1 しのぶ視点
恋愛とは二人で愚かになることだ。
そんなことを言った外国の詩人がいたそうですけど、限度ってものがありますよね。もちろん、愚か者なんて、悩みを抱えた相談者に対して口に出しては言いませんけど。えぇ、誓ってそんなことは言いませんとも。なにしろこれはお館様のご命令です。私たちを想う親心から下された、大切な使命です。相応の覚悟を持って挑まねば、柱を名乗る資格なんてありません。えぇ、ちゃんとわきまえています。でも、やっぱり限度というものがあると思うんですよ。なにより二人ってところがいけません。二倍。二倍ですよ。愚か者一人でも頭痛がするっていうのに、二人。愚か者が二倍。はぁ。
「えーと、しのぶさん? どうかしましたか?」
「…………いいえ? なんでもありませんよ?」
にっこりと笑ってみせたものの、自分の顔は本当に笑っているだろうか。はなはだ疑問に思いつつ、しのぶは引きつる口元を懸命にこらえた。
鬼の出現が途絶えてから早幾月。お館様発案の問診も軌道に乗って、悩みを解決し憂いを晴らした隊士たちが意気軒昂に柱稽古に挑む様は、しのぶにとっても晴れがましくはある。
しのぶ自身の忙しさは弥増すけれども、それもこれも鬼舞辻討伐のため。悲願達成のためならば否やはない。
だからこれも大事なことです。頑張るのよ、しのぶ。たとえ色惚けした愚か者が二倍に増えようと、顔に出すなんて未熟者です。
「それで、炭治郎くん? 今、なんて言いました?」
「はいっ! 義勇さんがかわいすぎて悩んでますって言いました!」
「……そうですか。私の聞き間違いならよかったんですけど、残念です」
今日の最後の問診希望者が炭治郎くんだった時点で、嫌な予感はしたんですよ……そうですか、そうきましたか。
ため息をどうにか噛み殺し、しのぶは目の前に座る炭治郎をまじまじと見つめた。
少し緊張しているのだろうか。しのぶを見返す炭治郎は、ぴしりと背を伸ばして座っている。ちゃんと質問に答えなくてはと気負っているんだろう。至極真面目な顔で元気よく答える様は好感が持てるのだけれど。
生真面目に伸ばした背筋は見ていて気持ちがいい。声だって元気があってよろしい。でも、内容が……ひどい。
偏屈不愛想仏頂面な水柱の柱稽古まで進んだのは、今のところ炭治郎ただ一人。だからいつもだったら炭治郎はこの時間、千年竹林に囲まれた水屋敷で義勇と二人きり、稽古に励んでいるはずだ。
その後はどうせ、二人でじゃれ合い戯れ合い睦み合うのだろうけれども。
水の呼吸の兄弟弟子であるだけでなく、二人が現在恋仲にあることを、しのぶは知っている。知りたくもなかったけれど、知る羽目になった。しのぶが認知するに至った件についてはともあれ、二人の付き合いに横槍を入れる気は毛頭ない。しのぶ自身は色恋など門外漢もいいところで、いまだに初恋すら無縁だが、様々な本やら愛らしい同僚が恋のアレコレについて教えてくれるので、恋とはただただ幸せなばかりではないことぐらいは承知している。
だから、炭治郎が恋人との仲に悩むことも、そりゃまぁあるだろう。
なにしろ炭治郎のお相手は、あの冨岡義勇だ。寡黙で冷静なんて言う者もいるようだけれど、単純に口下手で表情筋が死んでるだけの天然ドジっ子な、あの水柱なのだ。
意思疎通もむずかしいでしょうし、澄ました顔してその実かなり嫉妬深いみたいですし、自分の恋心さえ自覚がなかったくせに弟弟子に手を出したむっつり助平ともなれば、そりゃあ炭治郎くんだって悩みの一つや二つや百ぐらい抱えてもしかたがないですよね。
義勇本人には到底聞かせられない辛辣な人物評ではあるが、しのぶとしては手ぬるいぐらいだと思っている。それぐらいは許されて然るべきだ。以前おこなった義勇の二回の問診中、しのぶは頭痛をおぼえるほど疲弊させられたのだから。
とはいえ、江戸の敵を長崎で討つような真似は、医療従事者としても柱としても許されることではない。義勇へのあれこれはさておき、炭治郎が悩んでいるというのなら、真摯に向き合い、悩みを解決すべく手助けをすべきだ。
……そう。それはわかっているのだけれど。
「……かわいい、ですか。あの冨岡さんが。いえ、まぁ、かわいいと言えなくもないと思わなくもないということはなくもないかもしれないですが……」
「そうなんですっ! こう、グググってなってキューンってしてホワホワで、そのくせグワーッときてドッキドキなぐらいかわいいんです、義勇さんは!」
「…………すみません、炭治郎くん。わかりません」
いろんな意味で。
言っちゃった!! と真っ赤になった顔を両手でおおって恥じらう炭治郎ならば、まぁ、かわいくはあるけれども。かわいい。あの冨岡さんが、かわいい?
