2 炭治郎視点
恋に落ちたその瞬間は覚えていないけど、恋を自覚したその瞬間はよく覚えている。
痣のことを聞いたとき、真っ先に思い浮かんだのは禰豆子の顔だった。
無惨を斃しても、俺が禰豆子を守ってやれるのは後十年。でも、悲しい気持ちにはならなかった。
だって十年もある。禰豆子は気立てもいいし器量もいい。人に戻れたら、禰豆子はその十年の内にきっと、いい人に見初められて嫁に行くだろう。もしかしたら子供も産んで、幸せに暮らしていけるはずだから。
善逸や伊之助だって禰豆子を守ってくれるだろうし、心配なんてすることない。だから十年という命の期限も、悲しいとは思わなかった。
次に浮かんだのは、無口な兄弟子の顔だった。俺に鬼滅の道を示してくれた人。禰豆子と俺を、自分の命を懸けて守ってくれていた人。
初めて逢ったときはただただ怖くて。でも、思い返すといつも、きれいな人だったなって思ってた。
鬼殺隊に入ってから、きれいな人には何人にも逢った。珠代さんやしのぶさん、鯉夏さんや遊郭のお姉さんたち。宇髄さんだってすごく整った顔をしている。甘露寺さんやカナヲだってかわいらしい。もちろん、禰豆子や母さんだってとっても美人だと思ってる。
でも、きれいという言葉で真っ先に思い浮かぶのは、なぜだかいつも、義勇さんの凪いだ水面のように静かな顔だった。
義勇さんの顔が思い浮かんだときに、十年というのはとても短い時間だと焦った。十年もあるんじゃない。十年しかないんだ。
無惨を斃した後まで生き延びられても、俺の命は後十年。その内でいったいどれだけの時間をあの人といられるんだろう。無口で、いつだって言葉が足りなくて誤解されてしまう、あの人と。なにを考えているのかわからない顔をした、でも本当はとてもやさしいあの人と。
残りの十年で俺があの人と一緒にいる時間より、ほかの誰かのほうがきっと、長い時間をあの人と過ごすんだ。義勇さんの隣で、義勇さんに話しかけて、もしかしたら返事をしてもらえたりもして。義勇さんと一緒にご飯を食べたり、一緒にどこかへ出かけたり。それはきっとかわいらしくて、とてもやさしい女の人だったりするんだろう。
たとえばそう、しのぶさんや甘露寺さんのような。
ズキズキと胸が痛んだ。グラグラと頭のなかが揺れる。義勇さんの手がやさしくその人の手を取って、やわらかく笑ってみせたりする。そんな光景を思い浮かべたら、涙が勝手にこぼれた。
悲しくて。悔しくて。見知らぬ未来の義勇さんの恋人が、憎らしいと思ってしまった。
嫌だ、嫌だ、嫌なんです。あなたの隣にいるのは俺がいい。俺はお喋りだから、きっと話しかけるのは俺ばかりだろうけれど、相槌を返してもらえるだけでも幸せだ。女の人の柔らかくて白い手にくらべたら、傷だらけで固い俺の手なんて、握り締めたいとは思ってもらえないだろう。それでも義勇さんが少しでも触れてくれたら、それだけで俺はきっと舞い上がる。料理には自信があるんです。毎日だって義勇さんの好きなものを作るから、俺とご飯を食べてくれませんか? 稽古だってどんなに厳しくてもついていく。泣き言なんて絶対に言わない。それで、もしも。もしも鱗滝さんがしてくれたように、義勇さんにおまえはすごい子だって抱き締めてもらえたら。きっと、その瞬間に死んでもいいって思えるくらいに。
あなたが好きなんです。
それが、俺が恋を自覚した瞬間。
さて、恋を自覚したからといって、俺の生活のなにが変わるわけでもない。時間は忙しなく過ぎていく。
俺の恋心なんて義勇さんにしてみれば迷惑にしかならないだろうし、もしも気持ちが悪いと嫌われでもしたら立ち直れない。だから言うつもりはなかった。言っちゃ駄目だとも思った。
お館様からのお願いという大義名分のもと、義勇さんに毎日逢えただけでもうれしかったし、義勇さんの話も聞けた。蕎麦の早食い勝負だって、一緒にご飯を食べたことには違いがない。それだけで俺は十分満足だった。満足しなきゃいけなかった。
