がする。
『心よりお慕い申して』
機密事項には違いがなかろう。これは自分ごときが勝手に見てはいけないものだ。
だって、これはきっと恋文だ。義勇の心だ。誰かに、向けた。
慕の字が不意に滲んでぼやけた。まだ乾かぬ墨がポツンと落ちた雫に溶けて、真白い紙に滲みを広げていく。
ポタリ、ポタリと雫は落ちて、『お慕い』の文言が溶ける。義勇の心を穢している気がして、炭治郎はギュッと目をつぶった。
悲しいなんて、思うことすら不遜が過ぎる。勝手に盗み見ておいて傷つくなんて、傲慢にもほどがある。思えども涙は止まってくれそうにない。
震える息を吐きだして、再びそっと覗き見た義勇は、まだ頭を抱えている。炭治郎の視線に気づいた様子はない。
他者の気配や視線にすら気づけぬほどに、今、義勇の脳裏は、心は、恋しい人で占められているのだろう。
それでも、このまま気づかれぬわけもない。見つかる前に自分から謝らなければ。
勝手に上がりこんでごめんなさい。覗き見なんかしてごめんなさい。
それから……。
それから?
恋文を見てしまいました? それとも……好きになってごめんなさい?
それは、言わぬが花だろう。
隠し事など大の苦手だ。けれどもこればかりは言ってはいけない。義勇の心は義勇だけのものでなければ。そして、義勇から捧げられる誰かだけのもの。
口元だけでひっそり笑い、炭治郎は乱暴に目をこすった。涙など見せるわけにはいかない。
よしっ! と覚悟を決めたものの、勢いよく襖を開くことはできなかった。切り出す言葉は決められない。ごめんなさいのその次に紡がねばならない言葉に、自信なんてまったくなかった。
誰だって心に秘めた真摯な恋心を、勝手に暴かれたくなどない。炭治郎だって、誰かがおまえが好きな人わかっちゃったごめんな、などと言ってきたら、困る以上に悲しくなるだろう。
ごまかすことは苦手だけれど、こればかりはごまかしきらねば。考えはまとまらぬまま、それでも少し時間が欲しくて、炭治郎は気配を消してそっと襖を開いていった。
音を立てずに襖を開き、そっとそっと、義勇へとにじり寄る。義勇はまだ気づかない。本当に珍しい。その稀有な様子に胸が痛む。
息を詰めて、震える指先でちょんと義勇の羽織の背に触れた。
「――っ!! たっ」
飛び上がらんばかりに――というか、本当に飛び上がって振り向いた義勇の顔は、これまた珍しい仰天顔だ。驚く顔は見たことがあるが、ここまで呆然自失としている様など見たことがない。言葉も出てこないのか、炭治郎、と名を呼ぶのすら最初の一音のまま口をあんぐりと開けてしまって続かずにいる。
「あの、すみません……」
いたたまれず身をすくめて謝れば、義勇は、ハッと表情を変えると書きかけらしい文を文箱に戻そうとした。
あわて過ぎたのだろう、手からはらりと落ちた紙が、炭治郎の前に落ち――る前に、とんでもない素早さで義勇の手にさらわれた。
だけど。
大きく見開いた炭治郎の目に、書かれた文字を知られたことを悟ったのか、義勇の顔は少し青ざめている。
いっそ悄然として見える義勇を、炭治郎はまじまじと見つめ返した。義勇の瞳は、その視線に堪えられなかったのか、すぐにそらされてしまった。
「義勇さん……すごくお疲れみたいですけど、今日はなにがあったんですか?」
目に焼きついた文字が、炭治郎の声から抑揚を消す。飲みこみきれない事実は、現実のことではないように感じて、自分でもなにを言い出してるんだかわからない。
義勇もまさかそんな問いかけがくるとは予想だにしていなかったのだろう。もしかしたら見られなかったのかとの期待もあったに違いない。居心地悪げに居住まいを正すと、炭治郎の目を見ぬまま「胡蝶につかまって、無理難題を言われた」とぼそぼそと言う。
「はぁ……無理難題……」
言われてポンっと思いついたのは、あまり通えなかった尋常小学校での思い出だ。
いじめっ子が、友達の少ない級友に偽の恋文を書いてからかおうとした。人の気持ちをもてあそぶようなことは許せなくて、やめろ、関係ないだろと、喧嘩になったのを思い出す。仲直りする間もなく父の容態が悪化して、そのまま退学してしまったから、あの子とはそれきりだ。
真っ先に思い浮かんだ記憶は、まさかそれはないと思いながらも、炭治郎の涙腺を潤ませる。
「炭治郎っ!?」
「……からかいの、文、ですか?」
やめろと頭のなかで誰かが言う。しのぶがそんなことを言うわけもないし、義勇がそれに従うなど絶対にない。わかっているのに、疑惑が消えない。
だって、竈門炭治郎殿、なんて。そんな書き出し、ふたりが悪戯する以上にあるわけがない。
「からかい? なんのことだ?」
「偽物の恋文じゃ、ないんですか……?」
それだけで全部悟ったのだろう。義勇のまなじりがキッとつり上がった。
「そんなわけあるかっ!」
怒鳴ったあとで、また悄然と肩を落とす義勇を、炭治郎は呆然としたまま見つめていた。
義勇はこんな悪質ないたずらをする人じゃない。もちろん、しのぶも。わかっているのに、まだ信じられなくて。
「……胡蝶に、なぜか知られていて、なにがどうあっても伝えるべきだと」
なにを? 誰に? 義勇はいつだって言葉が足りない。
「恋文など、柄じゃない。書いたこともない。どんな言葉でも足りない気がして、何枚も紙を無駄にした」
知ってる。床に証拠も転がっている。いくつも、いくつも。
落ちた沈黙。外で雀の声がする。夜が明けたらしい。静かだ。竹林の外れが、潮騒に似た音を響かせている。
早朝の屋敷には、炭治郎と義勇しかいない。早起きな雀にだって、交わされる会話は聞かれていないだろうに、やっと口を開いた義勇がそっと呟いた言葉は、たいそう小さな声だった。
「おまえが……好きだ」
朝日が差し込んで、義勇の白い顔を照らす。瑠璃の瞳が炭治郎をまっすぐ見つめていた。秀麗な顔には、諦観がほの見える。
義勇の唇がまた動いた。
「す……炭治郎!?」
すまない。きっと、義勇はそう言おうとした。だから、炭治郎は勢いよく義勇に抱きついた。
だって聞きたくないし言わせたくない。謝罪の言葉なんて。
謝らなければいけないことは、炭治郎のほうがずっと多い。義勇が謝ることなんてひとつもない。
それから、炭治郎が謝るべきことも、ひとつは確実に減った。
好きでいても、もう許されるのだから。