「では、具体的にはどのように悩んでいると?」
聞きたくないけれど。しのぶ個人としては、断固として聞きたくなどないけれども! 聞かなければ話は始まらないわけで。
「うーん、たとえばですね……」
朝起きたときに、あ、大概は俺のほうが早く起きるんで、朝ご飯を用意して義勇さんを起こしに行くんですけど。そうすると義勇さんはまだ寝てて、その顔が! 義勇さんってすごくきれいで男前ですよね、でもっ、寝顔はなんていうか子供っぽくって、とんでもなくかわいいんです! 思わず見惚れちゃって、炊き立てだったご飯が冷めちゃうこともしばしばで……。
「はぁ……さっさと自発的に起きてほしいと、そういうことでいいですか?」
「え? いえ、義勇さんを起こすのは俺の特権なので! それに義勇さんは冷めても俺の作るご飯はおいしいって言ってくれますから!」
朗らかに笑う炭治郎は、じつに好ましい少年だと思う。こういう場で、そういう話をしていなければ。
「そうですか……続きをどうぞ」
それで、目を覚ました義勇さんがおはようって言って笑ってくれるんですけど、その顔も蕩けそうっていうか、水あめみたいにとろとろして甘いっていうか、かわいさがとんでもないんです! おまけに、またお前の寝顔を見損ねたって拗ねたりするんですよっ!! もっと疲れさせてやればよかったって、閨での声で耳元で言われたりしたら、もう俺、どうしたらいいのかわかんなくなっちゃって……。
「……朝っぱらから盛るのはやめてほしい、と」
「いえ、あの……それは、べつに。俺を布団に引き戻したときの、義勇さんの悪戯っ子みたいな顔がかわいいので……」
日陰の豆もときがくれば爆ぜるとはよく言ったものだ。遊郭の意味さえ知らなかったあの炭治郎がと思えば、頬を染めもじもじと恥らう姿は、まぁ微笑ましいと言えなくもない……かもしれない。
「……わかりました。朝の話はもう結構です……で?」
えっと、それから稽古中はもうめっちゃくちゃに強くてすごくて、毎日尊敬が深まるんですけど、休憩中にお話しさせてもらってるときとか、すっごく子供ぽい顔で笑うんですよ。あんなに格好いいのに、ちょこんって感じに座ってるのとか、もうどうしたらいいのかわかんないぐらいにかわいくって! おやつを差し上げることもあるんですが、義勇さんって食べ方が子供みたいなんですよ。知ってました? 最近、不死川さんにあげるためにおはぎを二人で作ることが多いんですけど、味見を兼ねて食べてるといつの間にかほっぺにお弁当つけちゃってて……。
「あぁ、見苦しい食べ方をするなってことですね?」
「見苦しい、ですか? 義勇さんって近寄りがたいぐらいきれいな人だから、ちょっと隙があるほうがかわいくて好きだなぁって思うので、べつに気にならないです!」
なるほど。恋においても長男力を発揮しているのだろう。子供のように下手くそな食べ方は、かえって保護欲を掻き立てられるらしい。目をキラキラとさせて言う炭治郎には、恋は盲目、痘痕も靨、そんな言葉のほうがふさわしいと思うけれども。
「……でも、冨岡さんって嫉妬深くありませんか?」
受身でいるからいけないのだ。こちらから探りを入れなければ身がもたない。
遅ればせながらそれに気づいたしのぶが水を向けると、炭治郎が悩ましげに「そうなんですよね……」と呟いた。
我が意を得たり! やっとまともな問診に入れます!
内心快哉を上げたしのぶだったけれども、あにはからんや。炭治郎がほぅっと幸せそうにため息をつきつつ言ったのは。
「義勇さんって本当にかわいい人だなぁって、嫉妬されるたび思います」
はい?