今は鬼舞辻討伐の悲願に向けて、鬼殺隊一丸となっての柱稽古の真っ最中。俺の初恋なんて、俺が一人で抱えていればいいだけで、ときどき無性に泣きたくなったり恋しさに胸が痛んだりしても、言うつもりなんてなかったんだ、本当に。
なのに。
義勇さんが稽古をつけてくれることになって、俺の望みがまた一つ叶った。
それだけでもうれしくてたまらなかったのに、義勇さんは休憩中、相槌どころか思い出話までしてくれた。おまけに子供っぽい笑みを見せてくれたりもする。それがあんまりかわいくて、ドキドキしてるのに気づかれちゃわないか心配なほど、ちょこんと座った義勇さんとの距離も近かった。
それどころか、義勇さんは遅い時間になったからと、屋敷に泊めてくれまでしたのだ。しかも、俺が作ったご飯を一緒に食べてくれた。義勇さんの大好物は鮭大根だってことも教えてもらえて、絶対においしく作れるように練習しようと胸に誓ったのは言うまでもない。
風呂を焚くために薪をくべてた俺に、どうせなら一緒に入るほうが湯も薪も節約になると声をかけられたときには、心臓が口からまろび出そうになったけど。大きな背中を流させてもらえて素肌に触れた手が、どうしようもなく震えているのに気づかれないかとヒヤヒヤもしたけど。もう死んでもいいかもなぁんて、ちょっぴり思っちゃったぐらいに、幸せでたまらなかった。
ところが、冗談じゃなくもしかして本当に今日が俺の命日!? って心配になるぐらい、恋心を抱えた俺に義勇さんの猛攻は続いた。
うちには客用の布団がない。狭いが一緒に寝るか?
なんて。
とんでもない義勇さんだ!! ひどい、ひどすぎる!!
もしかして義勇さんは俺の恋心に気がついてるんじゃないだろうか。知ったうえで俺をからかってるのか、はたまた、俺がこらえきれずに告白するのを待っているのか。隠されている内は袖にすることもできないから、早く口にしろと思ってるんじゃなかろうか。
そんな考えが沸騰した頭を巡ったけど、義勇さんがそんな非道な真似をするわけがない。意外と抜けたところのある人だとは、一緒にいられた短い時間でもわかったし。本当に布団がないのを忘れていて、善意で添い寝を申し出てくれたんだろう。少し落ち着いてみれば、匂いだってかすかに申し訳なさやバツの悪さを伝えてくる。
よく考えてみたら、こんな機会はきっともうない。義勇さんの体温がすぐ傍にあって、寝息が聞こえるほどの距離で眠れるなんてこと、この先の十年でもこの一度きりだろう。
だから恥ずかしさや高鳴ってどうしようもない胸の鼓動を押し隠して、はい! って答えた。眠れるかどうかは別にして。
まぁ、一度きりどころか、柱稽古をする日はすべてお泊りになったし、そのたび一つの布団で一緒に眠ることになったのだけれども。
そんなふうに望み通りの生活を送っていたものだから、俺はすっかり忘れていたんだ。義勇さんにとって、俺はただの弟弟子でしかないってことを。
その日は義勇さんが出かけると言うので、俺は宇髄さんのところで稽古させてもらうことにした。基本的な体力はいくらあったって損はしないし、久々に雛鶴さんたちにも逢いたかったから。
料理自慢は嘘じゃないけど、作れる種類はそんなに多くない。義勇さんにご飯を作るようになってから、そろそろ俺が作れる料理の献立も底をついてきてた。
それぐらいいっぱい俺の料理を食べてもらったってことだから、うれしい悩みではあったけど、困っていたのも確かだ。雛鶴さんたちに新しい献立を教えてもらえれば一石二鳥。そう思った。
今日は義勇さんがお出かけでと告げた俺に、あぁ! と、明るい声をあげた須磨さんは悪くない。
それでも、水柱様は今日お見合いだものねと笑って言った須磨さんの声は、俺の呼吸を一瞬止めるだけの威力を持っていた。
お相手は鬼殺隊の支援をしてくれている資産家のお嬢さんだとか。鬼に襲われかけたところを義勇さんに助けられただとか。とてもきれいで求婚者が後を絶たないほどの人だとか。