思わず顔を引きつらせてしまったのはしかたがないと思う。
なぜ! どうしてそうなるんですか! と、炭治郎の胸倉を掴んで揺さぶらなかったのを褒めてほしい。あまりにも明後日過ぎる方向に進みだした話に眩暈がしそうだ。
遠い目をするしのぶに気づかないまま、炭治郎はどこかうっとりとはにかんでいる。
義勇さんってば、俺が善逸や伊之助と一緒に出かけるだけで、そわそわしちゃうんですよ。顔には出さないし、言葉では楽しんでこいって言ってくれますけど、匂いでわかるんです。行かないでほしいって思ってるのが。しゅんとしちゃってるのがホントかわいくって。それに、俺が義勇さんを置いて出かけた日は、帰るとずっと抱き締めてくれて……寂しかったって匂いと傍にいろって怒ってる匂いが交ざり合って、でも怒りたくないって思ってるのか、いつでも楽しかったかって聞いてくれるんです。その声もやさしいんですけどちょっと拗ねてて、なんてかわいい人なんだろうって、こう、胸がキュウゥゥってなるんですよねぇ。
「だとしても! 冨岡さんは結構むっつり助平だったりしませんか? 閨で無体なことを言われたりもするでしょう!?」
できれば聞きたくはなかったけれど、さすがにこれなら核心を突いただろうと思ったのに。
「や、あの、そんなことは……。義勇さん、いつもやさしくしてくれるし……たまに意地悪なのも、すごく気持ちいい、です……」
義勇さんに触られるだけで、うれしくって幸せで……やさしいのも、意地悪なのも、全部気持ちいいから……。
そう消え入りそうな声で言う炭治郎は、なんだかとても愛らしくて。義勇でなくてもかわいがりたくなるのかもしれないけれど。
少しうつむいてもじもじと、あらわになった項まで淡い朱に染めて。なにかを耐えるように胸元で手を握り締め、幸せそうに唇に笑みを刻む。実り育む恋心の初々しさに加え、ほのかに滲むのは咲き初めの花の色香。
そんな炭治郎の告白を聞いているのが義勇ならば、かわいいのはおまえのほうだと身悶えるのかもしれないけれども!
「炭治郎くん……それならなにを悩んでいるんですか? 冨岡さんがかわいくてなんの支障が?」
疲れた……。もはやしのぶの脳裏に浮かぶのはその一言だ。こんなどうしようもない疲労感と頭痛は三度目。もう嫌だ、この兄弟弟子。
あれですか? 水の呼吸の鱗滝一門は、みんな冨岡さんや炭治郎くんのように天然で、突拍子もない悩みしかないんですか? 剣術だけでなく常識も教えておいて欲しかった!
逢ったことのない兄弟弟子の育手に、嫌味の一つも言いたくなる。
なのに、そんなしのぶのぐったりとした声音に気づかぬ炭治郎は、きょとんと目をしばたかせるばかりで、口にしたのはとどめの言葉。
「え? ですから、義勇さんがかわいすぎるってことを誰にも話せなくって……。前に善逸に言ったら、悲鳴を上げて逃げられちゃったんです。義勇さんはこんっっなにかわいいんだぞ! って、自慢したいのに誰も聞いてくれなくて悩んでるんですって義勇さんに相談したら、しのぶさんが悩み相談してることを教えてくれました!」
やっぱり義勇さんはすごいです。義勇さんのかわいさを誰かに話したくて話したくて、俺、とっても悩んでたんですけど、ちゃんと解決してくれたんですから! しのぶさんにも感謝してます! 問診ってすごいですね、スッキリしました!
キラキラと大きな目をきらめかせて、ほんのり頬を赤く染めて。快活に笑う炭治郎に、悪意はきっと欠片もない。純粋な感謝を伝えているだけでしかない。
真正直で裏表のない少年だ。初心で世慣れぬ素直な子供である。だからきっと、炭治郎が悪いわけじゃない。愚かではあるけれど。恋をすると人はこんなにも馬鹿になるのかという、見本のような状態ではあるけれども。
だから悪いのは、愚か者の片割れのほう。
「…………そうですか。お役に立ててなによりです……」
お館様、姉さん……しのぶは未熟者です。まだまだ鍛錬が足りません。覚悟も足りていなかったようです。
でも、これはしかたないと思いませんか? これぐらいは許されますよね!?
「炭治郎くん、冨岡さんに伝えていただけますか?」
問診は今後一切不要です、惚れた腫れたや愚か者につける薬はありません、って。