キャッキャと弾んだ声でうれしげに話す須磨さんの言葉は全部、どこか遠くで聞こえた。色を無くしていたらしい俺の顔色を心配して、どうしたのと尋ねてくれた雛鶴さんの声も、具合が悪いなら休んでいけばと気を遣ってくれるまきをさんの声も。すべてが遠くて、グラグラと地面が揺れているような気がした。
それから先は、よく覚えていない。気がついたら俺は義勇さんの屋敷に戻っていて、ぼんやりと縁側に座り込んでた。
わかってると思っていたはずなのに、俺は全然わかっちゃいなかった。恋をしているのは俺だけ。義勇さんは俺が弟弟子だから、やさしくしてくれるだけなんだってことを、忘れていた。
義勇さんにご飯を作るのも、一緒にご飯を食べるのも。義勇さんの背中を流してあげるのや、濡れた髪を拭ってあげるのも。一つの布団で寄り添い合って眠るのも。みんなみんな、今だけのこと。
稽古中はともかく、それ以外はいつだって、義勇さんからはやさしい匂いがしてたから。ときどき、うれしそうな匂いや楽しそうな匂いもしていたから。日を追うごとに、そんな匂いは強くなっていったから。だから錯覚してたんだ。義勇さんと恋仲になれたような気がしてた。
そんなこと、あるはずないのに。
悲しくて、苦しくて。俺の代わりに義勇さんとともに過ごす誰かがいることが、嫌で嫌でたまらない。泣いて縋って、俺だけ見てくださいと言ってしまいたい。義勇さんを俺から取らないでと、お見合い相手だという人に喚いてしまいたい。
そんなこと、絶対にできるはずもないのに。
そして不意に思い出したのは、命の期限。ふたたび鬼が出現したそのときが、きっと無惨との決戦になるだろうとのお館様の読みが確かなら、その日が俺の命日になる可能性は高い。
もしも、討伐戦を生き延びられたとしても、だ。俺には命を削る痣が出ている。いずれにしても俺に残された時間は十年間。この先十年生きるとして、きっと俺はその十年間、義勇さんを想い続けて生きるだろう。嫌いになんてなれないし、義勇さんが誰かと結婚しても、恋心はきっと消えてなんてくれやしない。
十年しかない。でも、十年もある。まだ十五年しか生きてない俺からすれば、想うだけの十年は、途方もなく長い気がする。一緒にいられる時間としてはあまりにも短いけれど、一人で想い続けるだけの日々としては、十年はあまりにも長い。
そんな十年を過ごすためには、もっともっと想い出が欲しい。思い返して幸せだったと思えるように。
義勇さんの声、義勇さんの笑顔、義勇さんの匂い、義勇さんの体温。もっと、もっと、知りたい。死ぬまで覚えていられるように。
義勇さんの手に触れられたい。義勇さんの匂いに包まれたい。十年、その想い出だけで生きていけるように、たった一度だけでいいから。
だから。
かなり悲壮な覚悟で挑んだのだ。頼んだところで、こんな傷だらけで固い俺の体に義勇さんが欲情してくれるなんてこと、あるわけがないって本当は思っていたし。
なだめられて断られるならまだいい。おまえはそんな目で兄弟子を見ていたのかと、嫌悪されて侮蔑の目で見られたら、腹を切りたくなるだろうなと、泣くのをこらえて告白した。
衆道の経験なんて俺にあるわけがない。というか、衆道だの男色だのという言葉さえ、遊郭の女の子たちからの文で初めて知ったほどなので、いったいどうすればいいのかさえわからなくて。万が一義勇さんが断らずに抱いてくれたなら、万事、義勇さんの言うとおりにしようと思ってた。義勇さんはやさしいから、無体な真似はしないだろう。きっと褥でも俺を正しく導いてくれるはずだ。
布団の上で正座して、三つ指ついて頭を下げたのは、以前、善逸が男の夢と言っていたのを参考にした。もちろん善逸が言っていたのには「かわいい女の子が」という言葉がついていたけれど。少しでも義勇さんの興が乗るなら、なんでも試そうと思ったから。
義勇さんしかいらないんです。義勇さんのお好きなようにしてください。義勇さんに抱いてもらえないなら、俺はいっそ誰の肌も知らずに死にたい。義勇さんが抱いてくれてもくれなくても、義勇さん以外の誰にも触れられずにいたことを、自分に誇って死にたいんです。
我ながら重い。悲愴感に満ち満ちた告白だと自分でも思う。
それでも、きっと断られると思っていた。男なぞ抱けるわけがないと言われるだろうと。
それなのに。
抱き寄せてくれた手。抱き締めてくれる腕。包み込まれる情欲の匂い。耳をくすぐった熱い息。言葉で答えてくれるより先に吸われた唇。
覚えておきたくてお願いしたことなのに、頭がふわふわクラクラして、最中のことは、じつはよく覚えていない。あんまり気持ちよくて。あまりにも幸せで。
結果としてやっぱり義勇さんはやさしくて、ちゃんと俺を導いてくれた。
俺は義勇さんの言うとおりにしているだけでよかった。なにもかも義勇さんがしてくれたから。それだけで、途方もなく気持ちよくなれたのだから、やっぱり義勇さんはすごい。
おまけに、ただ一度だけのお情けだと思ったのに、義勇さんは、俺はおまえがかわいいと言ってくれた。おまえが愛おしいって言ってくれた。見合いはその場で断ったとも。
幸せで。どうしようもなく、途轍もなく、ただただ幸せで。
十年生きられても生きられなくても、義勇さんとの恋が俺の最初で最後の恋で、義勇さんが俺の最初で最後の人。
その幸せが、今も続いている。まるで夢のように。
「えっと……そんな感じなんですけど。俺の義勇さんへの想いって」
蝶屋敷でお館様発案の問診を受けてきたという義勇さんは、帰ってきたときからなんだか暗かった。悩みを解決するための問診だと聞いていたけれど、出かける前よりずっと悩んでいるような雰囲気だったから心配していたんだけど。
いつものように布団に入ろうとしたら、その前に話があると言われて布団の上で向き合って正座したのは、半時(一時間)ほど前のこと。
義勇さんが口ごもりながら言うことには、しのぶさんの見立てでは義勇さんはどうやら深刻な病を患っているらしい。それを聞いた瞬間、俺の顔はきっと真っ青になっていただろう。
「薬! 薬は貰いましたか!? どうすれば治るんですか!?」
泣き出しそうに取りすがった俺に、義勇さんは薬はないが対処法は聞いてきたと言って、ぽつりぽつりと話してくれたのだ。
俺が出かけているあいだ、どれだけ義勇さんが寂しい思いをしているかとか。俺がほかの人と楽しそうにしているとき、どれだけ嫉妬しているかとか。
聞いている内に、青かっただろう俺の顔は、今度は真っ赤に染まっていたはずだ。だって、こんなに熱烈に思ってくれていただなんて、ちっとも知らなかった。
義勇さんは感情が顔に出ないし、とっても無口で、滅多に好きだとか言ってくれない。だから、義勇さんが想ってくれるよりもずっと、俺のほうが義勇さんを好きなのだと思っていたんだ。
恥ずかしくなって俯いた俺に、少し緊張してるような声で義勇さんが、お前はどんな風に俺のことを想ってくれているのかと、聞いてきたのは三十分前。
羞恥に耐えながら話し終えた今、俺は、義勇さんの腕のなかにいる。ちょっと苦しいぐらいに強く抱き締められている。
うれしいんだけどそれよりも、病気のほうが心配で。
「義勇さん、病気は大丈夫なんですか? 今の話が対処法ってやつなんですか?」
「ああ……もう大丈夫だ。もう、わかったから」
話をしただけで? という疑問は、言葉にはならなかった。できなかったと言うべきかも。
口を吸われて夢中になって、眩暈がするぐらいの情欲の匂いに包まれたら、もう駄目だ。疑問も不安も全部吹っ飛んで、頭のなかは義勇さんが好きって言葉でいっぱいになってしまう。
でも、きっと心配することはないんだろう。だって義勇さんは大丈夫って言ったから。
義勇さんの言うとおりにしていたら、万事、上手くいくんだから。